栄光を捨てて裸の自分に帰る
「学する者は、日に日に溢し、道する者は日に日に損す。損して損して無為となす。無にしてなさざるはなし」という老子の言葉がある。この場合、学とは儒教のことだが、それにこだわらず普遍的に解釈すれば、次のようなことになる。
「学ぶということはプラスとなるものをどんどん吸収して、一歩一歩ステップを登っていくことである。一方、人の道、天地自然の道、己れの原点を見極めようとすれば、地位や名誉・名声・富というものを捨てていかなければならない。身の周りについた人為的なもの(有為)を削りとっていくと、その人本来の姿が現れる。つまり無為の状態、自然の状態に戻る」というわけだ。
これを、人の一生に照らし合わせて見れば、「若い頃は、仁義礼智信を身につけながら、頂点を目指す。一たび頂点に登った人は、年老いるとともに、山から降りなければならない。
一歩また一歩と、山を降りるごとに、身につけた仁義礼智信を失いながら、最終的には生まれた状態に戻る」というのが儒教と融合させた老荘思想の原点なのである。
せっかく身につけた仁義礼智信の五徳を失うのでは、なんのために人間が生きるのか分からないという人もいるが、自然から生まれ、自然に帰るのが、この世の摂理であって、それに抗えば、どこかに破綻がくるものなのだ。
ふたたび王監督の話に戻るが、彼は現役の大スターから、監督の大スターへと横滑りする道を選ばざるを得なかった。
現役として頂点を極め、頂点にとどまれないと考えたことが引退へとつながったわけだが、これは「損して損して無為となす」という生き方ではない。いや、本人は過去の栄光をすっぱりと断ち切ったつもりかもしれないが、周囲はそうは受け取らない。
選手にしてみれば「あれだけの大選手ならできるかもしれないが、オレッち凡選手には真似ができないよ」と思い込み、王監督の指導に、心底したがうことはしない。
球団のお偉方は「王ほどの人物なら、監督も立派に務まるはず」と、決めつける。
いつまでも、大選手の殻を脱ぎ棄てられないことが、監督として大成しない原因なのである。厳しい言い方かも知れないが、『老子』の、元極を見すえて本来の生命力と天運を得る叡智に、もう少し学ぶべきではないかと思う次第である。新たなる創運の道への旅立ちのために。
星野監督の徳分を観察すると
今年、野球ファンを驚かせたのは、星野中日監督の指揮ぶりである。ケンカ野球を標榜し、敵を仰天させる奇手奇策を操り、堂々、三強の一角を占め続けた。
奇策の最たるものは、ルーキー近藤真一投手の起用だろう。ドラフト一位の逸材とは言え、高校を卒業したばかりのヒヨコを、一軍登録と同時に、巨人戦の先発に起用した。
この時、対戦相手の指揮官、王監督は何を考えていたか。
「将来のある投手であれば、それだけ起用法に注意を払わなければならない。いきなり先発で打ち込まれれば、本人が自信を失うし、また、立ち直るまでに時間がかかる」と、近藤先発の可能性を否定し、左打者をズラリと並べた。つまり、絶対の自信をもって右投手を想定したのだが、まんまと裏をかかれ、茫然自失のていであったという。
確かに常識的にみれば、王監督の考え方は妥当である。しかし、常識とは、既成の価値観によって支えられているものだ。王監督が巨人というチームの伝統と、みずからの過去の経験から「まさか」と思っても、星野監督には通用しない。なぜなら、こちらは、有為を削ぎ落としてしまった人間だからだ。
星野監督の現役時代の成績は百四十六勝、超一流の投手というわけではない。したがって現役の成績を錦の御旗のように振り立てる意味はない。
彼が監督に就任する時、中日球団としては、「最後の大物」のつもりだったらしいが、他の人たちから見れば、どこが大物かは分かりはしなかっただろうし、また、「彼が大物である」といわざるを得ないとすれば、中日球団がいかに人材不足であるかということになる。
さらにいえば、星野監督自身、自分が大物であるという自覚はまったくなかったはずだ。
つまり彼には、過去の実績や栄光といった有為なるもの、足手まといがないから、思い切った作戦がとれるし、常識をひっくり返してみせることができるのである。
また、人間としての勢いという面も考え合わせなければならない。現役時代にエネルギーと運を完全に使い果たしていないだけ、彼の人生には余力も徳分も残されている。
さらにもうひとつ、つけ加えれば、我執・我見の押し出し方が王監督よりも少ない。頑固さという点では、星野監督も相当なものといわれているが、頑固さを押し通せば、必ずトラブルが起こることを知っている。なぜなら、王監督のように、白を黒としてしまうような圧倒的な実績を持っていないからだ。
もし、星野監督が、自分の意志だけを貫こうとすれば、選手たちは「何いってんのよ。昔は自分だって、けっこうチャランポランだったくせに」と、一斉に反揆するはずである。そういった、選手の心の動きがわかっているから、無理やり我執・我見を押し出すことをしないのだ。
一方、王監督の内に秘めたる頑固さは相当なもので、頑固さでは定評のある熊本県人、川上元監督がカブトを脱ぐほどであったという。もちろん、彼の頑固さは、自分自身の特異な人生体験に裏づけされているだろう。
中国国籍の人間として、幾多の辛苦を味わいながらも、甲子園で優勝を飾り、プロの世界では文字通り、「王道」を歩んできたことから得たものを背景とする頑固さは、並み大抵ではない。
しかも、周囲が彼の頑固さを容認する。「あの人は別格」と思っている人間が、彼の頑固さを諌めることはできないからだ。従って、あえて頑固さを表に出さなくても「そこのけそこのけ、王様が通る」と、勝手に道が開けてしまうのである。
ここに、星野監督の奇策が功を奏した原因がある。とはいえ、奇手奇策だけで、チームを導くことはできない。シーズン前は「弱体チーム」といわれた中日を立て直すには、星野監督の徳が大きく物をいっている。
彼は現役時代と変わらず、喜怒哀楽をハッキリと表現するそうだ。選手がミスをするとベンチの中から凄い音がする。振り向けば、星野監督がベンチを蹴とばし、物を放り出しているといった具合。
逆に好プレーをすれば、破顔一笑喜びをかくさない。善悪の判断がハッキリしていて、胸に一物秘めるような裏がない。老荘思想でいえば、無為=自然のままにふるまっているのである。
その一方で、選手たちに対して、たえず気配りを忘れない。選手の誕生日には必ずプレゼントを贈るし、個人的な悩みごとがあれば、真剣に相談に乗る。彼の監督契約は年きりだそうだ。来年、周囲も本人も望めば再契約ということになるだろうが、地位に執着するところがない。
正邪を正しく判断でき、他人の幸せを願い、なおかつ、自分自身に固執しない人間=徳分が備わった人間なのである。
だが、これに前世にあり余るほどの徳があったのなら、彼も大成するだろうが、生まれてきた時点での徳比較をすれば、王監督7に対して星野監督1弱だったのである。今は、王監督25に対して星野監督1強である。
田中角栄元総理の悲運
昭和四十七年、圧倒的な国民の支持を得て総理大臣となった庶民派総理田中角栄氏の晩年は、ロッキード事件の被告人であることに加え、脳梗塞の後遺症、そして、かつての部下や支援者の離反などがあいまってまことに寂しいものと伝えられる。
日本列島改造論をはじめとするその政策、金権体質といわれる政治活動等、田中元総理に対する批判論はこと欠かないが、個人的な思いをあえて告白すれば、歴代総理の中で、最も人間的魅力に溢れた人物であったといってよい。
鼻下に蓄えたチョビ、片手をあげて「よっ」と挨拶する声、目的はどこにあったかはともかく、人に頼まれればイヤとはいわず全力を傾けて支援する姿は、位人臣を極めたにしては、いささか品格に欠けるとはいえ、一般大衆の絶大な人気を収めたものである。
この一代の英雄に対する容疑は、米国の民間航空機導入の便宜を計るために五億円の金を受け取ったことに対する容疑、いわゆるロッキード事件への関与だが、この件に関して私は、首をひねらざるをえない。
きれいごと、建前という装飾を剥ぎ取れば、政治の世界は、金絡みであることは、日本人の誰一人として疑いえない事実である。とりわけ集金能力に絶対的な力を発揮していた元総理のことであるから、年間数百億の金を自在に操っていたことだろう。それほどの男が、わずか五億の金で、足もとを掬われるとは随分間の抜けた話ではないか。
わずか五億とは何ごとだ。われわれ庶民は一生かかっても、手にできない大変な金額ではないかとおっしゃる人もいるだろう。確かにそうではあるけれど、政界という伏魔殿では、五億ははした金、いや、タヌキが人をだます時に使う枯葉の一、二枚に相当するかどうかという価値しかないのである。
もちろん、この五億という金、元総理の周辺に流れる不明瞭な金の氷山の一角であって、もっと掘り下げれば、桁の違う怪しげな金が存在するのかもしれない。
つまり、五億を、蟻の一穴として、田中元総理を中心とする金権政治の城が崩壊したともいえるだろう。
しかし、その一方、この五億円は田中元総理を倒すために仕掛けられた罠であるという説もないではない。どの説が正しいのか、歴史が明らかにしてくれるだろうが、それはさておき、栄耀栄華をきわめた田中元総理の凋落について、私の考えを述べておこう。
田中元総理は、越後の馬喰の子として生まれた。その幼少時は、貧しい生活を強いられたが、上京し、苦学力行して、政界に乗り出す機会を得た。では、彼の前世は、何者であったのか。
私の想念の中に浮かびあがるのは、越後の生んだ一代の英雄、上杉謙信の後継者景勝に仕えた直江兼続の顔である。上杉謙信(1530~1578年)は七十回を越える戦いの中で、ついに一度も破れなかった戦の天才であったが、同時に学問と修養を積み、信仰者、人格者としても戦国時代を代表する傑物であった。
しかしながら、家庭人としての彼は決して恵まれてはいなかった。いや、みずからの家庭を作ることを放棄してしまったのである。その原因は、上杉家内の権力争いにあって、身内同士、血で血を洗い骨肉相食む戦いを演じた結果、謙信が家督を相続したことにある。
そのことが彼の内面に大きく作用をおよぼしたのであろう。生涯妻をめとらず、当然、子も生まれなかった。謙信が後継者としたのは、兄、長尾政景の子景勝である。
さて、この謙信の薫陶を受けた直江兼続は、謙信の後継者景勝をよく助け、秀吉からは上杉家の臣下でありながら、城をさずかり、諸大名の一人として好遇を受けた程の名将である。大番頭として景勝を支え、戦国の動乱期を切り抜け、現在まで脈々と続く上
杉家の礎を作ったとされる。これは、謙信の徳分に加え、直江兼続の器量と徳分が、大きな力になっていたと思われる。田中元総理の前世がこの直江兼続であるとすれば、元総理の徳分は、国を支える大番頭である時に存分に発揮されるものであったに違いない。
現代日本の政界にあって国を支える大番頭とは、総理総裁ではなく、幹事長のポストである。振り返れば、田中角栄氏が、もっとも光り輝いていた時期は、幹事長職にあった時代である。
ところが、彼は、その職にとどまらず、究極の権力者、総理の座についてしまった。彼の衰運、そして晩年の苦境の原因は、前世直江兼続の生き方を逸脱した結果なのである。
三代でつぶれる家、つぶれない家
わが国では、繁栄を誇った家も、三代と持たないといわれている。商家で言えば、初代が創業し、大いに稼いだものを二代目が何とか維持するが、三代目が大盤振る舞いの大散財をやらかしてつぶすというパターンである。
なぜ、こういうことになるのかと言えば、親が子に対して、盲目的な愛情をふりそそぐことと、財産を他人に渡したくないという血族エゴのためである。
「バカな子ほど可愛い」という言葉があるが、たいがいの親は、愚かな息子であろうとなかろうと、家業を継がせるものである。それでも、二代目は、まだしっかりした子どもが生まれる可能性がある。創業者と苦労をともにした女房との子であれば、辛い生活の記憶が受け継がれるからだ。
ところが、三代目となるとそうはいかない。三代目の父親、つまり二代目が女房とするのは、しっかり者の娘であるより、何不自由なく育てられたお嬢さんであることが多い。
不自由を経験したことのない女性は、大らかな性格という点がないではないが、それよりも、高慢チキで鼻持ちならぬ性格である可能性が大きい。また、鼻持ちならぬ女は、たいがい美人と相場が決まっているところも困ったことに現実なのである。
逆に言えば、金があって美人であれば、高慢チキにならないのがおかしいということになる。
しかして、二代目と高慢チキ娘の間に生まれた子は、あまり出来がよくないのが通常であるから家が三代目でつぶれるのも、なるほどというわけだ。
ところが、三代目になっても、つぶれないでしっかりとがんばっている家もある。こういった家の家業を見ると、嫡男のいない家庭、つまり、子どもは女性ばかりというケースが少なくない。
娘しかいない家庭では、その中のしかるべき一人に養子を迎え、家督を相続させようとする。養子とする男性は、まず第一に、人格識見、能力ともに優れていることが要求される。
つまり、バカ娘であればあるほど、しっかりとした男性をくっつけて、家を保とうとするのが、親の思いなのである。
日本を代表する電機メーカー、松下電器は松下幸之助氏が、町工場から発展させた会社である。
幸之助氏には、男の子がいなかったため、正治氏を娘婿として迎え、社長の座に据えた。
松下家のお嬢さんは、もちろん、幸之助氏の苦境時代を知っているから、しっかりした女性であるに違いないが、そこに正治氏という新しい血が加わったことによって、社業はますます隆盛の道をたどっている。さらに、正治氏の後の社長に、血族ではない人材を抜擢したのも賢明な策である。
現在は正治氏の息子、正幸氏が帝王学をさずけられ、松下グループの総帥としての地位を約束されているが、この正幸氏を私は松下家の三代目とは呼ばない。
幸之助氏を初代と呼ぶなら正治氏は、準初代と呼ぶべき存在だと思うからだ。とすれば、正幸氏は二代目もしくは準二代目ということになって、世にいう「三代目はダメ」という言葉にはあてはまらない。
男の子がいる家系が衰運をたどるということを、霊界のシステムから考察してみよう。今から五百年前の英雄と言えば第一に、豊臣秀吉の名を挙げる人が多いだろう。
革命児・織田信長の後をつぎ、日本統一を果たした秀吉の栄華ぶりは、想像を絶するものであったそうだが、彼は、長いこと、世継ぎに恵まれなかった。晩年になって得たのが秀頼であり、秀吉は、この世継ぎに対し盲目的な愛情をそそいだが、この頃から、豊臣家に衰運の兆しが見えはじめた。
これを分の関係から見ると、秀吉の持つ分のかなりの量が秀に流れ込んでしまったため、秀吉の運が大きく傾いてしまったということになる。
一方、溺愛を受けた秀頼の母親淀君は、織田信長の姪にあたる。秀吉の色好みはつとに有名であり、美貌を誇る淀君に惹かれたのは当然のことだが、淀君はかつて自分の仕えた信長の血を引く存在であることから、秀吉が彼女に対してとる態度は、卑屈にならざるを得ない。
つまり淀君が、勝手気まま、思う存分権勢を振るったのも、これまた当然のことである。
こういった両親のもとで生まれ育った秀頼が、人格識見ともに優れた傑物になろうはずがない。
秀頼は、秀吉の徳分の多くを受けついだとはいえ、その上に、みずからも徳分を積まなければ、運を切り拓くことは難しいからだ。
目白邸の池と金龍神
ひるがえって田中元総理の家系を考えてみる。元総理には、外に何人もの子がおり、その中には男子もいるが、嫡男はおらず、直系は長女・眞紀子さん一人である。元総理は一人娘に対して、愛情をそそぎ込んだが、徳分の流れは、多くなかった。というのも、娘が父親の徳分を受け継ぐ量は、息子の三分の一にすぎないからである。
このことは、田中元総理の繁栄の原因ともなっている。秀吉秀頼の関係のような徳分の流れがないため、田中元総理の持つエネルギーも、運も、消耗することがなかったのである。
その眞紀子さんの女婿として迎えたのが田中直紀氏である。政治家の子息であり、なかなかの人物と見込んでの縁組であったはずだが、田中家の場合、なぜ、松下家のように、隆盛を保つことができなかったのか。
他人の家庭のあり方に、むやみやたらと口をはさもうとは思わないが、巷間噂されていることを総合すれば、眞紀子夫人の性格は、女性にしておくには惜しいほどのものだという。
つまり、田中直紀夫人といっても、実質的には、田中家の後継者であり、父親譲りのパワーをフルに発揮し、政界にさまざまな波紋を投げかけている。この点が、女婿に家督を譲った松下家と、譲り切れない田中家の違いなのである。
もうひとつ、田中元総理をめぐっての不運の原因がある。良くも悪くも、金がつきまとう田中家の金庫がカラッポという説が流れている。
金は天下の回り物というが、政治家にとって金がなければエネルギーが低下するのも、真実である。そしてまた、政界から退いても、金さえあれば、後顧の憂いをカバーすることもできる。とすれば、金庫がカラということは、田中家の土台を揺るがせる一大事だ。
では、なぜ蓄えがなくなったのであろうか。
現象的には、田中氏が、政界のフィクサーとしてのパワーを失い、集金能力が落ちたということだろうが、霊界の仕組みから言えば決定的原因が他にある。
目白の角栄邸といえば、大きな池をめぐらした庭で知られていた。池には、地元越後産地から運ばれた一匹数百万円もする錦鯉が群れをなして泳いでいたそうだが、主が病いの床に伏せった後、この池は埋められてしまったという。
田中元総理が手ずから餌をやれなくなったのが理由なのか、それともリハビリの場を確保するためなのかは判然としないが、今や池は跡かたもない。と同時に、田中家の金庫が寒々しくなったのだが、池と金とは大きな関係がある。
大きな鯉のいる池には、守護神として龍神がお棲まいになっていることが多いといわれるが、中でも金龍神という龍神は、人間の権力と富を司っている。つまり、金龍神の棲む池を所有している人は、権力と富に恵まれるのである。本当のことを言えば、前世、直江兼続の時の守護神であった王宮居金龍神という名の金龍神が、田中角栄七歳の時に、再び守護をされ始めたのである。
それから、角栄氏もガラッと変わっているはずである。もともと金龍神が守っている人だから、池を愛し鯉を飼ってみたくなるのである。全長三・七メートルの金龍神が田中邸の池に住まわれていたが、池を埋める一ヶ月ほど前から角栄氏から離れている。ところで、田中元総理の場合、刻苦勉励して富を得るとともに、多くの人材を育成してきた。
田中派が長期にわたって日本の政治を動かしてきたのも、富と人材を育てた元総理の徳分のお蔭だが、その背後にあって守っていたのは、目白の池に棲む金龍神なのである。ところが、その池を埋められることになり金龍神の安住の場がなくなってしまった。長年、元総理の守護神であった金龍神はやむなく目白を去っていったのである。
もし、田中家の再興を望むなら、ふたたび池を作り、鯉何も、高価な錦鯉である必要はない―を放ち、金龍神を招き寄せることが必要である。
竹下元総理と安倍・宮沢・中曽根さんの前世と運
昭和六十二年、ポスト中曽根を狙って、竹下登さん、安倍晋太郎さん、宮沢喜一さんが鎬を削り、権謀術数が展開されたが、結局のところ、竹下さんが、めでたく総理総裁の椅子を獲得した。
しかし、かりに他の二氏がその椅子を得ていたとしても、わが国の針路に大幅な狂いは生じなかっただろう。これはひとつには、ニュー・リーダーといわれた三氏の力が拮抗していたためであるが、もうひとつ第二章で述べてあるように、わが国そのものが、大きな徳分によって、守られていたからである。
ところが、せっかく待望の宰相の座を手に入れた竹下さんも、リクルート疑惑にまきこまれ、早々に退陣しなければならなくなった。
ミニ角栄といわれた氏らしく、金がらみの問題が命とりになったわけだが、以来、現在まで、政界に隠然たる勢力を維持しているのはさすがというべきだろう。その竹下氏の前世、徳分、そして運について分析してみよう。
竹下登氏
竹下氏は、長年、田中角栄元総理の股肱の臣として仕えてきた。その忠義ぷりは、織田信長に対する木下藤吉郎、後の秀吉のごとくであったそうだが、その一方、虎視眈々天下取りを狙っていたともいわれる。
親しい仲間たちとの会合では、みずから「十年たったら竹下さん」、と戯れ歌を歌っていたそうだが、十年が十五年、十五年が二十年と延びるにつれ、内面の焦りは相当のものであったのだろう。
待てば、田中派のトップの座が熟柿のごとく手に入るといわれながらも、竹下派結成に踏み切ったのは、その焦りの結果ともいわれるが、一方、待つだけでは、運を創ることができないと思い至ったからでもあるのだろう。
竹下さんの前世を見ると、おとなしくて真面目な上杉家の後継者・景勝としての姿が浮かんでくる。
田中角栄氏の前世が上杉家の重臣・直江兼続であることを考え合わせれば、なかなかに興味深いことである。直江兼続とは主と臣下の関係ではあったが、上杉景勝は臣下である直江兼続をまるで、兄弟の如く、いや、父親の如く慕い、尊敬し合って仲むつまじい二人であったという。
今世では主従が逆になっているが、内容的にはまったく同じである。ところで、竹下氏は、根回しの巧みな人物といわれる。
「言語明瞭、意味不明」と、その話しぶりが揶揄されているが、これは根回しを得意とする人間の特徴といっていい。黒か白かをあまり明確にしてしまえば、敵味方に対する工作が成功する可能性がなくなってしまうからだ。
また、根回しの巧みさは、氏の座るべきポジションが、どこであるかを示している。会社でいえば、社長をアシストする立場であり、主に社内を取りまとめる役割をする副社長であり、政界にあっても、首相の座よりも、陰のまとめ役、フィクサーとして活動する方がふさわしいのである。
ではナンバーワンとしての資質はないのか。景勝が上杉謙信の後継者として、実直に戦国時代を生き抜いてきたことを考えれば、十分にある。しかし、ナンバー・ワンの座につけば、いずれ、その座を降りなければならない。これは老荘思想でふれた通り、人間が生きていく過程での必然であるからだ。
ところが、陰のまとめ役、フィクサーであれば、はるかに長い期間、大きな影響力を保持し続けることができる。鈴木善幸氏の場合を例外とすれば、病に倒れる前の田中角栄氏や、福田赳夫氏、中曽根康弘氏などは総理を辞して後、フィクサーやキングメーカーとして活躍した。
人間の生き方には、「太く短く」と「細く長く」の二つがある。望むところは、「太く長く」であろうが、これは欲というものである。
竹下さんが、本来どちらの生き方を望んでいるのかは不明だが、その前世を考え合わせれば、本当は総理といった、NO.1のポストに焦点を合わせるよりも、長期的展望のもとに自らを政界の大御所として位置づけた方が、より以上に徳分を発揮することができ、また、運を隆盛にできたのではないだろうか。
前世の如く後継者でありながらも表面に出ず、フィクサーとしての能力を前面に出していけば、それなりの道が開ける可能性もあるのである。
安倍晋太郎氏
竹下氏とは、ライバルであり、しかも親友であるという不思議な関係を保ち続けた安倍晋太郎氏だが、ついに政権の座に坐ることなく、この世を去ってしまった。さぞかし、無念やるかたない思いを抱いて鬼籍に入られたと察するが、氏はいかなる人物であったのか。
政治家の家に生まれ、東大卒後毎日新聞記者となり、政界に足を踏み入れた氏は、その毛並みの良さと故岸信介氏の女婿として、また、福田赳夫氏のバックアップを受け、早くから、将来の総理候補と目されていた。
この安倍氏の前世は、武士である。おそらく武田信玄にゆかりのある人物だろうと思われる。
信玄の嗣子、勝のそばに仕え、信玄の成し得なかった覇権獲得に向けて強力なバックアップをしたが、志を果たすことはできなかった・・・。そのような人物の姿が、浮かびあがってくる。
安倍氏は、実に好人物であったといわれる。海千山千がひしめき、生き馬の目を抜くさかしい人物が跋扈する政界において、春風駘蕩たる雰囲気を持ち続けられたのは、よほど、徳分の蓄えがなければできないことである。
前世の徳分、さらに、故岸氏の政治的徳分があいまって、安倍氏の人格が形成されたのだろう。
しかし、その氏にも、弱点がなかったわけではない。政界は人物の良さだけで生き抜けるほど甘い場ではない。
なにがしかの実利を伴う工作によって、人を育て、組織を作りあげることが必要なのである。その点から見れば、安倍氏の姿勢はかつての仇名「プリンス・メロン」を彷彿させる。つまり、甘いお人好しであったということになる。
実利を伴う工作とはどういうことか。
人を惹きつけるには、まずその人物に、富なり、地位、名誉、あるいは権力といったものを与えなければならない。なるほど、この人についていけば、いい目に合える、幸せ(見せかけであるかもしれないが)を得られると思わせることが大切なのである。
毛並みの良さ、政界の汚泥をたっぷりかぶったことがないという経験の不足が、このような工作の不器用さにつながったのではないだろうか。
ちょっと話はそれるが、もとより金持ちであった人間には、金の価値、ありがたみがわからない。人々が一円を稼ぐために、どれほどの苦労をしているかを知らないからである。
安倍氏は、岸氏の女婿になった時、すでに総裁候補と目されていたから、派閥を形成するための苦労など経験がなかった。何もしなくても人は集まると思い込んでいたふしがある。
おそらく、それが、中原に鹿を追う時に大きな欠点となって現れたのではなかつて、二宮尊徳は、「金を得るにはどうしたらよいか」と問われて、風呂の中で、湯を向こう側に押したという。押された湯は、脇から自分の方に戻ってくる。つまり、人を富ませれば自分も富を得られることを示したのだ。
安倍氏が、このコツを体得していれば、やや弱い運気も強くなっていたのではなかっただろうか。
日本の歴史をみれば、足利尊氏が勝ち、楠木正成が負けている。また、源頼朝は幕府を樹立したが、平家打倒に最大の貢献をした義経は、兄頼朝の手によって滅ぼされた。なぜなのか。
尊氏や頼朝が政治的手腕を有していたのに対し、楠木正成も源義経も純粋に進む結果として多くの味方を得ることができなかったのである。つまり、過去か現在にいたるまで実利を前面に押し出し、実利の配分のうまい者が政権を手中にしているのだ。
私は神家であるので、この逆を行っている。植公を師と仰ぎ、義経を尊敬し、上杉謙信を神人合一の範においている。
だが、私が政治家の道を志していたのであれば、やはり、地獄に落ちるのを覚悟して、謙信よりも武田信玄を、義経よりも頼朝をめざしていたに違いない。もし、安倍氏に政権獲得のためには全てを投げ打つという強烈な意志があれば、それが生命力となって死の淵から生還することができたのではないだろうか。
宮沢喜一氏
政界きっての知性派と呼ばれているのが宮沢喜一氏である。幼少の頃から秀才の割れが高く、東大、大蔵省というエリート・コースを歩んだ後に政界に転じた。
経済政策に熟知していることに関しては、氏の右に出るものがなく、英語をしゃべらせれば、日本人のベスト10に入るというほどの国際派で、「外国に出して恥ずかしくな政界唯一の人物」という評もある。
少々、上背がないことから、各国首脳の中に入ると存在感が薄くなるという欠点はあるが、日本人が、単なるエコノミック・アニマルではなく、知的生物であることを知らしめるには、氏が最もふさわしい人物なのかもしれない。
宮沢喜一氏の前世を透視してみよう。秀吉の盟友であり、五大老の一人、そして加賀百万石の基礎を作った前田利家公がその人である。
時代の流れに押し流されることなく、クールな判断力で生き延びた人物であったが、結局は覇権とは無縁の存在であった。
宮沢氏のシャープな頭脳と、前世の徳分から見れば、竹下氏に先んじて、総理の座についたはずだ。そうならなかったのは、その徹底した合理性がウィークポイントになったからであろう。
かつて、宮沢氏は記者たちの夜討ち朝駆けを嫌い、ひんしゅくを買ったことがあるが、氏にしてみれば、無差別な訪問は迷惑という心境だったのであろう。
しかしながら、政治家と一般大衆とのジョイント役を務めるのは、新聞を代表とするマスコミである。つまりマスコミ人間とのつき合い方ひとつで、大衆に対して伝えられ宮沢像が変化することもありうるのだ。
このことは、氏の合理性とは相入れないだろうが、「郷に入っては郷に従え」という心の柔軟性を持たなければ、政治家として思わぬところで足を掬われる可能性がある。
たとえば「宮沢氏は酒乱の気がある」という説が、広く伝わっている。ふだんは知性派としてクールに人に接しているが、一度酒が入ると毒舌家に変身し、舌鋒鋭く、人を斬ってすてるという。
真実は定かではないが、なるほどと思わせるエピソードである。他人より知的水準が高いと、心ひそかに自負している人間は、たえず欲求不満に陥る。「なぜ、こんな簡単なことが理解できないのか。どうしてオレのいうことが分からないのか」という思いを抱いているからである。
しかし、そうは思っても、ふだんは理性というブレーキが効いているから、あからさまに口にすることはない。そこにアルコールが入ると、理性のブレーキがはずれ、ガラリ変身しての毒舌家になってしまうというわけだ。
もっとも、総裁の座についてからは、酒を控えるようになったという。舌禍事件を避けようという心構えなのだが、願わくは、酒を控えることによって理性のブレーキを効かせるのではなく、酒が入ろうと入るまいと常にブレーキが効くようにしてほしいものだ。
一国を代表する人物が、たかがアルコールによって、言動を左右されることがあってはならないと思うからである。
さて、氏の今後だが、混迷を深める国際状況の中で、日本をどうリードしていくかにかかっている。もとより、大衆政治家ではない氏であるから、国民的人気を獲得することはないが、十年後、二十年後に「宮沢氏が選択した道は正しかった」と評価されることもあるだろう。
そのためには、自らの能力のすばらしさを誇示することなく、他者を立てる謙虚さを持ち、また、心の底から信頼できる人物をアドバイザーとすべきである。それによってその運が隆盛をきわめるか、衰えていくのかが決まる。
私の目から見れば氏は、日本を代表する賢人として、是々非々をハッキリと直言できる、政界監視役の立場にいるべきだと思う。
そうすれば、運が下降することもないし、その徳分が、政界の正常化、そして清浄化をうながすことになるだろう。
中曽根康弘氏
若くして政界で頭角を現した時、一方で「誠の鎧をつけた若武者」という称讃の声があがれば、一方で「カンナ層のようにべらべらな男」とけなされるなど、毀誉褒貶相半ばした中曽根さんも、戦後の首相在位記録第三位という長期政権を全うして、いまや押しも押されもせぬ大政治家の風格を身につけられた。
自派の勢力が弱いところから「政界の風見鶏」といわれたこともあったが、いまや、各派のバランスの上にあぐらをかくという技術を身につけ、首相退任後も、院政をしいているといわれるほどの影響力を保持しようとしている。
氏の前世は、藤原良房(804年~872年)なる人物である。
中臣鎌足を祖とする名門藤原氏の出で、八四二年に起きた承和の変の陰の仕掛人と権勢を得、文徳天皇の外戚として太政大臣の位にのぼり、清和天皇の御代に、人臣最初の摂政の座についた。
以後、藤原家は隆盛をきわめることになるが、前世の政治家としての資質を中曽根氏は十二分に受け継いだようだ。
もっとも、良房の後裔、藤原道長が、「この世を我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ藤原家も、やがて衰退の道を歩み、良房の霊も二百年の間、地獄をさまようことになる。おそらく、天皇家をまきこんで陰謀をめぐらした報いであろう。
その後、良房の霊は中国の宋と明に生まれ、遠くフランスに飛びナポレオンの側近として活躍した。それから現代に到り、中曽根氏へと生まれ変わるわけだが、政治、戦争両方の体験を積んだ霊だけに、機を見るに敏な特性と、乱戦での強さを身につけている。
現在、自民党は各派そして実力者の思惑が複雑に絡み合っているが、こういった乱世の状況は中曽根氏が強みを発揮するにふさわしい状態といっていい。
ただ、惜しむらくは、人望に欠けるところがある。
出身地群馬県の選挙では、現役首相時代も含めて、福田元首相の後塵を拝し続けてきたが、これは氏の人望を物語っているといってよい。
とはいえ、抜群の政界遊泳術を持っているから、今後も重きをなすだろうし、その霊のパワー、回復力から推測れば、もう一度、政権の座につく可能性も否定できない。だが、あまりに栄華を誇りすぎ、道長のような心境になってしまえば、その霊はふたたび地獄をさまようことになる。
時代が同氏を必要とするまでは、静かな環境の中に身を置くことが望ましい。
真の統率者の徳分が民族の運を決める
竹下氏の早期退陣、宇野宗佑氏のお粗末な辞任劇、そして海部政権の意外な頑張りを経て宮沢首相が実現したが、誰が政権の座にあっても日本の針路は変わらない。
なぜなら、霊界の仕組みを知る者の立場から言えば、国の将来は、政治家の肩にかかっているのではなく、民族の統率者の徳分にかかっているのである。
国家ではなく、日本民族の統率者は、実際の権力を持っているか、象徴の座にあるのかはともかく、天皇陛下であることに異論をはさむ人はいないだろう。
神武天皇から崇神天皇に至る神代の時代はさておき、国家が体をなして以来、日本民族はいかなる時も天皇の存在を存続し、意識していた。
その間、藤原氏による摂政政治、鎌倉幕府・室町幕府による武家政治、豊臣秀吉による日本統一、徳川幕府による政治、そして明治の時を経て象徴の天皇制をしく現在と、天皇が直接的に政治に関与しない時代があっても、常に民族の尊敬を受け、また、精神的な支えとなられてきたのだ。
つまり、日本の国連は、すべからく天皇陛下の徳分に左右されるのである。それは天皇というお立場の上に、絶えず天大のご神徳が輝きっているからである。
明治維新以来、日本はさまざまな艱難辛苦を味わってきた。極東に位置する島国とし世界から孤立していた国が、国際化の波にもまれたというのが近代日本の姿である。この状況は、世界各国の統率者の運の強さの競い合いといってもよい。
日清・日露の勝利は、聡明にして剛毅な明治天皇の強い運によるところが大きい。一般には知られていないが、明治陛下ほど敬神の念強く、神祭りがお好きで、神徳高き霊覚者はいらっしゃらなかったのである。
そのことは、天皇の十万首に及ぶ御製の歌を拝見すれば、目瞭然である。では日中戦争から太平洋戦争に至る敗北の歴史は何によるものだろうか。
明治天皇の偉大なるエネルギーと徳分が病弱であらせられた大正天皇に引き継がれなかったところに加え、列強の統率者の強大なパワーがのしかかってきたことが大きな理由であろう。
しかし、実はこれも、神界における主神の深いご神策にもとづくものであった。そして、昭和天皇が即位された時、すでに、わが国の命運は天皇の威を借りる人々の手に握られており、日本はひたすら戦争への道を歩まざるを得なかったのである。
そして敗戦…。
昭和天皇の徳分が発揮されたのはこの時からである。以来日本は、疲弊のどん底から、目を見張るような復興を遂げ、いまや世界一の経済大国といわれるまでになった。
日本人の精神状況を振り返れば、アメリカのおしきせの民主主義に浮かれる時もあったが、四十数年たった現在、日本人的な中庸の思想が結局は多くの人々の間によみがえっている。右も左も、進歩派と称する人々も保守派も、心のどこかで天皇陛下の徳分にすがっていることが、日本の成長と安定につながっているのである。
昭和天皇の九星は九紫火星であるが、この星の持つ運の動きが、すなわち、日本国の運命となっていた。経済の動向などを見れば、九紫火星の動きと常に連動していたことがよく分かる。しかし、その昭和天皇が薨られた。
では、今後の日本はどのような道を歩むのであろうか。ここしばらくは昭和陛下の類まれなるご遺徳分によって導かれるが、その後は、今上陛下の運と徳分に導かれることになる。
昭和の激動期を皇太子として体験された今上天皇もまた、すばらしい徳分と聡明さをお持ちであるから、その上に昭和天皇の徳分が、十分に引き継がれれば、わが国は安泰である。
