神仏のことがわかる本(Vol.6)

【第五章】誠とは何か

神仏が一番喜ばれるもの、それが誠

前章では、神仏から遠ざかる最大の原因として、怠り、侮り、油断、次に増長慢、傲を指摘してきた。

したがって、神仏に動いていただくためには、怠り、侮り、油断、増長慢、傲慢の逆をやればいいのである。

では、怠り、侮り、増長慢、傲慢の逆とは何か。誠である。私の本でもしょっちゅう書いていることだが、とにかく誠を貫けば御神霊がいつも加護してくださり、功徳もいっぱいくださる。

しかし、誠が大切だと言ってもはなはだ抽象的である。「誠、誠、誠」と頭で考えたり、「誠だ、誠だ、誠だ」とつぶやいたって誠ではない。

新撰組みたいに「誠」と書いた旗を立てたって誠ではない。「誠」の旗をパタパタ振って、「誠だあー!」と情感を込めて言ったところで、これまた誠ではない。

さて、神仏が受け取る誠とはいったい何なのか。第3章では、口と心と行いが一致したとき誠になると説明したが、ここではさらに踏み込んで、誠の本質に迫ってみたいと思う。

誠の五段活用・1 わざわざ

第3章で述べたように、誠とはあくまでも実践してこそ誠であって、心の中で思っていたり、言葉に出して言うだけでは誠とは言えない。

とにかく実践しかないのだが、実践の場では誠は五段階に活用変化する。これを私は「誠の五段活用」と呼ぶことにしている。

この誠の五段階についてはこれまでの著作の中で折に触れて書いてきたが、神仏に心を寄せる人にとって極めて重要なことなので、本書では一歩も二歩も掘り下げて語ってみたい。

さて、「誠の五段活用」の第一は何かというと、「わざわざ」。

前述した「面倒くさい」の逆がこの「わざわざ」で、わざわざ訪ねてくる、わざわざ電話する、わざわざ手紙を書くことが最高の誠なのである。

というのも、神仏が一番嫌がる面倒くさい心から一番遠いのが、この「わざわざ」。

だから何をするにしても、わざわざやれば神仏は非常に喜ばれる。もちろん、功徳もたくさんくださる。「わざわざ」が、神仏を動かす一番のポイントなのである。

例えば、皆さんに子どもができて、それを知ったハワイの親戚が、「ご出産おめでとうございます。五年間子どもができなかったのに、できて本当によかったですね」と、わざわざハワイから飛行機に乗って、出産祝いのトウモロコシーダースを土産にやってきてくれたらどうだろう。

「ハワイからわざわざ何しに来たんだ?用が済んだらさっさと帰れ!」と、迷惑がる人がいるだろうか。

「いやあ、これはどうも。わざわざ私どもの出産祝いのためにハワイから来てくださって、どうもありがとうございます」と、誠意を感じて、心からの感謝の言葉を述べるのが普通だろう。

そのように、わざわざという誠意には人間だって感激するのだから、神仏も感激する。いや、神仏だからこそよりいっそう感激するのである。

例えば、ワールドメイトでは毎年、年の瀬も迫った十二月の二十九日から三十日にかけて伊勢神宮に詣でて団体参拝をするが、わざわざ年末の忙しい時を選んで参拝するからこそ、神様がよしと思って受けてくださるわけだ。

あるいは箱根神社。夜の七時か八時になってバスがなくなったら、あの山道をわざわざテクテク歩いて参詣する人がいる。

また、法華経系統には、あの険しい七面山をわざわざ登ってご来光を拝む団体があるが、だからこそ功徳がいただけるのだ。

別にどこで拝んだって太陽なんて同じはず。だいたい丸い形をしていて、ピカピカ光っているだけだ。

それをわざわざ七面山に必死の思いで登り、眠い眼をこすりながら夜明けまで起きていて、昇ってくるご来光をお経を上げながら拝む。

それだけで素晴らしい功徳がいただけるのだ。太陽神界の大日如来も天照大御神も微笑むのだろうが、わざわざ辛く苦しい思いをして七面山を登ったということを神様、仏様がお受け取りになる。

誠としてお受け取りになるわけである。

ここに難行苦行とか精進努力とか修業というものの意義があるのだが、要は、ハワイから長時間、飛行機に乗ってわざわざやってきた人と、隣から歩いて五分で来た人と、どちらのほうに功徳を与えるか、である。皆さんが神様、仏様、守護霊様だったらどうするだろうか。

それを考えたら、「わざわざ」がどれほど重要か分かるはずだ。

「ちょっと時間がとれたものですから、ついでに寄りました。すみませんが、一億円貸してくれますか」と言う人と、わざわざブラジルから来て、張羅のスーツなんかを着て、「すみません。あのう、二千円貸してくれますか」と言う人、どちらに貸して上げようと思うだろうか。

わざわざ二千円のためにブラジルから来たのだから、私だったら、

「そんなこと言わないで。二千円ぐらいなら差し上げますよ」と言う。大事なお金を人から借りるとき、その人の持てる力の全部を動かしていただこうと思うとき、ついでに行く人がいるだろうか。

相手の空いている時間をお聞きして、その人の気に入りそうな品物を持って、それなりの服を着て行くはずだ。

お金を借りるとか、あるいは仲人をお願いするときにジーパンをはいて出かける人なんてまずいない。

あるいは電話で、「私たち結婚するんです。すみませんけど、仲人お願いできませんかねえ。仲人お願いしますよ。ねえ、ねえ」

なんて言う人もいないし、そんなことで引き受けてくれる人もいないだろう。

それだけの労力を相手に使わせるわけだから、わざわざ二人揃ってスーツを着て、ピシッと威儀を正して行くのが普通の人間の感覚というものである。

実は、これが神社参拝における正式参拝というものなのである。

神社に参拝するときには、賽銭箱に小銭をチャリーンと投げ入れるものと考えている人が圧倒的に多い。

それが悪いとは言わないが、買い物の釣り銭だとか財布の隅のほうに隠れていた十円玉をチャリーンと投げ入れて、柏手をパンパンと打って、はい、終わり、というのと、恭しく玉串を奉典して神主さんに祝詞を上げてもらうのと、どちらに神様は誠意を感じられるのか。

これはもう言わずもがな、正式参拝のほうに決まっている。わざわざ威儀を正して、しかも十時間も二十時間もかけて遠路はるばるやってきて、正式に参拝をするから神様も誠を受け取られるわけだ。

だから、神様に向かうときには、何でもわざわざすればいい。神社へ行くにも、五歩のところをわざわざ四十歩かけて行くぐらいの気持ちが大切だ。

例えば、お百度参りというのがある。あれはなぜ百回もお参りするのかと言えば、「神様、お願いします」とお祈りすれば済むところを、わざわざ、何度も何度もお参りすることで、神様に誠意を見せているのである。

だからお百度参りは功徳が高いと言われているのだ。

また、二十一日祈願というのもある。何か神様にお願いするときには七の倍数で祈願するのが普通で、七日祈願、十四日祈願というのもあるが、二十一日かけて祈願するケースが多い。

なぜ、わざわざ二十一日間も祈願するのか。次に説明する、「何度もやる」という二番目の話にも関連するが、神様に向かうときには何でもわざわざやることが肝心だからだ。

この第一段の「わざわざ」が活用変化して、次に説明する二段、三段、四段、五段の項目につながっていくわけだが、集約して言うと、わざわざやるのが最高の誠。

だから、正直で誠実であったとしても、それだけではダメ。無論、それも大切な徳目ではあるのだが、神仏を大いに動かすにはそれだけでは足りない。

わざわざやるという行動に表れなければ、それは誠とは言わないし、神仏も動いてくださらないのだ。

面倒くさいという心を乗り越えて、わざわざ忙しいときに、わざわざ遠路のところを、わざわざ何時間もかけて、わざわざそのためだけに出かけて行って、「神様、お願いします」と言ったら、誠がスーッと通る。神様がピーンと受けてくださって、喜んで功徳を与えてくださるわけである。

これが究極の一厘、神仏を動かす一番重要なポイントである。

伊勢の団体参拝をわざわざ年末の忙しいときに、わざわざ手間ひまかけて大きなスケールでやるのも、箱根の団体参拝でもわざわざ観光船をチャーターして船上から参拝したり、境内でオーケストラ演奏をして神様に奉納するのも、すべてそれを考えた上でのこと。面倒なことをわざわざ大規模にやったほうが、より神霊が受けてくれるのである。

その法則を知っているから、私自ら先頭に立って、わざわざ面倒なことをやるわけだ。

『栄光への脱出セミナー」にしても、鳴かず飛ばずの人生から天高く飛翔する人生へ転換するにはわざわざを実践・体験するしかないから、わざわざ稚内という不便な所で、わざわざ赤字を承知のうえでやったのだ。

わざわざ休暇を取り、わざわざお金を工面し、わざわざ何時間もかけて、わざわざ日本の最北端までやってくることの意義。それを身をもって体験してもらいたかったわけだ。

この体験が何よりも尊い。前にも書いたように、面倒くさいという心の壁をぶち破るには、あれこれ頭で考えていてもダメ。

一も二もなく実践して体験するしかないのだが、一度でも体験すると、二度目からはスイスイ突破できるようになる。

そうやって一度乗り越えたら加点1、二度乗り越えたら加点2。そして加点3、4、5といった具合に順次、御魂のランクが上がっていく。

そこからさらに中魂に至り、中魂も突破して上魂に行く人というのは、いつでもどこでもこの誠、つまり、わざわざがいつもできている人である。

神様に対しても人間社会に対しても、面倒くさいという心を克服して、わざわざがいつもできている人は、財産もつくっているし名誉もつくっている。

出世もしているし、時間も自由につくれる。運も強いし、何をやってもうまくいっている。

ここまでできる人は誰でも成功している。ためしに、世の中で出世している人をつぶさに観察したら、一人残らずこれができていることに気づくはずだ。

逆に、わざわざができていなくて出世している人なんて、一人もいない。政治家であろうと事業家であろうと、はたまた芸術家であろうと、世の中で名を成した人というのは、みんなこれができている。

特に、留学してまで自分の道を極めようとする音楽家や画家などは、これがきちんとできている。

わざわざ高いお金を払って、わざわざ外国で勉強するのだから、当然、それだけのものを会得している。

その会得した分だけ他人にはない才能となり、社会的に認められる自分の値打ちになる。それがお金になり名誉になる。

時間でもつくろうと思ったら、「あ、どうぞ、どうぞ。ご自由になさってください」と、いくらでも時間がつくれるわけだ。それだけの価値を社会で認めてもらっていない人は、自由が利かない。

それだけの価値を家庭で認めてもらっていないから、家族を動かすことができない。両親を動かすことができないわけ。

そういう人が下魂。その極致が下の下の下の下の下魂。逆に、誰もが認める価値を持った人が上魂中の上魂。

神仏を動かし、人の心をつかむには誠しかないということは、私の著作の中で終始一貫して書いてきたことだが、この誠を五段階に分けると、まず第一が「わざわざ」。この「わざわざ」ができないというのは怠りであって、それを克服すれば必ず神仏は功徳を与えてくださる。

世の中の人間には誰にも御魂があるし、守護霊もいらっしゃる。

守護神もいらっしゃるから、わざわざ遠路のところを長時間かけて、そのためだけにわざわざ行けば、「わざわざどうもありがとうごさいます」と、誠意を感じてくれる。

麗しきものとして受け取ってくれる。よしんば相手が感じなくても、背後の守護霊、守護神は十分、誠意を感じて引き立ててくれる。

だから、「わざわざ」の誠ができている人はどんな社会でも出世する。「わざわざ」の誠を貫き通して出世していない人など、いるわけがないのである。

誠の五段活用・2 さっそく

誠の活用変化の二番目は「さっそく」である。

友人、知人の子どもが生まれたらさっそく、「いやあ、おめでとうごさいます。

お子様がお生まれになったそうで」と、お祝いに駆けつける。選挙に当選したら、さっそく、「当選おめでとうございます。頑張ったかいがありましたね」なんて言ったら、と、お祝いの言葉を述べる。

交通事故に遭ったと聞いたら、イの一番に病院へ駆けつける。

そのように、何かあったときに、さっそくやって来てくれたら、「さっそく来てくださいましてありがとうごさいます。わざわざありがとうごさいます」と、「さっそく」と「わざわざ」の両方を使ってお礼を述べる。

さっそく来てくれた人には誠意を感じるからである。

それに対して、赤ちゃんが生まれて一年もたってから、「お子様がお生まれになったそうで、おめでとうございます。お祝いに産着を持ってまいりました」

「あのう、うちの子、もう一歳なんですけど」と言われてしまう。これでも誠は誠かもしれないけれど、感動しない。

神仏を動かし、人を感動させるまでの誠ではない。神仏を動かそうと思うなら、何でもさっそくやることだ。

何か悩みごとがあったり苦しいことがあったら、さっそく神社へ行って神様に相談する。即やる。

ぐずぐずしているのは怠り、面倒くさいのだ。火事場見舞いでも、火が出たとき最初に来てくれた人に最も誠意を感じる。

だから、とにもかくにも最初に行く。即、行く。これがさっそくの極意である。

御中元や御歳暮を贈ったとき、すぐに礼状をくれる人は印象に残る。翌日、さっそくお礼の電話をくださったら、ああ誠意があるなあ、よくできている人だなあ、という印象が残る。

そして、「さっそくの礼状、ありがとうございます」

「さっそくのお電話ありがとうございます」と、かえってこちらからお礼を言いたくなる。

だから、さっそくお礼を言う、さっそく電話をかける、さっそくやるというのは誠意、誠なのである。誠があるから気がつく。

気がつくからさっそく礼を言う。それができている人は誰からも好かれるし、信頼もされる。少なくとも、さっそくができている人を嫌う人はいない。

無論、嫌う神仏もいない。特に神社の神様は、ご祈願が成就したとき、さっそく感謝のための参拝をすると、格別に喜ばれる。

歴史のある神社にはだいたいどこにも宝物殿がある。

その名のとおり、あの中にはいろいろな宝物が納められているが、何百年、何千年という歴史のある古い神社だったら、各時代の武将や天皇様が奉納された、馬とか鎧兜とか刀といった宝物も珍しくない。

それらの宝物はどういうときに奉納されたかというと、ご祈願をするときに奉納されたものはあまりない。

むしろ、祈願をしたことが成就して、「ありがとうございました」と感謝の参拝をしたときに奉納されたもののほうが圧倒的に多い。

神社に詣でて祈願する人は今でも多い。しかし、感謝するためにわざわざ神社にお参りする人がどれだけいるだろうか。神社の神様のお蔭で子宝に恵まれた、金運に恵まれた、理想の女性とめぐり会えた。

でも、「功徳がありましたね」「やっぱり箱根神社の神力は抜群ですね」で終わり。

まあ、本人はそれで満足しているのかもしれないが、感謝の参拝をして、いただいたお蔭の何パーセントかでもお玉串として奉納したら、十倍にも二十倍にもなって返ってくる。

さっそくお礼を言い、わざわざ素晴らしいものを奉納することによって、次のリピートオーダーが期待できるのである。

ところが、このさっそくの礼というものの法則を知らないから、お蔭が一回あったら、それだけで終わってしまう。だからリピートが利かない。

リピートが利かないのは、誠 12 が至っていないからである。神社の神様に祈願して金運に恵まれたら、そのうちの半分感謝の印として奉納したらいいと思う。

だまされたと思って、ぜひ実践してみてはどうだろう。必ずや次々とお蔭がいただけるはずだ。

これは別に、私個人の考えで言っているのではない。昔から変わらない神霊界の法則、誠というものの法則なのである。

だから、何か成就したときにはさっそく、「ありがとうございました」とお礼に行かなければいけない。

箱根神社に参拝してご祈願したら功徳をいただいた、あるいは九頭龍さんのお札のお蔭で功徳をいただいたというときには、即お礼に行く。

そして次にもっと大きなお蔭があったら、またさっそくサッとお礼に行く。

こうやって、麗しき誠の連関を続けていくと、ずーっと功徳が続きっぱなし。こんなに続いていいのかしらというぐらい続く。

ただし、怠りや面倒くさいという心が出たら、その瞬間にピタッと止まる。

それをワールドメイトの会員の中にも、「最近お蔭がない」とか「深見先生に魔が入ったんじゃないか」と言う人がいる。

本当は己に魔が入っているのだが、たたりがないけれどお蔭が出なくなるというときには、感謝の誠が足りない。そこを反省して、さっそく感謝し、さっそくお礼に行くべきである。

考えてみたら、これは営業マンの心構えと全く同じである。営業マンが心得なければならないことはたくさんあるが、最終的には誠意で勝負するしかない。

お客様に品物を買っていただいたり、新しい取引先を開拓するためにはもう、わざわざ、さっそく行くのが一番。

それができない営業マンに、新規開拓なんて到底できやしない。

わざわざ行くなんて面倒くさい、さっそく行くなんて嫌だと言っていたら、営業なんてできるわけがない。営業実績を上げようと思うなら、祝いごと、忌みごとにはわざわざ、さっそくかけつけるべきだ。

「このたびは、開店おめでとうございます。これ、ほんの気持ちです。どうぞお納めください」

「このたびのご不幸、心よりお悔やみ申し上げます。どうぞ、お力を落とさず……。何かご用がございましたら、何なりとおっしゃってください」

そうしたら、その誠意に感じて、先方の人脈を紹介してくれるかもしれない。紹介してもらったら、その人間関係によって宝物がやってくる。

人から情報をもらったり取引先を紹介してもらう。つまり、感謝で仕事をもらうわけだ。

もう、神様から功徳をいただくのも人間様から功徳をいただくのも全く一緒。この世の運、お金、情報、出世すべてのチャンスは人が与えてくれるのだ。

それには、くどいようだが誠を極めるしかない。わざわざ、さっそくの誠ができている人は必ず世の中で出世して、金運にも恵まれ、時間も自由に取れる。

この原則は日本全国どこでも通用する。外国でも通用する。特に欧米など、「わざわざ」と「さっそく」の文化そのものと言っていい。

やれクリスマスだ、やれ誕生日だと言ってはさっそくお祝いし、わざわざカードを書いてお客様を招待する。

恋人にはわざわざパールの指輪を贈る。そのかぎりでは、日本人より外国人のほうがもっと誠を大切にしていると言っていいかもしれない。

そうしてできた人脈が、富と財産と名誉と出世とこの世の成功というものをもたらすわけで、これは神霊世界と全く同じである。

誠の五段活用・3 何度も

五段活用の三番目は、「何度も」である。

この会社はすごく見込みがある、ぜひ落としたいと思ったら、九時始業のところをわざわざ九時前に行って、「この仕事、当社にお願いいたします。何とぞお願いいたします」と、さっそく一番乗りで営業をかけるのが、仕事を取る一番のポイントである。そうすれば先方も、「おお、一番乗りなんてずいぶん熱心だね」と、誠意を感じてくれるはずだ。

しかし、一回ぽっきりでそのあと来ないというのだったらどうだろう。

「本当に仕事が欲しいのかなあ、あいつは」と思われるのがオチだろう。神社参拝も同じで、「神様、命をかけてやって参りました。わざわざブラジルから、わざわざ飛行機に乗って二十七時間かけてやって参りました。ですからお願いを聞いてください」と一回お祈りして、そのあと来なかったら、「本当に命がけなのかなあ、あいつは」と、神様だって思うはずだ。

一回ぽっきりの人と毎月一日になると必ず参詣に来る人と、どちらに誠意を感じるか。当然、何度も何度も来る人に誠意を感じるに決まっている。

じつはこれが、お百度参りなのである。一回パーンと手を叩いて、「神様お願いし「ます」と祈るのと、何度も何度も祈願するのでは、ご神霊の感応の仕方は全然違う。

百日間も神様のところに通えば、神様が感動しないわけがない。

例えば親鸞上人と言えば浄土真宗を開いた人として有名だが、彼も百日間のお籠もりをしている。

幼くして出家して天台宗の僧となった親鸞は、以後二十年間にわたって比叡山で修行の日々を送っていた。

だが、次第に仏道修行に行き詰まりを感じるようになる。

つまり、煩悩を断つことができなかったのだ。自ら進むべき道を見失った親鸞はついに比叡山を下り、日本仏教の祖、聖徳太子に自らの進むべき道を教示してもらうべく、太子ゆかりの京都・六角堂に百日の参籠、すなわちお籠もりをする。

「わが道を知らしめたまえ、わが道を知らしめたまえ。教えたまえ、教えたまえ」と祈ったのである。

だが、祈れども祈れども何の功徳も指針もなく、百日の参籠もすべて徒労に帰すかと思われた。

ところが、天は親鸞を見捨てなかった。そろそろ百日の願も満ちようかという九十五日目の早暁、救世観音に化身した聖徳太子の霊が現れて、

「法然のところへ行くように」と、教えられ、法然の門に入ったのである。

百日間、願を込めて毎日毎日、何度も何度も「わが道を知らしめたまえ、わが道を知らしめたまえ」と祈った結果、ぎりぎりのところで導かれ、法然のところへ行って修行し、のちに浄土真宗を開くまでになったのである。

ちなみに、親鸞上人はその後、高野山でまたもや百日のお籠もりをして弘法大師の霊に会い、そしてまた導かれている。

このようにお百度というのは、百日間お祈りするということで己の真心を神仏に示し、それによって御神霊に導いていただこうというものであって、本当の功徳やお蔭をいただきたいなら、それくらいの誠を尽くさなければならない。にもかかわらず、ちょっとお蔭が出ないと、「神社に詣でて祈願したのに、全然お蔭が出ません。神様って本当にいるんでしょうかねえ」なんていうことを口にする。

「本当に神社に参拝したんですか」

「ええ、参拝しましたよ。一回だけ」

これで誠があると言えるだろうか。神様も、「あなたは誠が足りない。修業が足りない」とおっしゃっているはずだ。

それでも、「わざわざ北海道から来て、往復四万円以上の旅費をかけてご祈願したんですよ。それなのに結果が出ないというのはどういうことなんですか」とふんぞり返っている。

で、当人はというと、しょっちゅう外国旅行を楽しんでいる。だったら北海道から東京に来るなんてどうってことないはずだが、お蔭が出ないことが不満でならない。

わざわざ北海道からご祈願にやってきたとは言うけれど、世の中には毎月毎月、何度も何度もご祈願している人はいっぱいいる。

ものすごく因縁が深くて、改善するのはほぼ不可能と思えるような内容のご祈願なのだが、二年三年続けて、ついに改善された経験を持っている人はたくさんいる。

何度も何度もやっている人は必ず功徳がいただけるのだ。

何度もやっていないからお蔭がないし、功徳が感じられないのである。一回ぽっきり、せいぜいやって三回か四回。その程度で開運できっこない。

「ワールドメイトの会員になってもなかなか運が良くなりません。定例講演神業で一回ご祈願しました。会員になってもう三ヶ月たちます」と言ったりする人が多いのだが、三ヵ月で人生が変わるわけがないだろう。

悪因縁を改善し、運を開くには、わざわざ、さっそくのほかに何度もという誠意。これも必要なのだ。何度もできるというバックグラウンドには誠がある。

月参りができるのは神様に対する誠があるからで、誠がなければ何度もできない。

性格が粘着質でしつこいだけの人もいるけれど、それでも粘着質と淡白質ではどちらが功徳が大きいかというと、圧倒的に粘着質が勝つ。

織田信長だって性格が淡白だったら天下統一できていなかったに違いないし、豊臣秀吉にしても淡白な性格だったら、同様にできなかっただろう。

何度も何度もトライするから壁を越えられるのであって、神仏を動かすのも人を動かすのも、何度も何度もやるから。この何度も何度もが重要なのである。

例えば、交通事故の被害者になった場合、加害者がさっそく、わざわざ、何度も病院に見舞いに来てくれたら思わず、「わざわざ何度も何度も病院に見舞いに来てくださって、本当にありがとうございます」と、感謝の言葉を口にするだろう。

そして示談するときにも、「まあ、私も不注意でしたから」と、素直に自分の過失分を認め、ある程度の補償を受けたらそれ以上要求しないはずだ。

車にぶつけられてあちこち傷つけられれば、誰だって腹が立つけれど、この三段階の誠意を示されれば納得せざるを得ないだろう。

それに対して、一回ちょっと見舞いに来ただけで、その後は全然放ったらかし。うんともすんとも言ってこない。

これでは被害者が腹を立てて当然。誠意が感じられないと言って、少しでも多くふんだくってやろうと思っても不思議ではない。

そんなことになるのが嫌だから、交通事故の加害者になった人の多くが、何度も何度もお見舞いに行って、お詫びの言葉を述べるわけだ。

心の中で申しわけないと思っているだけでは相手に通じない。本当に申しわけないと思っているなら、必ず形になって表れるはず。それが「わざわざ」「さっそく」「何度も」なのである。

これは神様の世界でも仏様の世界でも同じで、この三つの誠があればほとんど十分なのだが、次に説明する四番目の「手みやげ持参で」というのがあればなおいい。

誠の五段活用・4 手みやげ持参で

この「手みやげ持参で」というのは文字どおり、何か品物を持って行くこと。知人の家を訪問するとき、手みやげ持参で行ったらどうだろう。より一層、誠が輝くのではないだろうか。

「わざわざ遠路のところをさっそく来ていただいて、こんなに何度も何度もお忙しいところを来ていただいて、そのうえ、こんな結構なものまでいただいて。いいんですのにこんなことしていただかなくて」と、相手の感謝もより深いものになるはずだ。

何事によらず、心に誠があったら必ず形に出てくる。

神社にお参りするとき、チャリーンとお賽銭を投げ込むか、お玉串という形で威儀を正してやるかは別として、誰しもいくばくかのお金を捧げるが、あれは心の誠をお金という形で表すものである。

つまり、あのお玉串は手みやげでもあるわけだ。ではなぜ、お玉串をする習慣があるのか。

それは、惟神の道が顕幽一致の斎(神事、祭りの意味)であるからだ。

それに対して、キリスト教のプロテスタントなどでは、「天にましますわれらの父よ、願わくば御名の尊ばれんことを」というようなことを祈っている。

これを幽の斎、幽斎という。目に見えざる自分の真心を神様に捧げる。これが幽斎だ。

カトリックではどうかというと、キャンドルを灯して厳かにお祭りをする。これを顕の斎、「顕斎」という。

形に顕わしてお祭りするわけだ。

さて、幽斎と顕斎、いずれが誠を得ているのか。これを考えてみたいと思うが、本当に心の中でありがたいと思ったら、「ありがとう」という言葉とともに何らかの形で表すのが普通ではないだろうか。

貧しかったら貧しいなりに、「これしかありませんけど、感謝の印でございます」と、何かしら形に表すはずだ。神道のお祭りでは、

「海川山野の種々ものを横山の如く置きたらわして、神の御前に誠結びに結ばれし人の誠捧げる」と、祝詞を上げて神饌物を捧げる。

海、川、山の産物、野原の産物、何でもいい。お金がなければ海の幸、例えばジャコだっていいし、ワカメでもいい。

野原の産物といったら大根。大根も買えなかったら大根の葉っぱ。それからニンジン。

川の産物ならフナかコイ。そういう海の物、川の物、山の物、野原の物を、

「これだけしかありませんけれども、どうぞお納めください」と言って捧げる。

それが精一杯だけれども、捧げるときには「海川山野の種々ものを横山の如く」と言上する。

すなわち、横たえて山積みしたような気持ちで捧げるわけで、すると霊界では本当に山になるというのが神道の考え方なのだ。

そのように、本当に心が極まれば必ず形になって表れる。幽が極まれば顕、つまり形になって出てくるのが本当で、形に出ない幽、形に出ない誠というのはたいしたことがない。

ところがキリスト教の人たちは、「そんなに神様のことを思っているなら、いちいちそんなお礼とかお玉串とかしなくったって、神様だったら理解してくれるはずだ」と、神道のあり方を批判する。気持ちさえあれば形なんかどうでもいい、というわけだ。

しかし、信徒から収入の一〇パーセントを消費税みたいに取っているのは、当のキリスト教ではないのか。

バイブルに、収入の一〇パーセントを神様に納めよとちゃんと書いてあるから、クリスチャン、問答無用で収入の一〇パーセントを教会に納めている。

手取りの一〇パーセントではない。額面の一〇パーセントを納めているのだ。

月収三十万円の人は三万円、百万円の人は十万円、一億円の人は一千万円毎月教会に寄付することを義務づけられているのだから、クリスチャンの人、大変だと思う。

もっとも、だからこそ世界中に教会が建つわけだし、それに何より、当のクリスチャンもそんなものだと思っているらしい。

『古事記』『日本書紀』にも書いてあればよかったかもしれない。そうすれば、神道というものはそんなものだと、誰もが思うようになったのではないだろうか。

いまさら言ってもしようがないのだが………。

いずれにしても、目に見えない世界で誠が極まれば、必ず形になって出てくる。

だから、大根の葉っぱ一枚でもニンジンでもいいから、形に表すということが本当なのである。

今度は逆に顕、形に出たものに心を込めるのにはどんなものがあるかというと、例え結婚式がそれである。

「私はステテコをはくと気持ちが引き締まるんですよ。特に腹巻をするとキュッと引き締まるんですよね」

と、ステテコ姿で、赤字で「祝」と大きく染め抜いた腹巻を巻いて、「いやあ、おめでとう、おめでとう。実にめでたい。この腹巻、特別なお祝いのときしか巻かないんですよ」なんてやったら、せっかくの厳粛な気持ちがいっぺんに崩れてしまう。

やはり、結婚式などの厳粛な場では、フォーマルスーツもしくは紋付き袴で装うべきで、そういう出で立ちで臨めば自然と気持ちがグッと引き締まるというものである。

それに似た例として「徒然草」にこういうことが書いてある。

「仏壇の前に木魚が置いてある。ほかに何もない。仏様と木魚しかない部屋の中に一人座っていたら、思わずポクポクと叩いて厳かにお経を上げたくなる」

それが普通の人の感性であって、仏様の前で木魚をドラム代わりに叩きながら、宇多田ヒカルの歌だとかSMAPの歌だとかを歌いながら踊り狂う人がいるだろうか。

やはり、心静かに手を合わせるか、『観音経』を知っていたら「南無観世音菩薩」と、南無阿弥陀仏を知っていたら「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と木魚に合わせてお経を上げたくなるのが、自然な人間の情感というものだろう。

目の前にギターが一本置いてある。ほかに何もない。ギターしかない。そうしたら思わず触ってみて弾いてみたくなるではないか。ギターで膝を叩き割ったりするわけがなく、誰もがボローンと弾いてみたくなる。

ボローンと弾いたら、今度はラララー、ルルルーと思わず口ずさむ。

そのように、形というものは人間の情感を引っ張り出すものなんだと『徒然草』の作者、兼好法師は言っているわけだ。

今もあるのかどうか分からないが、昔、東京の浅草に行くと、「心は形を求め、形は「心に添う」だったか「心に従う」だったか、そんな仏壇屋さんの宣伝看板があった。

ほれぼれとするほどの名文句である。そうやって仏壇を売ろうというわけなのだろうが、これほどまでに心と形、顕との関係の核心を突いた名文句はないと思う。

心は形を求める、すなわち、心が本当に素晴らしければ必ず形に出てくる。形は心に添う、すなわち、形を大切にすると気持ちが入ってくる。

いずれかが欠けてもダメ。両方そろってはじめて誠が入る。これが顕幽一致というものなのである。

では、どちらが主かというと、幽が主。気持ちが主である。幽が伴わない顕は虚偽、虚礼儀式張っているだけ。

中元、歳暮といっても、本当に心のこもった顕幽一致の歳暮は人に喜びを与え、人間関係を円滑にするが、心のこもっていない中元、歳暮は義理、虚礼でしかない。

たとえ心が伴わなくても、形だけでも整えたほうがよりベターと言えなくもないが、やはり幽を主に置いて形を添える。

これが日本の神社のお玉串であり、顕一致の斎である。そして、これが日本の生活習慣の中に定着しているのである。

そういう日本のことを批判して、外国人は賄賂社会だと言ったりしているが、そうではない。心に誠があれば形に表したくなるのが日本人のごく自然な情感であって、賄賂だ何だという次元でしかとらえられない外国人とは本質的に違うのだ。

まあ、外国人が何と批判しようが構わない。問題はいかに神仏に動いていただくか、である。それには、わざわざ、さっそく、何度もに加えて、手みやげ持参で行く。誠の心をお玉串に託して行く。そうすると御神霊が感応して、大いなる功徳やお蔭をくださる。

神主のいる神社はお祓いをしているし、いつもきれいに清掃されているから神気が充実する。しかし、それには人件費が要る。

神主さんだって霞を食って生きていくわけにはいかないのだから、当然、生活費が要るわけだ。

独身なら別だが、奥さんや子どもをっていかなくてはならない神主さんだったら、最低でも毎月三十万円以上なければ生活できない。

それから、お祭りのお知らせを出すにしても通信費が要る。案内状の印刷を業者に発注する、紙代と印刷代がかかる。

そして、印刷が上がったら上がったで宛名書きをする人の人件費が要る。さらには封入する手間賃も要る。

切手代も必要だ。神社をすがすがしく保っていくには、人件費、印刷費、通信費が要るわけだ。

お寺さんのようにお葬式や法事でガバッとお金が入ってくるというのなら神社も苦労しないだろうが、神社にはそういう”打ち出の小槌”はない。お玉串に頼るしかないのである。

このお玉串がなければ神社はすぐさま荒廃してしまうのだ。

だから私なんか、神社でご祈願をするときには百万円単位でお玉串をすることにしている。

もちろん、しょっちゅうそんな大金を捧げていたらすぐに破産してしまうからできないが、ここ一番というご祈願をするときには、百万円単位でお玉串をすることに決めている。

それは神主に捧げるのではない。神社の建物に奉納するのでもない。御神霊がすがすがしく導いてくださり、そのおかげでさまざまな功徳をいただき、教えてもいただける。

その感謝のお礼として捧げるのだ。

「ますますお社がすがすがしくなって、神気充実して、多くの方が参詣してくださいますように。御神霊の功徳が弥広に豊かになりますように」と祈りながらお玉串をするのである。

そうやっていつもいつでも、わざわざ、さっそく、何度も、手みやげ持参で、神様に向かって捨て身でバーンとやる。

すると心からの誠が極まるから、結果としてお蔭が出てくる。功徳がいただける。その体験がもう何千回にもなっているから、一点の疑念もないし、どこの神社の神様も大事にしてくれている。

そこまで思いきってできるのは、確かな御神霊の働きを体験しているからである。

玉申したときとしないとき、チャリーンとお賽銭を投げ入れてパンパンと柏手を打ったとと、正式参拝をして真心込めて百万円単位のお玉串をしたときとでは、御神霊の功徳がどう違うのか。

皆さんも一度、体験されたらいいと思う。

神様も賄賂に弱いと考えたら、これは浅はかというものであって、神社を運営していくときの大変さに思いをいたさなければいけない。

水一杯飲むにも、電車に乗るにもお金が必要なこの世の中で、お金なしでどうやって生活していけるのか。

自らを潔癖と主張するのは勝手だが、必要以上にお金に対して汚らわしく言うのは、間違っている。かえってその人たちのほうが、お金に対する考え方が汚れている。

それはともかく、どこの神社へ行っても私は、捨て身になってバーンとお玉串をすることにしている。

自分がしていなければ人にせよとは言えないし、人に勧めることもできない。自分で体験しているからこそ言えるのだが、神様に動いていただこうと思うなら手みやげ持参。

これを忘れてはならない。手みやげ持参でというのは、神様を動かす法則なのだ。お金がなかったら、海、川、山、野原の産物など、別の形で誠を表せばそれでいい。

この手みやげ持参というのも、神霊を動かす原則ではあるのだが、基本はやはり、「わざわざ」の誠にある。

だから、何よりもまず「わざわざ」をマスターすること。これが第一の条件。これさえマスターすれば、手みやげ持参なんて誰でも自然にできるようになる。

だいたい、仲人をお願いするとき、借金をするとき、無理なお願いをするとき、常識のある人だったら必ず手みやげ持参で訪問するはずである。

プロポーズするときも同じ。

一度もプレゼントをもらったことがなく、一度も食事に連れていってもらったこともない人から「結婚してください」とプロポーズされるのと、わざわざ、さっそく、何度もプロポーズして、「これ、ぼくの気持ちです。どうぞ受け取ってください」とプレゼントを贈ってくれる人と、どちらに誠意を感じるだろうか。

どちらの人と生涯を共にしようと思うだろうか。

誰もが口では立派なことを言う。しかし、本当に誠意があったら何らかの形になって表れる。これは古今東西変わらぬ原則である。

目上の方にものを頼むとき、手みやげを持参しないで行く人がいるだろうか。手みやげを持たないで仲人を頼んだりお金を借りたりして、協力してくれるだろうか。

神様というのは少なくとも私たちよりも上魂であり、私たちにとって言わば目上であるから、「こら神様、わしの言うことを聞かなかったらどうなるか分かっているだろうな。おい、分かっとるのか」

なんて言ったら、命を奪われてしまう。まあ、そんなことをなさるような神様ではないが、人間にとって目上の存在なのだから、神霊から功徳をいただくには誠意、誠を形に表す必要があるのは言うまでもない。

そういう意味で、手みやげ持参でというのは誠を表す重要な要素なのだが、わざわざ、さっそく、何度もがなくて、手みやげ持参だけで、「お願いいたします」と言うのではダメ。

手みやげだけでは誠とは言えない。やはり、わざわざ、さっそく、何度もができた上での手みやげ持参でなければ本当ではない。

では、わざわざ、さっそく、何度もができていて手みやげ持参がある人とない人とでは、どっちを大事にするか。どちらを本物だと感じるか。

当然、後者だろう。目上の人にものを頼むとき、あるいはいつもお世話になっている人には当然、気持ちを何らかの形で表すはず。

受け取るほうも、そうされることによって、「ああ、ありがとう」と素直に喜ぶ。神様も同じなのだ。

少なくとも神様をお祭りしている神社、形ある社を構えているところはお金が必要である。

お金がなければ神社を清潔に保てないし、神様に来ていただけない。だから、何でもいいから御饌御食物を神様に捧げることが重要なのだ。

「うちの畑でできた大根ですから」

「今日釣れた鯛です」

物というものはお金の置き換えだから、お金がないときには物でもいい。

とにかく、誠意があれば必ず形に出てくる。これが手みやげ持参。言われてみればごくごく当たり前のことであるのにお気づきになるはずだ。

誠の五段活用・5 礼儀正しい言葉で

最後の五番目は「礼儀正しい言葉で」である。

わざわざブラジルから、さっそく感謝にやってきて、何度も来て、手みやげ持参で訪てきても、「よっ、頼む、頼む、頼むヨーン。ブラジルから来たんだヨーン」

「よお、神様、分かっているんだろうな。頼むぜ、おい」などと、ものすごく下品な言葉で言ったらどうだろう。喜んで願いを聞いてやろうという気持ちになるだろうか。

「かけまくもかしこき大御神様の御前にて乞い願いたてまつる…………」と、祝詞をすがすがしく礼儀正しく奏上してから、「何とぞ、よろしくお願いします」と、恭しく言上申し上げる人と、どちらに誠意を感じるだろうか。

まあ、気持ちは分からないではないが、やはり言葉は大事にしなければいけない。というのも、言葉には霊が込められているからだ。

すなわち、日本の言葉とは言霊であり、言霊の力を活用すればより一層、神霊を動かすことができるのだ。真心のこもった言葉を神様に捧げると聞いてもらえるのである。

ただし、言葉だけでは誠ではない。発する言葉もものすごく美しく、気持ちがこもっている。しかし、神社にはめったに来ない。

玉串もチャリーンとしかしない。功徳があっても、二年ぐらいたってから、
「この間は誠に誠にありがとうございました。おかげをもちまして、難局を無事に越えることができました。

これもひとえに大神様のお導きのたまものでございます。重ねて第御礼申し上げます」

と感謝の参拝にやってくる。言葉はバカがつくほど丁寧ではあっても、二年もたってからではやはり誠とは言えない。

しかも、幾つも幾つも神社を巡って、二十社ぐらいお願いしているうちの一つであった。

また、「神様!何とぞお願いいたします」と熱心ではあるけれど、どれもこれも我欲の祈り。そういうのを評して誠があると言えるかどうか。神様が受け取ってくださるかどうか。

言葉だけでは神様、喜ばれないのである。言霊とは何かというと、誠がこもっている言葉、これが言霊である。

誠の情感と愛情。誠の気持ちがこれ以上ないというくらいに極まったときに発せられる言葉、それが言霊なのだ。

もちろん、その言霊には魂がこもっているから、御神霊も大いに発動され、不可能を可能にする大神力を発揮される。

「天地も動かすばかりの言の葉の誠の道を極めてしがな」というのが明治天皇様の御歌にある。

「極めてしがな」というのは「極めたいものだな」ということ。天地をも動かすばかりの誠の道。

それを極めたいというのが明治天皇様の修養の眼目だったわけだが、この御歌からもうかがえるように、誠を極めれば天地も動く。

不可能が可能になるし、不運を強運に変える。病気を治すこともできるし、行き詰まりを打開することもできる。無論、自力でやるのではない。神様がそのように導いてくださるのである。

それには、これまで述べてきた誠の五段活用の一、二、三、四がいつでもどこでもできるようになること。

加えて、言葉の表現力があればさらにいい。麗しい表現、美しい表現を自由自在にあやつれるようになれば、神力も倍増するだろう。

そのためにも、常日頃から言葉使いに気をつけ、最低でも正しい敬語の使い方ぐらいはマスターしたいもの。

理想を言えば、和歌をたしなみ、古から伝わる美しい日本語、すなわち古語が使えるようになりたいところだが、それがかなわぬとなれば、せめて粗野な言葉だけは使わないよう心がけたいものである。

ここまで述べてきた誠の五段活用がビシッとできていて、お蔭がないという人がもしいるとするならば、どんな人なのか、直接お会いしてこの目で確かめたいくらいだ。

世の中で立派な人だと言われている人を見れば分かる。みんながみんな、この五つがきちんとできているはずだ。

手紙を出したらすぐにパッと返事が返ってくる。中元、歳暮でも何でも、いただいたらきちんとお礼を持ってきて、恭しく感謝の言葉を述べる。しかも、気持ちがこもっている。

そういう人はどんなときでも、わざわざ、さっそく、何度も、手みやげ持参が自然にできていて、麗しくも美しい言葉をいつもきちんと使っている。

要するに、誠がいつも極まっているから、どんな立場に立っても周囲から高く評価されるのである。

至誠の人が上魂中の上魂

「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり」という言葉が『孟子」の中にある。

至誠、すなわち誠の至り。誠が極限まで極まる。

それだけの誠をもってしても動かなかったことはいまだかつてないのだ、必ず動くのだ、と孟子は言っているのである。

では、至誠の人とはどういう人か。これすなわち、誠の五段活用がいつもいつでもできている人のことである。

これが上魂中の上魂。逆に、誠の五段活用ができない順に中魂、下魂となっていって、人に対しても事柄に対しても面倒くさいの固まりで、わざわざそこまでやる必要なんかないよと言ってやらない人、無精な人は下魂中の下魂。

だから、世の中でもいつも下のほうにいる。

財産も名誉も運もなく、拘束されていて自分の自由になる時間もない。口をついて出てくるのはいつも不平と不満。

そういう人、皆さんの周りにもいるのではないだろうか。

五段活用ができている上魂の人は、それなりにお金もあるし、財運にも恵まれている。時間をつくりたいと思えば人が協力してくれるし、お蔭が出続けているから満足している。

不平不満なんかどこにもない。神仏に寄せる思いが強い分、いつも功徳がいただけるのである。

特別、信仰を持っているわけではないのにもともと運がいい人は、誠の五段活用がある程度できている人、天地の法則に合った生き方をしている人である。

そういう人が実在する神の働きを知ったら一層よくなるだろう。

ここまでの説明で、はっきりと理解していただけたのではないだろうか。なぜ功徳が足りなかったのか、なぜ一回お蔭が出ても、リピートがなかったのか、なぜ時々お蔭があったりなかったりしたのか。

その理由がお分かりいただけたはずだ。

自分のことを言うのは気が引けるが、私自身、神仏に祈願してお蔭が出ないということは一度もない。

「あれっ、今回はなかったな」なんてことは絶対にない。

それは、誠五段活用をきちんとわきまえているから。要するに神様に対する至誠を貫いているかだが、正直なことを言えば、昔はお蔭の出なかったことも一再ならずあった。

まだ若いころ、神霊世界の法則を知悉していないころは、お蔭が出たり出なかったりということを繰り返していたのである。実は、そこから私の神霊世界の探究が始まったのだ。

こんなに一生懸命祈っているのに、なぜ神仏は功徳をくださらないのか。逆に、あまり熱心に祈らなかったのに、なぜ神様は守護してくださったのか。

その理由はどこにあるのか。それを解明するため身をもって体験し、何度も何度も試行錯誤を繰り返しながら、最終的にたどり着いた結論が、誠の五段活用なのである。

本書をはじめとして私の著作はすべて、そういう体験を踏まえて書いたものである。理屈だけで書いているのではないし、いろいろな文献を分析整理して書いているのでもない。

すべては自らの修養の結果として出てきた言葉。それ以外の何ものでもない。

もちろん、私の修養が一〇〇パーセントであると言うつもりは微塵もないが、かぎりなく一〇〇パーセントに近づきたいという気持ちはつねに忘れないようにしているつもりである。

自分自身ができてもいないのに、こんな偉そうなことを言ったら、それは虚偽になる。

だから、神霊世界の真実をお伝えするには、身をもって体験するしかないのだが、正神界の神様はそれほど甘くはなく、いまなお、もう勘弁して欲しいというぐらいまで下稽古に次ぐ下稽古をさせられている。

「言うは易く行うは難し」という言葉があるが、全くそのとおり。

困難を乗り越えて実践するところに真実の世界があり、智恵の源泉もあるのだが、実践だ、実践だと言ったところで、法則性が分からなければ実践できないのもまた事実である。

しかし、すでに皆さんは誠の五段活用を知ったのだから、もはや実践あるのみ。

上魂をめざして、今日からさっそく第一歩を踏み出してみてはどうだろう。

いかがだろうか。誠の五段活用の説明を一、二、三、四、五と順に読んでみて、「なるほどなあ、今まで足りなかったなあ」という気持ちがしみじみと湧いてはこないだろうか。

どこか足りなかったことに気づいたのではないだろうか。五つのうち一つ二つはできていても、全部はできていなかったはず。だから、神仏に祈ってもお蔭が出なかったのである。

優先順位は一番、二番、三番という順になるので、一つに集約すると「わざわさ」。バラせば五つ。

とくに最後の五番目は、一、二、三、四の誠ができていてはじめて言霊の力になる。

これを忘れないようにしていただきたい。

誠ということがどういうことなのか、これでお分かりになったはず。だったらもはや実践しかない。

実践するための法則性と指針がいま、ビシッと立ったわけだ。

その人の足跡を見たら御魂の良し悪しが分かる

誠の五段活用を死ぬまで実践できたら、上魂の御魂として神霊界に登録され、死んでから上魂の世界に行く。

くどいようだが、要は実践なのだ。どうのこうのと理屈をこねくりまわしたところで、実行できなければ上魂ではない。実行できた人が上魂なのだ。

私の師匠である植松先生も、御魂の良し悪しというものをどこで判断なさるかというと、その人が今日まで送ってきた人生の足跡。

すなわち実践してきた内容をご覧になっ御魂の良し悪しを判断されるのである。

その人の口から出てくる言葉を聞いただけでは、御魂の良し悪しはなかなか分からない。誰しも口ではいろいろなことを言うし、麗しくも美しい言葉を吐くし、ときには神と見まごうほど立派なことを語る。

そのときは当人も、心からそう思っているのかもしれないけれど、言葉だけでは絶対に分からない。

ところが、その人が今日まで送ってきた足跡を見たら、御魂の良し悪しが一目瞭然。一切のごまかしが通用しなくなる。

挫折をバネにしてバーンと乗り越えたか、挫折のままで終わってしまったのか、あるいは後ろ足で砂をかけるようなことをしてきたか、はたまた人を蹴落とすようなことをしてきたか、すべてが魂の中に焼き付けられて残っているからである。

その人の足跡を見て、何かをやり遂げた体験、やりおおせた体験、貫いた体験を持っている人は荒第魂のしっかりした人。

とりわけ、いつも誠でやり貫いてきたという痕跡を残した人は素晴らしい御魂と判断していい。

反対に、いまどんなに純粋そうに見えても、理想を追い求めていようとも、足跡がいい加減だったら、その足跡だけの御魂ということになる。

ごくごく簡単に御魂の良し悪しを判断しようと思うなら、その人が十六、七歳のころ何をやっていたかを見ればだいたいの察しはつく。

そのころ人の御魂、本当の人格というものが顕現しはじめるからである。

しかし、すでに過ぎ去った遠い昔を振り返っても詮ないこと。

あまりいい思い出がない人は、もう昔のことは振り返らないようにして、そういう自分をいかに克服するか。そこに努力を注ぐことが一層大事である。

それから、男性にかぎって言えば、三十歳くらいになると前世の自分、前世の御魂が顕現する。

したがって、三十歳になるまでどんな人生の足跡を残してきたのかを見れば、だいたい御魂の傾向が分かるわけで、三十歳にかぎりなく近い人は慌てて、急いでこの足跡をつくらなければいけない。

素晴らしいことを実行し、素晴らしい体験をし、素晴らしい足跡を残すしかない。

いい御魂の人間かどうかはそこで見分けるわけだから、「われこそはメシアである」とか「われこそ救世主なり」とか「われこそは最高の御魂である」とか、どんなに立派なことを言っていても、その人の送ってきた人生の足跡を見たら本当の正神界の御魂かどうか分かる。

例えば、運が良くなるとか何とか、いろいろ本を書いたり運勢判断をしたりしていても、足跡、運勢が悪くて易者にしかなれなかったという人がたくさんいる。

そんなに運が良くなると言うのだったら、自分がそれを実行して成功して見せたらいいではないか。意地悪く言うつもりはないが、そういう人を見ていると、ついついそう思ってしまう。

ところが世の中、種々さまざまな人がいて、わざわざそういう易者さんに自分の人生を占ってもらう人が少なくない。

事業に失敗して、そして運勢というものに目覚めてってもらうケースが多いようだが、そんな易者に占ってもらうくらいだから、占ってもらう人も同じように運が悪い。

運が悪くなるという波長をお互いに持っていて、それが引き合うのだ。

同じ易者さんでも、それなりに一流にのし上がっている人もいる。なぜ一流になれるのか。それは、一流になるやり方というのを体得しているからだ。

二流のままで終わってしまう易者さんは、そこが分かっていない。理屈では分かっているのかもしれないが、体で分かっていない。つまり、体験、体得していないのだ。

だから足跡、貫いたという足跡を残すことが大切なのだ。どんな理由、言い分があろうと、途中で挫折した人間、投げ出した人間は所詮、それだけの御魂なのである。

本人に言わせれば、組織の運営方法が気に食わなかったからとか、周りの人間のレベルが低すぎて自分とは合わなかったからとか、いろいろ理由はあるだろう。

しかし、個々別々の理由はあろうとも、足跡としてやめてしまった人間、ダメだった人間はダメな御魂。

逆に、いろいろと面白くないことがあっても、納得できないことがあっても、最後までやり遂げて貫いた人は良き御魂なのである。

だから、辛抱しなければいけない。自分の足跡、そして只今只今の己を立派にすべく、一度立てた志を貫き通さなければいけない。

人のためにやるのではない。自分自身の神試しだからやるのだ。

お分かりいただけただろうか。上魂の御魂として神界に行くのか、中魂の御魂として霊界に行くのか、下魂の御魂として地獄、煉獄に行くのか。

それは、一生涯にわたってどういう足跡を残してきたかによって決まるのである。境地によって決まるのではないのだ。なぜなら、境地というのは霊界に対応するものだからである。

したがって、どんなに高い境地、素晴らしい境地に到達しようとも、神界には入れない。誠を極め、己を磨きに磨いて上魂中の上魂となった人、そういう足跡を残した人でなければ神界には入れないのだ。

どんなに悟っていても、それは仏様の世界。神界すなわち御魂の世界は、霊界すなわち心の世界、悟りの世界、仏様の世界のもう一ランク上にある。

そして、神界まで行くと現実界に返ってくるのである。

だからこそ、現実のこの世の中でどんな人生の足跡を残すのか、それがきわめて重要な意味を持ってくるのだ。菅原道真公が神人と言われるのは、誠を貫いたからである。

神様のようなあれだけの才能を発揮し、生涯を貫いた。楠木正成も誠を貫いた。誠を行いで表しつづけ、一生涯を締めくくった人はみんな最高の御魂となって神界で輝いている。

誠の生きざまを生涯貫き通した人であればあるほど上魂になっている。諸葛孔明も貫いているから最高のと第ころに行っている。

己と神との勝負、それしかない

くどいようだが、足跡しかないのである。誠という足跡を積んでいくことによって上魂の御魂となり、神様の世界に帰る。それしかない。

これは人のためにやるのではない。世間のためでもなければ、自分の所属する組織のためでもない。

神社のためでもなけれ神主のためでもない。素の大神様と己の魂の勝負なのである。

どんなにやりにくい人がいても、どんなに気に入らないやり方をされても、己がどういう足跡を残してきたのかを素の大神様が見ているわけだから、すべては素の大神様と己の御魂との勝負、神試しなのだ。

どんなことがあっても誠を貫くのかどうか。それを試すために、お金の問題だとか、人間関係だとか、さまざまな問題を与えるのである。

そういう揺さぶりがなければ誰でも足跡を残せるのだが、人から中傷されたり誤解されたり、貧しかったりあるいは豊かすぎたり、それぞれに揺さぶりがあるわけだ。

そういう中でどれだけ誠を貫いたのか、足跡を残してきたのか。これが今生の神試しである。

だから、どんな神試しがあっても、神明に恥じないような行い、神明に恥じなかったという足跡を自分なりに残せばいいのであって、どんな理由があろうと、途中でダメになる人間は、そこがどこか狂っているのである。

そこを狂わせることなく、誠を死ぬまでますます立派に輝かせ、いかに貫けるかというのが私の修業である。

すなわち、誠をきわめる修業であって、人が問題ではない。組織が問題ではない。神様と己との勝負なのだ。そう思っているから、どこまでも続けられるわけである。

人のためにしていると思うと、その人が思うように動いてくれなかったり、逆にひどい仕打ちをされたりすると、腹が立ってバカらしくなってくる。

組織のためと思ってやっていても、後を継いだ人がロクな人でなければすぐに崩壊して、またまた虚しくなる。

組織がバラバラになったら何のために努力してきたんだと、虚しさばかりに襲われる。そんなことのために生きていたら平常心を失って、足跡が残せなくなってしまう。

だから、神様と己の御魂、それしか見ないのである。

すべての環境は魂を錬磨するための媒介

それは私だけに限った話ではない。与えられるすべての環境は、神様と己の御魂の誠の神試し。真実はそこにしかないのである。

そうやって神試しを乗り越え乗り越えしてきた足跡が永遠に残り、やがて金運、財運といった有形の宝となって現れてくるのである。

ところが、そこまでの咀嚼力がないものだから、たいしたことでないのにブッブッ文句を言ってみたり、すねてみたり怒ってみたり、ああじゃこうじゃと批判してみたりするわけだ。

それはもう、あまりに咀嚼力が浅すぎる。咀嚼力があれば、足跡も残せるし、有形の宝もいただけるのだ。

だから、功徳がない、お蔭が出ないなんて、本来あり得ない話なのだ。

なぜ功徳がないんだろう、なぜ運が悪いんだろうと悩んでいる人は多いが、答えは簡単。咀嚼力がないからだ。誠がどういうことか分からないからである。

誠ということが分かって、誠をいつも極めていたら、神様は絶対に裏切らない。全部、受け取ってくださって、必ず成果として出してくださる。

私はもう、一〇〇パーセントどころか一億パーセント確信している。それほど体験させられているのだ。

そういうような誠を極めた体験と足跡。これこそが神霊界の神様が受けてくださるものであって、誠という抽象的な言葉を受けてくださるわけではない。

誠が極まった人こそが上魂となり、神人合一されて、かぎりなく神に近づいていく。

そうなるためにも、この章で述べた誠の五段活用をマスターし、あらゆるところで活用したいものである。