神仙界に行く三つの方法(Vol.7)

最も功の高い第一期の救霊師

位上げの救霊師になったならば、単なる救霊の活動だけではなく、日常生活のあらゆるところで、役小角行基、空海が守護霊さんとして守ってくださいます。したがって、日常生活のすべてに仏様を動かしてお取り次ぎをする救霊師になったのですから、霊を救うという最初のレベルから範囲が大きく広がっております。

これが、新しい次元に入ってきた救霊師の意義と使命です。それだけ次元が上がり、位が上がって、活動も上がってきた、ということです。

救霊師もこのように位が上がってきておりますが、それは一昨年と去年、新しく救霊師になった人にかぎった話ではありません。いままでずっと活動してきた救霊師もそのことがわかったならば、わかったと同時に位が上がります。

そのためにも、ビデオテープは必ず見ていただきたい。正式に認可を与えると一層、働きが強くなりますけれども、認可がなくても大丈夫です。全救霊師がそうなりますようにと、私はいつも祈っていますから、そのことがわかり、自覚するだけで、いままでやってきた救霊師も全員、同じようになります。

いままでずっと活動してきた救霊師も、後になって次元が高くなった分は、全部吸収できるわけです。

「何だあー。それなら去年救霊師になるより、今年なったほうがよかったな。カシオペア救霊師のほうがいいもんね。マックホルツなんて彗星だけども、カシオペアは宇宙の根源だもんね。去年なるよりも、今年なったほうがよかったかな」などと考える人もいるかもしれません。

しかし、去年、救霊師になった人は、マックホルツ救霊師であると同時にカシオペア救霊師でもあるのですから、先に救霊師になったほうが、やはり徳分が高いし、損得からいっても得です。

来年、再来年とさらに進化していきます。じゃあ、第一期の救霊師はどうなるのかというと、一期の救霊師は一番すごいです。一期、二期、三期の救霊師の場合、試験のハードルも高かった。発願した人のうち、合格したのは三分の一以下。残りは全員、不合格。

救霊師になりたくても、試験で落とされたんですよ。このときの救霊師が一番素晴らしい。だんだんと数が増えてくるにつれ、物理的に一人ずつケアできなくなってきますから。バーが低くなり、なりやすくはなりましたが、一人ずつケアできなくなってきて、私が個別に面倒見きれなくなってきた分だけ、神様のパワーが大きくなってきている。

働きと次元が広がってきている。働きと次元が広がるから、救霊師になりたいと希望する多くの人がなれるわけです。

では、最初になった人はどうなのかというと、バーも高かったし、不合格になった人もたくさんいた。そういう登竜門をくぐり抜けてきた人の名前は全部、私が覚えております。それに、個別にケアすることができましたから、救霊師としての能力もハイレベルなものになっています。やはり年季が入っています。

ですから、一期、二期、三期といった初期のころからの救霊師は、すべてマックホルツ救霊師であると同時にカシオペア救霊師であり、今後、より進化していったら、その救霊師でもあるのです。

これは、九頭龍師も同じです。一期の九頭龍師が一番偉い。だんだん、だんだん、九頭龍師の数が増え、黒潮九頭龍師とか、いろいろ新しい九頭龍師も誕生してきましたが、初期からの九頭龍師は全部足されていきます。

まだ形のなかった初期から救霊師としてやってきた草分け的な人たちは、それだ年季が入っているし、神業の功績、功があります。不合格がたくさん出るほど試験も厳しかった。それに比べてあとから救霊師になった人は楽なように見えます。あとになればなるほど楽に見えます。

しかし、年季、歴史というものに対しては、新しい人間がどんなに逆立ちしてもかなわない。タイムマシンに乗って昔に戻るわけにはいかない。どんなに逆立ちしても、新しい人は古くはなれないのです。

もちろん、古い人間は新しくもなりませんけど、積み重ねてきた年季と功というものがあります。神業の功績があるから、最初の救霊師、最初の九頭龍師は、その後、どんどん、どんどん進化していっても、全部、吸収できます。ご神業を最初からやっている人は、知らないうちに功が足されていくのです。

支部長もそうです。神様に発願して、何もないところから支部をつくって、統廃合を乗り越えて人が育っていく。それは神様から見たら大変な功です。最初に支部をつくったその人がいなければ、次のコミッティーも、次の人も出てこないわけですから。ですから、後輩が頑張れば頑張るほど、何もしなくても功が上がっていくのです。

やっぱり、やるのなら最初のほうがいい。あとあと組織が大きくなったら、草創期から関与していた人は得です。ご神業にかぎらず、会社でも何でも、組織というものはそういうものです。

ニューヨークエリア本部もそうですし、ロンドンもそうです。何もないところか立ち上げていくときには、不自由なことが多い。規範もできていなかったり、ノウハウや、やり方が未熟で、至らなかったりするところがたくさんあります。それでも、未熟で足りないながらに不自由を超えて一生懸命につくった人は、苦労も多いけれど、それだけの喜びがある。

と同時に、組織が発展して大きくなり、人が育ってきたら、それがその人の功になります。神様の目から見たら、大きな功です。その人の存在と努力があったからこそ、それに続く人が出てくるわけですから。

だから皆さん、草創期からご神業をやってきた人には、何もしなくても徳分として功を与えてくださっているのですよ。まだこれからという組織、不十分なところでは苦労もするけれど、頑張った分以上に功は高い。それが神霊界の真実です。まだ今ひとつのサテライト支部、今ひとつのエリア本部、今ひとつの支部で頑張っている人がたくさんいると思います。

でも、いま頑張っているその努力が素晴らしいのです。辛いこともいろいろとあることでしょうが、神様がご覧になっていますから、それを喜びとして、より一層励んでいただきたいと思います。

大仏の開眼供養に命を懸けた行基菩薩

今日は、話が横道にそれてばかりですけれど、役小角、行基菩薩、空海の話に戻しますと、聖武天皇が十一面観音をお祀りするために行基を行かせた、という話をしましたね。

その行基という人はものすごいシャーマンで、「日本霊異記」に聖者として行基菩薩のことが書かれています。それほどまでのシャーマンであったばかりでなく、行基は、五千人、六千人という人をぞろぞろ引き連れて、治水、灌漑、土木工事をしたり、貧しい人に食べものをあげたりしております。そういう意味で、行基は社会福祉の始まりとも言えます。

それくらい、社会に貢献した行基だったのですが、さっき説明した僧尼令に反するからという理由で、政府から弾圧されておりました。

ところが、そののち彼は許されます。誰が許したかといえば、聖武天皇です。

聖武天皇は、奈良の大仏の建立を発願しただけでなく、全国に国分寺、国分尼寺をつくりました。それはなぜかといえば、その当時、日本の国中に天然痘とか飢餓とか動乱が起きておりまして、それを仏様の力で何とか平らけく、安らけくしていただきたいと願ったからです。これがいわゆる鎮護国家の思想です。

その鎮護国家の思想に基づいて聖武天皇は、国家事業として大仏の建立を発願したわけですが、そのとき、霊力を持って奈良の大仏さんを開眼してくれる人は誰なのかと考えたら、行基しかいない。当代随一の霊能者、当代随一のシャーマンですから。

それで、僧令に反するということで弾圧されていた行基を、聖武天皇がお許しになった。多分、夢のお告げだったのでしょう。その当時、行基以上の霊能者はいませんから。それだけのものすごい霊能力を持ってる行基を許して、聖武天皇は、直々に行基にお願いしたわけです。

「大仏の開眼供養をしてくれるのはあなたしかない、どうぞお願いします」と。

その、聖武天皇の願いに応えるために、行基は何をしたかというと、二見浦で修業をしたのです。

役小角は、蓑をかぶって雨露をしのぎ、松葉をしがんで断食をしました。これを苦修練行といいます。苦を修め、行を練る。その苦修練行した役小角のように、行基は二見浦でずっと断食修業をして、大仏建立の開眼供養のため、そして聖武天皇様のために祈願をするのです。

それまでは、僧尼令に反するからということで弾圧されていたのですが、大仏建立は国を挙げての一大事業ですから、僧尼令に反する云々なんて言っていられない。大仏の開眼供養をするのはもう行基しかいないと。その天皇の勅に、御心に応えるために、行基は「何とぞ奈良の大仏さんの開眼供養ができますように」と、命を懸けて修業したのです。

聖武天皇が行基に命じて、鳥羽・青峰山の正福寺に十一面観音をお祀りさせたのは、その前です。行基が大仏の開眼供養ができますようにと、二見浦で修業をしその前です。

青峰山の正福寺の来歴には、次のように簡単に書いてあります。

聖武天皇が伊勢の朝熊山でお籠りをしたとき、「この青峰山は観音遊化のところだから、十一面観音を祀れ。これをお祀りして堂をつくれば、奈良の大仏、東大寺はできるだろう」という夢のお告げがあったと。多分、伊勢の神のお告げです。それで聖武天皇は行基に行かせた、と正福寺の来歴にはそこまでしか書いてありません。しかし、そういう関係だったわけです、聖武天皇と行基というのは。

正福寺をつくったあとに、十一面観音の助けで大仏さんが完成したのですが、今度は開眼供養です。開眼供養をどうするか、これが大きな問題として聖武天皇の前に立ちふさがるのです。

それというのも、奈良の大仏は完成しても、法界の毘盧遮那仏の御魂を宿さなかったならば、鎮護国家の思想といっても形だけになってしまうからで、国家事業としてあらゆる財政を傾けて完成させた大仏さんの開眼供養をどうするかは、聖武天皇にとって非常に大切な問題でありました。

聖武天皇は、己のことを超えて国家のために、民のために、何とぞ宇宙法界の毘盧遮那仏の力によって天然痘を抑えていただきたい、動乱を抑えていただきたいと祈ったのです。

あるいはまた、台風などが来ると、班田収授法の班田から農民が逃げ出してしまうので、この社会動乱をどうぞ収めていただきますようにと祈った。天の下、平らけく安らけくと、祈り続けられたのです。

その純な天皇の御心が叶うようにと、行基も二見浦で命懸けの修業をしたのです。それがいま、二見浦にあります二見興玉神社のところです。有名な夫婦岩のあのあたりの海で修業したのです。

ところが、大仏開眼供養を前にして行基は死ぬのです。自分を評価し、認めてくれて、頼ってくれた聖武天皇のお心を受けて、国家事業となる大仏開眼に命を懸けお応えしようとして二見浦で修業した行基は、開眼供養の前に命をなくすのです。

そして、肉体をなくした行基は、魂となって大仏さんに乗り移った、というのはおかしいですが、命と立て替えに神仏に祈ったのです。伊勢の神に、二見浦を通して。二見浦には猿田彦さんがいますけれども、命と立て替えに祈りを捧げ、その願いを、神様仏様がお受け取りになって、行基の命を立て替えに、大仏建立の開眼供養が無事に営まれたのです。

開眼供養の法要を実際にしたのは、インド人のお坊さんです。東大寺の大仏開眼供養はインド人のお坊さんがやったのですが、本来は行基が頼まれていた。行基は、奈良の大仏に本当の仏様が宿るようにと祈り、最後は己の命と立て替えたわけです。これ、ものすごい話でしょう。聖武天皇の心もすごいし、それに応えようとした行基もすごい。

僧尼令から反したかどで政府から弾圧されておりましたけれど、聖武天皇に許されて、その当時随一のシャーマンですから、天皇からぜひにと頼まれた。その聖武天皇の期待にお応えするために、命と立て替えに大仏開眼供養したのですから、実に感動的な話というほかありません。

空海と『大日経』の出合い

以前、奈良の大仏さんのところへ行って審神をしたら、大山祇さんがいらっしゃいました。国常立大神、またの名を大山祇大神と言います。毘盧遮那仏は、仏説によれば法界の主とされておりますけれども、実際にいらっしゃるのは大山祇でした。冥王星の主宰神であると同時に閻魔大王でもあります。

その大山祗さんがいらっしゃったということは、要するに跳梁跋扈ちょうりょうばっこする魑魅魍魎ちみもうりょうとか、あるいは疫病、災害、動乱を抑えるためでしょう。大山祗さんはそういうお力を持っていらっしゃいますから。

奈良の大仏の前にある池には、宇佐八幡さんの分け御魂の、手向山八幡さんがいらっしゃいますが、みんな本当に国のことを思い、民のことを思い、命懸けで大仏建立に力を貸したのです。

その東大寺の奈良の大仏さんに、空海がお籠りしたわけです。ここにくるまでえらく話が長くなりましたけれど、この奈良の大仏さんにお籠りをしたところ、奈良の大仏さんが現れて、「空海よ、おまえの行くべき道は久米寺にあるぞ」と告げた。

要するに、霊告を与えたわけです。神道では御神示といいますが、仏様の場合は霊告といいます。霊的にお告げになっています。

そのお告げを与えた東大寺の仏様とは、大山祗さんです。そして、行基の魂も大仏に入っているのでしょう。そういう大仏さんが空海に霊告を与えたということは、行基の命と立て替えにやってきた仏さん、プラス行基が空海を導いた、ということでしょう、霊的に分析すると。

ともかく、空海は奈良の大仏のお告げによって久米寺へ行った。しかし、お告げのままに久米寺に来たものの、何をしたらいいのかわからない。

また話が横道にそれますが、久米寺は、久米の仙人が開いたと言われております。

久米の仙人というのは抜群にすぐれた仙人だったのですが、空を飛んでいるときに、川で野菜を洗っている美人を見つけ、その脚があまりにも美しかったものだから、「うわーっ、きれいな脚だあ」と心を奪われた瞬間、地面に真っ逆さまに落ちてしまった。それで、現実界の女性と結婚して、仙人ではなくなってしまった、というのが久米の仙人です。

ところが、大嵐が来て、大量の木材を動かさなければならないというとき、昔取った杵柄というか、昔打った篠塚というか(笑)、巨人軍時代に打ったホームランを思い出し(笑)、仙人がグワーッと祈ったところ、ものすごく積み上げられた材木が一瞬のうちに消えてなくなってしまった。さすがは昔取った篠塚、昔取った杵柄、久米の仙人だけのことはある、という話が残っています。

面白い仙人です。人間界の女性を好きになって、仙人から落ちてしまった久米の仙人。その久米仙人に基づいて建てられたのが、久米寺です。

その久米寺に来てはみたものの、わが行くべき道はどこにあるのか。たしか、空海二十五、六歳のころです。祈りに祈って、自分の行くべき道を探していたのです。仏教の道であることはわかっていたけれども、どの教えを選んでいいのかわからない。南都六宗、いろいろとありますからね。

それで、久米寺にある書物の倉庫に入って、「わが行くべき道を知らしめたまえ。東大寺の大仏さん、神様、仏様。大仏さんの言ったとおり久米寺に来たけども、わが行くべき道がわからない。どうか知らしめたまえ」と、祈りに祈り、目をつぶりながらアットランダムにつかんだ本が「大日経」だった。

ああ、これが私の行くべき道なんだ、ということで、その「大日経」を読んだのですが、大事なところになると梵語で書いてある。

大事なところとは何か。いかにすれば仏様と一体となるのか。すなわち、神人合の道の神法と同じです。いかにすれば仏様と一体となれるのかという、一番大事なところが全部、梵語で書かれていたのです。

もちろん、梵語はわかりません。だったら梵語を勉強するしかない。梵語を勉強しなければ、「大日経」に書かれてある、仏様と一体になる法は会得できない。じゃあ、中国へ渡ろう。中国へ渡って梵語を勉強し、「大日経」に書かれていることを会得するしかない。ということで、空海は中国へ渡って梵語を勉強しようとするのです。

そのとき空海は、大安寺の勤操というお坊さんに相談します。

私は、これこれこういう理由で中国へ渡り、梵語を勉強したいんだけれど、どうしたらいいんでしょうかと、胸の内を打ち明けます。それに対して、勤操はこう答えます。

「焦るな、焦るな。次に遣唐使が出るのは数年先だ。だから、焦るな。特別に政治力を使って、お前が遣唐使船に乗れるようにしてやるから、決して焦るでないぞ」

遣唐使船が出るのは数年先だといわれまして、では、それまではどうしたらいいかということで、空海の足跡がここでプツリと消えているのです。これを「空白の七年」といいます。その空白の七年の間、空海はおそらく、役小角や行基菩薩のたどった山岳宗教、修験道の霊跡をずっと巡っていたのでしょう。

空海にはすでに、大仏さんから直接、霊告を受けるだけの霊覚と霊能力がありました。そのとき二十五、六歳のころです。しかし、中国に渡るまでまだ数年もあるから、霊能力をより一層研ぎ澄ますために、役小角と行基の足跡を訪ね、山岳宗教、修験道の霊跡をずっと巡っていた。

おそらくそうであろうといわれております。文献上の確証はありませんが、七年間、行基の行ったところを巡っていたのは間違いないところです。

奈良の東大寺でお籠りをし、大仏に祈ったということは、行基のことを知っていたということですから、空海が行基の行ったところをたどったであろうことは疑いない。

その行基が行ったところは、役小角が行ったところでもあります。行基は役小角の行跡をたどったわけですから。そういう意味で空海は、日本の山岳宗教の系譜を全部吸収していたといっていいでしょう。七年の間に、きっとものすごい霊能力を身につけたのではないかと思います。

空海恵果阿闍梨から相承して真言八祖に

そして、歳月が流れ、空海は遣唐使船に乗って中国へ向かいました。途中、遭難して予定の航路から大きく南にそれましたが、赤岸鎮という海岸に何とかたどり着きました。

いまでも真言宗のお坊さん、赤岸鎮に行きます。でもそこは、目的地からだいぶ離れていたうえ、これまで遣唐使船が来たことのない所であったため、海賊に間違えられて、なかなか上陸させてもらえなかった。お役人が許可しないのです。

ところが、空海がさらさらさらと書いた文章、もちろん漢文ですが、これがあまりにも素晴らしい名文で、ものすごい達筆だったものだから、それを見たお役人が「こんなすごい文章、海賊に書けっこない」ということで上陸を許可し、空海一行は赤岸鎮から長安まで、ずっと長い道のりを行くことになったのです。

そういうことで、空海は梵語を勉強しようと思って中国へ行ったわけですが、果阿闍梨に会うまでに半年ぐらいかけています。長安に着いてすぐ、恵果阿闍梨に会ったわけではありません。もったいつけているといえば、もったいつけているのですが、いよいよ会うとなったときには、「日本から来た留学生の中に、ものすごく優秀なやつがいる」という噂が広まっておりました。

もちろん、それは恵果阿闍梨の耳にも届いていて、「なかなか来んなあ。まあ、そのうち来るだろう」と、空海が来るのを楽しみにしていた。その間、空海は猛烈な勢いで中国語を勉強して、恵果阿闍梨の言葉を理解できるようにしていた。

お互い霊能者だから、会うタイミングを見計らっていたのでしょう。

うして、いよいよ空海は長安の青龍寺におもむき、恵果阿闍梨に会うことになるのですが、顔を合わせたとき、恵果阿闍梨が最初に発した言葉が、「お前が来るのをいまか、いまかと待っていた。お前の来るのは前からわかっていて、いまかいまかと本当に待ち続けていたんだよ」と。これが恵果阿闍梨の第一声です。お互い、神様に導かれていたわけです。

その後、空海は梵語を勉強し、真言密教の一厘、口伝のものを恵果阿闍梨からすべて教わるのですが、それはわずか三ヶ月間。たった三ヶ月で、恵果阿闍梨のすべてを継承したのです。そして、伝授した後に恵果阿闍梨は言います。

「わしの余命はもう、いくばくもない。お前はすぐに日本に帰れ。そして一刻も早く密教を弘め、人々を幸せにせよ。わしは、今度生まれ変わるときにお前の弟子にそう空海に告げるのですが、そのとき恵果阿闍梨は自分が死ぬ日まではっきりと予言し、事実、そのとおりに亡くなるのです。

空海がまだ中国にいるときに亡くなったのです。それで空海は、恵果阿闍梨のために碑文を書きます。恵果阿闍梨がいかに立派で優れた方であったかという文章を空海がつくり、見事な字で書いたのです。

そのときからです、「五筆和尚」と呼ばれるようになったのは。五流派の書をことごとく書き分けるほど書がうまい、ということで「五筆和尚」と呼ばれるようになったのですが、それから五十年後、天台宗の智証大師円珍が中国に渡り、長安の青龍寺に行ったときのこと、「沙門空海はどうしているか。五筆和尚はどうなった」と、中国人の誰もが空海のことばかり尋ねてきた、という話が残っております。

五十年たってもまだ、空海のことが語り継がれていたということは、やはり、それだけ当時の中国の人にとっては衝撃的な人物だった、ということでしょう。大天才だったわけです。

恵果阿闍梨の下には、空海のほかにもう一人、義明という優秀な弟子がおりました。この人が二千人の門弟を従えていくのですが、恵果阿闍梨は真言の八祖の位をその中国人の弟子ではなく、空海に与えるのです。

「これを日本へ持っていけ。やがて中国も弾圧があったりして、ここでは続かなくなるだろうから、仏教ながらの国へ持っていけ。一刻も早く日本へ帰れ。わしの余命はいくばくもない。次は日本人に生まれ変わって、お前の弟子になるから」という言葉を残して、恵果阿闍梨はお亡くなりになった。

そして、彼のための碑文を書き、その年に中国から帰ってきます。たくさんのお経と法具を携えて。

しかしまあ、恵果阿闍梨から伝授されたのはわずか三ヶ月です。三ヶ月で密教をマスターしたのですから、やはり大天才というほかありません。

その空海に印可を与えた恵果阿闍梨が、私の前世です。

そして、それを相承した空海が出口王仁三郎の前世です。えらい昔の話ですけども、私の前世が真言七祖で、王仁三郎が八祖。天才ぶりに関しては空海のほうが上でしょうが、恵果阿闍梨が胎蔵界、金剛界を両方揃えて体系づけた。それを空海に託し、空海が日本に伝えたのです。