第一章 一人ひとりの御魂を生かす運営 ~関西たまがき会にて 1991年9月8日~
支部に魔が入るとき
皆さんの各支部からの報告を最初から聞いていましたが、私が死んだ後でも関西は神仕組が弥栄えていくなあと思って。結局、自分たちでどこまでも盛り上がれると(笑)。
普通、「手短に」って言うと、だいたい代表者が発言して、支部単位で手短なんですけどね。関西の場合は、一人ひとりが「手短に」で、 A支部でも、B 支部でも、だいたい、代表者が言うのですが、結局、全員が言う。一人ずつ、それなりに聞いてよかったなということを必ず何か言いますね。
これに対して四国の人は、「四国の何々です。よろしくどうぞ。未熟ですが、「頑張ります」と、プツンと終わり。だいたい四国の人はそれで終わりなんです。
関西は、終わったのかなと思うと「えー、ところで先日こんなことがありまして」と始まって、それから、また延々と。それで、「まあまあ、手短に」っていう具合ですね。そうすると、その人は手短なんだけども、次の人はまた別のところで「えー、こういう証が……」と、ずーっと始まります。
「自動車に乗っていたら、道に迷った……」と、細々と言っていただいて。それから、女性は盛り上がって男性はどういう状況なのかということまで細々と描写して、状況が彷彿としますね。
さすが、住吉(大阪府住吉大社)の歌の神様の産土力が、隅々まで行ってるなということで。ああ、私はこういう風土で生まれ育った人間なんだなということを実感しました(笑)。結局、これを凝結したのが私の性格です。
そういうことで、関西はもうあまり何も言うことがありません。言わなければならないことは山ほどありますけども、全体を見たら盛り上がっている。
結局、盛り上がっているということは、神気が充実していて御魂が発動してる。みんなのコミュニケーションが密になっていると、心の世界ってあったかいですよね。そういうときというのは、お互いの魂と魂の間に隙間風がない。すなわち、間があかないから魔が入らない。
そうやってお互いが和気藹々として、なんだか知らないけども盛り上がっているときは、御魂が発動し神気が充実しているから、何をやってもいいほうへいいほうへ行きますね。これが魔が入っていない状態です。
魔が入るというのは、お互いをクールな目で見たり、「どうなんだろうか」「ああなんだろうか」という不信感が出たとき。疑心暗鬼の思いが飛び交ってみたり、不信感が出たときというのは、目に見えない世界に隙間風があるわけでしょう。気持ちと気持ちの間に、間があくから魔が入るわけです。
魔が入ったらどうなるかというと、皆、「ああなんだろうか」「こうなんだろうか」という疑心暗鬼、不信感になる。恐れとか不安、迷いなどがあるときというのは、霊的に見ると魔が入っている状態なんです。
だから、「支部に魔が入った」というのはどういうことかというと、何らかの理由で疑心暗鬼になっている。相互不信が出てきている。
たとえば、支部を預かる人とご奉仕の人との間とか、ご奉仕の人同士の間。あるいは、ご奉仕の人と青山塾。また、問い合わせに来た方々との間とか。
一つの事柄を巡って、ああだこうだと揉めているとき。人間関係の中で、疑心暗鬼になったり、相互不信になったときには魔が入っています。
「まあ、小さいことはいいじゃありませんか」というふうになればいいのですが、これが、「あくまで自分たちが・・・・・・」と言い張るから、悪魔が入るのです。
優位性を誇るサタン
それから、サタンというのが入ることもあります。これは要するに、出世主義ですね。
どこまでも、おのれのことを考えて出世を目指すとか。あるいは宗教団体でも、よそさまの宗教と比べてみて、「われわれは最高なんだ。よそのグループとは違うんだ」というふうに、他と比べて優位を誇る。それは、信じているんでしょうけど、「自分たちは最高で、他とは違うんだ」と、どこの宗教もだいたいそう思っています。
「私どもの宗教は、だいたい、全国で二百七十番目ぐらいの内容です。会員はすごく少ないし、たいしたことありません。上には上があって、立派な団体が多いですよね。できないながらも、今日よりも明日、明日よりも明後日。少しずつよくしたいと思っています」
いろいろな宗教の方と会いますが、こういう謙虚なことを言う宗教家は、あまりいないですね。みんな、「自分のところは他と違うんだ。最高なんだ」と、信じている。
私は、最高とか最低とか、あんまり考えたことありません。最高の神様ではあるのだけども、組織は足りないところはいっぱいありますから。
「完璧ではないけども、自分は一番気に入ってる」「いろいろ見た中で完璧ではないけれど、最も良心的だと思う」というのは、非常に客観的で、冷めた目で見ているようだけど、お腹の奥では燃えているわけです。そのほうが真実を感じますよね。
そういうふうに、「自分のところは最高で、他は間違っている」「自分のところ以外は本物じゃないんだ」と、人との違いを意識して優越性を誇ったり、「絶対に人に負けるか」と、ライバル意識を燃やして競争しているというのが、サタンなんです。差と段をつけるから、サタンと言います。
だから、出世欲に翻弄されている出世主義の人間というのは、霊界から見たら、もう、顔がサタンになっていて、「×」がついていてね。頭に角が生えていて、フランケンシュタインみたいな顔に「×」がついています。
悪魔というのは牙が生えている。あくまで自分の我を言い張るというときは、仏さまみたいに穏やかな顔をしていません。霊界から見たら、悪魔の顔をしています。
キリスト教というのは、いつも悪魔と一緒に出てくるんです。エホバの神、ヤーベの神。もちろん、イエス様やマリア様の高級霊と同時に、一、二秒したら悪魔が出てきます。
「キリスト教が最高で、イエス様が最高で、それ以外は救い主はいないんだ」と、あくまでそれを信じています。それがあって、キリスト教の信仰というものが成り立っているわけですから、必ず、神様と同時に悪魔が出てくるんです。
惟神の道には、ほとんど出てきません。
「まあ、素盞鳴さんも結構だす。月読さんもよろしゅうおまんな。しかし、まあ、ご縁で天照さんやってます。いろいろ神様はいてよろしいですな。みんな仲良くしたらいいじゃありまへんか」
こういう発想ですね。
これが七福神の思想、惟神の思想だから、分別の知恵と優劣を競ってどうのこうのっていうことがない。「まあいろいろあるでしょうが、仲良くやりましょうや」というのが、惟神の発想で直入するわけですね。
「百点満点に近ければ正しいとは限らない
組織を運営していくとき、支部の中にいろいろ問題点が出てきます。何かのことで揉め事があったとき、議論と討論が先に立ってきますと、どうしてもその支部の中に隙間風が吹いてきます。知的討論は要るんだろうけども、議論ばかりしていますと、お互いの心の中に隙間風がわいてきて、間があいてきて、その間に悪魔が入ってくる。サタンがやってくる。
だから、「まあ、小さいことなら、みんなが一番盛り上がるようにしましょうや」と。百点満点から見て七十点ぐらいの策かもしれないが、みんながやってみたいというのなら、そのほうがいいわけです。
知的に考えたら、もっと違う百点満点に近い方策があったとします。でも、みんながやってみたいと思わないのにそれを選べば、理屈で考えれば百点満点かもしれないけれど、人の心がついてこない場合には、四十点ぐらいの決断ですね。
だから、非常に優れたリーダーシップがある人はいいのだけれど、頭がちょっといい人間というのは注意する必要があります。物事の運営の仕方から見て七十点よりも八十点、八十点よりも九十点のほうが百点満点に近いわけだけれども、人の心はどうなのかということなんです。支部の運営で人心掌握ということを考えた場合に、どういう選択をするか。
人は知性では動かない
その支部の代表や中心的なメンバーが何人か集まって、たとえば、百点満点に近い九十九点のアイデアを出したとします。
でも、みんながやってみたいというのが七十点ぐらいの方策だった。そういう場合、足りないところがあって失敗するかもしれないということを踏まえたうえで、「一回それでやってみるか」という形で七十点をよしとしてやれば、人心に魔が入らない。一丸となるから、結果としては百点の決断なんです。
それでうまくいかなかったら、「ああ、失敗しましたね。やっぱりわてらアホでした」ということでまた、皆でやり直せばいい。運営面から見たり、人の心の掌握ということから考えたら、七十点を選ぶところがいいわけです。
結局、運営がうまくいっている支部というのは、リーダーが独断で走らず、みんなの意見を聞いています。 A支部もB支部も、上に立つ人がそれを大事に
するから、盛り上がっていいことが起きてくる。「どのみち百点満点はないんだから、一応これでやってみましょうか」ということで、一丸となって盛り上がっていく。
ところが、このゆとりがない場合、上に立つ人間が仮に百点満点に近い決断をしたとしても、組織の中に隙間風が出てきます。
たとえば、中途半端なお医者さんとか、弁護士さんとか、公務員とか、学校の先生とか、中途半端に頭がいい人っていうのは、一応は皆の意見を聞くのだけど、「ああでもない、こうでもない」と言って、知性で割り切って方針を出す傾向があります。
あるいは、一昔前の中小企業のワンマン社長のようなタイプ。「わしの言うとおり聞いてたらええんや」と、独断と偏見に満ちた意見を押し付ける。
空手とか剣道などの武術をしてる人、体育会系のクラブというのは、「とにかく先輩の言うとおり聞けばいいんだ」というような体質が、伝統的にあるようです。
しかし、そういう縦社会の封建的なやり方では、もう今の若い人はついてこないでしょう。もうちょっと前の時代の宗教団体だったらよかったかもしれませんけど、十代、二十代、三十代前半ぐらいの人がいるところのグループでは、通用しません。
最近は、もうついてこないですね。そういうところは、もう居つきません。特に関西では、なんじゃかんじゃという言いたがり屋がいっぱい居る。言いたがり屋と嬉しがり屋の塊が、関西人です。
だから、アテネの民主政治みたいに、皆が自分の言いたいことを言う。その中でお互いの気持ちを分かり合って、平和と協調っていうのが続いていくわけです。
日本の国が、昔、大和時代のころ、食べ物が豊かだったんですよ。海に行けば魚介類が豊富だし、山のほうへ行けば農業しなくても木の実を食べればいいわけでしょう。タケノコも食べられるし、果物もいろいろ実っていて、何でも採れます。もちろん、稲を植えればお米が採れる。
食べ物が安定していたから、争わなくて済みます。衣食が足りているから、安心しているわけです。だから、非常に融和の精神が発達していた。いろいろ意見の違いはあっても、お互いの気持ちを分かり合えるという土壌です。そういうゆとりがあるから、いつまでも平和と協調が続いていく。
その原点を今に再現しているのが、 A支部とB支部です。結局、A支部もB 支部もいろいろ聞いていたら、「食べ物が豊かで食費が助かる」というのが、それが唯一無二の発展する理由かもしれません(笑)。特に関西は、食べ物にうるさいですからね。いいんじゃないでしょうか。
人間の行動の基準というのは、皆、感情です。盛り上がるとか、頑張る頑張らない、ということの元にあるのも、全部感情です。知性で動いているようでも、動きません。
特に日本人というのは、もう、情緒と訳のわからない衝動で動いています。
それで盛り上がるときには、全体で盛り上がる。理屈じゃありません。悪く言えば烏合の衆ですが、よく言えば天皇のもとにおいて何となく盛り上がってきたら、「それーっ!」と行ける団結力はあるわけです。
そうしたときのほうが和魂が幸いて、天が下、にぎにぎしく繁栄するから瓊瓊杵尊が天孫降臨できたわけです。にぎにぎしくしていくというのが、惟神の道に合っているわけです。
実質的には無意味なことの意味
そういうことで、話は戻ります。サタンと悪魔についてお話ししましたが、もう一つ魔王というのがあります。
魔王はお金です。この世の中では金しか信用できない、金がすべてだと。神様がどうのこうのなんていうそんな純粋で無垢なのは意味がない。金と地位と力がなければ世の中じゃやっていけないと。
確かにそうなんですけれど、世の中もやがて死んだらおしまいですからね。年をとって定年退職したら、もう犬の散歩だけです。あと老人クラブで囲碁や将棋をするか、庭の手入れなどですか。その後に、死後の世界が待っているわけでね。
悪魔、サタン、魔王というのがあって、現実の目だけで見ていくと、どうしてもそうなっていく。しかし、一方にはスーパーメルヘンのような世界があります。子どもじみた世界かもしれないけど、文学とか、芸術とか、宗教というのは、皆そういう世界でしょう。
たとえば、一枚の絵画にどれだけの価値があるのか。キャンバスの上に描い山の絵がきれいとか。葉っぱをこう描こうとああ描こうと、たいして変わらないと言ってしまえば変わらないわけです。記録に残しておくだけなら、写真に撮ればいい。
だけども、形が少し違ったり、赤がちょっと微妙に緑になっていたりというところに、画家は命を燃やしているわけでしょう。そして、それが何億という金額で取引されているわけです。
書道にしても、言ってしまえば、紙に墨で字をちょっと書いただけです。芸術の世界なんていうのは、実質的には無意味な世界です。見る人が見ればいいと思うけども、芸術を解しない人はどんなに素晴らしい書を見ても、「なんだこりゃ、字を墨で書いただけじゃないか。
こんなものになんで金出すんだ」ということになってしまう。そんなもののために命を燃やすのは、どういうことなのか理解できないでしょう。
スポーツもそうです。健康のために体を動かしたり、筋肉トレーニングをするということなら分かりますが、テニスの大会で優勝することに懸けて生涯を送ることに何の意味があるのか。
あるいは陸上競技でも百メートルを10.2秒で走ろうと9.8秒で走ろうと、たいして変わらないわけです。どっちにしてもカモシカより遅いじゃないか。人間より象のほうが速いです。そんなもの、0.何秒速いからってどうしたっていうのか。
実質上意味がないと言われれば、芸術もスポーツもみんなおしまいです。文学にしても、詩人の生涯なんかどうなるだろうね。
ああ、山はきれいだ人はきれいだ人生はああだこうだと死ぬまでのたまわっているだけの詩人の生涯。
詩を解する心がないと、「なんじゃ、このオッサンは、歯の浮くようなことばかり言いくさって」と。関西風に言えば、「歯の浮くようなことばかり言いくさって、ちっとも銭儲からん」と言うようなものです。
「私は詩人としてやっていきたい」なんて言ったら、「アホ!」と言われます。「詩を書いていくら儲かるのか」と言われます。これは、アホです。
登山家が山に登るのも無意味なことでしょう。「一度、あのエベレストを登「ってみたい」と思い立って、そのために何年もかけてお金を貯めて、命を懸けてとにかくエベレストを目指す。すでに何人もの人が登っているわけですから、登頂したとしても記録に残るわけではありません。
国内の山に登るのでも、なんであんなに寒いときに辛い思いをしながら、雪の積もっている山に登っていくのか。遭難でもしたら、もうすごい騒動です。両親が泣きながら捜して、親戚縁者皆に迷惑かけて、捜索に使うヘリコプターにしてもすごい金額です。考えたらばかな話です。
しかし、サタンや悪魔や魔王には意味のないことでも、人間の内的な世界というのは、そこが尊いわけでしょう。
御魂の世界、芸術やスポーツ等の文化のレベルということに、どれだけの価値を見出せるか。それを「くだらない。ばかみたいなことだ」と言うならば、非常に文化レベルが低いということです。内的世界が貧しいわけでしょう。ということは、霊格が低いということです。これはもう、天地自然を貫き通す法則です。
御魂の世界の価値観
世の中には、いろんな人生があるわけですが、「どういうものに価値を置いて生きていくのか」「何を尊い生きざまとして生きているのか」によって、その人の霊格が決まる。人としての文化レベルが決まるわけです。
金さえあればいいのか。出世さえすればいいのか。自分が最高だと思っていたらいいのか。
ある程度お金も要るし、やり通す信念も要るし、人よりも素晴らしい中身にしていかなければならないのだけれども、それは派生的な事がらで後からついて回ることです。自分たちの心は、朝から晩まで何を目指しているのか。
記録を何秒縮めるか、ということに命を懸けているスポーツマン。死ぬまでに、一枚素晴らしい絵が描ければいいという画家。そのために、日展にも出品することを目指して、朝から晩まで命を燃やしている。絵画の歴史にも残るような一枚が描ければ、それはもう画家として最高の人生です。
書道でもそうです。短歌でも俳句でも、俳句の歴史、短歌の歴史に残る歌一首、俳句一首が残ったら、もう最高の名誉ですね。
そういう芸術的な世界というものと、御魂の世界、宗教の世界というのは近いところにあります。そして、こういう世界を管轄しているのが、御魂の親様、菊理姫の神様です。ですから、そういう人生観を貫いていくところにおいて、死後の生活は御魂の輝ける人生なんですね。
芸術家、スポーツマン、社会福祉事業家もそうでしょう。文学者も音楽家もみんなそうです。そういう御魂の世界というものが菊理姫様の世界に降りているわけです。
ですから、私たちは、現実界の中において、どうして御魂の世界、そういう芸術的で、詩的で、文学的で、文化的な人生観を持って、ひとときを過ごしていくのか。
他愛もないことかもしれませんけども、子どもたちの日々ってそうですよね。小さい子どもたちというのは、「お月さまがああ言って、どうのこうの」という世界の中で過ごしています。
小さい子どもが、「こんなんで儲かりまへん」とか言っていたら、もう化け物ですね(笑)。
「絶対に、わしは一番になるんじゃ」なんて言う子どもはいません。「お父さん、現実を踏まえて生きなさいよ」なんて四歳の子が言ったら、死んだじいちゃんが、財産を心配して憑霊しているんですよ(笑)。
子どもの世界というのは、人間の原点です。
だから、いつもそういうものを大事にして生きていく。そういう意味での文化的、芸術的、詩的、文学的な生き方、スポーツや武術に生きていく人たちのような高い精神性、文化性、芸術性というのが御魂の世界ですから、そういうものをつくっていこうという心が、菊理姫の大神様や神霊界の存在との価値観に合致するわけです。
幸せの原点とは
御魂の世界というのはそうです。歴史を見ても、世界中で、そのような生き方をしている人のことを高貴な人というのではないでしょうか。
音楽一筋に生きた。書道一筋に生きた。絵一筋に生きた。茶道一筋に生きた。お茶を点てておいしくいただくというだけのことなのに、命を懸けて茶道やる人がいるのです。芸術家は、みんなそういうことに命を懸けるでしょう。生涯を懸ける。エネルギーを懸ける。お金と時間と労力を懸ける。
私たちも同じです。神様の道というのはそういうものです。それで、その価値を見出してよかったと思えば、素晴らしい人生です。
登山家は山に登ることに価値を見出して、たとえそのまま遭難して死んでもよかったと思っています。山男はそれが幸せです。同じ死ぬなら、山で死にたいと思う。絵描きさんや書家やスポーツマン、学問に生きる人たちは、みんなそうです。
その価値を見出して、人生観を、そこに踏まえて生きていくから、時間と労力とエネルギーと費用を使っても何の後悔もない。
ですから、「どうしてそんなことするんですか」と聞かれた場合に、自分たちの人生観っていうものをはっきり固めておいたほうがいい。
そこがはっきりしてないと、迷いが出てきます。「こんなことばかりしていていいんだろうか」とか、「こんなに時間費やして、他にすることがあるんじゃないか」とか、「こんなことにお金を使うくらいなら、もっと別のことに使ったほうがいいんじゃないだろうか」「こんな無意味なばか騒ぎをしていていいんだろうか」と。
じゃあ、有意義なものとは何なんだと。
そういう御魂の世界、精神性というのが幸せの原点なのであって、それを支えていくのが現実の社会、お金であり、結果として社会的な地位や名誉を必然的に得るようになっていくわけです。
ところが、そちらのほうにだけ目がいっているのが、悪魔、サタン、魔王なのです。「あくまで自分が最高と信じていく」ことも必要ではありますけど、主客がどこにあるか。
そういう人生観を、しっかり持っていれば迷わない。だから、まず皆さんが、そこを迷わず、はっきりと言えるようになることです。支部でご奉仕する人も、支部に来る会員さんに対してもね。
「日本でも世界でも歴史を見ても、そういう人間のほうが高貴な生きざまをしている。文化的な、高い中身の精神性のある生きざまじゃないでしょうか。そう思うから、喜びとしてやっています」
こういうふうに、はっきり断言できることが尊いですよね。
迷いのない生き方をするために
支部を運営していく中で、いろいろな迷いが出てくるでしょう。しかし、無上にそれが好きで楽しいわけですから、はっきりと自分の中でその生き方の価値を確認しておくことです。
そして、もし、「あなたたちは、なんでそんな実質的に無意味なようなことを、毎日やっているのですか。もっとほかにすることがあるんじゃないですか」と聞かれたら、即座に答えられるようにしておくといいですね。
「それは、登山家が命を懸けて山に登りたいと思うのと同じなんですよ。そんなことに時間と費用をかけて、親戚縁者をハラハラドキドキさせながら、それでもエベレストに登りたい。途中で事故があって死んでも、山男としてそれは本望なのと同じなんですよ」
「半紙の上にどんな字を書いたって、あまり変わらないと言えば変わりませんよね。でも、書道家は、見る人から見て素晴らしいと言えるような書を、一枚残すために命を懸けています。それと同じなんですよ」
「たった一枚の絵を素晴らしいと人に喜んでもらうために、朝から晩まで絵を描いている画家と同じなんですよ。画材を買って、時間と労力を費用を使って、何十年もかけて技術を練磨していく。自分の絵を理解してくれる人のために、最高の絵を描きたいと思うのと同じなんです」
あるいは、音楽でも、茶道でも、スポーツでも、いろいろなことが例に挙げられるでしょう。
「高い文化性、高い精神性のある人たちというのは、みんなそういうふうに生きるんじゃないでしょうか。無意味に見えるかもしれませんが、神様の道というのは、そういう芸術、学問、宗教、文化というような魂の高貴なる部分を扱うところだから、この世的に見たら無意味かも知れませんが、無意味なるがゆえに尊いんです」
自分がそう思って、かみしめながらいつも生きていたら何の迷いもない。だから、経済的に圧迫しようと、家族の中で揉めようと、時間をいっぱい使っても、あるいは支部の中で「運営の責任じゃ」とかなんだかんだ言っていても楽しいわけです。
自分が選んで、自分が価値を見出して、納得して進んでいく道なんだから、それでいいと思えば、素晴らしい人生ですね。
基本的には、どの人生もあまり変わりません。山男の人生、書家の人生、画家の人生、スポーツマンの人生、記録に生きる男の人生、茶人の人生、俳人・歌人の人生、宗教家の人生、同じです。みんなその生きざま、その価値観。白山菊理姫様の管轄する世界。こういう御魂のふるいわけをなさっているわけです
「バカ一代」のフィロソフィー
だから、私も「仕事を選ぶか、神を選ぶか」というときには、いつも神を選んでいますが、それで仕事もうまくしてくださる。ただし、仕事も絶対に手を抜きません。
仕事をするのは、仕事をちゃんとしておかなければ、大好きな大好きな大好きな神様のことができないと思うからやるわけです。どのみちやるなら、仕事もご神業だと思って嫌がらないでやろうと。そういう精神性を磨こうと思ってやっています。
私はみんなと同じように仕事を持っているわけですから、皆さんと原点は同じです。今、皆さんに申し上げたようにおのれにも言って聞かせて、親になんと言われようと自分の人生だから、そういうふうに生きてきました。これからもそうです。
十一月の「アホセミナー」も、「史上最低のセミナー」も、基本的な価値観はそういうことです。大山倍達さんの生き方を例にあげましたが「空手バカ一代」と言われるように、大山さんというのは世間的な価値観から考えれば、本当にばかということになるでしょう。しかし、「バカ一代」というところまで来たら、やっぱり輝けるものがありますね。
大山倍達さんがどんなに強いと言っても、ピストルでボーンと撃てば終わりですからね。合気道の植芝盛平さんは、ピストルの弾を手で受けたといいますが、大山倍達さんに勝とうと思ったら、ピストルで撃てばいいわけでしょう。
長い槍でブスッと刺したら終わりです。トラックで轢いてあげれば終わりですから。「空手がなんだって偉そうに言うな」ということになってしまいます。そこのところの価値観、人生観をしっかりしておかないと、ふと「これでいいんだろうか」と、思うときがあるでしょう。
それがはっきりすれば、A支部もB支部も他の支部も続くと私は思います。素晴らしきよきものが永遠に続くのには、そういうフィロソフィーがなければね。哲学というと観念というイメージだけど、フィロソフィー、「信念」があれば続くと思います。「バカ一代」というのは、そういうことですね。
私が、今日まで続いているのもそうです。いろいろな人生を考えれば、ああいう生き方もあるし、こういう生き方もある。いろいろな生きざまがある中で、 自分はどういう生きざまがいいんだろうかっていうことですね。
やはり神様の道に来て、信仰を進めていくプロセスの中で葛藤があり、悩んで考え、悩んで考え悟り、また投げかけて悩んで、また投げかけてみてという二十五年の信仰者としての歴史の中で淘汰されてきた自分の人生観があるわけです。そのフィロソフィーができ上がると、揺れることはない。それができ上がるまでには迷いがあるでしょう。
だから、まず、支部を預かる人たち、救霊師、九頭龍師の先輩は、自分自身の人生観を確立し、生きざまとしてそれを示していくことです。その生きざまを見て、それが素晴らしいものだったら、皆、自分もああいうふうに素晴らしくなりたいと思って、黙っていても付いていきますよ。
まず、自分が揺れ動かなくなったら、人を指導し導くことができる。これが「如来の位に立つ」ということです。今、言った悟りのプロセスというのはなんだけど、菩薩が進んでいって揺れ動かなくなった状態を、「如来」という。如来というのは位のことですね。
法華経の「如来寿量品」にあるように、如来の位に立って初めて人に説法ができる。自在に説法ができる。説法をして人を救済することができる。導くことができる。揺れ動かない悟りの境地を如来というわけです。
AさんやBさんをはじめ、如来に達している人はいるけれど、その如来になるまで、いろんな神試しがあるわけです。財政的、家族、社会的な軋轢、いろんな角度で如来ができるまで葛藤が続くことがあります。しかし、それを乗り越えていく中で揺れ動かないフィロソフィーができ上がる。これは信仰の確立なんです。
それは神様だけじゃない。登山家でも書家でも画家でも、茶人であろうと、詩人、俳人、歌人、そういう世界に生きる人は、多かれ少なかれそういう中の葛藤を超えてやはり道に達しているわけです。全く同じです。
神様事だけがそうなのではないのです。広い教養と知識と咀嚼力で、古今東西の人の生きざまを見ていったら共通項がわかりますよね。自分がそうやって如来になって、初めて人を導くことができるのです。
悪魔、魔王、サタンに打ち勝つ方法
だから、支部を預かり、あるいは救霊師、九頭龍師の先輩として、人にお取り次ぎする人間として、まず神様が望まれるのは、そういう揺るぎない自分を確立することなんです。一人でも二人でも自分を確立している人がいたら、たくさんの人がそれによって救われていくし、励まされる。鼓舞され導かれていきます。
そういうふうな御魂の世界の生きざまが素晴らしければ、皆がそれを見て、「やろう!」と思って、意欲に燃えるから御魂が救われるんです。
サタンや悪魔や魔王の世界に売られ、奪い取られた御魂を、菊理姫の神様、本当の御魂の世界の神様のほうへ導いて、御魂を救うことができる。
これは、『銀河鉄道999』の鉄郎のテーマですね。
機械の身体に魂を移し替えて、機械化人になることによって永遠の寿命を手に入れるか、それとも、やがて肉体は滅んで死んでしまうけども、生きている人間、御魂の世界の生きざまを選ぶのか。この世的な便利さのために自分の魂を売るかどうか。
「銀河鉄道999」にはそういうことが描かれています。銀河時代、宇宙時代、菊理姫様の時代だからああいうアニメが出てくるわけですね。
ですから、まず、皆さんがそういうふうに「これでいいんだ」という生きざまを選択していくこと、揺るぎない人生観を確立していくことです。「人生何事かを為せば悔恨あり、何事をも為さざれば、これもまた悔恨」という言葉があります。
何かをすれば、田畑が耕されていくわけですが、その代わり「あれもできなくなった。これもできなくなった」という悔やみが残る。
何もしなければまた「あれもやりたかった。これもやりたかった、思い切っああすればよかった」と、悔やみが残ります。
亀井勝一郎の本「愛の無常について」だったかな。どのみち人間というのは悔恨、後悔が残るんですね。一つの道を選んだら何かを捨てなければなりませんから。
だから神様の道を選んできたのなら、この道を選んだのだから、永遠の道で生きていく。自分が「これがいい」と価値を見出してすることだから、何の悔やみも持たない。そういうふうな姿勢を貫いて生きていくことです。
神の道を多くの人たちにお伝えするにも、それが近道ですね。御魂を救済するということは、御魂の世界に生きていく生きざまが、いかに輝けるものかということを、自ら示して見せることです。
そういう生き方が、いかに幸せで、盛り上がって、文化的で、メルヘンで、素晴らしいのかということを証として、自らが証し人でなければね。そういう生きざまを見せれば、勇気づけられますよ。
世の中は悪魔、サタン、魔王が横行しています。そんなものたちに負けないで、そこで魂を養成して「よーし!」という形で、魔王に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、悪魔に打ち勝って、正々堂々とそれを貫いているというのが惟神の道なんです。
中途半端な悪魔やサタンや魔王はいっぱいいるけれど、たとえば、豊臣秀吉はそれを超えたわけでしょう。捨て身の素晴らしい生きざまをして、悪魔やサタンや魔王を超えるだけのものを持ったわけでしょう。だから、天下の人が秀吉になびいたわけです。豊臣秀吉が三千人ぐらいいたら、もう世界中がなびきます。本当にそれは素晴らしいと思いませんか。
世の中の悪魔、魔王、サタンから逃れて、「自分たちだけのユートピアを建設するんだ」という発想は、世間に負けてるんです。傷ついた者同士がお互いの傷をなめ合っているなんて、そんなオアシスみたいではいけません。
神力を授かった人間はそれに勝てるんです。勝てるというのはどういうことか。
悪魔、魔王、サタンが、「素晴らしいですねえ」と感動するような立派な生きざまをしたらいいわけです。「もう、わて、悪魔を長年やっていますが、負けましたわ」と。サタンも「あきまへん。お宅には負けます」。魔王も「参りました。あなたには勝てません」と言うような生きざまを見せることです。
上杉謙信や楠木正成や諸葛孔明といった人達は、勇気も知恵も戦士も強かった。輝ける御魂です。
