【第二章】奉仕について
労働は神が与えた罰ではない
最近の若い人たちの働きぶりを見ていて、変わりゆく日本人の労働観にがく然とした思いを抱いているのは私一人ではないだろう。
3K(きつい、汚い、危険)職業はイヤ、自分の時間が大切だ、余暇だ、レジャーだ、残業もイヤ、週休二日制の所がいいと公言してはばからない今どきの若者たち。
いったいいつから、日本人はこんなに怠慢な民族になってしまったのだろう。
少なくとも、戦前の日本人はこうではなかった。
と言っても、私自身、戦後生まれなのでこの目で直接見たわけではないが、諸先輩方から漏れうけたまわるところによれば、戦前の日本人の大部分が勤勉で、遊びほうけている人間はほとんどいなかったという。
やはり、日本人が怠慢になったのは戦争に負けてからのこと。そう判断して間違いなさそうだ。
戦後、欧米文化の波が怒濤のように押し寄せてきて、日本古来の文化をあちこちで破壊しつくした。
学校教育などその典型だと思うが、労働観も大転換を余儀なくされたものの一つであった。戦前までの日本には、働くことは世のため人のためになる尊い行為であるという考え方が根づいていた。
労働者自身、自分の仕事に誇りを持っていたし、世間一般でも「傍を楽にさせるから働く」といった語呂合わせが大まじめに論じられていたくらいだから、戦前の日本人の労働観は実に健全であったと言っていい。
ところが、戦争に負けると同時に、日本古来の労働観は欧米の労働観に取って代わられ、尊い行為とされてきた労働は、報酬を得るためだけの単なる苦役におとしめられてしまった。
戦後の労働運動、あるいは労働組合の主張を見ても、自分の仕事に誇りを持つとか、仕事を通して社会に貢献するといった姿勢はすっかり影をひそめ、いかに多く報酬を勝ち取るかといったことばかりが目立つようになった。
つまり、若者たちのみならず、日本人の多くが働くことを忌み嫌い、レジャーだ何だとうつつを抜かすようになった原点はまさに敗戦にあったわけだ。
では、日本古来の労働観を追い払った欧米の労働観とは、どのようなものなのだろうか。
ご存じのように、戦後の労働運動に多大な影響を与えたのは、マルクス・レーニン主義であるが、この思想の労働観は一種独特なものがあって、欧米の労働観を代表するとは言い難い。
一般的な欧米の労働観、すなわちキリスト教文化圏の労働観を知るにはバイブルまでさかのぼらねばならない。
『旧約聖書』をひもとくと、神は天地創造の最後に最初の人間、アダムを泥から造ったということになっている。
続いて神は、アダムの肋骨から最初の女性イブを造り、エデンの園に二人を住まわせた。
さて、アダムとイブはエデンの園の中で何不自由のない暮らしをしていたのだが、ある日、蛇にそそのかされ、決して食べてはいけないと神から言われていた禁断の木の実を食べ、分別の智恵を持ってしまう。
それが神様の逆鱗に触れて、アダムとイブはエデンの園を追放されてしまうのである。そしてそのとき、女性には罰として出産の苦しみを、男性には労働の苦しみを与えられた、ということになっている。
ここに、バイブルをベースにしているヨーロッパ・キリスト教文化圏の労働観の原点がある。
つまり、欧米人にとって労働とは、神から与えられた罰であり、あがないであり、苦しく辛いものなのだ。
欧米の工場労働者が終業ベルが鳴るやいなや、手にしていた工具をサッと放り投げ、さっさと工場から出て行ってしまうのは、労働は罰であり苦役であるという労働観を物語る最たるものと言っていい。
契約で決められた時間内はそれなりに働くものの、時間が来ればもはや仕事のことは頭にない。
苦しみを我慢した分の給料をもらったら、あとはレジャーだという発想なのである。
終業ベルが鳴っても、工具の手入れをし、翌日の仕事の段取りをつけるまで持ち場を離れない日本の労働者とはえらい違いである。
仕事とは事に仕えること
では、日本人の労働観とは本来どのようなものだったのだろうか。
日本人は労働することを「働く」とか「仕事をする」という言葉で表現してきたが、その「働く」は前述したように、「傍を楽にするから働く」であって、周りの人に迷惑をかけてまで自分の利益を追い求めるのは「働く」ではない。
「働く」とはあくまで周りの人を楽にすることであるとされてきた。
では「仕事」とは何か。「仕事」とは「事に仕える」と書く。つまり仕事をするのは事にお仕え申し上げるということ。
武士で言えば、自分の君主に仕え、奉公すること。そして何よりも、仕事そのものにお仕えし、一生懸命やらせていただく。
これが仕事であって、働くこと自体が喜びであり人生そのものであるというのが、日本の伝統的な労慟観なのだ。
人生そのものが仕事なのだから、当然、プライベートもヘチマもない。登城している間は主君にお仕えし、家に帰れば家業にお仕えする。
そして、一旦緩急あれば、取るものも取りあえずお城に駆けつける。
そうやって四六時中、仕え奉ることが喜びであり、尊いものなのだというのが日本古来の労働観なのである。
そこには、欧米のような懲罰的な意味合いなど微塵もない。
だから、昔の日本人にはレジャーやスポーツを楽しむという発想もなかった。
人生そのものを仕事ととらえる日本文化の土壌には、労働という名の懲罰から解放された後、レジャーやスポーツでストレスを解消するという発想が生まれてくる余地など、どこにもなかったのである。
日本にも柔道や剣道、弓道など、武術はある。だがそれは、欧米のスポーツとは本質的に異なり、仕事の後のストレス解消といった性格のものではなかった。
武士として己を鍛練することが主眼であり、本来、仕事との区別はなかったのである。日本で生まれ”スポーツ”のほとんどに「道」がつくのはそのためである。
ところが欧米人は違う。労働時間内は仕方ないから働きはするが、時間が来たら仕事なんかもうどうでもいい。
それより目いっぱいプライベートタイムを楽しみたい。せめて、またあの辛い労働が始まるまでの間ぐらい自由を謳歌したい、人生を楽しみたい。そういう思いから発生したのがレジャーである。
欧米人と接したことのある人なら誰でも知っているだろうが、彼らは一緒にレジャーを楽しむ人間以外にはなかなか心を開こうとしない。
ビジネスパートナーとして一緒に仕事をする間柄であっても、休日に家族同士で連れ立ってクルージングを楽しむとか、旅行をするとか釣りをするとか、そういうことをやらないかぎり、心からは信用してもらえない。
そういう彼らに初めて接したとき、私は思わず、「こいつら、遊ぶことしか考えていないのか」とつぶやいてしまったほどである。
もちろん日本語でだが、それくらい彼らは遊び好きだ。スポーツでも、欧米人は楽しくなければやろうとしないのである。
例えば、オーストラリアへ行くとき、仕事の合間をぬってゴルフのレッスンを受けることがあるが、オーストラリアのゴルフの先生は、「イージー・スイング、イージー・フォーム、リラックス、リラックス」であった。つまり、スポーツでも何でも気楽に楽しむことが第一だと彼らは考えているわけだ。
ところが、日本のゴルフの先生は教え方が全然違う。
「この角度から入ると、腰がこう回転してダウンスイングの速度が速くなり、こういう角度で飛んでいくから………」と、図解入りで丹念に説明する。
まるで専門職の研修のようで、「難しく考えず、気楽に打てばいいんだよ」なんていう雰囲気はどこにもない。
こういうハイテクノロジー志向そのものが、日本古来の労働観の反映であると言っても過言ではないだろう。
実際、せっかくの休日にコースに出るときも、仕事の一環として取引先と一緒に回り、ゴルフをしながら接待、商談にするケースが少なくない。
要するに、日本人の手にかかるとスポーツでさえ事に仕え奉り、己を錬磨する手段となってしまうのである。
しかし、それが苦痛かというとそうでもない。仕事でもゴルフでも、その事柄に仕えて一生懸命やるのが楽しくてならない。
それもこれも、働くことが喜びであり、人生そのものであるからだが、定年退職しても必死で働き先を探して、「ああ、健康で働けるだけでありがたい」と言っている日本人を欧米人が見たら、さながら宇宙人を見るような思いに駆られるのではないだろうか。
欧米人にとって定年退職とは、もう働かなくていいんですよ、もう苦しまなくていいんですよ、と認知されることである。
だから、再就職先を必死で探したりはしない。むしろ、あたかも刑期を終えた囚人のごとく、夫婦連れ立って世界一周旅行に出るなど、心からレジャーを楽しむ人のほうが圧倒的に多い。
これは、仕事が好きだとか嫌いだとかということではなく、文化の違いなのである。
個人個人を見れば、日本人の中にも仕事嫌いで遊んでばかりいる人もいるし、反対に欧米人の中にも仕事熱心な人はいくらでもいる。
ただし、一般論として考えれば、日本と欧米との間に文化的な違い、労働観の違いがあるのは明らかである。
神様に仕える心
日本人にとって仕事とは事に仕えるということであり、それ自体が喜びである。お仕えすること自体が尊いことであるという日本人独自の発想は、もとより神様に仕えるというところから発している。
『古事記』の中で、日本の神々は御自ら田植えをされたり、機を織っていらっしゃる。御自ら事に仕え奉っていらっしゃるわけだ。
ここが、労働を罰として人間に与えたキリスト教の神とは決定的に違うところだが、欧米人にとって仕事が罰であることが神話の世界からの伝統であるように、日本人にとって仕事が喜びであるということは、神代の時代から連綿と続いてきた、日本固有の伝統的な価値観なのである。
それともう一つ、日本の神霊界は秩序と調和が保たれた、麗しくも美しい世界であること。これも日本文化の淵源になっている。
例えば、私たちは誰でも守護霊に守られているが、その守護霊は守護神に仕え奉ることを生き甲斐に感じ、喜びとしている。
そして守護神は産土神に、産土神は天照大御神に、天照大御神は宇宙創造の最高神である素神に、それぞれ仕え奉ることを生き甲斐に感じ、喜びとしているのである。
では、素神はどうなのかというと、神々や人々に愛というエネルギーを与え続けていらっしゃる。
それによって、神霊界の秩序が麗しいまでに保たれているのだが、それはちょうど、平社員が係長に、係長が課長に、課長が部長に、部長が担当重役に、担当重役が社長に、社長が会長にそれぞれ仕え奉っているのと同じである。
つまり、神霊界のありさまが、そのまま日本の社会全体に行き渡っているわけである。
そのように、守護霊、守護神、産土神など日本の神々は、自分より上の存在に仕え奉ること、ご奉仕することに無上の喜びを感じ、それ自体を生き甲斐とされているのである。
日本の神々とはそういう存在なのだ。だったら、その神々に感応し、守護をいただき、さらには功徳をいただくには、自分もそういう存在になるしかない。
ここをきちんと理解し、仕え奉ることを喜びとする人間にならないかぎり、神霊界の神々と同じ生きざまとは言えず、功徳やお蔭があったとしてもたいしたことはない。
ところが、今の若い人には、仕え奉るということがなかなか理解できない。もちろん実践もできない。なぜ、今の若い人は仕え奉るということがなかなか分からないのか。
言うまでもなく、唯物論主流の戦後教育を受け、キリスト教的、ヨーロッパ的な労働観と個人主義に染まってしまっているからだ。
それは若者にかぎった話ではない。中高年世代にも同じ類の人種は少なくない。
そういう人が、神霊界の神々に感応する自分自身をつくり、神々の導きを実感できるようになるには、ヨーロッパ的な労働観をスパッと払拭し、神様や仏様、そして人々に仕え奉ることを学び、それを喜びとすることから始めなければならない。
薄れゆく仕事への責任感、使命感
以前、新聞を読んでいたら一つの投書が目に止まった。それは二十五歳の青年が寄せたもので、こういう内容のものだった。
私の嫌いな言葉の一つに「労働」というものがあります。
身の回りのことで「めんどうくさい、早く片付けてしまおう」と思ってしまうことは多々ありました。
しかし、最近はそう思いかけたときも、パッと心を入れかえて、一つ一つのことを楽しみながらできるようになってきました。
めんどうくさいと感じていたのは、仕事を「労働」ととらえていたからでした。仕事は「奉仕」であり「サービス」であったのです。そのように考えたとき、何か心境の変化が起こったような気がしました。
心の目を開いてみれば、どこにも労働などというものはないと思います。すべての仕事は尊い奉仕活動なのです。
自分の仕事が社会への、国家への尊い奉仕活動となっているか、また自身がそのような自覚の下に励んでいるか、振り返ってみましょう。
真の景気回復なども、そんなところから始まってくると思います。
(平成十二年六月十九日、産経新聞朝刊「談話室」)
まさしくそのとおり。こういう御魂は尊い。神仏の目からは、夜空にキラキラと輝く星のごとく、あるいは砂の中にキラッと輝く一粒のダイヤモンドのごとく見えるはずである。
無論、ご加護も厚いだろう。大いなる導きを受けるだろう。この青年のような人が増えていったら、日本の国ももっともっと素晴らしい国になるはずである。
だが、現実に目を移すと、この青年のような若者のあまりにも少ないことに、暗澹たる気分に引き戻される。
今の日本の若い人、というより中高年も含めての話だが、自分の仕事に誇りを持ち、「仕事を通して世のため人のために役立ちますように」という気持ちで仕事に向かっている人がどれだけいるだろうか。
仕事は報酬を得るための手段と割り切って、仕事よりレジャー、公務よりプライベートを優先させているのが大部分ではないだろうか。
まあ、悲憤慷概してばかりいても意味がない。問題は、いかに一人でも多くの人が神霊に感応し、守護を得られる人間になるか、である。
その積み重ねが国運の発展になるはずだから、やはり原点に立ち返って、先の投書青年のような人材の育成に心を砕いていくしかない。
これまで私は、あらゆる機会をとらえては、人の三倍働けば必ず神仏が守護してくださるから絶対に成功する、と語ってきた。
そのこと自体、嘘では決してない。私自身、何度も体験してきたことだから、自信を持って言うことができる。
ただし、それには絶対不可欠の条件がある。それがこの奉仕の精神なのだ。
世のため人のためなんてバカらしい、俺は俺のためだけに金を儲けるんだという我欲で人の三倍働いたとしても、神仏は感応しないし、そうやって手にしたお金はやがて消えていく。金運も家運も衰退していく。これは天地の法則である。
無論、お金は誰だって必要だ。お金がなければ生活できないし、神社だって運営できない。
だからわれわれは働くのだが、お金を得るためだけが目的ではない、世のため人のために役立ちたいから働く、それが喜びなのだ、というのが日本古来の精神文化なのである。
そういう精神土壌で育った日本人は当然、勤勉である。職業に貴賎はない、どんな仕事でも尊いんだと言いながら、どんな仕事に対しても一生懸命に働く。
だから当然、神仏も加護してくださるし、当然、国も豊かになる。
すなわち、奉仕の精神こそが日本の国力の原点になっているのだ。
戦後、敗戦の焼け野原の中から立ち上がり、世界の奇跡とも言われるほどの復興を成し遂げたのも、当時第の日本人の心に奉仕の精神が息づいていたからである。
そして、「弥栄えに栄えていく、弥益々にたち栄えていく。結んで結んで結ぶ。なりなりなり上がっていく」という生成化育、進歩発展の思想があったからである。
それが惟神の道、つまり神霊界の神々様と同じ生きざまなのだ。
御魂の恩頼とは
奉仕の精神で働くのが日本古来の精神文化なのだが、ではその報酬とは何だろうか。欧米では労働の対価はお金でペイされる。
そのお金で物を買って、夏になれば一ヵ月ぐらい休みを取ってレジャーを楽しんでいる。
欧米の国々はお互いにそういうやり方で、経済があまり発展しなかったら貿易不均衡と言って、頑張っている国にプレッシャーをかけている。
もちろん日本でもお金は支払われる。が、それだけが決して目的ではないのだ。なぜ、日本人は働くことそのものを喜びと感じるかというと、それが神様の喜びであるからだ。
世のため人のために一生懸命働くと、神様から「ご苦労だったな」と、愛と歓喜をいただくことができる。
神様が慈しんでくださる。それが魂の喜びとなるのだ。守護霊様も神様も、日本の神霊界では仕え奉るという心でそれぞれの役割を果たしている。
素の大神様に仕え奉っているのである。神々もまた素の神様から愛と歓喜をご褒美にもらってご奉仕しているのである。
そのように、人に仕え奉り、事に仕え奉り、神に仕え奉る気持ちで仕事に精を出し、日常生活を営んでいると守護霊や神様と同じ生きざまになるから、素の大神様から大いなる歓喜と愛をいただき、大きな魂の充実感を得ることができるのである。
神社に行くと、だいたいどこにもお百度石という石が置いてある。昔から日本には、真冬の晩に神社へ詣でてお百度を踏むという風習がある。
お百度石から社殿まで一晩に百回裸足で往復して、そのたびに石を踏むというのがお百度の作法である。
それをワールドメイトの会員たちに、真冬の寒い時期に二十一日間続けさせたことがある。真冬のことだから当然辛い。
冷たく凍てついた玉砂利を踏むたびに、足の裏の皮がむけそうになる。しかも、一日も休んではいけないのだから、ときには残業を断らなければならないこともある。
でも、辛く苦しい思いを乗り越えて、お百度をやり遂げたとき、神様から「頑張ったね。よくやったね」と励ましと慈しみをいただくことができる。
そのときのあふれるばかりの喜び、御魂の喜びが心の底から湧き上がってくるのである。神様からいただく愛が歓喜となって現れる。
これがご神徳であり、ご神徳をいただくことが御魂の恩頼なのである。
「大神の熱き尊き御魂の恩頼をかかふりたまひて」という言葉が神道の祝詞にあるが、ご祈願をやり遂げると誰でもそうした気持ちになる。
すると、何だか知らないけれどエネルギーが湧いてきて、豊かな気持ちになって、不思議に物事がスイスイと運ばれていくようになる。
「御魂の恩頼」とは魂の栄養と考えていただきたい。これが神の愛、ご神徳であり、その結果豊かに幸せになっていく。
これが惟神の道に基づく日本人の魂のプリンシプルなのである。
鎌倉時代に制定された武家の基本法、「御成敗式目』(『貞永式目』)の冒頭に次のような一文がある。
「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」
神様に誠を尽くせば神威がいや増しに増してゆき、それに対して神様は、運という形人を応援してくれる。
そういう意味内容の一文が「御成敗式目』の冒頭を飾っているということは、すでにそのころから神と人とは一体であるという人生観、世界観が確立していたということである。
ところが、くどいようだが戦後教育を受け、欧米流の労働観に骨の髄まで染められてしまった今の若い人には、なかなかこれが分からない。
こればかりはどんなに理屈で勉強しても、実際に体験しないことには分からない。
だから、私はお百度参りや二十一日祈願を若い人たちに勧め、一緒にやっているのだ。お玉串は神社に納め、神社は潤い、神主は喜び、私たちは時間を割いて一生懸命やっている。しかし、それが何よりも楽しい。
皆で神様にお仕えし、私が神社の神様からいただいた和歌を色紙に書いて渡すのだが、そうすると若い人でも自然と涙を流している。
それだけの努力をして魂が極まって、恩頼を与えていただく瞬間には、滂沱の涙があふれ出てくるのだ。幸せの極地である。
我と慢心をなくして奉仕の精神を
私はいつも神様にご奉仕する心でいるから、仕事も仕事だとは思っていない。事に仕えて奉る気持ちで働いているので、仕事をしても仕事をしたという気がしないのである。
したがって、仕事疲れというものもない。神様が御魂の恩頼を与えてくださるから、いつも歓喜一杯、元気一杯で、人の十倍、百倍働いても疲れることを知らない。
神様がいっぱい愛と叡智をくださって、「頑張れよ」と励ましてくださるからだ。
だから、仕事やればやるほど元気とやる気が湧いてきて、エネルギーが途切れることがない。
ご神徳をたくさんいただくおかげで、御魂も太り、最近は体まで太ってきた。
繰り返すが、この奉仕の心こそ神霊界の神様、守護霊様の価値観なのである。
だから、私が同じように実践すれば、「同じ心を持つものよ」ということで、たくさん守護・応援していただけるのだ。
その結果、普通なら考えられないような不屈のパワー、精神力、そして運気が発揮されるのである。
さらに、ここが重要なポイントであるが、この奉仕の心をいつも保っていれば、あまり我と慢心が出ない。
事に仕える、仕え奉るという言霊のニュアンスにいつも気持ちを向けていれば、「させていただいている」という気持ちでいるので、我と慢心が出ず、増長慢に陥ることが少ないのである。
だから、仕事にしろ家事にしろ、学校の勉強にしろ、何をするにも、神業奉仕の精神でやること。これが大切だ。
なぜ、学生は学校の勉強をするのかというと、自分が立派でなければ良い奉仕ができないからだ。
その人の器と能力に合った分しか、神様の役にも世の中の役にも立てないのである。
だから、少しでも世のため人のため役に立たせていただいて、神様にご奉仕するために自分を磨いていくことが必要になる。
