神仏のことがわかる本(Vol.7)

【第六章】不動なる信仰心を確立する法

神業を続けていくには

「神業」とは御魂向上と社会に貢献する行為のすべてであり、神社に詣でてお祈りしたり、神様の勉強をすることも含むが、仕事や寝食など日常生活も、神様に仕え奉る気持ちで行うかぎり、神業である。

では、この神業とは、半年だけ頑張ったら後はしなくていいというものだろうか。いや、そういうものではない。

だったら五年やればいいのか、十年やればいいのか。やはその程度で終わりというものではない。

神業とは、十年、二十年、三十年と、肉体のあるかぎり続いていくものなのである。

上には上のレベルがあり、悟りの向こうにさらなる悟りがある。どこまでも深いし、どこまでも高い。そして、どこまでも別の角度がある。

永遠の道なるがゆえに命をかけこの道を行く値うちがあるのだ。だから、神業とは本来、金運を良くするためだとか、健康になるためにするものではない。

人間として生まれてきたかぎりは当然のこととして、死ぬまで続けていく性格のものなのだが、もちろん、そうやって最期の最期まで神業を続けていけば運も良くなるし、先祖代々の因縁も改善される。

一〇〇パーセントの解消とはいかないまでも、かなり改善される。

そうやって、生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、少しずつ少しずつ神に近づいていくのが人間の御魂というものなのである。

だから、十年やったからおしまい、二十年やったからこれでいい、というものではないのだ。

死ぬまで、いや、死んでもなお続けるのが神業なのだ。では、死んだあとのことは別として、死ぬまで神業を続けていくためにはどうしたらいいのだろうか。

死ぬまで続けていくためにはどうしたらいいのかというと、間なく断なく休まず続けて途中で棒に振らないことである。

棒に振る大きな原因が、同じく学んでいる人との人間関係であったり、環境や時間が取れなくて・・・・・・とかさまざまであろう。

そして現実面ばかりではなく、もうひとつ別の側面で神業が進まなくなってしまう場合がある。

十年二十年と続けていけば、調子がいい時も悪い時もあるだろう。しかし、それはある法則に基づいているのだ。

それを知らないと、そこでまた神業が行き詰まってしまうことになる。ここでは修業の過程で神様や守護霊との関係、あるいは自分の業や因縁と運気がどのように変化していくかということを中心に説明していこう。

第一の壁、現世利益が出なくなるとき

神業を始めると、身の周りで様々な変化が起きてくることにまず驚かされる。家族関係が良くなったり、職場の人間関係が良くなったりする。

あるいは金運がついて金回りが良くなったり、テストでヤマカンが当たって急に成績が上がったりと、端的に言えば運が開けてくるのだ。

なぜそういうことが起きるのかというと、「よくぞ、神業を始める気になったな。頑張れよ」と、神様が励ましてくださっているからだ。

実在の神というものをある程度掌握し、神業をしていくことの喜びが感じられるようになる。それに応える形で、神様が応援してくださるわけだ。

それがはっきりと現世の利益として示されるから、いろいろと不思議な現象が起きてくるのである。要するにお蔭が出るわけだ。

これが第一段階である。

ところが、そうして喜んで神業を続けていくと、ある段階からパタリと現世利益が出なくなってしまう。そういう時期が誰にも必ず訪れる。

それどころか、人によっては身内が病気になったり事故に遭ったりと、何か分からないけど身の周りで嫌な事、悪い事ばかり起き始める。これが第二段階である。

この時に神様の存在に疑問を抱いたり、信仰に疑問を持ったりして、嫌になってご神業をやめてしまう人もいる。

しかし、それでやめてしまうようではあまりにも咀嚼のレベルが低すぎる。実は、これは、神様がその人のためを思って大きな愛を下さっているのである。ここが重要なところなのだ。

私たちの魂というのはこの世かぎりの存在ではなく、生まれ変わり死に変わり、すなわち輪廻転生を幾度となく繰り返している。

その繰り返しの中で人は、善行を行うこともあれば悪行を行うこともある。それは現世には記憶として持ち越してはこないが、私たちの魂にそのすべてが刻まれている。これが人間が生まれ持った業、カルマというものである。

一方、自分が生まれた家にも先祖代々積み上げてきた業というものがある。

その家代々の業と自分が前世から持ち越してきた業がどこかで引き合うから、その家に生まれてくるわけだが、家代々伝わる業を引き受けるのもまた、自分自身の務めである。

つまり、自分が前世に犯してきた業と、先祖が代々積み上げてきた家の業。この二つの業を背負いながら生まれ出てきて、生涯かけて解消していくのが、私たちの宿命なのである。

善因善果・悪因悪果と言うが、生涯にわたって苦しまなければならない量や種類、生涯にわたって味わえる喜び、楽しみの量や種類も、あらかじめ天地の法則=因果応報の法則によって決められている。

いくら信仰を深めて、神業を続けても、今世、あがなわなければならない業がゼロになるということはない。

なぜなら、この因果を乗り越えていくプロセスこそが御魂の成長の糧であり、悪い業を解消して徳を積んでいくことが、その人のこれからの人生を決定すると同時に、来世に向けての種まきでもあるからだ。

徳を積むということについては後ほど詳しく説明するが、簡単に言えば、「人のためになる善い行いをする」ことである。

前世に積んだ徳は、やはり魂に刻みこまれ、今世の善果となっているのである。

誰でも徳分と悪業を持って生まれてくる。その業を越えて、己の魂を錬磨していくことが、今生の修業のテーマである。

そして、徳分を通していっそう才能を開花して、世に功を立てていくことが、人間が生まれてきた本義なのである。

「不昧因果」をわきまえよ

では、神業を続けていっても何もいいことはないのかというと、そんなことはない。

例えば、今世あがなわなければならない業が五十あるとすると、神様は神業を続けている姿勢や徳分を養成しているのをご覧になって、それを四十とか、三十あるいは十五くらいに縮小してくださるのだ。

そして、放っておけば晩年になって出てくるような悪因縁を、なるべく早いうち、若い間に決済してくださり、危なくなったときにはパッと助けてくださる。

つまり、業をなるべく早く軽く解消できるように動いてくださるのである。

神業がある程度進んでいくと、現世の利益が出なくなるのは、この段階に入っていくからなのだ。

だから、人によっては財布を落としたり、寸借詐欺にあったりする場合もあるだろうが、これは将来仕事を始めた時に倒産するとか、親戚縁者に金をもぎとられる大難を、小難に変えて早めに解消できるようにしてくださっているのである。

あるいは、恋人に振られたりするかもしれないが、その人と三年五年と付き合って結婚寸前になって壊れるという大打撃を軽減して、もっとふさわしい異性と出会うチャンスを与えてくださったのだ。

肉体を苦しめて死ぬような業を持っている人、ガンで何年も苦しんで死ぬという運命の人は、例えば、虫垂炎で一ヶ月入院することに変えてもらえる。

早死にしなければならない運命の人も、一時の病気や怪我で、死ぬことを免れるようにしてくださっているのである。

禅の用語に「不昧因果」という言葉がある。

読み下せば「因果を昧まさず」となるが、悟りを開いた人間というのは、自分の因縁因果に心を曇らせることはなく、揺るぎない境地を保つことができる、というのがこの言葉の意味である。

もちろん人間は、なかなかそんな境地まで到達できるものではない。何か不幸に見舞われれば、「どうして自分だけこんな辛い思いをしなければいけないの」と愚痴の一つも言ってみたくなるし、努力が報われなければ、「神も仏もあるものか」という気分になる。

しかし、因果というものに関しては、私達人間は弁明のしようがないのである。因果の糸は自分自身が紡いだものだし、先祖が紡いだものなのだから、どこかで決済しなければならない。

それをしっかりわきまえ、覚悟を定めるのが、「不昧因果」の境地にいたる第一歩である。

現世利益が途絶えて、身の周りに悪いことが起き始めたとき、「神様が嫌いになった」「神様が信じられなくなった」と言って神業をやめてしまったりするというのは、結局、神様を信仰しているのではなく、現世利益を信仰していたということ。

つまり、お蔭信仰のレベルにほかならない。

例えば、現世利益が途絶えたとき、「不味因果」をわきまえていれば、「私の業と先祖代々の因縁を神様が大難を小難にまつり変えてくださったのだ。いよい私の信仰も一歩深まってきたんだなあ。神様、ありがとうございました」と、感謝の心で乗り越えることができるはずである。

そうやって乗り越えたときから、本当の意味での信仰が始まるのである。

お蔭信仰から真実の信仰へ

ということで、神業を始めてしばらく経つと、前世の業、家代々の業というものが縮小された形でぼちぼちと出てくる。

「守護霊早め交替祈祷会を受けたら、その後女の子に振られてしまいました」と言って泣きついてくる人がいる。

そんなことまで知るか、と言いたくなるが、守護霊様は、そのほうが本人にとってプラスになると思ったのだろう。たとえプラスにならなくてもいい、マイナスになってもいいからその人と結婚したかった、という気持ちも分からないでもない。

しかし、そのレベルで止まってしまっては神業は進まないのだ。

一生懸命信仰をしていけば、現世利益の次の段階として、業をあがなう苦しみを通して、本当の信仰を持っているのか、お蔭信仰で終わってしまうのかという神試しが待っている。

ここが大きなターニングポイントなのだ。

「神様、事故に遭いましたけれども、骨折だけで助かって、ありがとうございます。

本来なら、命がなくなったかもしれないところを、大難を小難にまつり変えてくださったんですね。本当にありがとうございます」

「好きな人と別れることになってしまいましたが、これも神様、守護霊様のありがたいお導きと感謝いたします。あの人と結婚していたら、やがて離婚して、子供を不幸にしたかもしれません。よく分かりませんけれど、きっと何か深い意味があるのだと思います。これからもお導き、よろしくお願いいたします」

このような受け止め方で神様に感謝することができるようになったら、もはやお蔭信仰ではない。

お蔭信仰から本当の神様の信仰へと、神業が深まってきたと言うことができる。

すると、どうなるのかというと、確かに現世利益が途絶えて悪いことが続くのだが、そのぶん業が消えてきれいになっていくので、ギリギリのところで神様がパッと助けてくださるのだ。

神様に感謝をして神業を続けてさえいれば、決して決定的に駄目になるということはない。

一時的にどんなに辛い状況に追い込まれたとしても、もう駄目かもしれないというところで、必ず神様は助けてくださるのだ。私は何段階もそれを潜ってきたので、断言できる。

そういう体験を踏まえながら、信仰をますます不動のものにしていくことが大切なのである。

明るく元気に業を晴らす

何があっても常に神様への感謝の気持ちを忘れずに神業を続けていくということ。これは言葉を換えて言えば、常に明るく前向きな姿勢で生きていくということにほかならない。

それには、いつも神様の大愛に包まれていると確信すること。その確信あればこそ、どんな困難があっても元気にそれを乗り越えていくことができるのである。

あなたの周りにも、運の良い人と悪い人、何をやってもスイスイとうまくいく人とうまくいかない人がいるだろう。

注意して見ると、幸運に恵まれている人というのはみんな明るい。あまり深刻にならずに、常に前向きな姿勢で物事に当たっているということに気がつくはずだ。

反対に、運の悪い人には暗い人が多いようだ。何か嫌なこと、思いどおりにならないことがあると、いつまでもウジウジ、ジメジメ悩みごとを言っているような人。

そんな人は例外なくあまり運気がよろしくないようだ。

ご神霊はみな、明るく前向きな姿勢が好きなのだ。つまり、常に明るく積極的な気持ちで生きるということは、神様の御心に合った生き方なのである。

反対に、暗くジメジメした気持ちが好きなのは、浮遊霊や地縛霊だ。怒り、憎しみ、恨み、妬み、そうしたマイナスの思いを持っていると悪霊に取り憑かれて、ますます不幸な出来事が続くことになる。

これもまた因果応報なのだ。

悪因縁が吹き出しているときには誰しも、ついつい落ち込みがちになる。それは無理のないことではあるが、そんなときでも常に前向きに物事に立ち向かうこと。

これも、神人合一に近づく上で大切なポイントである。

例えば、交通事故で一ヶ月入院することになったら、大難を小難にまつり変えてくださった神様に感謝するとともに、その機会を利用して普段読めなかった本をまとめて読むとか、この機会に編み物をマスターするとか、苦しみの中に楽しみをつくり出していくことである。

悪因縁を払う一番手っ取り早い方法は、苦しい思いをすることである。病気になる、財産を失う、愛する家族と死別する、一家離散する…。

これは誰にとっても辛いことであり、その分、業が早く晴れるわけだ。

しかし、そのときの辛さ、苦しさは、あくまで客観的に他人から見た辛さであり、苦しさである。

一般論で考えて、大変だなと思うようなことでも、気持ちの持ちようや、考え方の工夫次第で、苦しみを楽しみに変えながら業を取ることも可能なのだ。

しかも、本人が明るく前向きな姿勢で挑んでいけば、業が払われるスピードはどんどん速くなっていく。

業が晴れれば運は開ける

さて、そうした段階を経て、ある程度業が晴れてくるとどうなるかというと、善き思いが速やかに成就するようになっていく。

つまり、神様にお願いをすれば、すぐに現実になって現れるようになるのだ。

自分のことでも人のことでも、お願いすればそのとおりの結果が出る。もちろん、人をおとしめようというような悪しき願いは論外。

正神界の神霊が叶えてくださるわけがなく、かえってきつく戒められる。

しかし、心を清らかに保ち、善なる願いであるかぎり、すぐに叶えられるようになる。それは、自分の御魂を黒雲のように覆っていた業が晴れていって、清らかに澄みきった状態になったからである。

因縁を乗り越えて、神様のお導きに従いながら積み上げていった徳分が御魂を磨き上げ、ピカピカに輝きだしたから、お願いすればすぐに通じるようになったのである。

では、どれくらい神業を続ければそういう状態になるのか。それは個人個人の業の深 20 さによって違ってくるので、一概には言えない。

ある朝起きたら、業が晴れていたというようなことはない。

少しずつ少しずつ、薄紙をはがすように晴れていくのが業というもので、その人のレベルに合わせて、最も効果的に業を晴らすことができるように、神様がスケジュールを組んでくださるのである。

それを守護霊様を中心とした守護霊団が進行管理し、様子を見ながら教育的指導を具体的に与えてリードして行ってくださるのだ。

「頑張れよ。いまは苦しいかもしれないが、これは前世に蒔いた種を刈り取っているのだからな。

家代々の業を払っているんだからな。こんなことで負けてはいけないぞ。素の大神様が大難を小難にまつり変えてくださっているんだぞ。もうすぐ夜が明けるぞ。頑張れよ、頑張れよ」と守護霊様はいつも応援してくださっている。

そうして、五年、十年と神業を続けていけば、次第に業が晴れていって、幸福を享受できるようになっていく。

幸せだと思うような人との出会い、幸せだと思えるような仕事というのが知らず知らずのうちにもたらされるようになっていくのである。

どうせ晴らされなければいけない業ならば、若いうちに晴らしてしまったほうがいい。

覚悟を決めて、何があっても「不味因果」の気持ちで積極的に臨んでいけば、御魂を鍛えられる。その分実力がついていく。そして自分に自信がついていくことだろう。

その経験を生かして、世のため人のために大きな仕事に挑んでいただきたいと思うのだ。

天が我に大任を与えているに違いない

孟子の言葉に、「天の将に大任を是の氷魚tに降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を飢えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為さんとする所を払乱せしむ」というのがある。

神様がある人に大きな役目を授けようとするときには、骨肉の苦しみを、窮乏の境遇を、何を行ってもその意図に逆行するような不如意を試練として与えるという意味であるが、この言葉は日本の歴史に大きな影響を与えている。

例えば、明治維新の志士たちはこの言葉を胸に刻み込んで、艱難辛苦に遭ったときには、「天が我に大任を与えているに違いない」と思いながら、試練に打ち勝っていったとされている。

神業を続けていく中でも、そういう試練に直面することが何度もある。

現世利益が途絶え、何か良くないことが続くようになることもあれば、ようやく業が晴れて開運期に向かったと思ったら、また身辺に良くないことが起こり始めるということもある。

それは一つには、まだ業が晴れきっていなかったということもあるだろう。しかし、一段上のお役目を与えるためにあえて神様がそうされているという場合もある。

そのいずれであるかは、後になってみなければ分からない。だったら、神様の試練だ、より大きなお役目を与えようとされているんだと、明るく積極的に立ち向かっていったほうがいい。孟子はまた、

「学問の道は他なし、ただ其の放心を求むるのみ」とも言っている。

放心というのは放たれた心。つまり、何かにとらわれた心である。その放心を求める、つまり元に戻すのが学問の道だと孟子は言っているのだ。

神様の道を極めようと思って神業を始めたものの、途中で何か別の事柄に心が向いてしまうことはよくある。

例えば、お金に心を奪われるなんていうのはその典型的なケースだろう。

どうすればお金が儲かるのかということを考えはじめると、寝てもお金、覚めてもお金お金ばかりに心が向いてしまう。

あるいは好きな人ができたら、あの人は今頃どうしているのだろうか、自分のことを思ってくれているのだろうかと、神業をやっていてもうわの空。まるで身が入らなくなる。

とにかく人間というのは、地位か権力か名誉か恋か、何かに心を奪われやすいものだ。

その結果、志を見失ってしまうようなら、たとえどんなに本を読んでいても、どんなに知識があっても、それでは本当に学問があるとは言えない。

真の学問がある人は、ただその放心を求めるひょいと離れていってしまった心を、「ああ、そんなことを考えてはいけない。いまはこれをやらなくてはならないんだ。こんなことを思っていちゃダメだ」と、パッと心を元に戻す。

自分の目をあちこちに向けないで、いま、自分がしなければいけないことに邁進していく。

学問の力

最初のうちはお蔭が出たりするので、神業をやるのが楽しくてしょうがない。

ところが第一の壁、第二の壁にぶつかると、次第に心がほかのところに向き始める。そんなときはこの孟子の言葉を思い出して、再び前向きに走り出す。それも神業を長続きさせるコツである。

神業を続けていく中で危険なことは、一時は感覚が研ぎすまされてフィーリングが非情に鋭くなるのだが、感性の世界に浸りきってしまうと、感性の魔物に襲われやすい側面がどうしても出てくるということである。

世の中、いいフィーリングだけとは限らない。悪いフィーリングが来た場合、それをバーンとせきとめて微動だにしないこと。

そうでなければ、悪いフィーリングに馴染んで流されて、気がついた時には神様の世界からどんどんずれて行ってしまうのである。

そのためには、自分の力、意思の力、魂の力、そしてやはり、学問と教養がなければならない。

感性がある方向に流されていこうとする時、いや、やっぱりこうしなければいけないんだ、とパッと元に引き戻す力。それが学問に裏付けられた正しい信仰心の働きなのである。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

これは王陽明の言葉である。

陽明は山賊討伐隊の隊長だったから、「山中の賊」というのは山賊のことだろう。山の中にいる山賊を退治するのは簡単なことだ。

しかし、心の中の賊を制するのは難しい。では、心の中の賊というのは何だろう。

陽明のいう「心中の賊」というのは、人欲のことなのである。人間の持っている欲望というものをどう制するか、「そんなことを思ってはいけない」と己に言って聞かす力。それが本当の学問なのだということを陽明は言っているのである。

お蔭が途絶え、業が吹き出した時に、禅の「不昧因果」の境地に学び、それでもなお、艱難辛苦が与えられた時には孟子に学んで大任を自覚する。

心が初めの志を忘れ、欲得に流されそうになった時にはパッと元に戻す。これはすべて学問の力なのである。

そのためには四書五経をはじめとする古典の勉強をすることが一番なのだが、私の著書をはじめ、たちばな出版の本には、古典の智恵を現代に適応させた考え方のヒントがいろいろな形でちりばめられているので、よく勉強していただきたい。

大神霊は苦しみに打ち勝つパワーを与える

戦国時代の武将、山中鹿之助は、月に向かって、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったと伝えられている。

おそらく、山中鹿之助も「孟子」を勉強していて、「天の将に大任を其の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労という言葉を胸に刻んでいたのだろう。

何事もなく、順風満帆に時が流れているときにこんなセリフが出てくるものではない。

七難八苦に遭遇していたのだろう。それに負けるものか、負けるものか、という荒魂の叫びなのである。学問の素養を元にした大きな意味での信仰心がそれに打ち勝ったのである。

ただし、ヘタに山中鹿之助を気取って、「七難八苦を与えたまえ」と祈ると、本当に七難八苦が与えられてしまうから、このお祈りはよほどの器を持った方でないとお勧めできない。

私は「我に艱難辛苦をできるだけ少なめにしてくれ、もう結構です」と言っているのだが、それでも神様はたくさん与えてくださるので、もう艱難辛苦を感じないよう、ひたすら神業に没頭するという禅的な境地で立ち向かっている。

学問を深めると同時に大切なことは、苦に負けない魂の力を培っていくことなのである。

正神界の大神霊は、肉体の苦しみ、霊体の苦しみ、御魂の苦しみに対して打ち勝つだけのパワーを求めれば必ず与えてくださる。

なぜなら、素の大神様は、何も私たちを苦しめようと思って艱難辛苦を与えているわけではないからだ。

ただ苦しめようというのは悪霊である。神様はあくまで、私たちが業を晴らし御魂を向上させていくための機会として与えてくださっているのだ。

だから、私たちが本当に御魂を奮い立たせれば、必ずそれに打ち勝つだけのパワーが与えられるように準備されているわけである。

例えば、外はピューピュー木枯らしが吹いていて、マイナス十五度くらいだとしよう。部屋の中は暖かくってコタツの中でぬくぬくとしている。そこへ、「先生、あと十分したら外でランニングが始まりますから」

「ん、十分?二十分ぐらい後にしてくれない?」

これから、寒中マラソンが始まるのである。マイナス十五度の中を裸足に裸で走るということを自分で発願したのだ。

その十分前二十分前というのは、もう地獄に飛び込むような気分である。

暖かいコタツに入って、台の上には私の好物の練乳が置いてある。それを白湯で薄めてちびちびと飲んでいる。この世で一番幸せな状況に浸りながら、胸の中は悶え苦しんでいる。

この時、心を決めて、「ええい、しかたがない!」と、コタツから飛び出し、パッと裸になってパンツ一丁で寒風の中へ飛び出して行く。

初めは寒いというよりも痛い。でもそれに耐えて走っているうちにだんだんと皮膚が強くなっていって、体が温かくなってくる。

そして、二キロ、三キロと走り続けるうちにポカポカしてきて、冷たさも厳しさも感じなくなってくるのだ。

苦中に楽あり、三昧の境地に立て!

人間の苦しみというのは、弛緩から緊張に移る、まさにターニングポイントのところにある。リラックスした状態から緊張に向かう時が一番苦しいのだ。

しかし、心を決して緊張の中に飛び込み、苦の中に没頭していくと、苦を苦として感じなくなってくるのである。

それは、コタツの中にいる時より、マイナス十五度の中を裸で走っているほうが苦しい。

ところが、しばらくたって体が慣れてくると、走っていることが楽しくなってくるのだ。苦中に楽あり。これが御魂の力なのである。

御魂の充実感で、苦しみが苦しみでなくなっているような状態を三昧の境地という。これは苦楽を越えた世界にいるということだ。

これこそ精進努力の権化、神人一体となった妙境である。あるいは、動中の静と言ってもいいだろう。

客観的に見れば厳しい艱難辛苦の状況において、いつもへらへら笑っているように明るく楽しく生きるのが三昧の境地。ここまでくると明らかに、「我に七難八苦を与えたまえ」という山中鹿之助のレベルを越えているわけである。

苦しいことを苦しそうに頑張っているというのは、苦に負けているのだ。まだ、苦しみがあるという相対の世界に甘んじているということである。

道を成就する三要素… 堅、誠、恒

さて、これで信仰心が確立したかというとそうではない。この章の最初に説明したように、神業は十年、二十年と続いていくものなのである。

一生かけて歩む道であるから、調子の良い時も悪い時もある。三昧の境地に達したからといって、その状態を一生保ち続けられるかといったら、また緩むときもあるのだ。

多少の無理をしなければ伸びないので、無理はするけれども、無理をしすぎてぷっつんと切れてしまったら元も子もない。

そのためには色々な知恵を取り入れながら、あせらずたゆまず、とにかく歩み続けること。

そのために大切なのは、道を成就する三つのポイント「堅」「誠」「恒」である。

「堅」とは、こうと思ったらどんなことがあってもやりとげるのだという心。例えば、寒中マラソンをやるのだと決めたら、どんなことがあってもやる。

コタツと練乳の誘惑をはね除け、勇気を奮ってマイナス十五度の寒中に飛び出していくのが「堅」である。

「誠」は省みる心。自分の修業の中で何が足りないかを謙虚に反省して、真心をもって、口と心と行動を一致させていくこと。言ったことが成るから「誠」である。

誠が通じないご神霊はいない。これは神様を動かす極意でもあるのだ。

そして恒久平和の「恒」。「亘」は地面から太陽が出てまた沈んでいく様子を表す東の空を見て、「あれ、今日は太陽が出ていませんね」「ええ、週休二日になりましたから、今日明日はお休みなんですよ」などということはない。

曇っていても雨降りでも、お天道様はその上でちゃんと照らしていらっしゃる。

太陽は週休二日制でもなければ、隔週土曜休みでもない。毎日怠ることなく、間なく断なく照らしつづけているのである。そういう心、これが「恒」である。

堅い志で道を開く

「堅」は堅忍不抜の堅である。あくまでも堅い。こうと思ったらどんなことがあっても志を曲げないというのは、いい意味での「我」であると言ってもよい。

魂がこうだと思ったときの意志の力。この「堅」がなければ、高い志は持てないし、発願というのもなよなよとした頼りないものになってしまう。

そんなことで神様の道が成就できるわけはないのだ。

「座禅を組みながらとろんとろんと途中で居眠りをしているような、タヌキ禅をするくらいだったら、ねじり鉢巻きをして徹夜で博打をしろ!」と言ったのは白隠禅師だが、これが「堅」なのである。

目を血走らせながら、「丁!」「半!」とやっている時の魂の奮い立ち。

とろとろ居眠りをするような座禅をするくらいなら、こっちのほうがよほど禅の道にかなっているというものだ。

神業というものは、ただ真心をこめて自分なりに怠りなくやればいいというものではない。必ず悟るんだという発願の強さ、志の強さなのである。

この原則は人生全般に当てはまるものである。

①神霊を動かす法≪ホップ≫…発願する

例えば、大学受験にしても、「東大に入れたらいいな」などというのは、志とは言えない。

「何が何でも、東大に入るんだ!そして立派な人間になって世のために尽くすんだ!」という強い発願をすることが大切なのである。

すると神様は「ん?」と目を向けてくださる。守護霊たちも、「おいおい、本気かよ」と騒ぎ出す。

とにかく、いやでもご神霊がこちらに目を向けるような強烈な発願をすることである。

ただし、この時点ではご神霊はただ見守って成り行きを見ているだけである。

②神霊を動かす法≪ステップ≫…行動する

こうと決めたら、次に、それに向けて即行動を起こすことである。目標に向かって一心不乱に努力することだ。

初めは、合理的な勉強の仕方がよく分からないかもしれない。あるいはすぐに飽きて投げ出したくなるかもしれない。

しかし、神様にやると言った以上は、「これはご神業である」と肝に命じて、ひたすら頑張り続けるのだ。

こうなってくると守護霊たちも、身を乗り出して注目してくる。神様も今まであまり予定になかったスケジュールを準備せざるを得なくなってくる。

③神霊を動かす法≪ジャンプ≫…絶叫する/span>

そして、さらに努力を続け、もはや限界だというところまでくる。肉体も脳も極限にして、もう死にそうだ、どうなるか分からないという状態まで達した時に、魂はついに絶叫する。

「わぉー!」この時、ご神霊がどっと動いてくださるのだ。

守護霊団が全面バックアップの体制を整え、力強くパワーを与えてくれ、それでも足りない分は前世にご縁のあった寺子屋の先生とかを指導霊につけてくださる。

神様もお参りをしたことのある天神様とかに応援してやるよう言いつけてくれる。こうして、三味の境地に至り、受験勉強そのものが喜びとなってしまうのである。

「誠」の道を歩む

さて、こうして念願かなって目標の大学に見事合格した。しかし、ここでスーッと力が抜けてしまう場合がある。いわゆる五月病というやつだ。

「あんなに頑張ったんだから、もういいや」と遊びほうけている。

もちろん、神様や守護霊様たちはがっかりされている。

「お前が、世のため人のために立派な人間になると言ったから応援してやったのに、その体たらくは何じゃ」と悲しんでいらっしゃる。

本人は神様にお願いしたことなんかすっかり忘れて、お礼も言っていない。

心に思ったこと、口に出して言ったこと、行いを一致させるのが「誠」であるが、これではとても「誠」があるとは言えないだろう。

誠は天の道にして、それを成らすのは人の道である。この「誠」なくして、いかなるご神霊も動かすことはできない。

大学を目指して一生懸命勉強していた時は、心と口と行いが見事に合致していた。

だからこそ、神様、守護霊様をはじめとするご神霊が一生懸命応援してくださったのだ。しかし、目標を達成してしまったら、次なる目標を定める気力さえ失って、迷いの中にいる。

こんなときは、もう一度発願しなおすしかない。

「いま何をやっていいのか分かりません。このままでは魂が腐ってしまいます。どうぞ神様、私に目標を与えてください」と祈って、とにもかくにも目標を持つことだ。常に目標を持って人生を歩み続けること。

それが神業的なものの考え方である。できれば、一生をかけた大願をなるべく早く持つことである。

焦らずたゆまず「恒」をまっとうする

植松先生は、「信仰心というのは単に神様を敬うことではないのよ」とおっしゃっている。

絵を描く人にとっては絵が神様。音楽家にとっては美しい音の調べが神様。科学者にとっては宇宙と真理が神様なのである。

すなわち、神様の世界の真・善・美に叶う道を貫くことは、すべて神業なのだ。

美の世界を追求していくのが芸術なら、善を極めるのが宗教である。だから、宗教は神様の信仰の一部だということである。

真・善・美のどれかの道に我を忘れて没頭して生涯を貫き通せば、その人には立派な信仰心があると定義されている。

何をやっても長続きしないという人がいる。絵をやっても半年でやめて、書道をやっても三ヶ月でやめてしまった。神社参拝も一年くらいしか続かなかった。

これではとても信仰を持っているとは言えない。信仰心の始まりというのは、一つの事を貫き通す心なのである。

生涯にわたって一つのことを貫き通すのだという精神と姿勢を持ったときに、はじめて信仰心が確立したと言えるのだ。

この一つの道を貫き通す心構えが「恒」なのである。

さて、この「恒」には二種類ある。英語で言うと、 consistently (コンスィステントリ 1)と successfully (サクセスフリー)である。

「雨が朝から降り続いています」という場合、ザーザーと一分間も休まずに降り続いている場合と降ったり止んだりしながらずっと雨が続いている場合とがある。

ずっと雨が降り続くように続ける、すなわちコンスィステントリーに続けるのが上恒の御魂。降ったり止んだり、やったりやめたりしながら何とか続いているサクセスフリーが中恒の御魂。

そして一回か二回やって終わりというのが下恒の御魂なのだが、これは「恒」にならない。英語でいうと inconsistently (インコンスィステントリー)である。

神業でいうと上恒の信仰心を持っている人は、死ぬまでずっと神様の道を歩み続ける。中恒の人は、やったりやらなかったりだが、それでも神業を続けている。

そして、神業を始めたのだけど、何かちょっとした人間関係が嫌で行かなくなってしまったとか、最近お蔭が出なくなったから神様を嫌いになったというのが、下恒。これは信仰心とは言わない。

もちろん上恒を目指して頑張っていただきたいが、最低でも中恒ということを心掛けてほしいと思う。「続ける」ということを続ける。これが信仰心なのである。

御魂を磨く、陰陽二つの方法

私たちがこの世に生を受けたのは、御魂を磨かんがためにである。御魂を向上させ、一歩でも神様に近づいていくことが誰しもの共通のテーマなのだ。

御魂を磨くとはどういうことか。陰と陽の磨き方があるので紹介してみよう。

御魂を陰で磨けば真諦… 物事の真理を悟っていくということ。そのためには学問を深め、神業に励むことだ。

そして、もう一つの方法、御魂を陽で磨くということは、徳を積んで御魂を清め、霊格を高めていくということである。

先にも触れたが、徳を積むとは一言で言えば、「愛と真心で善行を行い、人に益すること」である。しかし、ここで問題となるのは、何をすれば「人に益する」ことになるかということだ。

「小さな親切、大きなお世話」というが、人のために良かれと思ってやったことが、相手に迷惑がられたり、結果的にかえって相手を悪い方向に導いてしまったという経験は、誰でも持っていることだろうと思う。

善に関して陥りがちな三つのパターンがある。

①独善… 他人への影響を考えずに、自分一人が善いと思ってやること。すなわち、一人よがりであり、場合によっては親切の押し売りとなる。

②偽善… 心がともなわない形の上だけでの善行。死んでから良い霊界へ行くためとか、自分が救われたいという不純な動機に基づくもの。

③小善… 自分では善いことだと思ってやっても、さらに大きな目で見れば、決して人のためにならないこと。つまり、大局から見て良い結果をもたらすものでなければ、本当の善行とは言えないのである。

ただし、これをあまり気にし過ぎると、善を行うことに躊躇してしまう場合もあるだろう。

こんなときには、「間違っていたら許してください。知恵が足りなかったら正しい方向をお知らせください」と神様に頼んでおくことである。

徳積みとは、自分の身の周りの人に尽くすことだけではない。例えば、社会に対して良い功績を残していくこと。

例えば、砂漠を緑にするプラントを開発したり、癌に効くワクチンをつくることによって、大きく人類の幸せに貢献していくこと、こうした徳分は特に功と呼ばれ、神様からも高い評価を得ることができるのである。

肉体というのは、人を幸せにし、社会に功をなしていくための媒介にすぎないのだ。

ところが、私達はややもすると肉体の要求に流されがちである。食欲、睡眠欲、性欲、また単に出世をしたいがための知識欲、これらは皆、肉体的な煩悩を満たさんがためのものである。

あるいは、スポーツをして体を鍛え、食べ物にも気を使って健康であることを生き甲斐にしているような人もいる。

確かに健康ということも大切かもしれないが、人間は健康のために生まれてきたのではないのだ。

あるいは仕事というものも、やはり媒介にすぎない。仕事を通して御魂を磨いていくこと、仕事を通して世の中に貢献することが大切なのであって、仕事そのものが目的なのではない。

魂を磨く糧であることを十分に意識しつつ、仕事をするということを忘れてはならないのである。

結婚にしても同じである。人は結婚をするために生まれてきたのではない。結婚を通して御魂を磨くために生まれてきたのだ。人生の本質とはそれしかないのだ。

それは今世だけの目標ではない。人間は生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、あの世でも来世でも、同じテーマで修業を続けていくのである。

生き死にの枠を越えた、精進努力の姿勢を持て!

私は三十五歳からピアノを習い始めた。普通、ピアノは子供の頃からやるもので、いい歳をした大人になって始める人は少ないと思う。

それだけではない。三十六歳から書を習い始め、三十七歳からスキーをやっている。

初めてスキーをしたときは、北海道のニセコスキー場に四日間の日程で行ったのだが、その間にボーゲンからシュテム・ターンをマスターして、パラレルまで進んだ。

私はスキーをレジャーとしてではなく、山岳宗教の一種ととらえているから、修業として精一杯の精進努力を怠らない。

だから、あっという間にマスターできるのだ。その錬磨のプロセスが楽しいのである。

もちろん、コーチの方に指導していただいたのだが、夕方になって、「いい修業になりました」とご挨拶したら、先生はびっくりしておいでのようであった。

別にプロのスキーヤーになろうと思っているわけではない。

ゼロ歳から八十九十、あるいは百歳で人は死んで終わり、という人生観を持っている人には、なぜこんなことをするのか理解できないだろう。

古稀(七十歳)からは散髪屋でも経営しようかなどと考えることもある。そのためには、カットの勉強もしなければならない。(例えばの話であるが)

つまり、この世でやるあらゆることを今生のためだけのものとは考えていないのである。常に生き死にの枠を越えた、大きなスパンでの精進努力だと考えているのだ。

特に、学問と信仰と芸術は生まれ変わった時の才能になる。御魂の奥深く刻まれて来世生まれた時に、無形の宝となって顕現するのだ。

霊界でも真ん中以上のところにいくと、絵を描いている人、楽器を演奏している人というのはいっぱいいる。

それは、来世生まれる時の準備なのである。ゼロ歳からの人生とはいうが、この錬磨してきた学問、芸術、信仰というものはすべて魂の奥に刻まれて来世に引き継がれるのだ。

四十からでも五十からでも還暦(六十歳)からでも、スタートする年齢は関係ない。

だから、短歌でも俳句でもピアノでも寸暇を惜しんで続けているのである。

すべての人は共通した天命、御魂を錬磨するためにこの世に生まれてきた。だから、還暦でも古稀でも喜寿(七十七歳)でも米寿(八十八歳)でも、死ぬまで人間は精進努力して御魂を向上させていかなくてはならない。

学問を深め真理を悟る精進。徳を積む精進。功を積む精進。芸術を磨きあげていく精進。

これが神霊的な意味での人生観を持つということであり、不動なる信仰心を確立する、ということであり、かぎりなく神様に近づいていくということなのである。