大創運(Vol.2)

【第一章】運を創るのはあなただ

幸せをつかむ方法について

あなたにとって幸せとは何だろうか。家庭の主婦の答えをいくつか列記してみよう。

「亭主のサラリーがもっと多ければ「息子の成績があがってくれること」

「狭いアパート暮らしから、一戸建ての家に移れれば幸せ」「現在より一歩先に進むことができたら、それで満足」と考える人が大部分である。

「お隣りの奥さん、最近、着飾ってよく出かけるけど、きっと恋人とデートしているのに違いない。私だって平凡な主婦業には飽き飽き。昔の彼と再会してみたいわ」

いささか、不穏な雰囲気だが、治にいるよりも乱の中に身を置くことを幸せと考える人がいても不思議はない。

いずれにしろ、人々は、日常生活での不満を解消することができたら、あるいは自分の欲望を満たすことができたらと常に願っているものだ。

人間は、肉体をもってこの世に生まれてくるのだから、肉体に満足を与えようとするのは当然なことであるし、心がある以上、快い状態を求めるのも、もっともなことなのである。

けれども、人間の欲望には、際限がない。ひとつ満足を得れば、次の不満が生まれ、それを満たせば、また新たなる欲望が現れ、とめどない欲望の流れの中に身を委ねてしまうのである。

新聞の社会面を斜め読みするだけで、「サラ金地獄で自殺」「三角関係で殺し合い」「教育問題がこじれて子殺し」等々、人間の欲望が原因となって起きた悲惨な事件が、いかに多いかということを痛感させられる。

これらを考え合わせてみると、人間が幸せを願うことが、破滅の原因ではないかとさえ思えてくるが、そうではない。

破滅を招くのは、幸せを求める方法に誤りがあるからなのだ。自分に欲望=幸せになりたいという思いが生じた時、その欲望を正しく処理する方法に、よい思いと知恵をめぐらすゆとりを持つことさえできれば、自分で自分の首を締めるような悲惨な結果を招くことはないのである。

こんな話がある。私の友人の隣家が突然売りに出された。

親しく付き合っていた友人にとっては寝耳に水のことで、彼の奥様に「一体どうしたんだろう」と問いかけると、奥様の方はそれとなく観察していたらしく「やっぱりなのよね、どうも最近、隣の奥さんの挙動が怪しかったもの」

隣家の夫人は、活動的な明るい女性で近所付き合いもいい。ところが、活動的な部分が、日常生活の単調さへの不満を生んだらしく、知り合いのスナックでバイトを始めた。

スナックであるので、当然、夜遅くまで仕事をするわけで、昼間はグーグーと眠ることになる。

顔色も悪く、以前の快活さがなくなるのを見て、友人の奥様が「あんまり無理をしな「い方がいいわよ」と、忠告すると、「大丈夫よ、それより、自分でお金を稼ぐのが、こんなに楽しいこととは思わなかった」

それが、自立の喜びというわけだ。

ところが、ほどなく、家から夫婦喧嘩の声が聞こえるようになり、その声がしなくなったと思ったら、夫人の姿が見えなくなり、ついで、家が売りに出されたという訳なのである。

友人の奥様が「どうしたことか」とあちこちから情報を集めると、「住宅ローンの支払いのために、働きに出たはずが、自分の装飾品を買い集めたあげく、借金で首が回らなくなった」「スナックの客と、駈け落ちしたらしい」「いや、主婦売春をしていたそうだ」と、真偽はわからないが、さまざまな噂が聞こえてきた。

本当のところは不明であるけれども、自分の欲望を追いかけているうちに、家庭崩壊を引き起こしてしまったことだけは事実である。

なぜ、このような事態になってしまったのだろうか。

もし、家のローンに苦しんでいたのだとすれば、そもそも無理をして家を買ったことが、間違いのもとである。「蟹は甲羅に合わせて穴を掘る」というが、この世には、蟹ほどに知恵の回らぬ人間が少なくない。自分の望む幸せの上に、見栄を重ねた結果、蟹の穴ならぬ墓穴を掘ってしまうというわけだ。

「稼ぐに追いつく貧乏はなし」というが、これは稼いだ枠の中で、金を使う場合の話である。稼いだ以上に使えば、首が回らなくなるのは自明の理。ただし、この女性に対し若干、同情の余地がないわけではない。

おそらく彼女は、自分の装飾品をクレジット・カードや、割賦で買ったのだろうが、カード・システム、割賦販売のシステムは、消費者を錯覚に陥れることがある。今、払わなくてもいいという思いがあるため、気が大きくなって、結局は支払い不能になってしまうのだ。

スナックの客との恋愛事件が、蒸発の原因だとした場合、この女性の心の奥に恋愛願望がなかったかどうか。主婦に聞くと、半数以上の人たちは、「ちょっとスリリングな浮気をしてみたい」という思いがあるそうだ。

家庭に収まってしまえば、日頃、接する男性は自分の亭主だけ。しかも、亭主族は「釣った魚に餌はやらない」主義であることが多いから、主婦の精神的・肉体的不満はつのるばかり。

したがって、主婦の浮気の責任を主婦だけに押しつけるつもりはない。飼っている魚に餌を与えないことは、動物愛護の精神にもとるし、いわんや主婦を欲求不満に陥らせることは、りっぱな離婚の理由になることを亭主族は深く認識すべきだと思う。が、それにしても、スナックでの接客が危険な雰囲気をかもし出すことは、ある程度予想できたはずだ。

にもかかわらず、あえて危険の中に身を投じたとすれば、結果に対する責任の大半は、本人にあるといえるだろう。

主婦売春はどうか。これはもはや、論するまでもない。売春なる業いは、人類発と同時に生まれたといわれるが、このような手段で幸せが得られるはずはないのだ。

この夫人は幸せを把む方法を誤ってしまったのである。

徳分こそ子孫に残すもの

ではどうすればよかったのだろうか。

もし、家のローンが払えなくなったのであれば、傷が深くなる前に処分し、分相応の分譲あるいは賃貸マンションに移ることをまず考えるべきである。そうすればローンの負担が軽くなるだろうし、生活のゆとりもできるはずだ。金銭的にゆとりができたら、それを自分たちの人生のために使うことを考えればよいのである。

せっかく買った家だ、唯一の財産を手離したくないと思う人もいるだろう。

子どもたちの将来のために、是非残しておきたいと思う人もいるに違いない。けれども、子どもたちに物を残しても意味はない。かえって、それが争いの種となることも多いのだ。人はこの世に裸で生まれ、裸で死んでゆく。そして、この世で得たものは、死ぬまでにこの世に還元するのが人間として理想なのだ。

もし、後世に残すのだったら、人間としてのすばらしい心を持つ教育と徳分を残すべきだ。子どもたちは、父母、あるいは、もっと遠いご先祖様の徳分と才能を受け継ぎ、それをただひとつの財産として、自分の人生を築き上げなければならないのである。

もし、親が財産を残せば、子は、それを頼りにする。やたら浪費するか、執着するか、いずれにしろ、自分の人生を自分の手で切り拓く努力を怠ってしまう人間になってしまうものだ。

それに対して、親は親としての人生を見事に完結させる。人生の楽しさや醍醐味とは何たるかを示してやることができれば、子は、それをひとつの目標にして、自分の生き一方の設計図としていけるのである。

「私の親は、何ひとつ財産を残してはくれなかったけれど、毎日が幸せそうでした。苦境に面した時も、逃げることなく、堂々と立ち向かっていました。そういう父を、子どもながら立派だなと尊敬していました。あの親の顔を思い浮かべると、生きる励みになるんです」

私はこういった話を聞くと嬉しくなる。

お互いが、自分の人生を精一杯生き貫き、その生き様が他人をも幸せにする影響力をもつ。なんとすばらしい、徳性の感化力ではないか。古の聖人、賢者、神人の世に残すあり様と趣を一にするものであるといえよう。

さて、幸せとは何かが、おわかりになっただろうか。いま、この現在を、精一杯、有意義で楽しく生きられることが幸せというものなのだ。なんだ、そんな簡単なことかとお思いになるかもしれない。しかし「ただ今」の自分の姿を鏡に照らして見てほしい。

物に執着していないだろうか。安念の虜になっていないだろうか。卑しい思いを抱いていないだろうか……。あなたの場合はどうだろうか。

この至極当然の当たり前のことが、日々成就し、刻々に実現できる人がいるだろうか。いや、聖人、神人といえる人以外にはあり得ないはずだ。そもそも、永遠の真理や普遍の大法則とは、かくも簡単で、当たり前の事柄にこそあるのだから。

感じることの意味

現在は第二次宗教ブームであるといわれる。

明治維新後、そして第二次世界大戦後にさまざまな形の新宗教が誕生した。戦争後の混乱、価値観の変化に動揺した人たちが、宗教に心のよりどころと糧を求めたためであすると第二次宗教ブームの現在は、日本が関わる戦争、動乱がなくても、気分は戦後同じ状態にあることになる。考えてみれば、なるほど、価値観の変化はまことに著しいものがある。

技術革新は、昨日新しかったものを今日骨董品に変えてしまうのである。私のところを訪ねてきたOA(オフィス・オートメーション)機器のセールスマンに問いただしたことがある。

「昨年来た時は、これが最新式のワープロだといって買わされたけど、今度のはもっと高性能でしかも値段が安い。安いのはいいけれど、昨年買ったやつはどうしたらいいの?」

「ハハハッ、どうも。まあ、こういう業界ですから」

技術の進歩に人間の方がついていけない状態である。こういった世の中では、何を基準にしていいのかわからなくなり、人々は心のよりどころを求めるようになるものである。

しかし、だからといって宗教に頼れば「心の安寧」を得ることができるかと言えば、そうとばかりも言えない。

韓国では宗教がらみの集団殺人事件が発生したし、かつて南米のガイアナでも人民寺院事件が起き、多くの人々がその犠牲になった。人を救うべき宗教が、人の生命を奪うことだってあるのである。

信教の自由は思想の自由同様、憲法で保証されているものであるから、私からとやかく言うつもりはない。だが、宗教にすがろうとする人たちを見ていると、信じればそれだけでご利益と好結果が得られるものと思っている場合が多いのだ。

また、神仏とは、教祖様や目に見えるご神体そのものであると思い込んでいる。

ご神体や教祖様を拝んで敬ってさえいれば、ご利益があるというわけだ。では、実際どれほどのご利益があったのか、一度、胸に手を当てて考えていただきたい。病気が治った、家運が良くなった、良縁にめぐまれた。

それもご利益かも知れない。だが、真の心の平安を得ることができ、生きがいと魂の向上の喜びを見つけることができたであろうか。

人間は、病気が治るために生まれてきたのではない。ましてや、家運を良くするためでも、良縁に恵まれるためでもない。御魂を向上させ、世に功を残すために生まれてきたのである。

それが、求道と布施だ。この二局を日々に実現させるのが、人生の本義なのである。健康とはそのためのものであり、家運や良縁や仕事も、全部そのためのものである。

だから、こういう人生の本義に基づく内実と、器としての肉体や社会に処する環境などの両面が、調和しながら現れ来たるのが真実のご利益なのである。

ところで、私は「神の道」を多くの人々に語ってきたが、今まであった宗教家でもなければ欲深い教祖でもない。自分で仕事を持ち、宗教や神様を売り物にして生きている人間ではない。

いうなれば、人間が幸福になるためのアドバイザーといったところだ。しかし、最近は私がリーダーを務める「ワールドメイト」から、給与を頂き源泉徴収税を納めるべく、から指導があったのでそうしてるが、そこで頂いた給与は、みんなワールドメイトや関連する福祉団体に寄付している。

このように、教祖さんが、その宗教団体で最も多額な個人寄付をしてる団体は、他に見たことがないと公認会計士も言っているのである。

私自身の生活は、生業でまかない、税の公正上やむなく会からお金をいただけば、それ以上に持ち出して、関連の福祉や宗教活動に寄付するよう心がけている。神霊家として、目と心が曇らないためである。

私の説く「神の道」とは、神界と霊界と現界の三局融合の正道(まさみち)である。それぞれのポイントをおさえて、いずれにも偏らず、要するに人々と世界が幸せであればよいのである。

これが「中庸」の原局であり、万物創造主の大御心なのである。

この原点に絶えず帰っていれば、決して道を間違うことはない。全ての創造とは、基本に帰り、原点に帰って一歩踏み出す時になされるものである。運命の創造である「創「運」も、ここに立ち帰ってはじめて成就されるといえよう。

ところで、生きている限り、真、善、美、永遠、無限、広大、高潔、繊細といった言葉で表現される現象に出会う。

その一方、虚偽、悪、醜、刹那、有限、偏狭、不潔、鈍感といった言葉で表現される現象にも遭遇する。

これらを選り分け、自分に真にプラスになるものだけを感じ取って生きることが、本当の幸せのつかみ方であり、それが「神の道」の一歩なのである。それを悟り方の工夫という。

神の道に行きつくところに、いかなる結果が待ち受けているかは、個々人によって異なる。それは、神の道を歩いた人がそのつど体験し体得することである。理屈ではないのである。

つまり、生きる一瞬一瞬の間に、真、善、あるいは美しいものを感じとることそのものが、そもそも幸せなことであり、それはまた、神なる存在を直接感知することなのである。

といって、では神とは何かを把握できるということではない。神とは何か。「この大宇宙を統率する絶対的な存在」といってみても、何だかよくわからない。逆にいえば、人間の知性や論理を超越した存在なのである。

つまり、直接神を感知、感応することができるのは、優れた感性だけである。一瞬一瞬に、神の属性をほんの一部だけでもキャッチできる、霊的感性を磨くことだけなのである。

美しいものを美しいと感じ、美味なるものをおいしいと感じることが、人間の幸福の一歩であり、神に近づく一歩なのであると理解して、この本を読んでいただきたい。

感動が神界の扉を開く

最近はグルメブームといわれている。テレビをひねれば連日、十本を超える料理番組がおいしい情報を流している。書店に行けば行ったで、これまたおいしさ満載の書籍、雑誌があふれている。喫茶店で耳をすませば、「あの店のフォアグラは最高よ」「でも、私は中華が食べたいわ。最近、飲茶をはじめたところがあるから行ってみない」と、舌なめずりしながらの会話が聞こえる。

もちろん、定例会の私の講義でも、神戸の「でっち羊羹」や南京町の「ブタマン」伊香保温泉の「湯之華まんじゅう」や秋田の「いなにわうどん」の話、また、新潟の「越之寒梅」大吟醸と岩手県の「七福神」、金沢の名酒「菊姫」大吟醸や石川県の「天狗舞」、さらに、広島の幻の名酒「誠鏡」や熊本県「香露」の話など、文学的にも霊的にも、味覚を分析したり比較している。

主に個人の趣味によるのであるが、神霊界の実情をさぐる上で、大きなヒントになるのである。

戦後四十二年、いや、もう戦後という言葉は死語になり、富めるわが日本民族はひたすら豊かさを追い求める。世はなべて平和なりきというところだ。

だが、私たちは、本当に富める民族であり真の豊かさを追い求めているのだろうか。わが国のGNPは全世界のGNPの十パーセントを占めるに至り、世界長者番付に日本の財界人がランクされる。

「あまりにしては、ちっともこちらに回ってこないねえ」とグチる一般大衆にしても、一家に一台のクルマは常識。高価な耐久消費財に埋もれた生活を、ごく普通の生活だと信じて疑わない。

なるほど、見た目は富める国、富める国民である。しかしながら、その一人ひとりの心の中の状況はどんなものなのだろうか。私はときおり、道行く人々の心の中を失礼ながらのぞかせていただく。

そんなことをすればプライバシーの侵害ではないかとお怒りになる人もいようが、誰それの心の中はこうだったと、個人名を挙げて組に載せるようなことはしないから、お許しいただきたい。それに第一、通りすがりの人が誰であるのか、私にもわからないのだから。

さて、心の中をのぞきこむ。そこには、寒々とした風景が見えてくる。たとえば葬式のシーン。棺の周りに、きらびな晴れ着を着かざっている人々が輪になって踊り狂っている。

棺の中に横たわる死者。いや、死者ではない。生きたまま棺の中に押し込まれ、外に出ようともがいている本人の姿なのだ。

あるいは、雪の風景。たった一人、取り残された男がさまよう。東へ向かえば、断崖、絶壁、下をのぞきこめば怒濤が岩を噛む。西へ向かえば漆黒の闇。北へ行けば、猛吹雪がさえぎり、南へ下れば、深い川が行く手をさえぎる。

都会の雑踏の中にいるにもかかわらず、彼の心は寂しさにうちふるえそうだ。行くことも退くこともできないで、ただ佇んではため息を吐いている。そのため息に耳をすませば、「フコー、フコー、クソー、クソー」と、わびしげな響きがあって、純情の余識も消えゆきそうな風情である。

物の豊かさとは裏腹に、貧しい心を抱いた人、心の貧しさに絶望する人があそこにも、ここにもいる。六本木や青山、表参道の街並木は、ため息並木であり、恋人たちの生霊製造場所だ。

笑顔で歩くボーイフレンドの心は、「ちくしょう、前の彼氏の水子霊を、なんで、こおれに付き添わなきゃならないんだ」。ガールフレンドの心は「バアーカ。このハゲ。供養料が足りないから、付いてもらっているだけよ。くやしかったら、フサフサになってみたら。私の、亡き父のハゲ具合とそっくりなので、なつかしさのためにつき合っているだけなのだから……」というもの。

この分だと、ゆくゆくは、男の方が怨みの生霊を出すことになるだろう。

ところで、冒頭にグルメ・ブームについて述べたのは心の貧しさと無関係ではない。このブームに誰が火をつけたのかは判然としないが、グルメの旗手たちの話す言葉、書く筆に接するにつけ、私はまことに哀しい気分になる。

おいしさをたたえる言葉は実に大したものである。もし対象とされた料理が女性であったなら、気恥ずかしさのあまり、その場を逃げ去ってしまうだろう。物いわぬ料理、動くことのできない料理は、頬をからめることもできずに、皿の中で縮こまるしかない。

一人よがりのおべんちゃら、美食を重ねすぎて味がふやけた舌先を操り、ゴタクを並べる。これぞ口を糊するための、身すぎすぎ生活の典型と思って同情もするが、それはそれとして、彼らの弁舌、筆法にのせられて、ブームの片棒をかつがされてしまっている多くの人たちの心中が、私を哀しい思いにさせるのである。

真においしい物にめぐり合った時、人はどうするか。全部食べちまう?まことに正しい答えだが、その前に何かを感じはしないだろうか。そう、心の底を揺るがすような感動である。

「まったりと舌の粘膜をくすぐる」などといった修飾語など存在しない、ひたすらの感動。美味であるかないかを判断するのは、ただひとつ、この感動、魂の震えだけである。

中国の古人の逸話で、覚った時の境地とは、聾唖者がスイカを食べた時、そのあまりのおいしさを説明するのに、手足をバタバタさせて表現するしかないのにそっくりである、と言ったそうだ。

魂の奥深いところで感ずるということは、思いが、想念をはるかに超えた世界に入っていることなのである。この世界を神界と呼んでいるが、私たち人間の究極の目的は、この神界にいたる感覚を身につけることであると、まず心得ておいていただきたい。

この本のタイトルは「大創運」であるが、運を創り出すためにも、当然のことながら神界が大いに関わってくるのである。

妄想は地獄界への道

私たちの生活に直接、関係のある世界から、神界を考えてみよう。私たちがふだん生活する場は、現実界と呼ばれる。朝起きて顔を洗う。食事する。新聞を読む……といった、目に見える行動をする場が現実界であり、その行動は現実そのものである。

では霊界とは何か。一般には霊の住む世界となっている。目に見えない霊魂の寄り集まる場であり、その場は、地球のはるか遠くにあるという人もいるし、われわれと同じ空間にあるという人もいる。

しかし、人間は、目に見えなかったり、触れなかったりするものは、なかなか信じられない。「ほら、そこにあるよ」といわれても、「本当かな?」と疑わしい気持ちになるものである。

そこで次のように考えてもらいたい。

朝、食事を摂る。この現実の行動を起こすためには「何かを食べたい」という思い意志、あるいは想念がなければならない。この思い意志、想念が霊のなせる行為、つまり霊界の影響を受けたものであると考えていただきたい。人が何かを思い、念ずることすなわち、霊界なのである。

現実界、霊界、神界の関係を果物にたとえるならば、現実界は桃の皮であり、霊界は果肉であり、神界は種子である。

神界という種子の外側を霊界、現実界がカバーしていると考えればよいのだ。

お釈迦様の像を見ると、蓮の花の上におわせられる。この蓮座れんざは何を象徴しているのだろうか。花弁は心の襞である。この襞を一枚一枚剥ぎとっていくと、蓮の花の花芯かしんが現れる。

この花弁は現実界に即する思いであり、襞を取り去る作業が霊界における悟りなのだ。心の悟りを深くすれば霊界に入り、悟った時、ふと見上げれば、そこにはお釈迦様がいてその神々しさを感じとることができる。私たちがその境に没入したからである。

これが、すなわち神界の境地に入ったということなのである。もちろん、これはたとえであって、実際は何度もこのパターンが繰り返される。繰り返すごとにますます深く、ますます高く、ますます繊細となり、層や霊格が向上するのである。悟りとは無限、覚醒の旅とは永遠なのである。

ところで、あなたがひとつの仕事をしたとする。商品を作ることでも、テレビドラマを作ることでもいいが「仕事をしよう」という行動は、まず第一に、その仕事に対して「いい感じ」を持たなければならない。仕事が「大嫌い」という思いが最初にあれば、結果としての成功は絶対に約束されないのである。

創造的な仕事なら、全てがそうであるといえよう。「いいな」「すばらしいな」という思いが、次に「どのようなやり方をすればうまくいくのか」という思いを生む。その想念が、仕事、すなわち現実の行動を引き起こすのである。

これが、神界、霊界、現実界が作動する順序であり、相関関係である。この順序で、神界にあるものが現実界に移写されるのが普通だ。それ故に、現実界のことを「うつし世」というのである。

ところがこの逆もまた真なのである。たとえば、現実界で病気になったとする。食べ過ぎがたたって胃潰瘍になったのである。それで、明日手術することになった。さあ、あなたならその日どんな想念を出すだろうか。

「ひょっとして、ガンかもしれない。父も胃ガンで死んだし、叔父もそうだった」「血は大丈夫だろうか。エイズが混入されているのではなかろうか。なんとなく、いいかげんそうな病院だし……」「麻酔が切れたら、痛いだろうな……」と思いをめぐらすのではないだろうか。

まさか「手術大好き、病院大好き、看護婦さんに甘えん坊しょう!胃が切られて小さくなるって、人生に変化があっていいな」と、楽しい思いをめぐらす人はあるまい。

普通は、アルコール臭いベッドの上で「ああ、やっぱり健康っていいな。早く退院して思い切り「美々卯のうどん』と『浅草藪蕎麦の天ザル」が食べたいな。出雲大社の向かって左の道に入ったところにある「荒木家」のおそばも、やっぱり食べたいな・・・・・・。

また胃をこわすといけないから、ザルソバだったら七枚が限度だな。控えよう……。それにしても······病院っていやだなあ・・・・・・」と思うはずである。

現実界である肉体や病院が、霊界たる想念界に影響を与え、その霊界が感覚である神界に影響を与えているのである。逆もやっぱり真なのである。

今度はいい方の例を話そう。たとえば昭和天皇陛下である。生まれた時から皇太子というお立場にあり、杉浦重剛のようなすばらしい教育者から薫陶を受け、経済的にも、文化的にも、家庭的にも、天皇としての豊かな環境でお育ちになった陛下は、どうしても悪い想念や悪い感覚を出す要素がないのである。

ご本人の努力がその上に積み重なるので、最高のよき霊界、よき神界をお持ちになっておられた。

このように、人間は現実界が大切であり、これを改善する具体的な努力を為さない限り、絶対に、心の世界も感覚の世界も真にすばらしくすることはできないのである。

儒教がここを言っているのであるが、神様がそうお造りになられたのである。だから、時として心を救う宗教家が生まれたり、現実界を救う科学者や政治家が、使命をもって生まれてきたりするのだ。

では、大切な現実界と幸せの原点となる神界をつなぐ霊界はどうであろうか。たとえば、失敗のもととなる、悪い感じや邪な感覚が最初にあったらどうなるのか。

感覚に導かれて生まれる思いは、先程の病院のようによかろうはずがなく、思いは妄念に満たされる。

妄念妄想とは「みだりに思い、妄りに念ずる」ことであり、法華経によれば、「地獄の正体なり」ということになる。

現実界での失敗をさかのぼってみれば安念妄想があり、その先は本来神界であるべきところが地獄界であるという仕組みである。

したがって、安念妄想が湧いている時は、「自分は地獄界のふちに立っているな」「神界の入り口を、悪い霊界を作って塞いでいるな」と思い、みずからを戒め、立ち直る努力をしなければならないのだ。この努力とは、霊界すなわち心の修業である。

「心外悟道なし」という言葉があるが「こいつはイカン」「ヤバイ」という思いが湧いた時、その場に心を固執することなく、スイと離れられる修業を積んだ人は、おおむね人生の道を誤ることはない。つまり、そういう心の切り替え上手が、霊界をうまく操る成功者であり、創運の人となるのである。