宇宙からの強運(Vol.2)

序章 あなたも「宇宙からの強運」を得られる!

人なみはずれた強運を持つには

「宇宙からの強運」というタイトルに、皆様は何を思われただろうか。「え?!?!強運が宇宙から来るの?」と、半信半疑の方もおられるだろう。

だが、本当に来る。正しくは、強運は星から来るのだ。

世界には昔から、占星術といわれるものがあった。夜空に輝く星を眺めて、太古の人々はそこに神秘なるはたらきを感じ取り、未来を占ったのである。

これを迷信と一笑に伏す前に、なぜホロスコープというものが、あれほどよく当たるのか考えてほしい。

眠れる予言者といわれたエドガー・ケイシーも「ホロスコープは、人の未来をほぼ100%見通すことができるのだが、受け手である占い師のレベルがまだ低いので、それを完全に読み取ることができないだけだ」という旨を述べているそうである。

ホロスコープ等で人の運命を占うことが可能なのは、星から神霊的エネルギーが発せられていること、そしてそれが、地上に生きる人々に実に大きな影響を及ぼしていることを示しているのだ。

よく、ラッキーな人を指して「彼は幸運の星のもとに生まれている」などというが、まさに言い得て妙である。

このことは、強運を得る上で実に重要なポイントなので、よく理解していただきたい。

夜空に輝くあの星々は、人の体と同じように、三層構造になっている。この本の前作ともいえる「強運」(たちばな出版刊)に既に述べたことだが、少々聞いていただきたい。

人間の体は、一番「外側」に肉体があり、その「内側」に霊が存在し、「中心部分には魂がある。この外側、内側というのは、三次元的な内外ではなく、次元の違いを示している。

つまり、肉体は三次元的存在だが、霊は四次元的存在となり、魂はさらに上級の世界に存在しているというわけだ。

もちろん、この三者は密接に結びついているのだが・・・。このことは、高度な霊眼が開けた方ならば、実際に観察してご理解いただけると思う。

ところが、星の世界も同じような構造になっているのだ。望遠鏡で見えるゴツゴツした岩肌、あるいは灼熱のコロナなどは、人で言えば肉体の部分。すなわち三次元的表面部分というわけだ。

しかし、次元をスライドさせて見ると、星にもちゃんと霊や魂の部分が存在している。しかしこれは、どんな高性能の望遠鏡でも見ることはできない。

唯一人間の霊、あるいは魂を以て、見ることができるのみである。

そして、それぞれの星には特徴があり、ランクがあるのだ。

たとえば、月は六年後の地球の未来を映す世界である。土星の一部には地獄界がある。水星には遊園地のような世界と、真理探求のエネルギーの源がある。

木星神霊界のある場所には、まさに幸運の女神のような神がいらっしゃる…など。ホロスコープで、たとえば木星を「幸運の星」と呼んだりするのは、ある程度このあたりを言い当てているといえよう。

そして、この星の神霊界を統率している方を、その星の「主宰神」様と申し上げる。星からのパワーとは、この主宰神様が授けてくださるパワーでもあるわけだ。

人は死んだ後、肉体を脱ぎ捨てると、生前の心の深部の状態と行いに応じたレベルの星に行くことになる。無論、三次元的な表面部分でなく、その星々の霊的部分に行くのだが。

これがいわば、「天国」や「地獄」なのである。このあたりの詳しい話は、それだけで一冊の本になってしまうほど膨大であるので、別の機会に譲ることにしよう。

興味のある方は、拙著「強運」や「大創運」などを参考にしていただきたい。

神霊能力者たちの秘密と「星世界」

さて、話を元に戻そう。星々から「強運」を得る方法についてである。

簡単に言えば、この星の霊的部分(星の霊界)、あるいは魂部分(星の神界)に感応することで、信じられないような大運勢が、まさに天から降ってくるのだ。あとは、それを全身に浴びるだけでいい。

では、どうすれば星の世界に感応できるのか。

まず一番強く感応できるのは、やはり直接星の世界に行くことだ。といっても、もちろん宇宙船で星まで行けというのではない。

あくまでも、魂で星の神霊界にトリップすることを指している。

人は死ねば、誰でも星の世界に行けるのは、先に述べた通りである。その世界では、空も飛べるし、思ったものがパッと出てくる。

だから、死んだ後には誰もが霊能者や超能力者であることができる。

だから私は、「霊能力者になりたい」という人には、「あせらなくても、死んだらすぐに霊能力が使えますよ」と答えることにしている。(ただし、地獄に落ちたら、霊能力を使うどころではなくなるが・・・)

しかしできれば、生きているうちに星世界に感応し、星のエネルギーを得て強運を授かりたいものだ。

実は、神霊世界から特別に許された者は、生きているうちに星世界へトリップできるのだ。

過去、人々から「予言者」とか、「神の使い」と呼ばれた人物・・・ノストラダムスやスウェーデンボルグ、宮地水位、役小角などは、自由に星世界に行って、人類の過去や未来までもかいまみる力を持っていた。

そこで見聞したことを、人々に紹介した内容が、今日「予言」として残っているのである。すなわち星の世界に行くと、大運勢が授かるばかりか、過去や未来までも知ることができるというわけだ。

こうすれば星のパワーを得られる!

しかし星へのトリップは、先にも述べたように、神霊界の許可を得た一部の人間しか許されていない。

だが、そうでない人にとっても、方法がないわけではない。

それが、私の著書ではおなじみの、「星ツアー」である。文字通り、一般の人でも星の神霊界にツアーできるという、私が神様から授かった秘法の一つだ。

ツアーといっても、もちろんまったく無害だし、飛行機と違って落ちたりしない。それに、海外旅行ならおみやげを買って帰ることになるが、星ツアーでは星の世界から「おみやげ」、すなわち特別な大運勢が授かるのだ。しかも、この「おみやげ」は星によって種類が違う。

大金運であったり、インスピレーションであったり、恋愛運であったり…。ツアー後、現実界にハッキリとした「おみやげ」の証が出てくるのが特徴であり、この点で、瞑想や暗示などによる幻想とは区別することができる。

さらに、星の世界にツアーしたときは、人の世界の気を超越した、なんともいえないすがすがしく繊細で幸せな神気を体感する。

実は、これが星神界の気なのだ。人は死後、星の世界に行くと述べたが、生きているうちにこの「星世界の神気」を覚えておくと、死んだ後も自由に、太陽・水星・木星・金星・・・と、その星々の神界を巡ることができるのだ。特に芸術家の方など、感性が鋭い方は、星ツアーで神界に足を踏み入れた途端、その玄々妙々たる神気に圧倒され、深い感動を得られるようである。

かくいう私も、この星神界の神気は大好きで、星ツアーのたびに、思わずそのすばらしい気にひたってしまうほどだ。

しかしこれでも、残念ながら限られた人数しか参加できないという難点がある。というのは、現在星ツアーは年に数度しか行なっていないし、それも当方に来て、私が直接指導しないと行えないからである。

では、どうすればもっとも手っ取り早く、しかも常に星と感応することができるのか。

それには、まず星に神霊的なパワーがあり、それが私たちの魂や、霊的部分や、運勢に大きく影響していることを確信することである。

この大宇宙の中に自分の肉体があり、そして幸運の星のエネルギーを、いま全身に浴びていることを意識する集中が大切である。

そして、星を「見るもの」ではなく、星に見られている、守られている、導かれている、パワーを受けている!と受け取ったとき、自分と星との間に霊的なかけ橋ができる。すなわちその瞬間、星は自分と無関係な存在ではなく、たえずパワーを与えてくれる頼もしい存在となるのだ。

毎日意識すれば、このかけ橋はさらに強くなる。そして、星からのエネルギーがそのかけ橋をわたって流れ込み、運勢は向上し、守護霊もより一層守護しやすくなるのである。

「強運」「大創運」に記した、それぞれの星の本当のはたらきと様子、幸運パワーの種類などを知っていただければ、星とのかけ橋はなお強くなるだろう。

宇宙からの強運を得る二大ポイントとは?

しかし、「宇宙からの強運」を得るためには、これだけではまだ足りない。要は、人の器の問題である。

小さな器に大量の水を流し込んでもあふれかえってしまうように、星のパワーを受ける側の人間が、そのパワーを阻害する要素をたくさん持っていたならば、せっかくの星パワー(神力)も、現実界に現れてこないのだ。こんなにもったいない話はない。

逆に言えば、この「星のパワーを阻害する要素」が少ない人が、星の神様に愛されている人なのだ。

では、この「星のパワーを阻害する要素」とは何か。あるいは悩みごとであったり、経験不足であったり、努力不足であったり、怠惰であったり、神様への祈り不足であったり…と、人によって千差万別、実に様々である。

しかし要は、神様から見て「この人になら、パワーを十分に与えたい」と思っていただけるような、立派な人、よき御魂の人となることだ。

そして、ますます自らを磨き、「星のパワーを阻害する要素」をなくしていくと、「神様の如き人」「神様と人が一体化した人」となる。

これを神人合という。こうなると、星のパワーをいただくというよりも、その星を主宰する主宰神様と合一するのだから、星のパワーをそのまま発揮しているような状態となる。(ただし、一口に神人合一といっても、龍神と合一するレベル、仏様と合一するレベル、星の神様と合一するレベル、複数の多くの星の神様と合一するレベル、全ての動きの中で天の理と完全に合一しているレベル・・・など、幾つものレベルがあるのだが、ここでは割愛させていただく)

そして、この「星のパワーを阻害する要素」を解消するにあたって、山にこもったり、滝に打たれたりする必要はまったくない。

現実的な生活の中にこそ、それを解消していく鍵が満ちあふれている。私の師匠である植松先生は、これを「生活修業」と言っておられる。

前著「強運」に、神様が喜ばれる身近な開運の秘訣として紹介した「整理整頓」などは、その最たるものといえるだろう。

宇宙からの強運は、宇宙への感応と、生活修業という、一見まったく関係のないような両者が融合して、はじめて得られるのである。

だから本書では、現実に則した開運の方法をまず示し、各章の終わりごとに、「星に感応するノウハウ」を紹介するという構成をとっている。

これが、宇宙からの強運を得るための、ガイドブックである。あとは、皆様が実践されるだけである。

宇宙観が変わる時代へ…

地球はまるくて、廻っていることを立証して迫害されたガリレオの時代から見ると、現代の人々の宇宙観は、大きく進歩した。

一九六九年に、アポロ宇宙船が月に着陸したときには、その歴史的シーンが衛星中継で世界中に放送された。月面の風景が、地球の茶の間のテレビ画面に映し出されたのだ。

また、一九七七年には「スター・ウォーズ」という映画が世界的に大ヒットし、それからは宇宙ものの映画、アニメの名作が続々と誕生した。

一九九五年まで十年間少年ジャンプに連載され、子供から大人まで圧倒的な人気を博したあの「ドラゴンボール」も、星から星へと駆け巡る物語だった。

これらは、インスピレーションにすぐれた創作家たちが、神界の様子をイメージでとらえ、写し出しているものといえる。

このあたりで、人々はもう一つ目覚めるべきだ。

科学の発達により人々の宇宙観が変わったが、神霊的知識を得ることで、また飛躍的に宇宙が身近なものとなるだろう。その時代はもう近い。

異なる次元の神霊界を知ることで、はじめてこの世である三次元の実体が見えてくる。

だが、何も難しく考えることはない。できるだけ分かりやすく、面白く、開運のポイントを伝えることを心がけて、本書は書かれている。読み進むうちに、自然に神霊界の様子も分かっていただけることと思う。

直接目にすることができない星々にも、テレビの画面や、写真、資料、宇宙飛行士の言葉などから、思いを馳せられる現代である。

目に見えざる神様や、守護霊、徳や業の法則、縁、悟りなどについても、本書を資料とし、私を宇宙飛行士として、思いを馳せていただきたい。

深見東州

第1章 神様に1000倍愛される方法

悩みごとは成長の糧だ

人には皆それぞれ悩みがある。

どうもやる事がうまく行かないという悩み、運が悪いという悩み、顔が大きいという悩み?までさまざまだ。

これら一つ一つには、因縁や霊障(人の背後にいるたたり霊などの障り)など色々な原因があるわけだが、誰もが皆、日々そうした悩みと戦いながら生きている。

この「悩み」というもの、本書のテーマである「強運」に深いかかわりを持っている。悩みがこうじると、人の周囲には霊的な黒雲ができ、天からふりそそぐ強運を妨げることがある。

ところが悩みとは、人の内面を成長させ、また強運人生を呼ぶ糧にもなる。使い方次第で吉にも凶にもなる、

いわばジョーカーのようなものなのだ。ゆえに、まず最初に、この「悩み」について考えてみよう。

自分の性格についての悩み、学業の悩み、仕事の悩み、男女間の悩み、金銭の悩み、人間関係の悩み。悩みがある時、人は当然苦しむ。

しかし悩むということは、少しでも良くなろうということの現れであるから、進歩・向上の第一歩と言えるだろう。

運の悪い生活、自分の性格の嫌な面、ネガティブなところをそのままにしていたのでは、何の発展も望めまい。みんな悩んで大きくなるのだ。とりわけ若い頃の悩みは、成長の糧だとも言えるだろう。

ところが、中には、非常に運がよく、性格も円満、体は健康、友達にも恵まれ、目上の人からは頼まなくても引き立ててもらっているという人もいる。

しかし、そんな人でも悩みを抱えていたりする。どんな悩みかと言うと、

「なんで僕には悩みがないんだ」

「一度でいいから、ドラマでよくいう、「背中の哀愁」ってやつを出してみたい・・・・・・」

世の中には色々な人がいるものである。

私は、神霊家として神様と交流し、人々の悩みに答える救済活動を続けるかたわら、教育事業にも携わっている。

その関係で、若い人を多く預かっており、こちらでも色々な悩み事をよく相談される。

そして、真剣に一人ひとりの悩みに向き合って、とことん付き合っているうち、悩みには大体パターンがあるということが分かってきた。

悩んでいる時は、皆自分だけが苦しいと思う。自分だけが特別な悩みを抱えていると考えがちだ。

しかしよく聞いてみると、誰でも悩むような問題を、誰でも悩むような時期に、誰でも悩むような内容で、誰でも悩むような顔をして悩んでいるのだ。

女の子の場合は、気分の浮き沈みが激しくて、大体いつも何かしら悩んでいるのだガ夢みます。

「そうだろう、そうだろう」と聞いてあげると、それでおさまってしまう場合が多い。

理解してくれたというだけで満足なのだ。

男の子の場合は、明確な指針が必要な場合もあるが、やはり、分かってくれたということで大分精神の葛藤は静まるようだ。

言っても仕方がない問題だと分かっていながら、それでも悩むというのが人間の悩みなのである。

答えは自分で出している

また私は、よくお母さん方からの相談も受ける。

「先生、うちの子は最近どうも…………」と、始まるのだが、大体何を相談しているかが分かるまでに一時間くらいはかかる。

しかし、ここは辛抱強く聞かなくてはならない。そして、話が三周半くらいして、ようやく、
「それで、うちの子はなかなか勉強しないんですよ」

本題に入るのだが、今度は色々分析が始まるのだ。

「まったく、父親に似たのかしら、いえ、お父さんはあれでなかなか辛抱強いところもあるから、おばあちゃんに似たのかしら。

もう飽きっぽくって。性格に問題があるんでしょうか、それとも……」と。

なるほど。確かに、そのお子さんには若干性格に問題があったとしよう。しかし、ここで一言でも、「そうでしょう。お子さんのそういう性格は」と、お母さんが息子をけなし嘆いていることに同調すると、お母さんの態度はパッと変わってしまう。

「でも先生、うちの息子はとっても優しい子なんですよ」

最初は私も真面目に考えて、お母さんとお子さんのために正しい知性で対応しようと懸命に頭を悩ませたものだ。しかし、大体要領が分かってからは、「大丈夫ですよ。お子さんは才能がありますから、まだまだ伸びますよ」と答えることにしている。

すると、「そうですか、先生、安心しました」と二時間程話して帰られる。ああ、本当によかった、という顔をしてお帰りになられるのである。

要するにお母さんの悩みごとというのは、自分が心配だということなのだ。本当はお子さんを信頼しているのだが、不安感があるために、ああでもない、こうでもないと、色々言うわけだ。

色々言った上で、「でも、やっぱり息子は大丈夫なんだ」と、内心答えはあらかじめ決めてあるのだ。

だから親身になって、そこで何か正論を言うと、必ず教育論の議論になって、「あの先生は問題が多い」ということになってしまうわけだ。

最初は私も真面目に考えていたのだが、これがひとつのパターンだということが分かった。別に学習の指導をどうのと言っているのではなくて、それについては信頼しているから子どもを預けているのだ。

けれど、心配だから、分かってほしい。心配だということを分かってほしい。分かってくれたら、いい人だということなのである。

そこで適当に「なるほど」と言わなくてはならないのだが、これはひたすら忍耐の世界なのである。

賢い相談の受け応え方

悩みについて考えるつもりが、悩みの相談に答えるコツの話になってしまった。

しかし、女性の悩みをしょっちゅう聞いている御主人、若い従業員から相談を持ち掛けられる職場の先輩方、経営者の皆さんなどにとっては、相手の悩みにどう答えるかも、悩みの一つかもしれない。受け応えのポイントは、

「ああ、なるほど」と答えることだ。

この間、感覚、タイミングが全てである。

今夜の晩御飯のことを考えていても、明日のゴルフのスコアのことを考えていても構わないから、とにかく、「そうか、そうか」と。

「…………というふうにしようと思うんですけど、いかがでしょう」と言われたら、よほどのさしつかえがない限り「うん、それがいいんじゃないの」と賛成してあげる。

すると、「ああ、やっぱり」と安心する訳だ。「ああ、相談してよかった」ということになるのだ。

「いや、あなたはこうすべきだ」と言うと、
「えっ、でも私はこう思います」ということになって、議論が始まってしまう。相手ははじめから答えを自分で出しているから、何を言っても納得しない。

そして結局、最初に自分で決めたとおりにするのだ。

だったら、はじめから相談に来なかったらいいと思うのだが、まあ、相談とはそういうものなのかも知れない。

悩みの九割は理解されれば癒される

もちろん、本人がぎりぎりまで煮詰めて、こうすべきか、ああすべきか、と知的に求めている場合もある。

そういう時は真剣に話を聞いて、場合によっては徹底的に討論すべきだろう。しかし、人間の悩みの八割から九割までは、そうではないケースがほとんどなのだ。

だから、相談された事柄に対していちいち自分の考えを言うとか、力余って説教を始めるということよりも、とりあえず受け入れてあげるということが大切なのである。

とにかく気持ちを分かってもらいたいというのは、男性、女性を問わず共通している。そういうことが、若い弟子たちに接してきたり、長年教育事業に携わっているうちに段々分かってきたのである。

かくいう私も、実は同じなのだ。話を聞いてもらうだけでも安心する。ただし私の場合は、聞いてもらう対象が「神様」なのである。

私が師匠の植松愛子先生と一緒に熊野に行った時のことだ。東京から南紀白浜まで飛行機で一時間四十分くらいなのだが、その飛行機というのが、YS11というプロペラ機。

セスナ機をちょっとお兄さんにしたような小さなやつだったのだ。

正直、怖かった。ジャンボ機なら安心して乗れるのだが、このYS11を見た時には、冗談ぬきで背筋が寒くなって足がガクガクと震えた。

私は高い所がもともと怖い性分なのだ。そして案の定、震えたのは私ばかりでなく、飛行機も激しく揺れた。いつ落ちてもいいという覚悟がないと、あれは乗れない。

そこで私は、羽田から飛び立って白浜に降りるまで、一秒も休むことなくお祈りしていた。おかげで隣の植松先生から、

「何でそんなに祈ってるの」と言われてしまった。

しかし、そこで引き下がるような私ではない。

「これは、日本全国の男性、女性、すべての人たちの幸せを祈っているのだ・・・・・・」と言い張ったのだが、植松先生は笑っておられた。

そうなのだ。実は、飛行機の揺れを忘れるために祈っていたのだ。内容よりも何よりも、祈っている自分を神様に見ていて欲しかったのである。とにかく聞いてくれていると思うだけで、安心するのだ。

聞いてくれようがくれまいがお構いなしにひたすら祈り続けると、神様もさすがに、「もう分かった。長いのう、くどいのう」とおっしゃられる。

しかし、それで引き下がるような私ではない。

「神様だったら、それくらい辛抱してください。私だって、長年お弟子の悩みや心配事を聞いてきたじゃあないですか。神様が聞いてくれなきゃ、いったい誰が私の悩みを聞いてくれるんですか」と。

悩みごとは自分で煮詰めろ!

人には皆、それぞれ悩みがある。これは、肉体を持ってこの世で生活する人間の、宿命とさえいえよう。

神霊家の私も肉体がある以上、現実界で物事を進める上では、いつも悩み、葛藤して、苦しんでいる。しかし、もし私が、いつも不平と不満とグチばかり言っていたらどうだろう。

私はワールドメイト(皆で幸せになろうという団体)のセミナーで、会員の皆さんに色々なお話をしているのだが、もしそこで、「神人合一の道を進めていく上で、今これこれに悩んでいて、これこれに苦しんでいて、こうしようと思うんだけど、違うかなーとも思うし、そうかなーとも思うし…… 云々」

なんて、自分の悩み告白や、グチのオンパレードのようなセミナーをやっていたら、誰も私に相談には来ないだろう。

分かってほしい、理解してほしいと絶えず人に言っているような人。彼とちょっとケンカしたからと言って、大騒ぎして友達に電話をしまくっているような人に、真剣な悩みごとがあった時に相談したいと思うだろうか。

自分の問題を自分で解決できないで、グチやくり言を繰り返してばかりいる人に、他人の問題を解決する智恵があろはずはない。

「世のため人のため」と人はよく口にするが、それにはまず家族でも親戚でも友人でも、一番身近な人の相談に乗ってあげられる、相談を持ち掛けられるような自分になることがまず第一歩だ。

「大天運」(たちばな出版刊)にも書いた通り、世の一号、人々の一号は、他ならぬ自分自身なのだ。

まずは、自分のことはすべて自分ででき、幸せになれること、それが、とりも直さず「世のため人のため」の最初である。

そのためには、まず、悩み事相談事はすぐ人に言うのではなく、九分九厘まで自分の中で煮詰めることである。

逆に言うと、人からよく相談を受けるようになるということは、自分が無意識的に発しているグチや不平、不満もずいぶんと減ってきた…、九割の問題は自分で解決するようになってきた……………、というひとつのバロメーターにもなるわけだ。

しかし、それだけではストレスが溜まってしまうから、健康でさわやかになるためには、神様にみんな押し着せてしまえばいいのだ。

私のように飛行機に乗ったらすべて神様に投げ掛けてしまう。自動車でも電車でも、歩いている時でもトイレの中でも、絶えず祈って、心配事、相談事、不安や葛藤を全部神様に投げ掛けてしまうのだ。

もう、これ以上言いようかなところまで吐き出す 12 と、胸がスカッとして、大変気持ちが良くなる。

これが、いわば秘伝であり、ポイントである。「神様に押し着せる」などと言うと、中には「なんとおそれおおいことを……!」と眉をひそめる方もおられるかもしれない。

たとえばキリスト教とか、一神教系の信仰をされている方は、特にそうかもしれない。しかし、日本の神様は大変おおらかで、この世の私たちが話しかければ、耳を」傾けて下さるお優しい存在なのだ。

飛行機が降りるまでお祈りが続かないようだったら、あの神様、この神様と次々にちがう神様に同じことを祈ってもいい。

そのうち二時間ぐらいたってしまうから、気がつくと飛行機は着陸している。するといつの間にかストレスも消えているのだ。

現実界を改善する努力が大切

私はこうしたことを、自分の弟子には十数年言い続けている。

神様の道を目指して、神様の道を歩もうという人間が、悩み事や心配事を人談するようだったら、一体いつ、目には見えない、玄々微妙な神霊世界と交流するというのだろうか。

見える世界は誰でも見ているのだが、見えない世界と交流するというのは、例えばレントゲン技師のようなものだ。

「息を吸ってはい止めて」

これでレントゲンの技師には、目に見えないX線が通るということが、ちゃんと分かるのだ。目には見えないけれども判断できるわけだ。

これと同じように、目に見えざる高貴な存在に対して常に親しみ、自分をぶつけていくということを続けていくと、必ず「祈りが通る」ということが実感できるようになる。

投げ掛けた分だけ、神様から返ってくるのだ。それが、ひらめきであり、発想であり、運であり、巡り合わせである。

悩み事や不安感、葛藤がある時というのは、そうした目に見えない高貴な存在、神様や守護霊さんと交信するためのチャンスだとも言えるだろう。

しかし、これだけに偏すると、問題も生じてくる。つまり、いつも満たされないと言って求めているだけでは、現実逃避的な心を慰めるだけの信仰で終わってしまうのだ。

これは、第二次世界大戦直後の、日本が非常に苦しかった当時に出てきた宗教像だ。海外でも、キリスト教が広まっていったベースはそういうところにあった。

あるいは、仏教的なものの中にも、そういう傾向があるようだ。

しかし、今は時代がちがう。本気で努力すれば、ある程度のものは解決できる世の中である。

男女の問題なら、スパッと別れれば、新しい恋人に出会う機会はいくらでも転がっている。夫婦でも、とことん悩んでどうしても駄目な場合は、スパッと離婚してしまえば、解決する。

お金の問題ならば、人の三倍働けばいいし、病気なら手術をすればいい。離婚が許されなかった時代や、死にものぐるいで働いても暮らせなかった時代、また病が横行していた時代に較べれば、いかに今はすばらしい時代であることか。

人類史を見れば、努力しても解決策が出ようがないような時代がほとんどだったのであるり。キリスト教も仏教も、そうした時代に出てきた宗教だった。

もちろん、今でもどうしても解決できないこともある。

しかしほとんどは、努力すればある程度解決できる時代になってきた。そういう意味では現代は、非常にすばらしい時代になってきたと言えるだろう。

悩み事や心配事は、神様にぶつけていく。そして祈れば、心が静まっていき、神様を希求する心は益々強くなっていくだろう。

さて、そこまで来たら、今度はそれをベースにして、現実界を改善していく努力をすることが大切である。

先程言ったように、理解してほしい、分かってほしいというのが、人の悩みのほとんどである。

だから、九割までの問題は人に迷惑をかけずに、自分のことは自分で解決する。そして、残りの一割の真剣な問題は、まず神様に相談してから、人にも相談して、現実的に解決することが必要なのである。

祈りが生まれる時

「神様神様」と一生懸命生きている人、努力しなくても、いつも神様に心が向かっている人というのは、どういう人だろうか。

健康で明るくて、頭もよくて、学歴もあって、何でも調子よく思うようにスイスイ物事が運んでいくという人は、神様というものを頭の中では美しく思い描いているかも知れないが、まず、神様に相談しようという気にはならないだろう。

家庭環境でいうなら、新婚ホヤホヤの熱々カップルや年季の入った円満夫婦よりも、夫や妻との相剋があって家にいてもどこかで孤独を感じている人。

あるいは、子どもに問題が多く(本当は親のほうがもっと問題なのかも知れないが)、いつも心を悩ませている方。そういう人のほうが自然と神様に心が向いていくようだ。

しかし、挫折や問題があれば必ず神様に心が向かうのかと言うと、そうばかりとは限らない。例えば異性に対する恋愛のほうへ行く場合もある。

受験に失敗して浪人生活をしている時とか、会社が潰れて失業してしまった時、あるいは誰かに裏切られたり、失恋して孤独になった時というのは、誰でも心が寂しくなる。

そして、本当に自分のことを理解して、励ましてくれる人を求めるものだ。その孤独から救ってくれるのが恋というものである。

そんな時に出会った異性というのは、本当に神様のように思えるものだ。恋する心が深まれば、それはほとんど信仰ともいうべき状態になる。神様のほうへ心が向かわない人は、恋愛で信仰の疑似体験をするわけだ。

というのは、真の信仰というのは、人と神との大恋愛にほかならないからだ。

人が神様を思い、恋し、慕う。神様は人を慈しみ、愛して下さる。

これが人と神との大恋愛だ。「神様、神様」といつも思って語りかけるほど、意識の中で神様と人との距離がグンと近くなるから、願いもきいていただきやすくなるし、功徳も大いに授かりやすくなるのだ。神様は決して裏切らないから、この恋愛に終りはない。

しかし、人と人との恋愛の場合には、そこまで燃え上がった恋心もやがて冷める時が来る。特に今の若い人は、熱しやすく冷めやすいようだ。

江戸時代に山本常朝という鍋島藩の侍が書いた「葉隠」の中に、「武士道とは死ぬことと見つけたり、恋とは忍ぶことと見つけたり」というくだりがある。

武士というのはいかに立派に死ぬかということが価値であり、恋愛においては、どれだけ忍ぶのかということで試されるということである。

「忍ぶ」ということは、孤独の中にいるということだ。孤独の中にいるからこそ、恋心はますます強くなっていくのである。

みんなに理解されて、祝福されて結婚して、子どもも出来て姑さんとも仲良く、幸せな家庭が築けたら、すぐに恋心はヒューと冷めていってしまうという場合もある。

今の人が結ばれやすく別れやすいというのは、忍ぶという発想がないからだ。恋しいという孤独の中に身を置くことをしようとしないから、パッと燃えて、スーッと心が冷えて行ってしまうのだ。

もちろん、そこから発展して互いが慈しみ合うような深い関係になって行けばよいのだが、どんなに神様のように思えても相手も生身の人間なのだから、忍ぶことのない求めるだけの関係では持続しないことが多いのだ。

そして、それも駄目になってしまった時、前よりもさらに絶対的な孤独の中に置かれることになる。

「もう女なんて信用できない。友達も信用できない。先輩も信頼できない。親だって結局自分のことしか考えてないじゃないか。誰も僕のことを思ってくれる人はいないんだ。誰も僕のために何かしてくれる人はいないんだ」

そこまで追いつめられた時、はじめて孤独の暗闇を乗り越えて神への慕情が生まれてくる。目に見えない常なるものを希求するというのは、無常なるものを感じる時。

現実の中で孤立した時に、自分を見つめてくれる存在を求めて、人はおのずから祈るようになるのである。

神様に熱烈に恋をする

だから、神様に愛されたいのだったら、時にはあえて自分を孤独の中に叩き込むということも必要なのである。

その孤独の中で、はじめて自分が熱烈に神様を求め、神様に恋をするような気持ちが生まれてくるのだ。

例えば、砂漠の中を無線機一台を持って旅をするということを想定していただきたい。

一定の食料と水は持っているとしよう。地図はあるけれど、磁石は壊れてしまった。頼りは無線機だけで、呼び掛ければ一応こたえてくれる。

「もしもし」「ハイ、ナンデスカ?」

なんて、恐ろしく無機的な合成音のような声で。とりあえず、生命の危機の時は、助けてもらえることは保証されているとしよう。

そして、砂漠の中をトボトボトボトボ歩いて行く。くる日もくる日も、誰と出会うこともなく、ただ太陽に照らされながら、歩いて行くのだ。

歩いても歩いても砂また砂。遥か彼方に見える街を目指して、歩いて歩いて歩き続けたのだが、いつまでたっても辿り着かない。そしていつのまにか街影は消えてしまった。蜃気楼だったのだ。

「アレ、どうしよう!」ということになって、「もしもし、もしもし」と、無線機に呼びかけるのだが、「もしもし、もしもし」「もしもし、もしもし」とうとう、最後の頼みの無線機まで故障してしまったようだ。

エーッ、どうしよう、という時、残された道は、もう神様に祈るしかないわけである。「神様、助けてー!」

方向も分からず、水も食料もつきてきて、誰にも相談することもできない。不安と孤独の中で、はじめて人は神様に心が向かうのだ。

そこで、ただひたすら祈って祈って、祈り続けた。

するとやがて頭の上に、パラパラ、パラパラと音がして、ヘリコプターが飛んで来た。

「おーい」と手を振ると、プルンプルンプルンと降りてきて、助けに来てくれた。「あー、ありがとう。助かった」

ところが、聞いてみると、全く関係のないヘリコプターで、本当はそんなところを飛ぶ予定はなかったということだ。

たまたま、珍しい鳥の群れがいて、ちょっと見てみようと思って飛んできたら、人が手を振っていたので降りてきたと言うのだ。

「鳥を見に行こうと思わなかったら、ふだんは来ないところなんですけどね」

その言葉を聞いた時、「あー、神様が聞いてくれたんだ、助けてくれたんだ」と実感するのだ。

極端なたとえではあるが、誰でも大なり小なり、人生の中でこうした絶対的孤独を感じることがある。こうした、絶対的な孤独の中からこそ、本物の神への慕情や思いが生まれ、完成していくのである。

孤独を友に生きること

だから、神様の道の御用のために生まれてきた人とか、使命のある人というのはどこかで自分が孤独にならざるを得ないような環境が準備されている。

特に教祖さんになるような人のためには、神様は世の艱難辛苦をたっぷりと用意して、嫌というほど孤独の中に生きる時をつくってくださるようだ。

聖徳太子があのように深く仏教をおさめられたのも、蘇我氏と豪族たちとの葛藤の中に我身を置いていたからだ。

その孤独の中にいたからこそ、「世間虚仮他唯仏是真」、世間は仮で虚しいものだ、ただ仏のみが真実だ、という境地に立つことができたのである。

あるいは日蓮は、自らあえて迫害を受けるようなことも言っていたのだが、迫害される中で絶対なる孤独を味わいながら、それでも神仏に祈っていたのだ。

だからこそ、あれだけの神通力を発揮し、新しい宗教性を確立することができたのである。

もしも本当の意味で、神様との交流を願う方は、神への慕情神様を恋しいという気持ちを持ち続けることだ。

そしてそのためには、孤独を友とすること、孤独を大切にすることだ。そうした時間と環境と場所を自分で作っていく努力をしないと、神様への思いのボルテージは確実に落ちてしまうことになる。

死にもの狂いの情熱が天に通じる

豊かで幸せな日々を送っている人というのは、それだけ徳があるのだから、それもいいだろう。

しかし、もっともっと成長し、向上したいと願う人は、ある程度はこの絶対的な孤独を経ないと、本物にはならないのだ。

ノーベル賞を受賞した利根川進教授は「研究は情熱だ」と言っている。

どんなに頭脳明晰でも、それだけでは不十分で、ただもうその研究に没頭して、朝から晩まで寝食を忘れて、その研究に情熱を傾け続けなければ、ノーベル賞を取るような発明や発見には到らないということだ。

ノーベル賞を受賞した後、利根川教授は、子どもが生まれて情熱が子どものほうに行ってしまって、さっぱり学問的な閃きがなくなってしまったと言う。これは本人の弁である。

やはり、すべてに没頭して行かないと、新しいものを生み出すということはなかなか難しいもののようだ。

これは芸術家でも同じだ。

一つの作品を生み出すということは、自分なりに作ればいいというわけではない。

それが専門家から見て、芸術として評価を受けるかどうかという厳しい関門があるわけだから、常に前に作ったものよりもよいものを作りださなければならない。

これは自分との闘いだ。絶対的な孤独の中での闘いだ。自分の内側から絞り出すしかないのだから、悶絶するような苦しみである。

音楽を作る時、絵を描く時、詩や小説を書く時も同じだ。悶々としながら、絞って絞って、絞り出しても出てこない時、「出来ない、出来ない、出来ない、出来ない」と雄たけびをあげる。

この時にもう頼るのは神様しかないわけだ。

「神様ー、神様ー!」と叫び続けて、この時、内面を突き抜けて、その情熱が神なるものに通じるのだ。

そして、ふわっと何かが授けられ、助けられる。すべての芸術はそのようにして生み出されるのである。

どうしたら、祈りが天に通じるか、神様が見守ってくれていることを実感できるのかと言うと、これはもうただ「情熱」の一言につきる。

霊界というのは、要するに想念界、意識の世界だから、この壁をバーンと越えて行くためには、ただひたすら死にもの狂いで情熱を傾け続けるしかないのである。

神に向かう心の必然

芸術家の中でも、特に漫画家の人たちというのは、究極までいくとみんな神様のほうに行っているようだ。

『子連れ狼」の小池一夫さんもそうだ。漫画やその原作を書くというのも他の創作活動と同じく、やはり孤独の中から絞り出すような作業である。

読者が待っている、でも書けない。締切に追われて、徹夜の連続で顔面蒼白になって、頬をひきつらせながらギリギリまで自分を煮詰めていくのだ。

そうした孤独の中にいるので、最終的にはみんな神仏の世界に行ってしまうのだろう。

「エイトマン」を描いた桑田二郎さんも「般若心経」の世界に行っている。少女漫画では「アマテラス」の美内すずえさんも完璧に行っている。

経営者にも信仰の篤い人が大変多い。

松下幸之助さんや土光敏夫さんばかりではなく、中小企業の社長さんでも、それぞれに自分の信仰する神仏を大切にしている人が非常に多いのだ。

それもやはり、孤独の中にいるからである。

中小企業というのは皆、一歩間違えば倒産してしまう。倒産すれば債権者に追われて酷い目にあうことは分かっている。

経営者は皆、何人ものそういう同業者を目の当たりにしてきている。自分の決断次第で、家族ばかりでなく、従業員やその家族も路頭に迷わすことになるのだ。

誰に相談しても最後は自分で決断しなければならない。決断したことの責任は自分がとらなくてはならない。経営者もまた、いつもギリギリまで自分を追い込んで、孤独の中で闘っているのだ。だから必然的に心は神仏に向かうのである。

それがちょっと会社の業績がいいと緩んでくる場合がある。そして、それまでの反動で異常なくらいゴルフに凝ってしまったり、奥さん以外の女性に入れ込んでしまう。

そうすると、当然、神仏にも心は向かなくなる。

そして気が付くと、時代の潮流に乗り遅れていたり、信頼していた社員が持ち逃げをしていたり、取引先がおかしくなっているのが初めてわかったりするわけだ。

これを放漫経営と言うが、倒産率が一番高いのが、この放漫経営なのだ。

次に倒産率が高いのが、一つヒット商品が出たけれど、後が続かなかったというケース。これも中小企業の場合、社長さんのインスピレーションの鈍りに問題があるわけだ。

そうした修羅場を乗り越えてきた経営者というのは、みんな信仰を持っている。深い信仰があれば、たとえ間違った決断をしたとしても、必ずそこで何かを気付かされる。

そして、ギリギリのところで救っていただけるのだ。

そこで、「神様、ありがとう」と、より一層信仰を深めていくことになるのである。

吐きながらでも行動しろ!

孤独の中に身を置いて、ひたすら情熱を傾け続けること。

しかし、情熱を傾けようにも、何をしたらいいのか分からないという方もいるかも知れない。例えば、今やっている仕事が嫌で嫌でたまらないというような場合。

これは二章で詳しく説明するが、今は嫌だ嫌だと思っても、ある年齢まで来たら、それで良かったんだと気付かされる場合が多いのだ。

神様はそれをちゃんと見てくださる。そこで怠けてしまうか、一生懸命やるかが別れ目なのである。

やる気がない、どうでもいい、何をしていいか分からないという気持ちでいると、やる気がなくて、どうでもよくて、何をしていいか分からない浮遊霊が寄って来る。

そして、益々、やる気がなくなり、どうでもよくなり、何をしていいか分からなくなってしまうのだ。

だから、仕事でも学問でも家事でも、きちんと目標を決めて、とりあえずやらなければならない目の前のことを一生懸命やることだ。

目標を決めて努力をすれば、魂が発動する。魂が発動すれば、守護霊さんや神様が加勢して、元気を与えてくれる。

だから、なるべく暇を作らないで、「明日は一日中お掃除をするんだ。あさっては洗い物をするんだ。

三日目は本屋さんに行って英語の本を買って一日勉強するんだ」などと決めて、それをとにかく実行することだ。

浮遊霊をつけたままの人でも、重たい体を引っ張って、頭痛と無気力で真っ青な顔でも洗い物をしていると、はじめは嫌々でも、そのうちリズムがついてくる。

そうして二時間三時間と続けていくと、グーンと魂が発動して、ある瞬間パッと気分が変わる時が来る。

何か急にふっ切れたように明るくなって、自然に微笑がわいて来る。これが守護霊さんが浮遊霊を追い出した後の笑顔である。

守護霊には「本人がやる気になって魂を発動させなければ、けっして直接守護してはならない」という霊界法則があるのだ。

それまではじっと見守っているだけだ。もちろん、神様もずっと見ている。

だから、元気があってもなくても、やる気が出ても出なくても、調子に乗っても乗らなくても、とにかくやり続けること。吐きながらでも行動することだ。