最も難しい金毛九尾の審神
私の場合は、祈ったら即でした。祈り続けて、ちょっとうとうととしていたら、いきなりパノラマのように見えました。それというのも、それまで研ぎ澄まされた毎日を送っていて、直感力とか予感もだんだん鋭くなってきたころだったからだろうと思います。
皆さんが同じようにやっても、果たして私のようになるかどうかわかりませんが、純粋で、謙虚で、真心込めて、二十一日間でも百日間でも神仙界の神様や守護霊さんほか、皆々様に対して問いかけて発願すれば、このようなことが起こり得るはずです。
その辺には怪しい霊もいっぱいおりますし、姿形を似せて出てくる金毛九尾もたくさんいますし、人を化かす低級霊がうようよしているから危険ではありますけれど、それに拘泥しなかったらいいのです。見えたからといって、ああなんだ、こうなんだと必要以上に心を向けないことです。
それよりも、香りとか、霊厳さとか、清々しさといった、神なる神気を受けていたらば、邪霊や邪気を区別できます。
ところが、これがなかなか難しくて、年季を経ていても狐にやられている人も少なくありません。悪いことをしない良い狐さんというか、それほど悪くない狐さんもいますけれど、狐が憑くとどうしても性格が歪んできます。まあ、雑狐は神社の周辺でいつもうろうろしていますから、憑いている人は多いです。
私がこうやって、びっしり審神しているうちは大丈夫ですが、私が向こうの世界に行ったら、ワールドメイトはどうなるのでしょう。狐に騙されることなく、ちゃんとやっていけるのかどうか本当に心配です。まあ、神様がちゃんといらっしゃるから心配無用かもしれませんが、狐には本当に騙されやすい。姿形や知恵は似て非なるものではありますが、相当な審神力がなければ騙されてしまいます。
とくに難しいのが、金毛九尾の審神です。しかし、これができないと正神界と邪神界の区別がつきません。似てはいるけれども、偽物ですから。言っている内容、言葉、それから素行、足跡を見ていけば、本物か偽物かわかるのですが、金毛九尾となるとなかなか見破れません。
金毛九尾にも明るさやエネルギーもあったりしますが、みずみずしい温かさがない。つまり、愛がないわけです。いろいろに難しいこと、立派なことをのたまっても、その人の言葉、その人の感情、その人の足跡、その人の行為に貫き通した愛がない。立派なことを言っていても、愛が感じられない人というのは、やはり正神界の人ではありません。
神界と神仙界、神仙界と仙界の違い
ところで、「神仙界」というのは、四次元世界と神の世界の間にある世界です。
たとえば、北極神仙界は北極神界の下にある世界でありまして、上に行くと北極神界になります。そして、北極星というのは北極神仙界で、現実界に近いのです。
もちろん、太陽神界も現実界に直結した正神界で、主に地の繁栄とか、栄光とか、完成成就の徳を現す神界です。
北極神仙界というのは、人霊が行く最高レベルのところで、肉体に近い次元。だから、精子と卵子が受精して減数分裂を始め赤ちゃんを宿すという、あのおなかの中が、北極老祖様の世界なのです。それが「先天の世界」。
それに対して、精子と卵子が受精して減数分裂が始まる前を「先天のさらに先天」、あるいは「先のさらに先」と言います。そして、おなかから出てきてオギャーと生まれた瞬間から「後天の世界」が始まるわけです。
ですから、北極神仙界というのは、受精後、減数分裂が始まって、おなかの中である程度肉体が形づくられるようになったとき、これが北極神仙界であり、先天の世界です。
そうやって、先天の気が凝結して物質界が起きてくるわけですが、その先天のさらに先天は神界。肉体次元を超えた、清々しくて柔らかく、さわやかな世界。これが神界です。
しかし、神仙界になってくると、肉体に近い次元に架け橋が渡って、北極老祖様のように降りてきているわけです。その分、現実界への顕現力、あるいは影響力が強くなってくるわけです。
たとえば、北極免因超修法を申し込んだ途端に熱が出た、という話をいくつも耳にしておりますが、北極免因超修法は北極神仙界の御力を活用したものです。うちのスタッフにも、申し込んだその日から本人と両親が熱を出したという人がいます。
寝込むほどではないので、熱が出たまま頑張っているらしいですが、熱が出るというのは変化の兆しです。北極免因超修法を受けると体から変わり始めますので、微熱が出てくるというのは、大きく家運が変わり始めていると考えていいわけです。
そういう肉体に近い次元が神仙界。それに対して神界というのは、神仙界をもつと超えた、肉体を感じさせないような清々しい世界であります。と同時に、叡智やひらめき、発想という世界でもありますが、現実界を動かしたり影響を与えたりするということに関しては希薄です。神界は神仙界を通して降りてきて、最終的に現実界に関与してくる、というふうに考えたらいいでしょう。
以上が神界と神仙界の違いですが、では、神仙界と仙界との違いは何なのか。
仙人の世界では、霊言、予言、予知などのほか、いろんなことができますが、結局、現実界に直結している四次元世界であります。それに対して神仙界というのは、正神界の神の世界に直結している世界で、そこに大きな隔たりがあります。
前にもお話ししましたが、仙界には苦というものがありません。苦しみがないものですから、山の上の涼しいところにいて快適に暮らしているのですが、ずっと外界を見下ろしてばかりいて、現実界に降りてこられない。現実界に降りてくると苦しみを伴いますからね。背後霊になって応援するなんて、もう論外です。
守護霊さんは邪気を受けるなど、苦しい思いをしながら現実界の人間を守っています。重くて、暗くて、汚くて、臭い地獄界とか、汚濁に満ちた現世に降りてきて、鼻をつまみながら皆さんを守っているわけなんですが、そういうような苦を伴うことは仙界の仙人にはできない。だから、降りてこないのです。
仙界には苦がない。苦しみがないものだから、そこに住む人たちは実に快適に、涼やかに自分の世界を楽しんでいます。しかし、苦しみがないから、いったん仙界に足を踏み入れると抜け出せなくなるのです。
これが、仙人とか行者とか霊能者などの問題点で、彼らの多くが死後、仙界に行っています。すべてがすべてとはいいませんが、仙界に行きやすい。そして、いったん仙界に入ると、さっきも言ったように、そこから抜け出せなくなってしまうのです。
仙界に行くくらいなら、まだ地獄に落ちたほうがいい。地獄は苦の塊だから、その苦から何とか逃れようと必死に頑張りますからね。やがて地獄の修業を終えた暁には、中有霊界か天国界、あるいは現実界に生まれ変わって活動することができます。つまり、進化があり、進歩があり、改心があり、向上があるわけです。
ところが、仙界は苦のない快適な世界だから、いったん入ってしまったら進化は止まり、永遠に封印されてしまうのです。
正神界と邪神界を見分ける審神のポイント
この仙界と神仙界との違いは、ただ愛と真心があるかないかの差。その一点の違いです。金毛九尾というのは、仙界のような世界に生きておりますから、神界や神仙界と比べてみて、やっぱり愛と真心がない。
真心があり、愛があるようなことを口では言うし、それに似た素振りはするけれど、時間がたってみたらわかります。その人の行いを見たらわかる。真心のある人間ならばそういうふうにはしないだろうという行動をするし、真心のある人間ならそういうふうには言わないだろうという言葉を吐く。あるいは、後脚で砂をかけたりします。これが、狐憑きの人の特徴です。
雑狐でも、普通の狐でも、金毛九尾でも基本的には同じですけれど、金毛九尾になると人の騙し方がより高度です。それに、なまめかしい色気の漂う場合が多いですね、女性の場合は。男でも、どことなく色っぽさを感じさせます。
レーザーラモンHGという芸人なんか、別に色っぽくはありません。むしろ、男らしくて、清々しいくらいです。あれは本当のゲイではなく、あくまで芸でゲイやっているわけですから(笑)。
といって、彼のファンではありませんけれどね。そういうことで、金毛九尾にせよ雑狐にせよ、狐憑きの人間というのは、やっぱ愛と真心に欠けています。
本人が真心をもって仕事に取り組み、人に接し、一生を送っていたら、少しぐらい狐がくっついたとしてみても、その人の中にまで入り込めません。真心をもって生きている人間は、御魂が輝いているし、霊光に満ち満ちていますから、少しばかり憑霊されることはあっても、中に入り込まれることはありません。
やっぱり、真心をもって神に接し、真心をもって人に接し、真心をもって仕事をし、真心をもってご奉仕をするという、その行動や振る舞い、足跡の中に愛があるわけです。
それが、神人合一の神法の一つ、「愛をもって帰一するを真心となす」ということなのであって、「愛をもって帰一する」ことに常に心が向かっていく人は、御魂が発動している。奇魂の優れたる神なるものが動いているので、いっとき憑霊されることがあったとしても、霊に占領されることはありません。
金毛九尾や雑狐は、基本的に仙界およびそれに近い霊界に住んでいます。もちろん、天狗界とか龍神界とか行者界という独自な霊界もありますけれど、仙界と同じような四次元界の特別空間におります。
神様から来るものは神界、神仙界。そこには愛と真心がある。だから、その人が祈る内容も、振る舞いも、仕事の締めくくりも、人生の締めくくりも、すべて愛で貫かれている。責任感とか義務とか、人間としての良心とか、人間としての優しさとか、そういうところに良識があるわけです。
狐に占領されている人間は、後脚で砂をかけたように結末をもっていく。ここに、正神界と邪神界を分ける審神のポイントがあるのです。
本当の神様、神界、神仙界と、金毛九尾、雑狐狸、低級霊、行者界、龍神界、正神界の龍神ではなく、ギャングのようになってしまった龍神、あるいは、ギャングのようになった天狗、これらを総称して兇党霊と言うことは、「神界からの神通力」(たちばな出版刊)に書いたとおりですが、正神界のものと邪神界、あるいは兇党霊界のものを分けるのは真心の一点。
これが正邪を分別させる審神のポイントなのです。
これを植松先生が教えてくださった。漠然とわかってはいたのですが、明快な審神の神法としてはっきり教えてくださったのが、植松先生です。
だから、人形・形代を書くにしても、ご奉仕をするにしましても、「愛をもって帰一するを真心となす」で締めくくる。衛星放送会場でご奉仕している人、あるいは衛星放送でご覧になっている皆さん、そして現地の皆さんもそうです。支部長、エリア本部長、コミッティー、会社でも・・・・・・どんな役割、どんな仕事、どんな神業をしておりましても、「愛をもって帰一するを真心となす」で締めくくる必要があります。
最後を愛で締めくくるのが真心
では、真心って何かと言うと、「愛をもって帰一するを真心となす」だから、「最後を愛で締めくくる」のが真心。
しかし、全部が全部、愛ばかりではダメです。知恵もいれば、忍耐もいります。
あるときは厳しく戒めたり、あるときはルールを決めたり、あるいはまた追及したり、けじめをつけたりということは必要です。
人間界は善ばかりではない。悪もいるし、歪んだ人間もいる。未熟な人間、傲慢な人間、無礼な人間、増長魔の人間、我の強い人間もたくさんいる。だから、何でもかんでも愛で受け入れるわけにはいかないけれども、しかし、最終的に何で締めくくるのか。それは愛をもって帰一する。
何をもって帰一するのか。これがキーワードなのです。
最終的に愛をもって帰一する。仕事とか、つき合いとか、あるいはまた、仕事の最後の締めくくりを愛で帰一することが、真心というものです。
「真心、真心、真心だ。真心が大切なんだ。何をやるにしても真心込めてやらなければいけない」と言う人はたくさんいます。しかし、最終的にやりっ放し、言いっ放しだったら、真心があると言えるでしょうか。
もうやめたとか、ケツ割ったとか、ケツはもともと割れているんだけれども(笑)、さらに割って、おれは知らん、お前やってくれとか、あいつはああなんだ、こうなんだと、いままで仲がよかったのに手のひらを返したみたいに排斥するとか、それが真心と言えるのかどうか。
本人は真心、真心、真心と言っているけれども、最後を愛で帰一しているのか、怒りで帰一するのか、放り投げて帰一するのか、やりっ放しに帰一するのか、人のせいにして帰一するのか、おれはもう知らないと無責任で帰一するのか、手抜きで帰一するのかです。
今日はもう正月の四日です。四日までご神業をやっているわけです。それを、三日から参加しようというのは、どうでしょう。真心がありますか。まあ、気持ちもわからないではありませんが、やっぱりこれ、真心がないです。
二十九日から実直にずっとやっているのに、三日から来て一日だけ参加するというのは、やはり間違っている。どこか間違っている。それは、真心のある行為かどうかなのです。
神に対して、あるいは組織に対して、神業そのものに対して、お仲 65 間に対して、そして私に対して真心のある行為なのかどうかです。自分で自分を審神したらわかるはずです。まあ、たとえて言うならですよ。
善悪正邪が混交する世の中ですから、何でもかんでも愛で、真心で、なんて言っていると悪い人間に牛耳られたりします。そのかぎりで、この世の知恵も必要なのですが、最終的にどう締めくくるのか。
すなわち、愛をもって帰一するのか、怒りをもって帰一するのか、無責任をもって帰一するのか、何をもって帰一するのかというふうに自分自身を見ていかなければいけないわけです。そして、愛をもって帰一するというふうに締めくくったときに、人から「ああ、あの人は真心があるね」「やっぱり、真心があるよね」と言われるようになるのです。
最終的に、やりっ放し、責任転嫁、投げやり、無責任、人任せで、後脚で砂をかけていくような人間は狐憑き。というより、狐そのものです。いっときはよくても、一年、二年、三年、四年、五年と年月がたったときに真価が問われます。
本当に優れた御魂の人は、どこまでも真心がある。いっときよくても、最終的に投げやりになって続かない人は、投げやりをもって帰一しているわけです。こんなのはやめたと。
もう、投げるのは簡単です。ケツ割るのも簡単。やめるのも簡単。信用なくすのも簡単。壊すのも簡単。創っていく、築いていくのが難しいのです。
「百日の説法、屁一つ」という言葉があります。百日のお坊さんの立派な説教も、最後にブワッとおならをすると、いっぺんに値打ちがなくなってしまう、というのがこの言葉の意味ですが、初めから屁をしておけば、聞くほうも「こんなものか。へえー」と思って聞きます(笑)。
それでも、素晴らしい説法で最後を締めくくればいいのですが、一発目の屁があまりにも唐突で、あまりにも大きくて、あまりにも臭いと、「何を言ってるんだ」ということになって、ずっとあとを引きますから、お説法のときはやっぱり屈はしないほうがいいですね(笑)。
とにかく、百日の説法、屁一つ。築いていくのは難しいけれども、やめるのは簡単です。投げるのは簡単です。
やめる、投げる、ケツを割る、無責任、捨てる、投げやりになる、ということになったら、最後の締めくくりが、やめるをもって帰一する、投げるをもって帰一する、ケツ割りをもって帰一する、無責任をもって帰一する、捨てるをもって帰一する、投げやりをもって帰一する、諦めをもって帰一する、責任転嫁をもって帰一する…。そのほか、おれは知らんよ、われ関せずをもって帰一するとか、いろいろな帰一の仕方があります。
神人合一の神法を活用する法
やはり、正神界の神様に通じる道は、愛をもって帰一するしかない。
ただし、この場合、どうすることが愛をもって帰一することになるんだろうかなと、考えなければいけません。こういう状況、こういう場所、こういう立場、こういう役割において、どうすることがいったい愛をもって帰一することになるのだろうか、ということを考えなければいけません。
「すべて愛をもって帰一するを真心となす」というのは、神人合一の大事な神法の一つですけれども、それは神法、原則であって、私たちはその神法に基づいて現実界で考えなければなりません。
「この場合、どういうふうな言葉を、どういうふうにかけるのが、愛をもって帰一することになるのだろうか」
「この場合、どういうふうな行動を、どういうふうに行動すれば、愛をもって帰一することになるのだろうか」
「この場合、どういうふうな役割を、どういうふうに果たせば、愛をもって帰一したことになるのだろうか」
「この場合、どういうふうに、みんなに向かって、あるいは自分自身に向かって、祈ること、あるいはまた言って聞かすこと、あるいはまた行動すること、あるいは団結することが、愛をもって帰一することになるんだろうか」と考える。これが、神人合一の神法を活用しているということなのです。
神人合一の道を活用する。それに基づいて、ああでもない、こうでもない、どうなんだろうかなということで試行錯誤をし、努力しているプロセスが、神人合一の道なのです。
神人合一の道って何なのか。
甲州街道でも、青梅街道でも、環七でも、第二阪神国道でも、東名でも名神でもない。目に見えない道です。
神人合一の道というのは、目に見えない道なんだけれども、神人合一の神法が降ろされているので、その神法に基づいて、この場合、どうすることが愛をもって帰一することになるのだろうかと、ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。そうやって修養している日々、これを「神人合一の道にある日々」と言い、あるいはまた、そのプロセスを「神人合一の道」と呼ぶわけです。
神人合一の道というのは、甲州街道ではありませんからね(笑)。
西荻窪駅の近くを通っている神明通りのことではありませんし、大仁の総本部にある、あの田京駅から上がっていく道が神人合一の道ではありません。目に見えないプロセスのことです。
何のプロセスなのか。神に向かっていくプロセスとも言えますが、われわれの場合は、神と人間とが一つになれる法則、ポイントである神人合一の神法が降ろされているので、そのポイントに基づいて、われわれの生活とかご神業のすべてをチェックしていく。つまり、神人合一の神法とはチェックポイントでもあるわけです。
ゴルフでも野球でも、スイングチェックなんていうことをやりますけれども、ボイントとなる箇所がちゃんとできているかどうかをチェックすると、ナイスショットが出る。あるいはホームランをかっ飛ばせる。料理の場合なら、ポイントをチェックすると、おいしい料理ができあがる。
しかしそれは、ポイントはわかっていても実践しなかったら、ナイスショットも出ないし、ホームランも打てないし、おいしい料理もつくれません。
いい絵を描くには、こうやって、こう描いていかなければならないという、絵がきれいに見えるための法則がありますけれど、その法則をどんなに知っていても、その法則に基づいて実際に描いてみないと、いい絵は描けません。それと同じです。
ワールドメイトには、神人合一の神法が降ろされていますが、その神法に基づきながら、あるいは活用しながら試行し、努力していく。その実践していくプロセスそのものが、神人合一の道なのです。
ご存じのように、儒教では仁・義・礼・智・信を大切にしていますけれど、どうすることが仁で、どうすることが義で、どうすることが礼、どうすることが智なのか。
あるとき、弟子の一人がその問題を師匠の孔子さんにぶつけました。それに対し孔子は何と答えたか。
「我仁を欲すれば斯に仁至る」と言ったのです。
仁というのは愛のことですけれど、「仁を志そうと思ってやったら、すでにあなたは仁の中にいるんですよ」と答えたわけです。
これ、神人合一の道と同じです。神人合一の道を志せば、すなわち、すでに神人合一の道に踏み込んでいるし、歩んでいるのです。孔子さんの言葉をそのまま応用すれば、わかりやすいでしょう。
そういうことで、「この場合、どういうふうに行動し、結論し、決断し、実行することが、愛をもって帰一したことになるんだろうか」というふうに考えていく。そして、そのように実行すると、それが真心になるわけです。
