皇室を思い、国を思い、民を思うときに現れる蔵王権現
役小角がそのような心で祈った有名な話があります。
小角は、大海人皇子と大友皇子の争い、いわゆる壬申の乱があったころに生きておりましたし、吉野の宮に大海人皇子が身を寄せておりましたから、役小角さんと会ったかもしれません。
その霊能力を受けて、大海人皇子は壬申の乱に勝ったのかもしれません。おそらくそうでしょう。文献には出ていませんけれど、同年代ですし、吉野にお籠りをしたことは歴史上の事実ですから。そのときは役小角が生きておりましたので、当然、会って教えを受け、霊力を授かったのでしょう、ご守護を。
その役小角が大峯山で一生懸命、「この汚濁に満ちて邪気紊乱し、魑魅魍魎が跋扈するこの動乱の世で、皇室のため、国のため、民のために、どうぞ人々の霊を、体を、国を守りたまえ」と祈っていたら、最初に忽然と現れたのはお地蔵さんだった。
「われが守ろう」と、延命地蔵尊が現れ出たけれども、「うーん、お地蔵さんねえ…。まことに失礼ではございますけども、この邪気紊乱し、汚濁に満ち満ちているときに、お地蔵さんだけでは、ちょっと力が足りないと思いますので、まことに申しわけございませんが、お引き取り願います」と言ったら、「わかった」ということでお地蔵さんがバッと消えて、次にワーッと現れたのが弁天さん。出世の神様です。
「うーん。弁天さんが現れてくださったのはありがたいことだけども、魑魅魍魎が跋扈して、汚濁に満ちているこの動乱の世で、人々を守り導くには力がちょっと足りない。まことに失礼ではございますが、お引き取りいただけませんか」
「わかった」ということで弁天さんが消えたら、今度は釈迦牟尼仏が出てきた。「わしが守ろう」「うーん。釈迦牟尼仏……。確かに悟りを開いている。
しかし、魑魅魍魎が跋扈する、この汚濁に満ち、戦争、動乱、疫病の中で苦しむ民を救うには、釈迦牟尼仏さんだけでは、どうも力が不足すると思いますので、まことに申しわけございませんが、お引き取りください」
「わかった」と引き取られた。
またずっと祈っていたら、ゴーッという轟音とともに現れたのが、蔵王権現だった。
「われこそは蔵王権現」
ものすごい憤怒の相で、口をウワーッと開けて、手が六本、顔三つ、足二本。足が二本以上あるともつれますから(笑)、足は二本。その代わりに手が六本に顔が三つ。顔は一つのときもあります。顔一つで表現される場合もありますけれど、だいたい三つの顔で現れます、蔵王権現は。
その蔵王権現が、「われ、蔵王権現なり。汝の願いを叶えるためにわれは現れたり」と、グワーッと出てきたとき、「この方だったら、魑魅魍魎が跋扈し、悪霊、悪鬼、邪神、邪霊がはびこる中で、民を救い、霊を救い、国を救い、戦争、動乱、疫病、貧困を治めることができるに違いない。邪悪に満ちた世を救うに、まことにふさわしい仏様だ」と役小角は地面にひれ伏した。
顔が三つということは、三仏が合体しているということです。その三体の仏様とは何かというと、釈迦牟尼仏、観世音菩薩、弥勒菩薩。この三つの仏様が合体して出てこられたのが、蔵王権現です。
「われは蔵王権現なり。釈迦牟尼仏、弥勒菩薩、観世音菩薩、三仏合体して汝の願いを叶えてやる」と言って出てこられたのが蔵王権現。ものすごい顔をしていて、この蔵王権現さんが現れたとき役小角は、「これで大丈夫だ。この蔵王権現さんならば、お守りいただくにふさわしいだけの霊力と智恵を持たれている」と安心して、この蔵王権現を大峯山の金堂にお祀りしたと伝えられております。
そのように、三宝荒神、蔵王権現は、役小角が皇室を思い、国を思い、民を思っ祈り続けているときにウワーッと出てきたのであって、インドの神様でもないし、中国の神でもない。
皇室を、国を、民を思う役小角の愛と真心……まさに「愛をもって帰するを真心となす」という、神人合一の神法そのままのお気持ちにお応えになってお出ましになった仏様なのでありまして、メイド・イン・ジャパンの仏様です。メイドの格好をしている仏様ではなく(笑)、メイド・イン・ジャパン。日本で生まれた仏様。小角のその願いと祈りに応えるためにお出ましになった、これが三宝荒神、蔵王権現です。
これが役小角さんです。ということは、役小角は瞬時のうちに三宝荒神に化身でき、瞬時のうちに蔵王権現にもなれる方なのです。
だから、三宝荒神が最初に現れ出たのが役小角のときで、その役小角の系譜を引いているのが弘法大師・空海です。そして、三宝荒神がその次に姿を現したのは空海のとき、高野山の経営で苦労していた空海の前に現れたのですが、それはおそらく、空海が役小角のことをちゃんとわかっていたから出てきたのでしょう。
空海の祈りに応えて、高野山に現れたのが二度目です。その本体は何なのだろう、ということで私が立里荒神に行ったら、国常立さんだった。ということは、空海の前に現れた三宝荒神さんも、役小角がお祈りして大峯山で現れ出た三宝荒神も、そのご本地は国常立大神様。国祖国常立大神様ということです。蔵王権現も国祖国常立大神様です。
金峯山に祀られていますけれども、その本地は国常立大神様なので艮の金神、大地の金神、国常立大神。それまで祟り神といわれていた国常立大神は、実は地球をつくり、突き固めた親神様です。その親神である国常立大神様が与党となって、表に神様のまま現れ出るようになったのが明治二十五年。それまでは野党であったので、表に現れ出ることはなかった。
もちろん、役小角、行基、弘法大師のときも野党です。だから、三宝荒神となった役小角を守り、空海を守ったわけ。もちろん、日蓮上人も守っていますけれども、日蓮のときは八大龍王です。
ですから、ワールドメイトでご案内している三宝荒神の御社を皆さんが申し込むと、三つのものを私が祀り込んでおりますので、大きな働きをしてくださいます。
三宝荒神はお台所の仏様、家計のやりくりを助けてくれる仏様ですから、そちらの方面で大きく動いてくださいます。
実は、三峯山のご本地も国常立大神様で、坤の金神、国常立大神様です。三峯護摩を焚いたらおそらく、「三峯山に出でたる金神の本体を知りたくば、三峯山の九山九川、これわが本体なり」と言って、荒神さんがブワーンと出てくるでしょう。役小角が大峯山で祈ったら三宝荒神が出たように、あるいは、高野山で空海護摩焚いたら三宝荒神が出てきたように、いまもし、三峯で護摩を焚いたら三宝荒神の姿で出てくるでしょう。
今度、「三峯・三宝荒神地底運引き上げ神事」をやりますが、この神事ではこの仏様がお出ましになります。仏様というより、龍の姿で出てきますけれども。
三宝荒神は、会社の経営、お金や人材のやり繰りに働いてくださいます。空海でも、高野山の経営に困ったときは、必ず立里荒神へお参りに行ったわけですから、その働きは強力です。三宝荒神さんをお祀りしている方は、そこをきちんと理解しておく必要があります。
貪瞋痴を超えて一生懸命努力したら、お金、財徳に変えてくれるのが三宝荒神。
精進努力なしで財徳を与えてくれるわけではありません。役小角のときには、「精進努力する者が少ないのを嘆く」と言って出てこられたわけですから。空海にも、それだけ精進努力するから出てこられたわけでしょう。
そういうことで、地底運を広げる三峯の荒神さんも三宝荒神ですから、そのことをきちんと理解したうえで神事に参加されれば、きっと大きなご利益がいただけるはずです。
三宝荒神さんはそういう国常立大神様なのです。貪瞋痴を超えて精進努力する者を必ず財徳に変えてあげるという、このルーツであることは間違いありません。お金のやり繰り、現世の一番厳しいところを守ってくださいます。
ワールドメイトでご案内している三宝荒神の三社宮をお祀りしてお祈りすれば、三宝荒神と蔵王権現、それから三面大黒天が出てきます。
鑑真はなぜ、苦難を超えて日本に来たのか
三面大黒天とはどういう仏様かというと、これは、最澄が比叡山で皇室を思い、国を思い、民を思い、比叡山に素晴らしき人材、よき人材が現れて、仏法が弘まりますようにと祈っているときに現れた仏様です。
最澄は言わずと知れた、比叡山に天台宗を開き、法華、禅、律、密教を柱にして仏道を極めようとされた方です。その最澄の悲願は何であったかというと、正式に大乗仏教のお坊さんとなるための資格を与える、大乗仏教戒壇というものを比叡山に開きたかったのです。
当時、小乗仏教のお坊さんのための戒壇はすでにありました。
昔、慧思というお坊さんがいまして。といっても、知らない人が多いでしょうが、天台宗を開いた智頭のお師匠さんが慧思です。
その慧思はものすごいシャーマンで、彼が初めて「末法の世が始まった」ということを言い出したとされております。当時は動乱に次ぐ動乱の時代でしたから、それを見て末法の世が始まったと言ったのでしょうけれど、この慧思には伝説がありまして、意思は日本に生まれ変わっていると言われておりました。
正確には東の島国です。そのかぎりで、ハワイかもしれないしフィジーかもしれません。しかし、常識で考えてその東の島国とは日本です。
慧思は日本に生まれる、というふうに予言して亡くなりました。
その日本に生まれ変わっているであろう慧思を求めて日本にやってきたのが、実は鑑真和上です。
鑑真和上、日本にたどり着くまで何度も何度も失敗した話は皆さんもご存じでしょう。五回失敗しています。船が難破したり、弟子に密告されたりして、なかなか日本にたどり着けなかったのですが、六回目にしてやっと成功し、仏教と一緒にたくさんの漢方薬を日本にもたらしました。
しかし、そのときはすでに失明していたのです。目が見えないけれども、ものすごい霊力と教えを持っていたから、日本で仏道を弘めることができたわけです。
その鑑真和上が開いたのが唐招提寺。小乗仏教のお寺ですけれど、ではなぜ、あれほどの苦労をしてまで日本へ行くことに鑑真和上がこだわったのかといえば、その背景には慧思の生まれ変わり説があります。
実は当時、慧思は聖徳太子さんに生まれ変わっているんだという説が広まっておりました。これを再来説と言いますが、聖徳太子さんという慧思の生まれ変わりが開いている国、仏教ながらの国、そこへ何とか行かなければいけないということで、何回難破しても、目が見えなくなってもチャレンジし続けたと言われております。
これを調べている王勇という有名な先生が、学説で盛んに言っておられますけども、当時、そういう言い伝えがあり、鑑真は慧思の生まれ変わりを求めて日本にやってきたのだと。
でなければ、何度も難破して、目が見えなくなってでも日本に来るというのは考えられません。それだけの大きな動機があったと言われております。同時に、お告げがあったのでしょう。仏様のお告げがあったに違いありません。
仏法を受け入れた聖徳太子。その聖徳太子は慧思の生まれ変わりだった。聖徳太子が仏法を開かれたところへ何としても行って、仏法を弘めなければということで、鑑真和上は日本に来た。
では、日本に来て何をしたのか。漢方薬も教えたし、唐招提寺も開いたのですが、実は小乗仏教のお坊さんとなる資格を正式に与える場、戒壇というものを開いたのです。
それはどこか。もちろん、唐招提寺もそうなのですが、岡山の熊山のあたりにも開いたとも伝えられています。岡山の熊山。いまはもう邪気紊乱していて、とても行けるところではありません。
しかし、出口王仁三郎は「熊山の上の戒壇は素戔鳴尊の歯と髪の毛が納められだ」ているところで、素戔嗚のお墓なんだ」というふうに言っております。私も実際に行ってみましたが、三万年前の遺跡がありました。
その熊山に鑑真和上が八世紀、七百何年かにやってきて、修業の道場を開いたのでしょう。いまでも夜になったら、人がいないのにお経が聞こえるというような、すごいところなのですけどね。そこに遺跡が残っています。
鑑真和上が来て、小乗仏教の戒壇をつくった。そのための道場を開いた。霊場をつくったわけです。いまはもうすっかり荒廃しておりますけれども、空海もそこに来ております。
空海が開いた高野山は、蓮の花が開いた形。比叡山は反対に、地に伏せた形。蓮の花の開いたのが高野山、伏せたのが比叡山と言われているのですが、仏様が言うには「九つの山と九つの川があって、地形的に蓮の花が開いたような土地になるんだ」と。
空海も熊山に来たものの、一本川が足りなかった。それで、これは違うと言って高野山を開いたのですが、実は、神様が川を一本隠していたんだと言われております。「本当は九本あったのだけれど、神様が隠したのだ」と。そういうふうに言い伝えられております。
しかし、鑑真和上はそこに小乗仏教の戒壇を開いた。要するに高野山のような修業をして僧侶を育成する道場正式な小乗仏教のお坊さんの資格を与える戒壇をつくった。そうして初めて、日本に小乗仏教の僧侶が誕生することになったわけです。
この鑑真和上が小乗仏教のお坊さんの資格を与える、正式なる仏法の戒壇をつくった方だったわけです。彼が日本へたどり着いて、初めて小乗仏教の僧侶が日本に誕生するということですから、まさに仏法を弘めるためには、なくてはならない存在だったのです。
だから、五回も難破し、目が見えなくなってでも、何としてもということで日本にたどり着いたのです。その鑑真和上は、仏法を弘めるためだけではなく、聖徳太子が慧思の生まれ変わりだという言い伝えを信じていたからこそ、幾多の苦労を乗り越えることができたのではないかと言われております。仏様のお告げもあったのでしょう。そのお陰です、小乗仏教のお坊さんが誕生するようになったのは。
比叡山に戒壇を開くために動いた空海
奈良の仏教は教学と呪術。行基菩薩のような呪術と仏教教学が中心でした。そして、仏教教学といえば即、当時の学問を指すほど、大きな地位を占めておりました。
しかし、時代が下って平安時代になってくると、呪術や教学より密教です。最澄や空海に見られる密教が貴族の間に弘まっていった。そこからさらに鎌倉時代になると庶民へ、そして室町時代になって、初めて地方へ仏教が弘まっていきました。
仏教の歴史ではそのように、奈良仏教は教学と呪術、平安仏教は貴族へ、鎌倉時代には庶民へ、室町時代になって地方へ弘まった、というふうに言っておりますが、正式に小乗仏教のお坊さんになることを認める戒壇を開いたのは、鑑真和上が最初です。
ところが、大乗仏教のお坊さんを正式に誕生させる戒壇は、日本にはなかったのです。それで最澄が、何とか比叡山につくりたいと願ったのですが、生きている間は天皇から許可がおりなかったのです。
結局、最澄は悲願を果たせないまま、五十六歳で亡くなります。その七日後です、空海があちこち働きかけた結果、正式に認められて、比叡山に大乗仏教の正式な僧侶となる戒壇が開かれたのは。そのために空海が動いたのです。
きっと、最澄が空海に懸かって、「やってくれ」と頼んだのでしょう。最澄は志半ばで亡くなりましたから。亡くなったあと、最澄は空海に神懸かったに違いありません。それで、「うん、わかった」と霊的に動かされて、空海が働きかけ、比叡山に大乗仏教戒壇が開かれたのではないかと思います。
最澄には「山家学生式」という著作があります。そこには何が書かれているかといいますと、国宝というものは宝物とか掛け軸をいうのではない、人材が国宝なんだと。最澄はそう言っております。
「道心を持ってよくこれを語る、これはよき国の師だ。道心をもってこれを実行する、これはよき国の用だ。道心をもってこれを語りこれを実行する、この二つを兼ね備えた人材、これが国の宝である。そして、比叡山とはその国宝を生むためにあるのだ」と。
そういうふうなことを「山家学生式」の中で最澄は言っておりますが、その後の歴史を見ると、たしかにそのとおりになっています。
一遍、日蓮、栄西、道元、親鸞、法然・鎌倉時代、たくさんの宗教家が比叡山から出てきました。まさに「山家学生式」にあるとおりです。
その大乗仏教の戒壇、お坊さんになれるという資格を比叡山に初めてつくって、これで小乗仏教、大乗仏教、両方のお坊さんが日本に誕生するための基礎ができた。最終的には空海が動いて、戒壇が開けたわけですけれど。
しかし、空海と最澄は仲が悪かったと世間一般では言われております。不仲説が流れております。
その理由として挙げられるのは、「理趣釈経』の貸借を巡る最澄と空海の葛藤。
それから最澄の弟子を巡るトラブルです。
泰範という最澄の十大弟子の一人が密教を勉強したいと言って、空海の弟子になってしまった。要するに、最澄を裏切ったわけです。
その弟子の泰範問題と、「理趣釈経」の貸借問題。この二つの問題で最澄と空海は仲が悪かったんだ、不仲だったんだと言われているのですが、たしかにそうなのかもしれませんが、しかし、最終的には空海は最澄のために比叡山に大乗仏教戒壇を開くべく働きかけて、最澄が亡くなった七日後に成就しておりますから、それほどの不仲でもない。
やっぱり仏法のために生きるという、大きな義の心があったと考えるべきでしょう。
そういうことで、救霊師には、役小角、行基、空海が守護霊として守っておりますけれども、最澄さんもときどき来てくださいます。人材を育成し、教学を幅広く勉強しなさいということで、最澄も大應という名前で出てきます。大應というのは最澄のことです。私が論文を書くときも、大應すなわち最澄が来て助けてくれます。どういうわけかわかりませんが、論文を書くときにはいつも最澄が来ます。
日蓮上人の教え、あの御遺文を全部、読破しようと思ったのですが、そのとき最澄がこう言いました。
「全部読んだらわからなくなる。「開目鈔」と「観心本尊抄」、とくに「開目鈔」だけ見たらいい。それ以上見たらわからなくなる」
それで、最澄の言うとおり、日蓮の言わんとするポイントだけ見るようにしました。それ以上見るとよくわからなくなるから、見なくていいと、そうアドバイスしてくれたのです。
そうやって、最澄は霊を救済するときと勉強するとき、それぞれ異なった姿で出てきます。上杉謙信のように白い布を上からかぶって出てくるのと、紫色の重厚なかぶり物をかぶって出てくるのと、二種類です。救済のときは白色、勉強するときは紫色です。
その最澄が、植松先生の前世です。
あるとき、ふと植松先生のお姿を見たら、上杉謙信のように上から白いかぶり物をかぶっていらっしゃる。その姿に思わず、「あっ、最澄だ」とつぶやいたのをいまでも覚えております。何度も何度も、もう数えきれないくらい見ました。植松先生は、最澄の生まれ変わりです。
植松先生が最澄の生まれ変わりで、王仁三郎さんが弘法大師の生まれ変わり。私もまた恵果阿闍梨の生まれ変わりですけれども、それはともかく、最澄はやはり聖徳太子をこよなく愛して、聖徳太子を本当に尊敬しておりました。聖徳太子が最初に「法華義疏」を書いたわけですから。
聖徳太子が『三経義疏』を著した理由
えらく話が横道にそれましたけど、聖徳太子さんはそういうことで、「法華経」こそが地上を弥勒の世にするものであるということで、秦河勝に弥勒菩薩を渡して京都に広隆寺をつくらせたのです。それは、まだ都が京都に移っていないころの話です。
京都が都になった平安遷都は「鳴くよウグイス平安京」で、七九四年。平城京遷都が七一〇年。聖徳太子がお亡くなりになったのが「無事に越えたよ、ヘジラ遷「都」の六二二年ですから、聖徳太子が亡くなって九十年ぐらいたってから奈良に都ができ、京都に都が移るのはさらに八十四年後。
だから、広隆寺ができたのが聖徳太子の死ぬ直前だとしてみても、京都に都ができる約百七十年前という計算になります。そのころ京都にはまだ何もなかったでしょう。何もないただの田舎であったに違いありません。そういう京都に聖徳太子は、この弥勒菩薩を祀れと、秦河勝に命じてお寺をつくらせたのです。
それを受けて、秦河勝が京都、太秦に建てたお寺が広隆寺です。現在京都にあるお寺は、広隆寺を除いてそのほとんどが室町時代に建てられたものばかりです。広隆寺が建てられたころの京都は、おそらく何もない片田舎だった。ところが、約百七十年後には日本の都になるのです。聖徳太子はやはり、ちゃんと未来を見据えたうえで秦河勝に命じたのでしょう。
それはそれとして、聖徳太子の著作に『三経義疏」というのがあります。これは「法華経」と「勝経」と「維摩経」の三つのお経を三経と定め、自ら解説して書かれたもので、日本で最初の本と言われております。
聖徳太子が三経と定めたうちの一つ、『法華経』とはどんなお経かといえば、すでに述べたように、数あるお経の中で唯一、地上の繁栄と幸せを祈っているお経、これが「法華経」です。
それから「維摩経」。これは唯一、出家ではない在家の維摩という人が、お釈迦様の十大弟子をことごとく打ち負かしていくという、非常に面白く、痛快きわまりないお経。鎌田茂雄さんの「維摩経講話」という有名な本がありまして、私も読みましたが、本当に面白い。
最後の「勝鬘経」というのは、勝鬘夫人のために書かれたお経で、つまり女性のために書かれたお経です。女性は不浄で成仏できないとされる仏教の中で、唯一、女性のために説かれたお経です。
ではなぜ、聖徳太子はこの三つのお経を選んだのかといいますと、聖徳太子さんには出家が許されなかったから。これが第一の理由です。仏教を信奉するのであれば、出家しなければならないでしょう。
しかし、国政の舵取りをする立場にある聖徳太子さんは出家できません。だから、在家が出家の十大弟子をことごとく打ち破っていく「維摩経」を選んだわけです。在家が出家の十大弟子よりもすごいというのが「維摩経」ですから。
第二の理由は、摂政としてこの地上を幸せにしなければならなかったからです。唯一、地上の繁栄を説いたお経である「法華経」を選んだ理由がそこにあります。
第三の理由は、摂政として仕える推古天皇が女性だったから。女性を不浄なるものとしている仏教から見たら、国の最高位である天皇が女性ではおかしな話になってしまいますでしょう。だから、女性でも成仏できるんだということを説いた唯一のお経、「勝鬘経」を選んだわけです。
実際、聖徳太子は橘寺で推古天皇様に講義をしています。聖徳太子が、直接「勝経」を解説して、推古天皇も勉強しています。聖徳太子が推古天皇に「勝鬘経」をレクチャーした記録が、歴史に残っています。
聖徳太子は、要するに仏教を神道に合うようにしたわけです。本来、出家思想である仏教をそのまま取り入れるのではなく、日本の神道の伝統に合う在家思想である「維摩経」を三経に定めたのもそうですし、勝鬘夫人に説いた「勝経」を三経に定めたのもそうです。あるいはまた、この世に執着を持ってはいけない、この世に意味を見出してはいけないと教える仏教の中にあって、唯一、現実界を大切にする惟神の神道に合う「法華経」を三経に定めたのもそうです。
この三つのお経を選ばれたということは、聖徳太子はやはり、神道と惟神の道を踏まえたうえで仏教を咀嚼していたと言ってよいでしょう。
