自分自身を知れ
コミュニケーションの原則は意思の伝達ですが、主張するだけでは自分の意思は伝達されません。
そんなことをすれば、かえって反目されるし、嫌がられるし、拒否されるだけです。伝達の内容が受け入れられて、評価されなければ意味がないわけです。
ですから、己を空しゅうして、場と相手を正しく見る必要があるわけです。
それから、今度は自分自身です。
失恋のあとか何かで顔面蒼白な状況のときに、「皆さん、本日はご結婚おめでとうございます」と言いながら、ぽろぽろぽろぽろ泣いていたら、「何があったの?」と、当然聞かれますね。
あるいはまた、「やっぱり男と女って不思議なもんですよね」なんて言っても、「そんなことは今日の結婚式に関係ないではないか、あなた個人のことでしょう」と言われてしまいます(笑)。
だから、明るい席に出る前は、自分の精神状態をよく確認し、落ち込んでいるなと思ったら、努めて明るくハイな精神状態にもっていって、席に着いたらもう、明るい顔で振る舞わなければいけないわけです。
逆に、たとえプロポーズした人が受け入れてくれて、「やったー、これで結婚が決まった」という直後であっても、遺族など悲しみに打ちひしがれている人の前では、悲しんでいる人たちの気持ちを忖度して、「ああ、つらいんだろうなあ、悲しいだろうなあ」と、自分の昔つらかったときのことを思い出しながら、その人たちの気持ちをおもんぱかる必要があります。
そういう自分になってからお話ししないと、当然伝わりません。「さあ皆さん、頑張りましょう!」と言ってしまうと、「何ニコニコ笑っているんだ」と顰蹙を買います。悲しみに打ちひしがれている人を励ましに来たとしても、その直前にプロポーズした人から、「喜んでお受けいたします」という返事をもらって浮き浮きしていたら、誰が見ても、顔がほころんでいるのが分かります。
そういうときは、表情をしずめて、顔に少しドーランを塗るとか、暗めの化粧をするとか、顔を少しこわばらせるとかしないといけない。
ふっと気がついたら、どうしても口元が微笑んでいますから、「あっ、口元をほころばしちゃいけない、うん、「うん」ということで、やっぱり低めの声で言う必要があります。
これがちゃんと分かって、それにふさわしいようなものの言い方ができて初めて、意思の伝達が正確にできるわけです。
励ますべきときは励まし、ちょっと引き締めなければいけないときは厳しめに、たとえ二人で話をするときも、大勢の前で話をするときも、また外国人と話をするときも、その場所と相手と自分がどのようなレベルなのかが分からないといけません。
さらには、相手に比べて自分はまだ知識もないし、社会的信用もないなというときには謙虚に言わなければいけません。
格下の相手でも、向こうが謙虚な姿勢だったら、こちらも謙虚に出る。そして、とくに気をつけなければならないのは、錚々たるお歴々を相手にするときです。
自分はまだまだヒヨッコなのに、偉そうな態度でものを言うとバカにされるだけで、誰も聞いてはくれません。そういうときこそ、己を空しゅうして、まず場を理解することです。
次に、相手が複数なのか、単数なのか、どんな状況なのか、どんなレベルで、どんな気持ちでいるのか、そして、いま自分はどんなレベルなのか、どんな状態なのか、社会的にも感情的にも、いまどういうふうな自分なのか。
これを見る目を養うということが、コミュニケーションの達人になるための極意です。
これさえある程度できていたら、表現方法が少しぐらいうまくなくても、たいして問題はありません。
「あの、あの、あの」と、少しばかり口ごもった言い方をしても、そこを正しく掌握していれば、相手に伝わります。
経験と研鑽で自分を磨け
日本語にしても英語にしても、もちろんうまいに越したことはありません。しかし、いま申し上げたポイントをきちんと押さえていれば、十二分に意思を伝えることができますし、そのうえ、語学力にさらなる磨きをかければ、より一層、素晴らしいコミュニケーションができるようになります。
だからといって、言葉巧みにしゃべれればいい、というものでもありません。
「巧言令色少なし」という言葉もあるように、レトリックばかりに長けていると、「あいつは口ばっかりだ」とか「ペラペラしゃべるだけの、薄っぺらなヤツだ」とか、あまりいいことは言われません。
なまじ表現能力があるため、かえってマイナスに作用してしまうわけです。
「言葉巧みに言う」ということ自体、マイナス的な意味合いが含まれていますから、そういうふうに評価されるようだったら、自分はコミュニケーション下手だと思ったほうがいい。
言葉が巧みだとしか言われないということは、要するに中身がないわけです。
では、中身とは何なのか。もちろん、意思であり気持ちなのですけれど、意思があっても、みんなに伝わらなければ意味がありません。なぜ伝わらないのか。それは極意が抜けているからです。
つまり、己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目を持っていないからです。
これを持ったら、たとえ日本語がもたもたしていて、「あの~、あの~」「えと、えーと」を連発しても、相手に伝わります。英語では「well, well.well」、あるいは「I think I think 」。ただ、下手な発音で「I think, I think 」と言っていると、「I sink, I sink」に聞こえて、「私沈んでいる、私沈んでいる」という意味になってしまうんです。
「そういえば、柔道でもいましたよね。あっ、あれはヘーシンクだ」などと、関西弁の分かる外国人に言われてしまいます(笑)。
だから、語学だけうまくなっても、極意が抜けていると、結局、中途半端なのです。
語学が上達すれば、通訳や翻訳家のように、人の言うことを代わりに伝えてあげることができます。しかし、通訳や翻訳家は人の言うことを訳すだけで、自分でコミュニケーションするわけではありませんから、別に極意を身につけていようといまいと務まります。
コミュニケーションの達人になろうと思ったら、語学がうまくなると同時に、この中身の極意を身につけなければいけません。
経験と研鑽、そして人々からの忠告やいくつかの失敗を踏まえて、己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目を養っていかなければならないのです。
そのうえで、日本語、あるいは外国語が上達すれば、うまくなるほどコミュニケーションが素晴らしくなる。
コミュニケーションの達人になっていくわけです。どちらかに偏っているのが問題なのです。並行していかなければいけません。
歌でもそうです。発声だけよくても、音程やテンポが狂っていたりすると、とても聴いていられません。
歌にも音楽理論、ソルフェージュ理論と言うんですけれども、発声や技術、表現方法に関する原則があります。表現方法に関していえば、悲しい歌は悲しく歌っていく。最初は大きく、その次はレガートで朗々と歌う。
レガートは「歌唱の芸術」だといわれています。レガートで歌うということは、やわらかく、伸びやかに、朗々と歌うということです。
その歌い方と発声と音楽理論です。楽譜を正確に理解していて、テンポや音程を間違えなく歌える。
その三つをバランスよく歌えるようになって初めて、本当にうまい歌手になるのです。
しかし、発声だけよかったり、感情表現だけがよかったり、ソルフェージュだけをビシッと歌っていても、ハートに訴えかけるものがないといけません。やはり、その三つがバランスよく上達していくことによって、歌も上手になっていくのです。
コミュニケーションも同じで、己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目を養っていって、初めてコミュニケーションが上手になるわけです。
それと同時に、大事なのは伝えようとする内容であり中身です。これはやはり知識だとか、主張だとか、気持ちだとか、伝えようとする中身が優れたものであればあるほど、相手に訴える力が強くなります。
コミュニケーションの達人になる三つの要素
整理していうと、伝える手段である語学力と表現力、伝える内容である主張、考え方、そして、相手と場を見ていく目、この三つが揃っていたら、コミュニケーションの達人になれるわけです。
歌が、歌い方と発声と音楽理論の三つのバランスで上達するように、コミュニケーション能力も、日本語や英語による表現力と伝えていく技術、それから、己と相手を正しく見ていく目、そして何を伝えたいのかという伝える中身の主張と思想、この三つが養われていくことによって、だんだんとコミュニケーションがうまくなるのです。
だから、たとえ語学力や表現力があると思っても、知識もなければ内容もないときには、何も言わずにニコニコしながら、「ああ、そうですか」と相槌だけ打っていたほうがむしろいいでしょう。
新参者には新参者の言い方があるのです。もちろん、中堅には中堅の言い方があるし、ベテランにはベテランの言い方があります。
重役が新入社員に向かって、「すみませんけれども、ちょっと電話していただけますか。お願いします」なんて言うのは変です。それに対して新入社員が、「えっ、私に電話をしろと言うんですか」と答えるのも変でしょう。
やはり、表現方法と技術、場と相手を見ていく目、そして伝えていく内容。この三つをバランスよく磨いていくことが大切です。
そうすれば、年齢とともにコミュニケーションがうまくなっていって、コミュニケーションの達人になるのですが、その三つのうちどれが一番大事かというと状況判断です。
己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目。これを養うことが一番大事であって、それがあれば、いまの知識や能力、いまの表現能力、いまの語学力で何とかなる。コミュニケーションがうまくいきます。
もちろん、状況判断さえできればすべてOKというわけではありません。これが一番大事だ、ということです。
この一点を忘れて、表現方法だとか主張だとか、そういうことばかりを考えていても、コミュニケーションはうまくなりません。言えば言うほど反目されるし、どんなに言葉を尽くして伝えようとしても、人々に受け入れられません。
結果的に、人間関係で悩んだり葛藤したりすることになります。人間関係がうまくいかない人の原因は、ほとんどここにあります。
思い込みや偏見があったり、あるいはまた我が強かったりして、他の考え方が受け入れられない。
それは、自分のことばかり考えているからです。そういう人はストレスがたまらないかもしれませんけれど、コミュニケーションはうまくいきません。
人間関係のトラブルにはいろいろな原因がありますが、一番の原因はここです。己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目がないから、問題が起きたとき、トラブルに巻き込まれたとき、どう凌いでいっていいかが分からない。
主義や思想、考え方に偏りがあるため、自分のことばかり考えて、周りが見えなくなってしまう。場や相手がどんな状況なのかが分からない。
理解しようという気持ちがあったとしても、思い込みが強く、己を空しゅうできていない分だけ、人間関係がうまくいかない。そういう人はコミュニケーションに難ありですね。
コミュニケーションがうまくいっていない人は、第三者が見たら分かる。そう思いませんか。たいしたこともないのによく言うな、何を偉そうに言っているんだ、いったい何様のつもりなんだ、と。
そういう人が皆さんの周りにもいるでしょう。
また、「私はこんなに一生懸命やっているんだから」と本人は言いますけれど、「一生懸命にやっているのはあなただけではない。ほかの人もやっているんだ」と言いたくなる人が多いです。
「お互いに大変ですけれども」と言えばいいものを、自分だけが大変な思いをしていると思っている。人の心理や人情の機微が分からないからです。
自分が世の中で一番苦労している、自分が一番大変だといつも思っている。世の中で私ほど不幸な人間はいないんだ、世の中で私ほど過酷な境遇の人はいないんだ、と。
仏教系の教団の人のなかには、「世の中で私ほど因縁の深い者はいないんだ」という人がたくさんいます。
「いや、因縁はあまりないですよ」
と答えると、
「ええーっ、そうなんですか。そんなはずはないと思いますけれど・・・」
と言ってがっかりする(笑)。いままで因縁が深いと思って頑張ってきたのに、因縁があまりないと言われると、何のために頑張ってきたのか分からなくなったと思ってがっかりするんでしょうか(笑)。
因縁が深いでしょ?私って因縁が深いですよね
・宗教団体、とくに仏教系の教団にいた人は、自分は因縁が深いと考える傾向があります。
そう信じて生きているのに、それをがっかりさせては悪いから、そういうときは私も、「ああ、そうですね」と、肯定とも否定とも言えないような返事をするようにしています。
いずれにしても、仏教系の教団で一生懸命にやってきた人の中には、「自分は因縁が深い。わが家ほど因縁の深い家はない」と考えている人がたくさんいます。
実際のところは、そんなにたいした因縁ではないケースがほとんどです。
素晴らしいパートナーに恵まれ、お子さんもちゃんといて、健康で普通に生きているのに、お父さんとかお母さんが病気がちだとか、親戚縁者の間で人間関係の葛藤があると、すぐに「因縁、因縁」と言い出すのです。ちゃんと結婚もして、子どももいて、本人も健康なんですから、客観的に考えれば、たいしたことはない。
もちろん、因縁がなくはないでしょうけれども、そんなに大げさに言うほどのことかと。
それに比べて、親戚縁者の中に二十歳を待たずに亡くなった人が五人もいて、お父さんの兄弟五人のうち四人が事故死か変死。
本人だけは空手八段で元気に頑張っていて、「うちの家はみんな明るいんですよ」と言う人がいました。
これはさすがに、因縁が深いと言えますけれど、ごく普通の生活を送っているのでしたら、「因縁が、因縁が」と騒ぐほどのことではありません。
何でも因縁に結びつけるのは、仏教系教団の一つのレトリックです。全部が全部、間違っているとは言いませんが、因縁と結びつけることで、信者を引き止めておきたいのかもしれません。
ある意味、何でも因縁と考えるのはクセです。それが分からない。人のことは分かるんですけれど、自分のクセはなかなか分からない。
コミュニケーションに難がある人の場合、原因の一つに思い込みと偏見があります。それがために己が見えないわけです。
「私だけがこんなに苦労して頑張っているのに、何なのよ、あなたたちは」と。こういう場合、そばにいる人のほうがもっと苦労しているケースが多いんです。
ですから、「私も苦労しているけれども、あなたたちも大変よね」とか、「私も因縁が深いけど、おたく様も負けないぐらい大変ね。まだ私のほうがましかもしれないわね」と言うのならOKです。
いいコミュニケーションといえるでしょう。
それでも、何でもかんでも因縁に結びつけなければ気が済まないのなら、「霊障者友の会」とか「悪因縁協同組合」をつくったらいいのではないでしょうか(笑)。仲間をつくって、みんなで明るく生きていこう、と。
人間誰しも、自分だけが大変だとか、自分だけが正しいと思いがちです。
しかし、自分は正しいかもしれないけれども、人も正しい場合があります。それがなかなか分からない。なぜ分からないのかというと、それは「学問」がないからです。
我見、我執を取り去る学問の力
「己を空しゅうする」と言いましたが、分かっていても、なかなかできるものではありません。己を空しゅうするというのは難しいことなのです。
己を空し くするというのは、己をエンプティーにすることであり、エンプティーだからこそ、外から情報や知識がいっぱい入ってくるわけです。
しかし、我見と我自分なりのものの考え方に固執していると、中身がいっぱいだから、もうそれ以上入りようがありません。己を空しくしないことには吸収できないのです。
だから、我見や我執はできるかぎり払拭する必要があります。
では、どうしたら払拭できるのかというと、これはやはり学問の力です。学問を身につけるしか方法がないといっても過言ではありません。
自分は正しいかもしれない。しかし、人も正しい場合がある。どちらが正しいかなと考えたら、四分六であちらのほうが正しかったな、と。
あるいは、あの部分については自分が間違っていたけれど、この部分は正しかった、と。
そういう客観的に見る目を養うには、やはり学問を身につけるのが一番の早道で「論語」の中で孔子は、「たれを知るをそれを知るとし、知らざるを知らずと為せれ知れるなり」と顔回に言っています。
「顔回よ、お前に物事を知るということはどういうことか教えてあげよう。「これは知っている」「これは「知らない」ということをはっきりさせることだ。
これが物を知るということなんだよ。人間、何でも知っているわけではない。このことは知っているけれど、このことは知らない。
知らないことは人に頭を下げて学んでいこう。これが物事を知るということなんだよ」と、孔子は言ったわけです。
これはまさに己を空しゅうする方法です。自分も正しいかもしれないけれども、人も正しい場合がある。
フィフティーフィフティーだったり、四分六だったりする。そういうふうに、客観的かつ冷静に自分を見ていける目を養うことができるのは、やはり学問の力です。
人間は、学問の力を身につけなければいけないのです。
古学者は己の為にし、今様の学者は人の為にする」という言葉があります。
昔の学者はエゴイストで、いまの学者は世のため人のために生きているという意味ではなくて、古の学者は自分の修養のために学問を積んだけれども、いまの学者さんは、自分の知識や考え方を披瀝せんがためにやっているんだ、という意味です。
学問の話になると、どうしても「論語」からの引用が多くなりますね。「論語」を読んで儒教の精神を勉強していくと、己を空しゅうする方法が分かってくる。
学問といっても、コンピューターグラフィックスや宇宙工学の勉強ではありません。そんな勉強をしても、当然、己を空しゅうする方法が分かるはずがありません。
私が思うに、学者さんほど我の強い人はいません。学者さんは論戦しますし、学問の成果が即、地位や名誉や財産に結びついてきますから、我欲のための学間になりやすい傾向にあるのは否めません。
私の言っている学問は、現代の学者さんの学問ではなく、昔の学者さんの言う、己の修養のための学問なのです。極論すると儒教、もっと極論すると宋学です。
宋学の基を開いたのは周渓先生。その弟子の程明道、程伊川、その後に続く張横渠といった人たちが、周渓先生の遺志を継いで研究し、それをまめたのが朱熹です。
それを朱子学と言います。
それに対して、実践的に儒教を語ったのが王陽明なのですけれど、朱熹の書いた「近思録』の中に、ある人が、「学問を学んで聖人になれるんですか」と伊川先生に尋ねたところ、「なれる」と答えたという話が載っています。周濂渓先生の弟子の程明道、程伊川というのは兄弟なのですが、若いんです。
そのとき確か、十八歳ぐらいだったのでしょうか。ある人が「聖人は学んでなれるのですか」と尋ねたら、十八歳ぐらいの程伊川先生が明快に「なれる」と答えたという話が伝わっています。
顔回が楽しんでいた「聖人に至るの道」
では、聖人は何を学ぶのか。「顔回、三月仁に違わず」で有名な顔回は、いつもニコニコしていた。ニコニコしていったい何を楽しんでいたのかというと、「聖人に至るの道」を楽しんでいたんです。
その「聖人に至るの道」は学問なんだ、と朱子学では言っているわけですけれど、しかし、王陽明はそうではない、と。
「聖人はなるものではなく、もともと自己の中に内在しているものであり、人欲がそれを覆ってしまっていて、外に出てきていないだけなんだ。
欲をなくし、己をなくすことによって、自分の中に眠れる本来の聖人、これを出していく。その聖人の知恵こそが良知なんだ」と言って、知に対して良知という言葉を使った。より禅的な中身を言っているわけです。
私の「どこまでも強運」(たちばな出版刊)という本を見たら、良知のことに関してもう少し詳しく書いてありますけれど、顔回は「聖人に至るの道」というものを勉強していた。その際、誰をサンプルに学んでいたかというと、政治家であり、帝であり、聖者であった、堯舜、禹を手本に「聖人に至るの道」を学んでいたのです。
アメリカ合衆国の初代大統領、ジョージ・ワシントンは「建国の父」として、いまなおアメリカ国民から尊敬されています。
桜の木を切ったのは自分だと名乗り出たということで、大変な正直者として語り継がれていますが、彼は大統領であると同時に、誰もが尊敬する素晴らしい賢者、あるいは哲人だったんです。
偉大な政治家であると同時に、人間の理想像。その両方の要素を兼ね備えていたわけです。
聖人のサンプルというのはワシントンのように、立派な政治を行う大統領のような側面を持ちながら、生まれながらの天子、天皇のような人であって、同時に哲人でもあるという、尊敬すべき理想の人間性。
この三つが兼ね備わった人を、儒教では聖人というふうに定義しているのです。
理想的な人間関係を教える儒教
儒教で言うところの聖人とは、具体的に何を心がける人のことなのか。堯が舜に語った言葉が残っています。
「人心これ危うく、道心これ微かなり」と。
人間の心には人心と道心がある。「魂魄この世にとどまりて」の魂は道心。素晴らしいものをよりよくしていこうという善なる部分。
魄というのは人心、人間の心。すなわち体が求める欲望です。魂と魄との戦い。この道心と心が、絶えず私たち人間の心の中で戦っているわけです。
それで、聖人とは政治家であると同時に、よき帝であり、理想の人間であるのですが、その三つの要素を兼ね備えた聖人になるポイントをお前に教えてやろうと、が舜に伝えたのが、いま言った「人心これ危うく、道心これ微かなり」という言葉です。
人間が堕落するのは全部、この人心があるからであり、人心で人間は堕落するんだよ、と。一方、道心とは神心であると同時に、魂の欲求であり、人間の一番高貴なるものであるがゆえに、微かなものなんだ、だから、この微かなる道心を大切にして、修養を怠ってはいけないんだ、と。
「人心これ危うく、道心これ微かなり」。堯舜に伝えたのはこれだけです。それが政治家であると同時に、帝であり、聖人であるためのポイントだと教えた。
次に、舜が禹に伝えるときには、この短い言葉だけでは分からないので、言葉を足しました。
「人心これ危うく、道心これ微かなり。これ精これ一、まことによくその中を執れ」
代が下がるにつれて、やはり言葉をちょっと足さないと分からなくなるので、「これ精これ一、まことによくその中を執れ」という言葉を足したわけです。
「これ精これ一」。これを精一の教えといいます。精は精神力の精。
つまり、一つのものを精一に一生懸命努力して、その中を執り、右に左にあまり偏らないで、人間の感情が出てくる前の本質的な部分を見ていかないといけませんよ、と。「これ精これ一、まことによくその中を執れ」というのはそういうことです。
では、中とは何か。「中は天下の大本にして和は天下の達道なり。中和致して、天地に位し、万物を育む」というのは、「中庸」の中の定義ですけれど、「中庸」ではまた「ひとたび発して節に中る」と言っています。
人間の喜怒哀楽の発する前の状態で、ひとたび何かに触れるとパチッとポイントを突く。これが中の定義です。
普段は何もない。だけど、何かの折に触れてパチッとポイントを突く。ひとたび発すると節々のポイントにビッと中っていく。これが中です。
そういうものにならないといけませんよ、という言葉が足されていたわけです。私の著作に書いてありますから、もう一度、読み直してください。
一生懸命、精一にやって初めて、微かなる道心を大切にすることができる。
そして、よき政治家、よき帝、そしてみんなが尊敬する人間性の三つの要素を兼ね備え聖人になるのです。
学問とは、「聖人に至るの道」ということです。これは『論語』の中にあります。『論語』だけ見ていたのでは分からない。
そのもっと奥にある「大学」「中庸」を見ていったら、孔子の思想の源流が分かるし、孔子の教えに対する理解も深まります。
昔は、儒教のような心の問題を扱ったものを学問と言ったんです。最近は宗教と言いますけれど、昔はみんな学問だったのです。
近年、いろいろな宗教が誕生していますが、それらの教えを分析していくと、だいたい昔の学問に辿り着きます。
仏教の教えや四書五経からちょっと抜き出し、それを混ぜ合わせたようなものがいまの新興宗教の教理になっているわけです。
キリスト教系の新興宗教の場合でしたら、ユダヤ教とかギリシア思想とかバビロニアの思想が混入しています。
仏教、儒教、キリスト教。この三つの宗教をよく勉強していたら、いまの新興宗教はだいたい理解できます。
それ以上のことは言っていません。あとは、教祖やその周辺の人の体験から出た言葉。
それを読んだら、ああ、そうですかということで、簡単に理解できます。別に、たいしたことは言っていません。
それを考えたら、昔の学問がいかに普遍的であるか分かるはずです。昔は、儒教が普遍的な学問だったわけです。儒教圏のアジアの国々が経済で大きく成功しているのは、そこに理由があります。
アジア経済はいま、大きく発展していますが、アジアのすべてが発展しているわけではありません。発展しているのは儒教圏です。
國弘正雄先生もそう言っておられますが、アジアでいま、経済が伸びているのはもともと儒教圏だった国々。そこの経済が伸びています。
それはやはりコミュニケーション。人間関係、対人関係、どういうふうに生きればいいのかという教えがあるからです。
人間関係、対人関係の教えというものを一番どこが学んでいるか、歴史的にあるかというのは儒教です。
謙を学んで己を修養せよ
ちょっと話は難しいほうへ行きましたけれども、コミュニケーションがうまくなるためには、己を空しゅうしなければなりません。
それは分かっているんだけれど、実際にはなかなか難しい。では、どうやったら空しくなれるのか。
一生懸命お祈りしたり、一生懸命に人の意見だけ聞いたりしていても、それだけではダメで、やはり学問がいるのです。その学問とは、いま言った学問です。
「近思録」の話に戻りますけれど、程明道先生が、「謙を学び、謙を実践すること一年私は謙というものを極めようと思って一年間努力した」と言っています。
一年間、謙譲の美徳の謙というものを学ぶことによって道が深くなった、と言っているわけですけれど、程明道先生はそのために、書道もやっていたんです。
一生懸命に書道をやっていた。それは何のためにやっていたのかというと、己を修養するためです。字をうまく書くためではなく、己を修養するために書道を学んだんだ、と。
「謙を学び、謙を実践すること一年」と書いてあります。
一年間、謙というものを一生懸命に学び、自分なりに修養した、書道をやるのも自分の修養のつもりでやっていた、というふうに書かれてあります。
私が書を学び、絵を学び、オペラを学び、能をやっているのもこれです。絶えず自分よりも優れた先生、あるいは怖いくらいの先生に「はい」と言って素直に頭を下げる。
「君、まだまだだね。ここがダメだ」
「はい、分かりました」
「練習して覚えてきなさい」
「はい」
「必ずやってくるように」
「はい」
そうやって、絶えず謙を養っているがゆえに、己を空しゅうすることができる。
己を空しゅうすることができるから、場と相手と自分自身が見える。
無理をしない。だけど、やらなければならないときにはやる。ちょっとやればいいときはちょっとやるし、目いっぱいやらなければいけないときは目いっぱいやる。
たとえ死んでもやるんだというときと、ゆっくりしているときと、いくらでも使い分けができるのは、それだけの修養をしているからなのです。
己を空しゅうするというのは、言葉は短いですけれども、これほど難しいことはありません。
では、どうしたらいいのか。謙の修養をする。『近思録」の中に書いてあります。程明道先生だと思いますが、ひょっとしたら、程伊川先生かもしれません。
とにかく、謙を勉強した、と。まだ十八歳のときです。そういうふうに学んでいたということが『近思録』には書かれています。
私も、いまの自分の立場と年齢に合わせて、ただ謙を学ぶだけではなくて、学ぶことがまた次へのプラスにつながるように、いつも修養しているつもりです。
くどくなりますが、己を空しゅうするためには学問を積むしかありません。
その学問とは、ひと言で言うと、儒教的な学問。
これこそが人間関係の中身を高めていくものでして、そのためのテキストはいっぱいあります。それらのテキストを活用して、皆さんも大いに勉強してください。
表現力の源泉は文学にあり
己を空しゅうしたら今度はレトリックです。どうやって表現力をつけていくのか、ということを考えなければならないのですが、表現力をつけていくポイントは、実は文学にあります。
宗教家であろうと、教育家であろうと、ビジネスマンであろうと、人の心に訴えかけて、人の心をとらえなければなりません。
その鍵となるのは文学です。ですから、よき宗教家はすべてよき文学者、よき教育家はすべてよき文学者、よきビジネスマンはすべてよき文学者、表現力のある人はすべてよき文学者なのです。
文学の素養のない人は、言葉が洗練されていませんし、言葉が生きていません。
その文学の中には小説もあれば俳句もあるし、短歌もあればポエムもある。いろいろあります。
それらを若いときにたくさん読んでいた人は、たくさんのインプットがありますから、その分、アウトプットが出てきます。逆に、読んでいない人は、素晴らしい文章、素晴らしい表現、生きた言葉がインプットされていない分、永遠にアウトプットがない。つまり、言葉の表現が下手なわけです。
文学を学ぶには、若ければ若いほどいい。しかし、歳を取ってもあの世がありますから、あの世のためにいまから準備をし、臨終の際には、「これが私の最期の言葉だ~!」と、格好いいひと言を残して死んでいく。
楠木正成公の
「七生報国」ではありませんけれども、人間は死ぬときの一念によって来世が決まると言われていますから、いまからでも遅くはありません。何歳になっても、文学を忘れないようにしたいものです。
私は忙しいから、いまは専ら俳句とか短歌をやっていますけれど、若いころは本当に小説を読みふけっていましたし、詩も大好きでした。分かりやすいということでは、武者小路実篤の詩集とか島崎藤村の詩集は分かりやすいですけれど、そのほかもいっぱい読みました。
だから、詩も書けます。
なぜ書けるのか。大好きで、いっぱい学んできたからです。
インプットがないのにアウトプットがあるはずありません。文章が下手だとか、言葉が足りないというのは、若いころに文学を学ばなかったからです。
生きた言葉、みんなが感動するような言葉が出るのはどうしてなのか。
それはやはり、たとえいっときでも文学が好きだった、あるいは、歳を取ってからでも歴史文学に夢中になったという経験です。
純文学でも歴史文学でも何でもいいんです。俳句でも短歌でも、好きになって耽溺した経験のある人は、表現力が大変に豊かです。
たとえばの話ですが、建設現場でたばこを吸いながら、中原中也の詩集を読んでいるなんて、おしゃれですよね。
また、『サーカス』の「ゆやーん、ゆよーん、ゆやゆよん」が好きだなあ、なんて言っているホームレスのおじさんがいたら、とてもおしゃれですね。
やはり、文学をやっている人は魅力がありますし、表現力が豊かです。政治家にしろ経営者にしろ、優れた指導者はみな、文学を嗜んでいます。
鄧小平が成功した理由
中国の実力者だった鄧小平もそうです。三回失脚しましたけれど、失脚中に何をしたかというと、古今東西の古典を徹底的に読んで、学問を積んでいたのです。
第一回目追放のときは工場の工員をしながら勉強したわけです。
その後、二回追放されて、都合六年間、万巻の書を読んで、そして文学に親しんだのです。
だから彼は、毛沢東に宛てた手紙一本で復権しています。鄧小平は三たび失脚しましたけれども、全部、手紙一本で復権している。
つまり、手紙一本の文学なのです。
だから、中国人に聞いたら分かりますように、鄧小平は詩人としても有名で、多くの人が「鄧小平詩集」が好きだと言って読んでいます。
やはり、らつ腕の実力の奥には、学問と文学性がある。それがあるから、人々の心をとらえていくことができるわけです。
そういうものを若いとき、あるいはいま現在勉強していない人間がコミュニケーションの表現に長けているはずがないし、生きた言葉を使えるわけがありません。
だから、文学が大切なのです。何歳になってもやはり、文学を学ばなければいけません。司馬遼太郎や吉川英治の小説あたりですと、中高年には読みやすいので、経営者の皆さんにはぜひ読んでいただきたいと思います。
そういうことで皆さん、何歳になっても遅くないからやっていただきたい。あの世があり、来世があるわけですから、遅いということはありません。
それしかないですよ。先ほど言った学問と文学性というものを身につけたうえで経験を踏まえていくと、思想の中身が出てくる。
伝えたい中身が優れたものになる。人に伝えるに値する優れた思想、知性はどうしたら出てくるのか。それをひと言でいうと、一千冊の読書です。
名前のある文学者なり、古典や名作と言われているものを一千冊読んだら、いろいろな考え方がインプットされ、一つの悟りのような境地に立ちます。
人生、宗教、哲学、宇宙、自然… あらゆる分野の本を一千冊読み終わったとき、ものの考え方の基礎ができ上がる。
そのうえで、自分の人生観、恋愛論、職業観、世界観などを語ると、一千冊分の知性を超えた上にある自分の考え方だから、「なるほど、確かにそうですね」と言われるようになり、大変な説得力が身につくわけです。
それまでは、あくまでも自分なりの考えであって、あまり説得力がありません。
「そうも言えるけれども、そうじゃないとも言えるんじゃないの」と言われてしまいます。
「一千冊の読書ができていない人間が偉そうに言っちゃいかん」。私はいつも、そう言っています。
一千冊読もうと思ったら、分厚い本だとなかなか難しいから、なるべく薄いのを買ってきて、解説だけ読んで、なるほどと思ったら、解説を確認するために本文を読む。
それでいいんです。
一千冊を超えたときに一つの壁がカーンと打ち破られて、新しい知的な自分が出てきます。
それを踏まえたうえで、自分の人生観、宗教観、職業観、家庭観、恋愛観、親子観を語りますと、誰が聞いても、「なるほど、それはそうですよね」と納得するし、それだけ人を説得させることができる。
すなわち、コミュニケートするわけです。それだけの勉強をしていない人間、知性を養っていない人間がコミュニケーションの達人になれるはずがない。
天地は平等にできています。いま申し上げた努力、つまり、儒教的学問で己を空しゅうして見ていく目を養っていく修養と、知性を磨くための一千冊の読書と、表現のレトリックの文学性。
この三つがあって初めて、本当の意味におけるコミュニケーションの達人になれる。その努力もしないのに、コミュニケーションの達人になれるはずがありません。
これが人間関係の達人、コミュニケーションの達人になる極意であり、本質です。
本邦初公開!「人間関係、コミュニケーションの神様」
人間関係を司る神様はどんな神様かというと、表現の方法の神、あるいは文学の神ですから、住吉の神ですね。言霊の神です。
木花開耶姫は表現の神様です。学問の神様は、天神菅原道真公。儒教的な勉強を始め、たくさんのものを勉強しております。
その奥にあるのは北極の神様。己を修養し、空しゅうする学問の神は、北極星の神様なのです。
これが本当の意味におけるコミュニケーションの神様なのです。
それから、人間関係が良好になっていくのは出雲大社の神様。コミュニケーションをよくしよう、意思の疎通をよくしようという場合は、出雲の神様。出
雲の神様がコミュニケーションの神様です。
狂言師に面白い人が多い理由
ということで、人間関係のこの世編、あの世編といろいろと話が広がりましたけれど、最後にギャグの話を一つして、今日の講義を終わりにしたいと思います。
ギャグにはパターンがあって、お父さんが面白い人、お母さんが面白い人は必ず面白い(笑)。私もそうです。
それから狂言師の野村萬斎という人もとても面白い。いま、狂言の世界には、野村万作とか野村万之丞(平成十六年八月逝去)という人がいます。
野村万作のお兄さんが野村万蔵(現・萬蔵)で、人間国宝。その野村万蔵の息子が野村万之丞。
野村万作のほうの息子が野村萬斎と言って、この間、朝のドラマに出ていましたね。この狂言師と会ったら、もうむちゃくちゃ面白いんです。
「なぜ、こんなに面白いんだろう」と思うくらいに面白い。きっと、あんなおかしな狂言を一生懸命覚えて、一生懸命お芝居しているからなのでしょうが、ギャグはやはり、面白いギャグをインプットしていると、アウトプットで面白いギャグがいっぱい出てくるんですね。
それに対して、反抗するヤツを「反逆(ギャグ)者」と言うわけです(笑)。
どうしたらギャグがうまくなるかというと、たとえば、ある場所で面白いギャグを耳にしたとするでしょう。
そうしたら、別の場所で同じギャグを言えばいいんです。また、どこかで面白いギャグを聞いたら、また、どこか別な場所でやる。
同じ場所で言ったら、「君、それはこの前、誰かが言ったギャグだよ」と言われるから、同じ場所では言わない(笑)。
ギャグを言う場はいっぱいありますから、いろんなところへ行って、一回聞いたギャグを何回も言えばいいわけです。
どこかで聞いたギャグばかりなんだけれども、一千カ所における一千個のギャグをインプットしてずっと言っていますと、悟りの境地が開かれる。ギャグの悟りが開かれるのです。
さっきは一千冊の本を読んだら、悟りの境地が得られて、自分の思想が奔流のごとく出てくると言いましたけれども、ギャグも一千シーンにおける一千種類のギャグがインプットされたら、あとは変幻自在なギャグ界という世界に入って、そこから独自なギャグが出てくるわけです。
ギャグもやはり、インプットからなのです。落語が好きな人とか狂言師さんがみんな面白いのは、そういうことなのです。
狂言には二百七十六番ぐらいあるんです。それを全部やったのが、和泉流の何とかという先代の家元。
十九代和泉流。もちろん野村万蔵、万作も和泉流なのですけれど、その家元が亡くなってから、家元の息子がほかから学ばないということでボイコットされているのが、いまの二十代目。細かい業界の話ですが、みんな面白いです、狂言師の人は。
なぜ、こんなに面白いのか。狂言自体がおかしいのに、それを二百七十以上もインプットして演じているからです。もちろん、新作狂言なんかもつくっていますが、それも面白い。
日常生活がおかしいんです。本当に面白いです。やはり二百七十六のパターンをインプットし、みんなの前で演じているからでしょうね。
まさに、朱に交われば赤くなる、ギャグに交わればギャグになる、です。
ギャグがうまくなるには、まず私のギャグの本を買って(笑)、狂言を見て聞いて、落語を聞いてインプットする。
そうやって一千個を超え、一千シーンと一千種類のギャグのパターンを超えたとき、奔流のごとく自分のギャグ界というのが出てくるわけです。
だから、一回聞いたギャグは、どこか別な場所で大いに実践していただきますように。
ということで、以上で終わります。(拍手)
