【第三章】宗教家が言うほど世の中甘くない!
宗教家が言うほどこの世は甘くはない
私は、仕事をするかたわらワールドメイトの活動に携わっている。どんなに活動が忙しくなっても仕事をおろそかにはしない。
仕事を持たずに神霊世界とかかわっていたら道を誤りやすいことを承知しているからである。
仕事を持ちながら神業を続けていると、神業に力を注げば注ぐほど神様のご褒美で仕事が忙しくなっていく。
したがって、人の十倍神人合一して、また人を育てていかなければならない。それもまた、すべて修業なのである。
世の中にはいろいろな宗教があり、それぞれ教祖様がいる。そして、多くの教祖様は信者の方々に向かって、「仕事をやりながら神仏の道を歩みなさい」と説いている。
しかし、そう説く教祖様自身が仕事を持ちながら神仏の道を歩んでい
るかというと、そうではない。かぎりなく一〇〇パーセントに近い教祖様が玉座にどっしりと腰をおろされるだけで、額に汗して働かれることはほとんどない。
もちろん、倒産の危機を乗り越えた経験もなければ、日々の生活に窮することもない。
玉座にお座りになって、いかにもそれらしい服を着て、「これからの時代はどうの」とそれらしいことを言っている教祖様に、本当に人の痛みが分かるのだろうか。
たとえ天の声が聞こえたり霊の姿が見えたり、あるいは百千の宗教教理に通じていても、人々の苦しみや痛みが分からなければ、それは漏尽通力、すなわち人の問題点や苦しみを漏れなく尽くして解決し、幸せに導く能力ではない。汗水垂らした分だけしか御魂の恩頼(魂の栄養)にはならないし、本物の神通力は得られないのだ。
そのかぎりで、宗教家こそ汚泥に満ち満ちた現実社会に片足を突っ込んで、矛盾や葛藤の中で自ら呻吟すべきである。
だいたい宗教家が言うほど世の中甘いものではないし、単純ではないのだ。特に、会社経営などしていると、取り込み詐欺もあるし、不渡りを食らうこともある。
きれいごとだけでは通用しない複雑怪奇な世界なのである。
宗教家の誰もが口を揃えて説いている愛と真心、あるいは「真・善・美」は人が目指すべき最高の倫理ではある。一方、最低守らなければならない倫理は何かと言えば、それは法律である。
法律とは悪の繁殖を最終ラインでくい止める防御策であるわけだ。
その最低守らなければならない倫理である法律と最高の倫理である「真・善・美」の両方をわきまえていないと、うまく生きていけないのがこの世の中である。
ところが、それを知ってか知らずか、宗教家の多くは十年一日のごとく「真・善・美」を語るだけで、最低の倫理には目を向けようとしない。
宗教家と名乗る人の本に書いてあることを実践してもうまくいかないケースが多いのは、書いた本人が世の中の実態を知らず、悪に打ち勝つだけの智恵がないからだろう。
確かに素の神は清らかで美しい聖なる世界をお造りになった。だが、素神がお造りになったのはそれだけではない。
強い動物が弱い動物を食い殺す弱肉強食の大自然、この非情な世界も素神がお造りになったものである。
また、人間世界に目を転じれば、強い者が勝ち弱い者は滅び去る、優勝劣敗の原則が厳然として存在する。善人もいるが、それ以上に悪いやつがゴロゴロしている。
そういう、きれいごとだけでは通用しない複雑怪奇な世界でいかに善なる道を貫いていくか。
これが神仏に目覚めた者の大きなテーマであるのだが、それに対して多くの宗教家は愛と真心を説くのみである。だが、愛と真心だけでいいわけではない。神様のご守護と叡智、悪い人間に勝つだけの知恵がなければやられてしまうのだ。
宗教家が言うほど世の中は単純ではないのだ。
生半可な根性だから、あっちこっちで失敗をして、それを神の試練だなどと言っている。でも、あっちで失敗、こっちで失敗というのは神の試練などではない。
自分の業と因縁が深いだけなのだ。つまり、前世でロクなことをして来なかったということだ。
それで神の道に目覚めたというのだが、神の道に目覚めなかったらやっていけないのだろう。
どの宗教家も自分が最高だと思っていらっしゃるようだ。
もちろん神霊界に没入する一時は自分一人で世の中を動かしているどころか、宇宙も仕組みも動かしているのだというくらいの気迫がなければならないのは確かだ。
それはそれで頑張っておられるのかもしれないが、では一般の信者さんはどうだろうか。
一般の信者さんがどれだけ社会で立派なことをしているのか。
最高の教えだったら、無形のエネルギーと御魂の恩頼をさずかり、世の中の役にたつ知識、生き方、考え方というものを勉強して、誰が見ても聞いても「最高に素晴らしい」という生活を実践していなければならないはずである。
それが世の中にお仕えする心であり、天照大御神様にお仕えする心であり、この大宇宙と人間社会を造った、素の大神様の御心に合うものの考え方だと思うのだ。
祈っているだけではお蔭は出ない
会社をスタートさせて間もない頃、私も世の中小企業の経営者と同じくほとんど毎日資金繰りに苦しんでいた。
月末の支払いまで後三日しかないというのに、どうしても五百万円足りないという時に素晴らしい功徳を与えてくださったのが三宝荒神だったという話は抽拙書『大金運」(たちばな出版刊)に詳しい。
この三宝荒神に併せて蔵王権現と三面大黒天を祀ると、売上向上、経費削減、集金確実という、現実問題に抜群の効果があるのだ。
ところが、この金運三神をお祀りし、お祈りの仕方も勉強したのに、さっぱりお蔭が出ないという方が時々いらっしゃる。
発明・特許製品の販売業に携わるAさんもその一人であった。Aさんはもともと不動産屋をやっていたのだが、一時の土地ブームが下火になってきた時に、ある発明品を代理店として販売することにしたのである。
そこで、三宝荒神・蔵王権現・三面大黒天を事務所にお祀りし、朝夕一生懸命にお願いしているのに、どうもうまくいかないというのだ。
神様の働きは間違いないはずなので、私はその方に聞いてみたのである。
「ところで、一日何件ぐらい飛び込みセールスをやっていますか」
「いやあ、飛び込みというのはあまりやらないですね」と、こともなげにおっしゃる。知り合いの業者にちょっと当たっているだけだというのだ。
これでははっきり言ってお蔭なんか出るわけがない。やるべき営業努力を棚に上げておいて、金運三神に手を合わせてさえいれば向こうから金運が転がり込んでくるというのなら誰も苦労はしないし、事業を始めれば百人が百人、大成功を収めることができるという話になってしまう。
確かに私は「大金運」の中で、資金繰りに苦しんでいるときに金運三神にお願いすると抜群の効果がある、と書いた。
それを期待したからこそAさんも金運三神を祀ったのだろうが、金運三神の功徳をいただくには前提がある。
それは、経営者として、あるいは人間としてやるべきことは全身全霊を込めてやること。その努力と神仏への真心と至誠が合致して、神仏のご加護が得られるのである。
そこを忘れて、「三宝荒神様、蔵王権現様、三面大黒天様、金運をお願いします」と、ただ手を合わせているだけで功徳がいただけるのかどうか、常識で考えても分かろうというものである。
低級な霊、たとえ稲荷ギツネなら、供えた油揚げの分だけは働いてくれるだろうが、正神界の神々には通用しないのだ。
Aさんは「大金運」に書かれていることを自分の都合のいいように解釈していたのだ。
いや、それはAさんのみならず、多くの人が陥りやすい落とし穴なので、ここでもう一度、『大金運」の内容を確認しておこう。
商売で成功する三つのポイント
商売を繁盛させる要諦は何かと言えば、だいたい次の三ポイントに絞られる。
NO.1… 売上を伸ばす(新しい製品、新しい顧客を得ようと努力する)
NO.2… 経費を削減する(ムダを省き、厳しく利益を追求する)
NO.3… 集金を確実にする(資金繰りを順調にする)
「当たり前のことじゃないか」とおっしゃる向きも多いだろう。しかし、経営に行き詰まっている会社をつぶさに観察すると、この三つの要素のうち必ずどこか一つは欠けているのが普通である。
例えば、NO.1の売上をバンバン伸ばしても、余計なところにお金を使っていたら資金がショートするし、掛売ばかりが多くて期限内に集金できなければ、帳簿上は黒字になっているのに会社が潰れる、いわゆる黒字倒産に陥ってしまう。
また、NO.2の経費をいくら削減しても、肝心の売上がさっぱりだと、これまた倒産の危機に瀕してしまう。
そしてNO.3の資金繰り。会社を経営したことのある人はお分かりだろうが、この資金繰りが企業経営では一番難しく、現金払いのケースは別として、商品先渡しで代金あと払い、しかも手形サイトが長い場合は、よほど気をつけないとアッという間に資金繰りが悪化する。
それでも入金されればまだましで、取引相手が倒産して代金がこげついたりしたら、連鎖倒産の憂き目にだって遭いかねない。実際に金を受け取るまでは安心できないのだ。
そのほか細かいところを挙げれば税金対策や労務管理など、幾つか注意を要するポイントがあるにはあるが、商売で成功するための基本は以上の三点。
これさえしっかり押さえておけば経営が傾くことはまずない。
では、どうやったらこの三つのポイントを確かなものにすることができるのだろうか。
売上を伸ばす蔵王権現と三面大黒天
まずはNO.1の売上を伸ばすことについてだが、どんな業種であれ売上を伸ばすには鋭い頭脳と力強い押しが不可欠である。
マーケットの動向を正確に分析・研究し、ライバル企業がアッと驚くようなヒット商品を開拓するだけのアイデアとひらめき、と同時に、どんな所へも売り込んでいく度胸と根性。
これらの素養がないかぎり、売上を伸ばすのは不可能に近いと言っても過言ではないだろう。実は、そうした叡智やパワーを与えてくれるのが蔵王権現なのである。
蔵王権現は、日本の山岳信仰・修験道の開祖であり、空を飛んだことで有名な役小角(役の行者)が大峰山で厳しい修行を積んでいたときに現れたメイド・イン・ジャパンの仏様で、その役割は現実的な智恵と他を圧倒するほどの霊的パワーを授けることにある。
だから、売上を伸ばしたいときにはうってつけの仏様なのだ。
「地上のあらゆる叡智を司られる蔵王権現様。どうぞ、私に売上を爆発的に伸ばすことのできる智恵をお授けください。
もちろん、私も一生懸命に努力します。
その努力の土台の上に、どうぞ、深遠なるひらめきとアイデアをお与えください。お願いします」と祈りながら必死の努力を傾注していけば、売上が驚異的な伸びを示すこと間違いなしである。
この売上を伸ばすことに関しては、三面大黒天の働きも見逃せない。
三面大黒天は金運の豊かな人を連れてきたり、重要な人物とめぐり会う奇跡を起こしたり、客商売だったらうんとお客様の入りが良くなる、とてもありがたい仏様なのである。
改めて言うまでもなく、金運というのは人から人を通じて発展していくもの。
お客様あっての商売であり、良い人脈は良い金脈ともなるわけで、売上を伸ばすには豊富な人脈が不可欠である。その人脈づくりに絶大なバックアップをしてくれるのが三面大黒天なのである。
天台宗を開いた最澄が比叡山において一心に祈っているときに現れたが、その働きは人脈づくりと人材集めにあった。
つまり、人々を集める働きである。比叡山に多くの僧侶が引き寄せられ、延暦寺が栄えたのはひとえにこの三面大黒天の働きによるところが大きい。
また、あの絶対的なパワーを持っていた日蓮上人ですら、三面大黒天にはずいぶんとお世話になっている。そのいきさつとはこうである。上人が人々に法華経を説いて歩いても、誰も耳を傾けず、振り向きもしない。
「ああ、どうして人々は私の説法を聞いてくれないのだろうか。今は末法の世、この法華経でなければ絶対に人々は救われないというのに」と悩んでいたとき、上人の苦労を見かねた三面大黒天はそっと霊力を発して、人々を上人の周りに集めさせたのである。
つまり、イザというとき、力のある人を本人の前に連れてきてくださるのが三面大黒天なのだ。
日蓮上人も、法華経流布のために必死に大黒天に祈っていたようである。
このように、人から人へ、いもづる式に広がっていくのが三面大黒天の霊力の特徴で、霊的に見ると三面大黒天は、金色に光り輝く観世音菩薩の化身である。
また、三面とはズバリ顔を三つ持っていることを意味している。フツーの大黒天が顔一つなのに対して、こちらは三つ。その分、絶大なパワーがある。
経費削減と売掛金回収に威力を発揮する三宝荒神
次はNO.2の経費の削減。前述したように、たとえ売上を伸ばすことができたとしても、経費を湯水のごとく使っていたらザルで水をすくうようなもの。
商売繁盛させようと思うなら、ムダな経費はギリギリまで削減しなければならない。このとき大きく働いてくれるのが三宝荒神である。お台所にお祀りしてある、あの荒神様だ。
三宝荒神も蔵王権現と同様、役小角が大峰山中で修行をしている時に現れた神様である。役行者が修行していると突然、ドドーンと大きな地震が起き、気がつくと東北の方角に紫色の異様な雲が浮かんでいた。
ビックリして役小角が近づいていくと、そこには顔が三つ、手が六本、足が二本のこれまた異様な神人が立っていた。
「うーん、異様な風体。あなた様はどなた様ですか」
役小角が恐る恐る尋ねると、「われは三宝荒神。われは荒神なり。わが姿を見たくば、これ大峰の九山、九川、これわが本地なり」と答えた。大峰の九つの山、九つの川、すなわち大峰の山々すべてが私の本体だ、私は大峰の大地のエネルギーそのものであると言ったのだ。そして、こう続けた。
「精進努力をする人間を私は守りたい、守護したい。すなわち、人間の貪瞋痴を克服し、精進をする者に味方したいと思うのだが、そういう人物が少なくなってきたことを嘆くものなり」
貪瞋痴とは、貪欲・瞋恚・愚痴。貪欲なる欲心と怨み、そして愚かな考え方を乗り越えて精進する、そういう努力をする人を私は守護し、磐石なる力と智恵と財を与えよう、永久に変わらぬ福徳を授けようと言ったわけだ。
これが三宝荒神の起こりである。この言葉からも推察されるように、現世的言葉で表現すればすこぶる義理堅い神様、それが三宝荒神なのだ。
だから、先祖の因縁などで家庭運や財運に恵まれなかったとしても、この三宝荒神に願を立てて努力を積めば、その努力は決してムダにはならない。
荒神とはもともと大地のパワーの源である国常立尊が化身したものであり、厳しい中にも優しさを秘めている。
放漫経営を戒め、経費削減を厳しく行う必要に迫られた場合などに絶大なる効果を発揮すること請け合いである。
また、台所にあって家計をガッチリ守る働きもあり、正しくお祀りすれば家計運は向上する。
NO.3の集金を確実にするのも、三宝荒神の働きである。
かつて、弘法大師が高野山の造営をしておられたとき、嵐で工事ができずに困り果て、それでもなお厳修を続けていると、近くの山々が鳴動して三宝荒神が現れ、工事をスムーズに完成させたうえ、スポンサーも導いてこられた、という話が残っている。
つまり三宝荒神は義理堅いだけでなく、金銭面において非情に面倒見のいい神様でもあるのだ。それは私自身の体験から言っても間違いない。
その体験とはどのようなものであったのか、詳しく書きたいところだが、紙数の都合でここでは割愛する。
興味のある方はぜひ「大金運」を読んでいただきたい。いずれにせよ、台所という極めて身近なところにおられ、家計を火の車から救い、モロにおカネという形で金運をもたらしてくれるのが三宝荒神。
集金に困ったり手元の資金がショートしたときにこの神様にお願いすれば、必ずや想像を絶するほどの大きな恵みを授かるはずである。
以上が「大金運」で述べた金運三神のあらましだが、蔵王権現にしても三面大黒天や三宝荒神にしても、ただ手を合わせていれば守護してくれるというわけではない。
人としてあらんかぎりの努力を積み重ね、もう限界だ、これ以上の努力はできないというギリギリのところでパッと現れて、人智を超えた叡智やパワーを与えてくれるのだ。
そこを読み落としたのか、あえて無視したのか知らないが、Aさんはただ金運三神に手を合わせるだけで、経営者としてやるべき営業努力を怠った。
そんなことでお蔭などいただけるわけがない。それともう一つ、金運を得んがために金運三神だけを拝むという姿勢も正しくない。つまり、Aさんは二重の過ちを犯していたのだ。
ナショナルブランドとオリジナルブランド
Aさんが営業努力を怠ったのも、寛大な目で見れば仕方のないことと言えなくもない。
というのも、もともと不動産屋をやっていたといっても、特に大きな取り引きをしていたわけではなく、駅のそばに店を借りて、入口の窓に「掘り出しもの物件」なんて紙を貼ってお客さんが来るのを待つ、という商売のやり方しかしてこなかったからだ。
土地を売りたい、あるいは貸したい、家を売りたい、あるいは借家に出したいというお客さんの情報を、来たお客さんに提供する。
つまり、周旋屋さん、斡旋屋さんだったわけで、放っておいてもぐるぐるお客が巡ってくるという、しょせん「待ちの商売」しかやってこなかったのだ。
しかし、特許を取ったばかりの新製品などというものは、よほどのアイデア商品でないかぎり、放っておいて売れるものではない。
にもかかわらず、「私、飛び込み営業というのはしたことがないんです」と平然と言ってのけるのだから、世の中の常識、商売の法則というものがまるで分かっていない。
神仏に願を立てるとか立てないといった以前の問題である。
少し神様の話から外れるが、ここで経済の法則について簡単に説明しておこう。
商売だの会社経営だのと言われても自分は関係ないと思われる向きもあるだろうが、後学のためにも少々お付き合い願いたい。
さて、商品には一般にナショナルブランドとオリジナルブランド(開発ブランド)というものがある。
ナショナルブランドというのは、世間に名の通った商品、誰でも知っている商品のこと。
例えばセイコーの時計とか、エプソンのコンピューターとか、日清のカップヌードル、岩谷産業のゴキブリホイホイ。こういうのがナショナルブランド。別に松下電器の製品のことではない。
これに対してオリジナルブランドというのは、見たことも聞いたこともないような商品である。例えば「テレール」という研磨剤があるとしよう。
そんな商品は誰も知らない。だから売ろうと思っても、「えっ、テレール?それ、何ですか」ということになる。
「窓を磨くとピカピカに光るからテレールです。自分の顔がはっきり映って、ちょっと恥ずかしいくらいだから、テレールです」
「へえー。聞いたことないですね。マジックリンなら知っていますが、それ、どんな製品なんですか」
ここからデモンストレーション、すなわち商品説明が始まるわけである。
「ちょっと見てください。従来の製品だと汚れが落ちるといってもこんな程度ですが、テレールだとこんなにピカピカでしょう。こういう成分を配合していて、汚れの落ちが違うばかりでなく、すぐに分解されるから水も汚さないんですよ」と、統計データを見せて商品をアピールするのだ。
「これが一個わずか八五〇円。他のメーカーの従来の商品は千円以上ですから格安です。品質も抜群です。
私どもの代理店でしか取り扱っておりませんので、スーパー、デパートではお買い求めできません」
このように、大手のメーカーに対抗してオリジナルブランドを売り込んでいくには、一人の顧客に対して対面方式でデモンストレーションをしながら商品の説明をしていくしかない。
そういう地道な努力を積み重ねる中から、販売や営業のルートが確立して、商売が商売として成り立つようになるわけだ。
そこまでどうやってしのぐか、どうやって切り開いていくのか。それが経営者に課せられた使命であり、またやりがいでもある。
一方、ナショナルブランドの商品というのは誰でも知っているので、放っておいても売れていく。ところが、ナショナルブランドの商品ばかりを売っていたら、商店は倒産してしまうのである。
有名ブランドの商品に比べ、知名度の低い商品の方がマージンは大きい。
安く卸さないと取り扱ってもらえないからだ。ということは当然、後者の商品を売ったほうがお店の利益は大きいということになる。
だから、有名ブランドの商品を買いにきたお客さんにいかに知名度の低い商品を売るそれが商店の知恵なのである。
そのように、業界には常識もしくは法則というものがあって、その法則に則ってはじめて商売というものが成り立つのだ。
そうした世の中の仕組みを知らなければ、いくら神様をお祀りしてもムダ。生きていくためにはそうしたノウハウを身につけていく努力がまず必要なのである。
金運をつかむ真・副・控の原則
ナショナルブランドは利幅が薄い。オリジナルブランドは利幅はあるが売るのが非常に難しい。これが世の中の常識、天地の法則なのである。
だから、Aさんにしても、名前も聞いたことのないようなオリジナルブランドの商品を販売するならば、取引先をリストアップして徹底的に販売戦略を立て、自分で行くか人を使うかして、何件も何件も当たっていかなければ売れるはずがないのだ。
そういった常識を教えてくれたり、一件一件回っていくやる気と活力を与えてくれるのが天照大御神様である。
これも『大金運』に詳しいのだが、正神界の金運の基本は「真・副・控」というパターンになっている。
これはもともと華道の用語であるが、要するにメインに「真」、サブに「副」、そしてバランスを保つために反対側に「控」を置くと、最も調和のとれた美しい美の世界が演出できるとされる。
この華道における美の基本形を金運を呼ぶ神霊構造にあてはめると、メインの「真」の働きをするのが天照大御神なのだ。
天照大御神というのは言うまでもなく太陽神である。地上のすべての恵みをもたらす太陽。
この太陽の働きを司るのが天照大御神で、特に日本においては、天照大御神がすべてを統括していらっしゃる。
だから、何よりもまずこの神様をメインにお祀りする。すると、太陽のような明るさと燃え盛るようなエネルギー、そして創造発展のためのヒントが授かるのだ。
次の「副」が産土神だ。
産土神とはその土地土地の神様で、地域と生活に根ざした運気をコントロールしてくださる。
例えば、外回りをしていても何となくこっちのほうに行ったら買ってくれそうな気がして、そちらに行ってみたら、たまたま窓を拭いている人がいたりする場合、産神の導きであることが多い。
そういうときには導かれているんだと確信して、一気呵成に売り込むようにしなければいけない。
「ご苦労様です。これテレールっていう新製品なんですけど、よかったらちょっと試してみてください」
「へぇー。聞いたことないな。本当にきれいになるの」
なんていう会話が弾むところから、売り込みが始まったりするわけである。
そして最後が「控」。ここではじめて金運三神が登場するのだ。
天照大御神に前向きで発展的なエネルギーをいただいて、産土様に良いご縁をいただいて、あと一歩というときに金運三神にお出ましいただく、というのが「真・副・控」の極意なのである。
「うーん、なるほどよく落ちていいんだけど、アットイーズ(架空の名称)もいいらしいし……」
「壁の汚れ落としにはアットイーズがいいですけど、ガラス磨きはテレールです」
「そうかなあ。テレールなんて聞いたこともないしなあ……」というときに心の中で、
「三宝荒神、守りたまえ幸はえたまえ」と唱えるのだ。すると、
「よし、これも何かの縁だからテレールにしよう。業務用にまとめて注文しましょうかね」
なんていうことになったりするのである。金運を呼ぶ神霊構造である「真・副・控」を具体的に言うとそういうことであり、この法則に基づくことなく、ただ単に金運三神に願を立てたところで金運に恵まれるわけがない。
先にAさんは二重の過ちを犯したと言ったが、それは実はこのことなのだ。
人の三倍努力すれば絶対成功する
金運のある人、ない人。仕事運のある人、ない人。結婚運に恵まれている人、恵まれていない人。運不運は人それぞれだが、理由もなく運に恵まれるわけではない。
また理由もなく運に見放されるわけでもない。何ごとにも天地の法則があり、その法則に則っている者は運をつかみ、法則に則らない者が運から見放されるだけのことである。
金運に関して言えば、「真・副・控」の原則に則った生き方をしているかしていないか、それがすべてを決すると言っても過言ではない。
無論、本人が背負っている因縁も無視することはできないが、現実的にはやはり「真・副・控」の原則に則る以外に最上の方法はない。
中でも、太陽のごとくやる気に燃えているかどうか、これが最も大切であり、金運三神に一生懸命お祈りしても全然功徳がないとか何とか文句を言っている暇があったら、まず人の三倍努力をすることである。
メーカーだったら、マーケットをつぶさに調べ上げ、いかに魅力ある商品を開発するか。営業だったら、飛び込み営業を一日十軒、二十軒といかに継続させていくのか。
そうした当たり前の努力を当たり前にやっていくことが、金運招来の基礎となるのだ。
いま現在、一流企業として名を成している企業にしてみても、そうした地道な努力を倦まずたゆまず継続してきたからこそ今日の基盤があるのであって、その努力を怠ったらアっという間に水面下に没してしまうだろう。
例えば、いまも昔も集約深耕という販売方法を採っている企業がある。集約して耕す。すなわち、同じ所をぐるぐると回って、担当の地域を制圧していくのが集約深耕である。
もちろんすげなく断られることも多い。しかし、すげなく断られても決してあきらめない。二度三度と足を運んでいくうちに顔馴染みになり、かたくなに拒みつづける頑固なお客さんもいつか必ず心を開く。
その一瞬をとらえて売り込むのだ。特に大きな取引ができそうな所へは何回も何回も何回も何回も何回も何回も足を運んで必ず契約を取る。
そうやって一つでも契約を取ることができれば次につながっていく。誠心誠意を尽くし、真心込めてやれば、「じゃあ、次はひとつ頼もうか」という人間関係が生まれるわけだ。
その勇気と根気がなくて、金運三神を拝んだところで動いてくださるわけがない。
天照大御神と産土神の「真・副」の働きをいただいて、努力に努力を重ねる前提があってはじめて「控」の金運三神が働くのである。
よく会社のお昼休みのときなどに保険のおばちゃんが勧誘にやってくる。チューインガムを持ってきたり、アメを持ってやってくるが、私がサラリーマンをしていたとき、一番最初に入った保険はY生命だった。
そのときの担当の女性の名前は今でもはっきり覚えている。
なぜ私がY生命に入ったのかというと、後に述べるように本当は他にも理由があったのだが、正直な話、たくさん訪ねてくる保険外交員の中で、生命のその女性だけが(私には)若くて美しく見えたからである。
やはり美しいほうが人を惹きつけるものなのだから、営業職の女性はつねに若さと美しさを保つようにすべきである。
極端な話、営業に命を懸けるのだったら整形手術をしたっていいと思う。
ところで、その女性は確かに若くて美しく見えたのだが、もちろん、私がY生命の保険に入ったのはそれだけが理由ではなかった。
Y生命のその女性外交員は、私が留守のときには、「今日お伺いしましたがお留守でしたので、また今度参ります」といった何らかのメッセージを裏面に書き添えた名刺を、必ず机の上に置いていったのだ。
しかもボールペンではなく万年筆で。ほかの人は単に名刺を置いていくだけ。
中には、私のような若造には名刺はもったいないとでも思ったのか、チューインガムだけ置いていく人もいた。
メッセージの書かれた名刺は心に残るが、ガムは食べてしまえばそれで終わり。ちっとも印象に残らなかった。
ともかく私は、生命の外交員が一番熱意と誠意があるように感じた。自分が病気になったときもきっと誠意を尽くしてくれるのではないか。
もしかしたら病院にまで見舞いに来てくれるのではないか。そんな期待を抱きながら、その女性の勧める生命保険に加入したのである。
どうすれば自分の思いを相手に伝えることができるのか。
そして、営業実績を高めることができるのか。それにはやはり、一ひねり二ひねり三ひねりの工夫が必要で、人と同じことをやっていたのでは相手に自分の思いは届かないし、実績という実を結ぶこともない。
同じ生保の勧誘でも、それだけの智恵を使えば何か知らず胸打つものが体からにじみ出てきて、人の心を動かすことが可能になる。
では、その智恵はどこから生まれてくるのか。それはもう、人の三倍の努力を積み重ねるしかない。
人が一日十軒飛び込むなら自分は三十軒。
人が一日十軒電話をかけるな自分は三十軒。それだけの努力を倦まずたゆまず続けていくと、あるときサッと神様がかかって、人の三倍の努力が三十倍になって返ってくるような叡智とパワーを授けてくださるのである。
そのためにはまず、できてもできなくても人の三倍やるのだ!人間としてでき得るかぎりの努力をするのだ!と発願することである。
「訪問件数一日三十軒。それを最低三カ月続けます。どうか神様お見守りください。お導きください」と、天照大御神様に活力と元気を、産土様に気力と発展を、金運三神にお金のやり繰りができるようにお願いして、すぐさま実行に移す。
すると即、結果が出るというわけにもいかないかもしれないが、成果が出るのはだいたい三ヶ月目の二十五日か月末の二十七日頃というケースがほとんどである。
発願したら即、成果が出るというのならこれほど楽なことはない。
朝目が覚めたら玄関先に何億という札束がドーンと置いてあったとか、冷蔵庫を開けたら札束がぎっしり詰まっていたとか、そういう摩訶不思議なことが起きたらどんなに幸せだろう。
私も何度、そうあってほしいと願ったかしれない。だが、いつもいつでも期待は裏切られ、ギリギリまで必死の努力を続けなければ成果は得られなかった。
というのも、最初の一ヶ月二ヵ月は、発願が本物かどうか神様のほうも様子を見ていらっしゃるのだ。
そして、これは本物だと判断されると、いよいよ期限ギリギリというときに動かれて、ドドッと大きな成果が与えられる。
思いもよらぬ人から思いもよらぬほど大きな仕事を紹介されたり、取引先が入金を早めてくれてすんでのところで救われるとか、奇跡としか言いようのないことが起きる。
これが正神界の神仏が働かれるときの原則である。神仏のご加護やご利益が実感できないのは、そこまで必死になって努力していないからだ。換言すれば、本人の誠が極まっていないからである。
私はこれまでの著作群で繰り返し、「神仏を動かすには誠を極めるしかない」と書いてきたが、その誠とは何か。誠とは「言」が「成る」と書くように、口で言ったことと行いが一致してはじめて誠になる。
したがって、心の中でどんなに素晴らしいことを思っていても、行わなければ誠とは言えない。
人々の幸せと世界の平和を祈る人は多い。それはそれで素晴らしいことではあるが、ただ祈っているだけでは誠とは言えず、神仏の大いなる発動は期待しがたいのである。
いずれにしても、人の三倍努力するという発願が本当に実践できてはじめて、神様に対する誠が通り、今までの努力が十倍、二十倍、三十倍の成果として実を結ぶのだ。
神を動かす原則は、この誠の道に徹するしかほかにない。
正神界の法則
これは守護霊様でも同じこと。やる気が出ない、元気が出ない、ああ疲れたと思いながら、「守護霊さん、お願いします」と祈っても、守護霊様は守ってくださらない。
黙って様子を見ているだけなのだ。元気がない、気力が湧かない、下っ腹に力も入らない、だけども、やるだけはやるんだ!と思って力を振り絞りながら、
「元気が出ないけど頑張るんだ!!もう守護霊さんも神様もアテになんかするものか。
いてもいなくても、どっちでもいい。いるんなら守ってみろ。俺は自分の力でやってやるんだ!」と叫んだとき、フワッと守護の手が差し延べられるのである。
初めから守護してくれたら便利なのだが、守護霊様は本人が本当にやる気を出したときでなければ、直接守護してはならないという正神界の法則があるのだ。
それに対して邪神界の悪神、悪霊たちは、本人がやる気があろうがなかろうが関係ない。
魂にとってプラスかマイナスか、その人の未来にとって吉か凶か、そんなことはお構いなしである。勝手にとり憑いて肉体を思うままに操りたいだけだから、願を立てればすぐに聞いてくれる。
しかし正神界の神霊は、あくまでも本人が立ち上がって、努力に努力を重ね、何かを乗り越えようと魂を奮い立たせないかぎり動いてくださらない。
ときには例外的に無条件に救いの手を差し延べられることもあるにはあるが、基本はあくまでも御魂の向上。
すなわち、自分自身を高め、成長させることにつながるかどうかが、守護する守護しないの分かれ目になるわけである。
守護霊も産土神も金運三神も天照大御神も宇宙の素神も、正神界のご神霊というのはすべてそういうものなのだ。
だから、最初の一歩、二歩、三歩は自分で踏み出さなければならない。お願いだけして頼りきることは許されないのである。
Aさんのように自分は全然努力しないで、知り合いや親戚をちょっと回っただけで金運三神が動いてお金が儲かったら、金運三神はその人間を怠けさせ堕落させたということで、素の神様から叱られてしまうだろう。
どうしても努力は嫌だ、お蔭だけほしいとおっしゃるなら、稲荷神社に行ったらいい。
極端な話、油揚げを十トンお供えすれば、向こう十年ぐらいはたっぷり儲けさせてもらえるに違いない。ただし稲荷ギツネは正神界の神霊ではないので、その後どうなるかは保証のかぎりではない。
身ぐるみはがされて路頭に迷うことになってもいいという覚悟があるなら、稲荷に手を合わせてもいいだろう。
そうすれば、怠けていても十分なほどのお蔭が得られるはずだ。
これをお蔭信仰と言うが、お蔭信仰で死んだら、怠りの罪で地獄界に行くことになる、ということも付け加えておく。
蔵王権現や三宝荒神、三面大黒天をお祀りして会社の業績が上がったり、仕事がうまくいくようになったという体験をしている人はたくさんいらっしゃる。
もちろんワールドメイトの会員の中にもいるし、世間一般にもたくさんいる。
なぜか。その人たちは、言われなくても「真・副・控」ができているからだ。人の何倍も努力しているのだ。
そういうクセが身についていると言ったほうがいいかもしれない。そうでなければ、お蔭が出るわけがない。理由もなくお蔭が出ることは正神界のご神霊の場合はないのである。
自分を追い込め
ワールドメイトの会員さんで、エステティックサロンを経営しているBさんも、金運三神を祀っているのに功徳が感じられないと申し出てきた一人である。
「どうも経営がうまくいかなくてずっと赤字なんです。もうお店をたたもうかと思っているんですが…..……」
私から言わせれば、金運三神を祀って人の三倍努力すればどんな業種でも必ず繁盛するはず。やはりBさんもそこまでの努力はしていなかったようだ。
聞けばBさん、幾つ事業を手広く展開していて、余った資本で当たれば儲けものぐらいに考えてエステティックサロンを始めたとのこと。
その程度の気持ちで事業を始めて成功するわけがない。必死な思いがあまりにも欠けているからである。
そば屋であれラーメン屋であれ、あいは花屋にしても何にしても、手持ちの資金で開業した場合、失敗する確率が極めて高いのはそのためである。
一方、銀行から借りて始めた人は成功する確率が高い。銀行にお金を返さなくてはならないから、必死の思いで働かざるを得ないからだ。
そばのゆで方や出し汁にしても一生懸命に研究して、一杯でも多く売れるように必死に考える。
出前の注文があれば、どんなに遠いところにでも届けに行く。少しでも売上がほしいから努力を惜しむことがな
ところが自己資金で始めた人、特にBさんのようにほかに本業があって、その余力で事業を始めた人は、そこまで気持ちが極まらない。
そのため、せっかく出前の注文が来てもちょっと遠いと断ってしまう。味もサービスも大ざっぱで、たいして研究もしない。
そば屋の看板を出しておけば、客のほうから食いに来るだろうという程度の気持ちでやっている人が多い。
だから当然、客が来るわけがないのだが、それでも悠然と商売をやっている。件のBさんも、「ずっと赤字が続いているんですけども!」なんて他人ごとのように悠長に構えている。
銀行への返済に追いまくられていたら、脳溢血になるくらい顔を赤らめ、必死の形相になってしかるべきと思うのだが、いたって呑気である。
別に顔を赤らめればいいというものではないが、要はどれだけ真剣にその仕事に取り組んでいるか、あるいは、その仕事を通じて人様のお役に立つことを真剣に考えているのか、ということである。
その自覚があってはじめて人の三倍の努力をしようという気持ちになれるのだ。
成功の方程式
では、人の三倍努力するとは具体的にどういうことなのか。エステティックサロンの経営を例に引きながら、私だったらこうやるという話をしてみたいと思う。
さて、一口にエステティックサロンと言っても、繁盛しているエステティックサロン繁盛していないエステティックサロンがある。
繁盛する所と繁盛しない所の違いは何なのか。その違いこそが成否を分けるポイントなのだ。
だから、もし私がエステティックサロンをやるとしたら、まずその違いを見極めることから始める。
そのためには何よりもまず身をもって体験し、繁盛している秘密を探ること。これが最も重要である。
業界紙などから最新情報を収集することも大切だが、最も役に立つ、生の情報を手に入れるには現場に足を運ぶのが一番。
女性向けの雑誌もすべてチェックして、話題になっているエステティックサロンがあれば、東京であろうと大阪であろうと九州であろうと、はたまた北海道であろうと全部行ってみる。
繁盛する店づくりのために不可欠な先行投資なのだから、交通費や時間を惜しんではいけない。
それがもったいないと思うような人は経営者に向いていない。最初から企業経営なんかに手を染めないほうがいい。
ともかく、そうやって繁盛している店に足を運んだら、一つひとつの店についてサービスはどうだったか、技術はどうだったか、機械は、料金体系は、立地条件はと入念にチェックしていく。
そしてなぜその店が繁盛しているのかということを徹底的に分析するのである。
例えば女性従業員についていえば、あまり美人でスタイル抜群の女性ばかり揃えるのもツンツンした感じを与えてマイナスになるかもしれない、それよりむしろ口もとだけきれいで目が垂れているとか、目元がきれいで口が大きいとか、あまり美人すぎず情感が豊かな気がつく子を集めたほうがいいのではないだろうか。
そういうテーマを設定しながら一つひとつのお店を巡っていく。サービス業なのだから、そこまで研究する必要があるだろう。
そうして日本国中の繁盛している店を巡り歩いていけば、おのずから「成功の方程「式」が浮かび上がってくる。
価格ラインはこれ、機械はあれとあれ、受付のレイアウトはこんなふうな感じ、内装はヨーロピアンスタイル、女の子は美人すぎず不美人すぎず、気立てのいい子、平均年齢はだいたい何歳・・・・・・といったイメージが浮かんでくるはずである。
それともう一つ、案内状の研究も欠かせない。だが、これも無理して考える必要はない。
真似をすればいいのだ。だいたい、一度行った店からは必ず案内状が来る。
「エステティックサロン、春の○○フェア。全身ケア二〇パーセントOFF!」といった案内状が送られてくるから、その中で一番説得力のあるインビテーションカード、思わず「行ってみたい」と思わせるようなカードを、そのとおり真似して作ったらいいのだ。
それだけのお金と時間と労力をかけて、まずは繁盛している店の秘密を徹頭徹尾、研究しつくすこと。
そして次に、お客様が最も感動するような素晴らしい店づくり、エステ技術の導入、案内の仕方など諸々の要素を三つか四つ組み合わせて、予算の範囲で組み立てる。
そうすれば、おのずと繁盛する店の青写真ができ上がる。
ちょっと言い忘れたが、全国の店々を回るときにも「真・副・控」の原則に立って、神々に発願すること。これを欠かしてはならない。
「繁盛する秘訣を知らせたまえ!」と投げかけて、一件また一件とお店を回っていけば、パッとひらめくものがあるはずで、それを「成功の方程式」に加味するのだ。
つまり「方程式+ひらめき」でエステティックサロンをやれば、必ず繁盛する店になること請け合いである。私だったらそうするだろう。
最低、お客さんの名前ぐらいは覚えろ
ところで、客商売をしていて繁盛している店に共通していることは、お店の人が実によくお客さんの名前を覚えているということである。
私は美容院でも散髪屋さんでもいろいろな所に行くが、半年ぶりぐらいに行った店でも、
「ああ、深見さん。お元気でしたか」と声をかけられ、よく覚えているものだと思わず感心させられることがたびたびある。
名前を覚えていてもらえるとうれしいもので、私のためにお店をやってくれているんじゃないかという気になったりするが、いったい一人の美容師さんがどれくらいの名前を覚えているものなのか。
いつだったか興味津々尋ねたところ、実に三百人ぐらいだという返事が返ってきた。三百人からの人間の名前と顔を覚えるのは並大抵の努力ではない。
だが、それをやってのけるのがやはりプロというもの、店を繁盛させようと思うなら、それくらいの努力は当然だろう。
エステティックサロンをやるにしても別の商売をやるにしても、成功を願うなら最低限、お客様の名前ぐらいは努めて覚えるようにすべきである。
何気ない会話の中からお客様の個性を見抜く。あるいはちょっとした仕種からお客様の特徴をつかむ。
そういうクセを身につけさえすれば、三百人や四百人ぐらいの名前なら誰だって覚えられるはずだ。
「前回のお腹の揉みだしでだいぶスッキリしましたね、○○さん。今日はお顔ですか。
顎のあたりの贅肉を気にしていらっしゃいましたよね」
「いやあ、覚えていただきましたか。実は顎もなんですけど、耳たぶがふくよかになったら財運が良くなると思って、耳たぶふくよかになりませんか?」
「そういうのはエステティックサロンではやっていませんが………」
例えばの話ではあるが、そこまで親しくなればもうしめたもの。リピートオーダーまず間違いなし、である。
流した汗と涙の量に比例して神仏は働く
人並み以上の大きな成功をつかもうとするなら人並み以上の努力をするしかない。
これは神様だの仏様だのと言う以前の大原則であり、金運を引き寄せようとするなら、とにもかくにも自分の限界に挑戦するつもりで人の三倍の努力を、歯を食いしばってでも継続しなければならない。
そうすれば必ず成功する。その努力を神仏が見そなわされて、十倍、二十倍、三十倍の成果を授けてくださるからだ。これも神霊界の大原則である。
そうやって事業がうまく回転し始めても、それで努力と研究を終わりにしてはならない。これはたゆまぬ努力の始まりにすぎないのだ。これまた言わずもがなの大原則である。
神霊家としてさまざまな活動を展開しながら神仏の活用法を知らしめている私ではあるが、こと仕事に関するかぎり、神仏に頼りきるということはしない。
業界の動向、銀行対策、税務対策、労務管理など、経営者として絶対に身につけなければいけない分野の研究に関しては誰よりも貪欲でありたいと思っている。
そのために、五大新聞は必ず毎日隅々まで読んでいるし、業界の専門誌にも目を通し、全体の動向というものに気を配っている。
それだけの研究と努力を注いでも、ときには経営的に壁にぶつかることもある。経済生き物であるかぎり、どんなに努力しても万全ということがないのは当然としても、会社が行き詰まったときほど経営者にとって辛いことはない。従業員とその家族、そして自分の家族を路頭に迷わせることになるのではないかと想像した途端、顔面は蒼白になり、背筋には冷たいものが流れてくる。
だが、それでも私は決して弱音を吐かないし、神仏に対して不平不満を漏らさない。
これは神仏の与えたもうた尊い試練なんだ、この難局を乗り越えれば会社も自分も一回り大きく成長できるのだと受け止めて、真っ正面から壁に体当たりしていくことにしている。
実際、そうやって何度も何度もピンチを乗り越えてきた。
人間、窮地に立たされると悲観的になりやすい。それは、ある意味で仕方のないことかもしれないが、会社を経営する者にかぎってはそうであっては絶対にならない。
後ろ向きの姿勢になったその刹那、会社は倒産への道を転がり落ちると心得るべきである。
逆に、前より増して積極的、攻撃的に挑んでいくと、不思議なほどいろいろな智恵が湧いてきて、思わぬところから道が開かれてきたりするものである。
だから、苦境に陥ったときこそ勇気を振り絞って難局に立ち向かっていくべきなのだ。
勇気を奮っている人、やる気に燃えている人の姿は、霊的に見ると光り輝いている。御魂が発動しているからだ。
実は、それこそ神仏の最も喜ばれることであり、御魂の発動している人を守護しない神霊はいない。
本人のために多少、遠回りさせたり、苦労させられることもあるが、究極的には必ずいい方向に導いてくださる。
努力した分だけの叡智が与えられたり、大きな仕事を紹介してくれる人との出会いがあったりと、さまざまな形で成功への道を後押ししてくださるのである。
これは特許製品を扱おうとエステティックサロンをやろうと、はたまたそば屋をやろうとラーメン屋をやろうと絶対に変わらぬ法則である。
そこまでやって金運に恵まれない人、貧乏神から解き放たれない人というのはまずいない。
嫌というほどお金が入ってくるはずである。それでも金欠病でいつもピーピー言っているというのは、金運がないのではなくて財運がないからだ。
くだらないことに大金を使ったり、しょっちゅう事故に遭ったり、保証人のハンコをついてどうのこうのというのは財運のない人であって、以上述べた法則を守れば、とりあえずお金は入ってくる。
入ってきたお金をどう使うかが問題なのだが、私だったら半分近くを勉強のために投資する。
いまやっている事業をさらに大きくするための勉強、あるいは次に取り組む事業のための準備。
そうやっているかぎり、事業は末広がりに広がっていくし、自分自身をより大きく成長させることができるはずである。
そうやって経験を積み上げていってはじめて、人にアドバイスできる人間になれるのだ。
世のため人のために役立つ人間になれますようにと祈る人は多い。
しかし、実力も経験もなければ、どんなに祈ったところで空念仏でしかない。本当に役に立つ人間になるには、人の何倍も努力して実績を残すしかない。
そのプロセスで得たノウハウや体験が結果的に世のため人のために役立つのである。
もし、こうした努力をすることなく、神仏に手を合わせているだけで成功を得た人がいたとしても、世のため人のために役立つ人間、人から尊敬される人間、悩みごとに答えられる人間になれるわけがない。
この現実社会で流した汗と涙。その土台の上に神仏が動かれるというのが本来あるべき姿であって、それを無視して神様が動いたとすれば、それはおかしな神様だし、その人の人生にとってマイナスになるだけである。
その意味で、仕事を持たず、ただ単にお告げをするだけの霊能者や宗教家というのはどこかいびつで、そのお告げもまがいものでしかないと言わざるを得ない。
正しい神を受け継ぐ宗教家とか霊能者というのは、人の世の苦労、現実的な葛藤を必ず経験しているものだ。
人の世の苦しみや悲しみを分からない人間がどうして人を正しく導くことができるだろうか。
すべてが神業であるということの意味を、深く胸に刻み込んで、正しい神人合一の道を歩んでいただきたいと思う。
