「至善にとどまる」とは
自分の誤りに気づいたら「元へ復る」ことが大切だが、そういう気持ちをもって、改めて自分自身を見つめると「あれも間違い、これも間違い」。間違いと誤りの中に埋もれて愕然とすることがある。
だが、ここで絶望する必要はない。誤りがわかるということは、それだけ修業を積んだということなのだから。修業を積んでいない者は、誤りどころか、誤りの意味すらわからないことが多い。
さて、さまざまな誤りに気づいたらどうすればいいか。まず、前述した「遠からずして元へ復る」という実践からなのであるが、この次の段階として「易経』には、「繁く元へ復る」という言葉がある。
「あっ、いけない」と思った時に、必ず元に帰ることを習慣づける修業を積めといっているのだ。「繁く」とは「遠からずして元へ復る」頻度が、非常に多いことを意味している。
卓上計算機で計算している時「アレ、ヘンだなァ」と思うことがある。最近、計算機がどんどん小型化しているので、指でキーを押しまちがえることが結構ある。
「指の太い人のことを考えて作ってるのかな?」と、不愉快になるが、それはさておき、こんな時は、御破算にして計算しなおすのが最も手っ取り早い。
どこで間違えたのかとあれこれ思いわずらう前に、原点に立ち戻ってやり直してみることが、作業効率を高める方法なのである。この行為が、間髪を入れずできるようになった状態を、「繁く元へ復る」という。
「ふとした思い」ということについては、他の箇所でもたびたび述べているが「おかしい」と直感したら、時間的に良かった状態に即戻ることができれば、誤りによって受ける損害はきわめて微少なものになるはずである。
このレベルの修業を積むことができたならば、次に「篤く復る」という段階になる。「篤く」とは「繁く」が極まって、帰り方の回数から、帰る時の速度や確実性が加わっている状態である。そして、いよいよ究極の段階に入る。
「至善にとどまる」という儒教の言葉がそれである。つまり、何を行っても元から出ない、中心から逸脱しないということである。
『論語』の「欲する所に従えどもこれ矩を踰えず」ということも「至善にとどまる」であり、「中庸」の「中」にあたるというのも「至善にとどまる」である。
至善とは何か。これ以上の善はないという状態である。これまでたどってきた修業の道は、常に、中心と本質に向かって、行き過ぎたり、行き足りなかったりした行動であった
。時計の振り子をご存じだろうか。エレクトロニクスの発展に伴って、最近の家庭では、振り子のある時計を見なくなり、子どもに「振り子とは何ぞや」と尋ねてもわからない。
パチンコの玉に糸を付けて、天井から吊したものを振り子と思っていただけばよい。「繁く復る」のは、振り子が早く左右に振れる状態である。「元に復る」の元とは、地球の中心に垂直な位置である。振り子は左右に振れながらも、かならず、この元の位置を通過する。
「繁く復る」とは、パチンコ玉を吊した糸が中心に向かって振幅が小さくなると、中心付近では、中心に帰る回数が多くなる。
この状態を考えればいい。張れの幅が小さくなると同時に、振れる回数が多くなる。右へ振れたかと思った瞬間、元の位置を通過し、さらに振れたかと思うと、あっという間に、元の位置に戻ってくる。
さらに、しばらくすると、中心付近の振れ具合は目にも止まらぬようになる。そしていよいよ振り子は右にも左にも振れなくなって、真中で静止するのである。この状態を「至善」と呼ぶのである。
最近、超電導という現象が話題になっている。電気抵抗がゼロになる物質を超電導物質と呼ぶが、現在のところ、極低温の状態でしか、超電導現象は見られない。一説によると、常温下でも超電導を超える物質が、発見されたというが、まだ未確認情報とされている。
ところで、理論上考えうる最低温度を絶対温度(マイナス二百七十三・一五度)といい、この状態では、分子の熱運動がピタリと停止するとされている。
至善とは、この絶対温度の状態と考えてもよく、もはや、右にも左にも揺れることなく善なる位置に静止しているのである。
こういった心境に至った人は、いかなる時にも、至善の道をはずすことはない。われら凡人のように、一つひとつの問題に心を動かすこともなく、当然に失敗することもない。
もはや人間ではなく、神のような存在であり、この域に達することは、ほとんど、いや絶対的不可能に近いが、少なくとも、そこへ到るまでの修業を行うことが、幸せを追求する道でもあるのだ。
善を求めて魂をコントロールする
ある時、電子工学と数学の大家と話をする機会を得た。私が「易経」の「元に復る」思想について述べたところ、大家はハタと膝を打って、「実は、それこそコンピュータによる自動制御装置のシステムと同じなのです。それが魔法の数理法則とも呼ばれ、摩訶不可思議な働きをする数学法則なのです。
その原理が、まず「遠からずして元に戻す」というものであり、最初に、少し軌道からずれたものを元に帰していくやり方なのです」という。
最新型の航空機はコンピュータによる飛行制御装置を搭載しているが、これは、飛行機が予定のコースをはずれた時は瞬間的に制御装置が働き、正しいコースへと修正するものだ。
もっとも、コースを設定する段階で誤りを犯した場合、コンピュータは誤ったコース設定を正しいものとして作動するから、制御装置の働きも意味がなくなる。
当時のソ連戦闘機に、大韓航空機が撃墜された事件があったが、大韓航空機が迷走したのは、そもそも最初にコンピュータにインプットしたデータが誤っていたためという説がある。
「それに比べれば、「易経」の思想の方がはるかに進んでいるとも言えますね。人間の作為の通用しない絶対的な正、至善を設定して、そこに向かって修業するのだから、誤りようがない」と、大家は感心されていた。
現在のコンピュータの発達ぶりはすさまじく、善悪の判断のみならず、遠からぬうちにコンピュータ自体が意志を持つ時代が来るといわれる。つまり限りなく人間に近づき、また多くの面で人間を超えるというわけだが、それであればこそ、人々は至善を追求し続けなければならない。
誤った考えのもとに、コンピュータに指示を与えれば、コンピュータは、限りなく悪の世界を作り出していくことになりかねないからだ。とはいえ、では至善とは、具体的に何かといわれて答えられる人は少ない。
「至善の状態は想定できても、至善そのものが判然としなければ、追求しようがないではないか」ということになる。
そこで、思い返していただきたいのは、人間の持つ直観力であり、ふとした思いである。あらゆる学問に精通しても、豊富な知識を身につけようとも、それ自体は人間にとっ大した意味を持たない。
学問をする、あるいは修業をするということは、過程であって目的ではないのだ。目的は、直観力を養い、直観にもとづいた「ふとした思い」を湧かせることである。
心眼を養い、聡明にしてよく物事のつぼ所をおさえた人になればよいのである。そうして、はじめて人や社会や物が生かされ、善となるのである。
「教養が邪魔をする」という言葉がある。あまりに多くの知識を雑然とつめこんだ結果「あちらを立てればこちらが立たず」という混乱に陥り、何が正しいかの判断力を失ってしまう状態も、教養が邪魔をした結果である。
これは電器メーカーの人に聞いた話だが「最近の技術者は、どこか、おかしいんですよね。テレビの小型化競争が起きた時、必死になって、開発を進め、豆みたいなテレビを完成し、「ライバルをやっつけたぞ」と有頂天になっている。
「じゃ、このテレビ、こんなに小さくてどうやって見るの」と聞いたら、みるみる蒼ざめてシュンとしてしまいましたよ」
つまり、何のためにテレビを作るのかという基本的なテーマをすっかり忘れてしまったのである。
もし、直観力を養い、ふとした思いを湧かせることのできる人物なら、テレビ小型化に血道をあげる愚かしさに気づくはずである。とすれば、おのずから至善という言葉の意味もわかってくるはずである。
本末顚倒することなく、枝葉末節にとらわれず、絶えず物事の本質と中心を見て、神の真意に直参する。これ即ち人類全ての幸せを願い、その状況を創り出すことが「至善」なのである。それを目的に、私たちは自己の魂を手動制御していかなければならないのだ。
制御とは、もうおわかりであろう。己を正して、よく柔によく剛に修業することである。
好奇心は両刃の剣
人類の歴史は、たかだか数十万年といわれる。宇宙の塵が寄り集まって誕生した地球の年齢は四十~五十億年といわれるから、それに比べれば、私たちの歴史は一瞬のまばたきに当たるかどうかというぐらいのものである。
このまばたきの間に人類は文明を築き上げ、今なお、すさまじい勢いで、新たなる文明を生み出している。
この原動力はいったい何なのだろうか。未知なるものを知りたいと思う欲求がそれである。
子をもった親が往生するのは「なぜ」「どうして」という質問攻めにあった時だが、この知りたいという欲求=好奇心が、人と他の生物とを大きくへだてているのだ。
もちろん、他の生物にも好奇心が旺盛なものがいる。犬や猫を飼っている人はよくご存じだろうが、彼らは「未知との遭遇」を経験すると、用心深く、未知なるものの周辺をかぎ回り、おそるおそるチョッカイを出す。
ただし、彼らのこの行動は、しかと目の前に存在する物に対してのみ行われるものである。ところが、人間は形にならない物に対しても、激しい好奇心を抱くのだ。
たとえば、頭の中に突如湧きあがったイメージに対して「なぜ」「どうして」という疑問を抱き、なおかつ、疑問を解決しようと懊悩する。そのエネルギーが文明の源なのである。
ところが、時に、この好奇心が破滅を招くことがある。知りたいという強い思いに、生物としての生存本能を忘れてしまうことだってないとはいえない。こうなると、好奇心は悪魔のささやきとなるが、悪魔のささやきとするか、神の啓示とするかは、その人次第なのだ。
好奇心を、みずからのエゴ、我の欲望のために湧きたたせてしまう人は、悪魔のささやきに乗せられて破滅に向かう。我の欲望といったが、我とは、そもそも我の執着心と、我の見識とがある。
我の執着心我執は、なにはさておいても、自分が欲しいと思う心である。人はどうあれ、自分さえ良ければ万々歳と思うことである。我見=我の見識とは、自分の考え方が絶対に正しいと思うことから派生する思想である。
自分だけが信じて、他の人の共感を呼ばぬ哲学といっていい。もっと簡単にいえば、思い込みと固定概念だけである。では、なぜ我見が生ずるのかといえば、それは学問と教養がないからである。
『論語』に「学びて思わざれば、すなわち罔し、思いて学ばざれば、すなわち嘘うし」という言葉がある。
本を読み、知識を仕入れることは人一倍であるけれども、何のために自分は学んでいるのかを常に振り返り、探求することをしない人は、単なる物識りの域を出ない。そしまた、得た知識を自分で組み立て直し、いつでも自在に活用できる状態にしておかなければ、「学ぶ」ことの意味はなくなる。
一方、自分なりに一生懸命に考えているけれども、他人の意見を聞かない、あるいは68聞こうとしない人は、独善に陥る。自分の方法論だけに頼れば「学ばされば、すなわち殆うし」ということになる。
「学びて思い、思いて学ぶ」人間は、知識と教養とそして行動力を持つ、バランスのと れた人間になることができるのだ。これが本当の学問の道である。
好奇心とは、人間の本質にかかわる切なる欲望であることはすでに述べたが、好奇心を動かす時には、常に、我見と我執の有無を確かめることが肝腎なのである。
科学者が、革命的な新理論を発見した。この理論を応用すれば、人類の幸福に貢献できるし、その一方で、究極の兵器ともなり得ることがわかった時「いったいどれほどの殺傷力があるのか試してみよう」と思うのは、悪魔のささやきに乗せられた人である。
究極の兵器になる可能性を熟知して、なおかつ、その可能性を封ずることができる人は「学びて思い、思いて学ぶ」人であり、物の大局と本質を見極める目と霊性を備えているといえよう。
溢れるエネルギーを活かす法
ある男が「ぼくは病気なんじゃないでしょうか」と深刻な顔をして訴える。なぜかと聞けば、「女性を見るとみな美人に見えるんです」
なんだそんなことか。それなら大丈夫、ほくだってそうなんだからとは言わないが、「それはお互いの幸せのためにいいことではないの。キミは美しいものを限りなく見られるんだし、女性はそう見られて満足する。全日本ブス連合組合にとっては、君はメシアじゃないか」
すると、彼は溜息をつき、「それだけならいいんです。美人に見えたあとは、サカリのついた犬のようになるんです」
なるほど、それは大変だ。時間がなくて彼の前世を霊視することはできなかったが、弓削道鏡かカサノバか、はたまた怪僧ラスプーチンか、青ヒゲなのかもしれない。
けれども、一方、欲望の強い人間は、他人より生命のエネルギーが大きいということでもある。世の中に影が薄いといわれる人がいる。仲間内でワイワイ騒いでいても、存在感がないから、みなの関心を惹かない。
「おい、あいつ、まだ来てないのか?」
「…………オレ、さっきから、ずっといたよ」
このような人は、生命力とバイタリティーが足りない。バイタリティーが足りない人間は、人間として大成する可能性もまた、少ないということになる。とすれば、はずれの色欲に悩む男は、そのエネルギーをコントロールして、他のエネルギーへと転化すれば、大いに成功を収めることができるはずだ。
宗教の世界では、人間の欲望を不純なものと決めつける傾向が強いが、弘法大師は、こういっている。
「…… 人間は肉体を持ってこの世に現れているから、性欲、食欲、睡眠欲などの欲望があるのは当たり前のことなのである。また、その欲望の源は、全宇宙の生命エネルギーから来るものであるから、否定することはできない。要は、その欲望=エネルギーを、良しとする方向に運用していけばいいのである」
良しとする方向を見出すために古今の学問を学び、心の修養を積む。
つまり、理性と心の力と教養の襞によって、現在の欲望を制御すればいいのであって、欲望そのものを捨てる必要はないというのである。
このような話をすると、さきほどの自称絶倫男は眉を開いたようで、月に一度は、しかるべき聖域に出かけ、神に祈り、心の修養を積みはじめた。
しばらくして、彼が再び訪れたので、様子をたずねるとこういう。「よく分かりました。要は、他の方向に自分の関心が向いていなかったのです。今は仕事もバリバリ、毎日壮快な気分でやっています」で、問題の欲望の方は?
「ハハハッ。相変わらず元気です。ただし、女性の良し悪しがわかるようになったから、相手は少数です」
一人にしなさい!
「英雄色を好む」という言葉がある。歴史に登場する人々の多くは、女性をこよなく愛した。私の知る大学者は「その半生が色欲との闘いであった」と告白したことがある。
間々と悩みもだえるうちに、ふと気がつくと、学問に没頭していたという。といって、色欲を喪失したわけではないそうだ。日本の経済界、あるいは政界に君臨する人々の中にも、色好みを隠そうとしない人が多い。
「下半身に人格なし」と豪語した大臣が昔いて、これはどうかと思うが、いずれにしろ、色欲、性欲は、人類繁栄の根源であって、これを否定すれば、地上から人類が姿を消すことになる。
春機発動期という言葉がある。十八、十九の若い人たちの置かれた状態で、性的エネルギーが充満していて、何とも切ない年頃であるが、その強い欲望のほんの一部でも、他のことに振り向けることができれば、その人の人生は、さらなる実りが約束されるだろう。
そのことは拙著『大金運」(たちばな出版刊)でも述べたが、男性はどこかにハングリーなところがないと伸びない。
特に、若い頃は性的にハングリーでなければ、無から有を生み、不可能を可能にするバイタリティーは湧かないのである。精は気と化し、気は神を呼ぶ。精、気、神の三要素こそが、生命を司る三要素であるからだ。神仙道はこのことについて詳しいが、ここでは詳説をはぶく。
運を持続させるコツ
ギャンブラーに言わせると「人間の持つ勝負運の量は決まっている」そうだ。
若い頃、勝ちまくっていたギャンブラーは年老いるとまるで勝てなくなるし、その逆に、晩年になって、勝負強さを発揮する人もいる。とすると、勝ち負けがイコールとなってしまうから所詮ギャンブラーは、身が持たないことになる。
では、われわれの持つ運にも限りがあるのだろうか。
私は運の根源は、その人の徳分であると考えている。横尾忠則氏のところで前述したとおりである。
徳分とは、目に見えない無形の宝物であるが、これが地位、富、あるいは名誉といった現実的な形で現れた場合、その人は「運の強い人」「幸運な人」ということになる。
つまり、徳のある人は、それだけ、強い運を持つということであり、徳を積むことが運を創ることになるのである。本質の道に合えば徳となり、徳が化して福となる。これがうまく運ばれている状態を称して「運がよい」というのだ。これが、本当の「運」というものの正体なのである。
これらは、全ての人に等しい量の運が与えられているというわけではなく、本人の生まれる前から持ってきた徳である先天の徳と、生まれてから今日まで努力してきた結果である後天の徳があって、運の量も増減するのである。
とはいえ、人の一生の間に、際限なく運が貯るわけではないから、むやみに運を消費することを避けねばならない。「徳」に関する詳しい論証は、拙著「大天運」(たちばな出版刊)に詳しいので参照されたい。ここでは別の話をしよう。
ある日、あなたが買ったジャンボ宝くじが当たったとしよう。これはもう「ラッキ!」である。一等七千万円。都会の真中で土地を買う気さえ起こさなければ、相当に使いでのある金である。
ベンツを買い流行の最先端をいくファッションに身を固め、連日、遊び回ってもなかなか減るもんじゃないと思っているうち、ふと気がつけば、通帳の数字はみるみるうちにしぼんでしまっている。
ああ、こんなことになるなら、財形貯蓄に回しておけばよかったなと考えても後の祭り。
ここは一発大勝負。万馬券に百万円振り込めば一億円になるではないかと、考えた時は、せっかくの運もからっぽになっている状態である。
宝クジに当たったことは、あなたの徳が具体的な形になったのだから、大いに喜んでよろしい。
ただし、ここで考えなければならないのは、あなたの過去の徳分が七千万円という札
東に換わったという点だ。つまりあなたの徳分は七千万円分減っていることになる。もちろん、徳分は金銭で正確に計れるわけではないし、金銭に換えられるわけでもないが、幸せな気持ちの分、それだけ徳がなくなったと思うことが大切なのである。
もし、七千万円の金を浪費してしまえば、あなたは無為に徳を垂れ流しにしたことになる。ところが、その金を新たな徳を積むために使えば、現実に金が目減りしても、徳は増えることになるのだ。
古代中国の君子は、功なり名を遂げると、早々に隠遁生活に入った。地位や名誉や富に囲まれていると、死期が早まると考えたからだ。
「老子」には、そこまで詳しくは述べられていないが、老荘思想全般の流れや、それを学んだ人たちの歴史を詳さに見れば、そう断言できるのである。
そこで政治の表面から身を引いて、新しく徳を積む努力をする訳だ。これは「急に肥大したものは急速に縮小する。ゆるやかに成長すれば、ゆるやかに衰「える」という「老子」の思想の影響によるものだ。
「自分の醜い部分をなくしたいのだが、どうすればいいのか」と問われた老子は、「美があるからがあるのだから、美しいものをなくせばいい」と答えたという。
普通ならば「美しい点をより以上に伸ばせば醜さが消える」と言いそうなものだが、背伸びばかりすることはよくないというのが老荘思想なのである。
陽があるから陰がある。陰をなくすためには、腸をなくすしかないという思想であり、陰陽は相対的なものであるように、美穂も相対的なものであるという訳だ。だから、美しいとか醜いとか、そんな相対的な世界でウロウロせず、絶対的で悠大な世界に、自分の心と目を向けよと老子は言いたいのである。
ところで、ある画家が、画壇の寵児としてもてはやされたことがある。絵は高値で取り引きされるし、何かとマスコミに取り沙汰されていたが、ある日突然「有名になるのは飽きた」と言って、アトリエに籠りきりになり、日がなキャンバスに向かう生活を始めた。
外に姿を出さぬ彼の存在は、世間から次第に忘れ去られてしまったが、晩年発表した作品のすばらしさは、若い頃の絵が色褪せて見えるほどであったという。
その時、彼は「有名になるのは飽きた」という言葉について次のように語った。
「有名になったために、名誉、地位、富などに恵まれた。ところが、その分、絵に打ち込む熱意がうすれそうになった。絵描きは絵を描いているのが幸せであり、自己の生涯や値打ちは、絵に残すべきだと思い姿を隠したのだ」
人間、全ての面で幸せになろうとすれば、エネルギーを消耗するし、また、たとえ幸せになったとしても、長くは続かない。
人それぞれに運の量は違うとはいえ、運には限りがある。自分にとってもっとも大切なものに運を引き寄せ、運が長持ちするように努力しなければならない。
「命運を永らえる」というのは、この意味なのである。だから、この貯運の法を知らなければ、いくら創運しても、本当の幸福実現の道は成就しないのである。
