宇宙からの強運(Vol.3)

神様の喜ぶことをしよう

ところで皆さんは、人から愛される一番のポイントは何だと思うだろうか。

人から愛されるためのポイントは、その人がやってほしい事をやってあげることである。それも言われる前にやってあげると、より効果がある。

「お茶がほしいなぁ」と思ってるようだったら、パッとお茶を出す。「こんなものが欲しいなぁ」

と相手が思う物をパッとプレゼントしてあげる。

これで喜ばない人はよほどのヒネクレ者だろう。

これは男女の間だけに限らない。仕事でも、上司が欲しい資料は必要な時までにちゃんと作成しておいて、言われた時には、「はい。用意してあります」とパッと出す。

こういう人は会社においても出世間違いなしである。

あるいは、企業全体でも「お客様のニーズに応える」とは、要するに、人のしてほしいことをやってあげる、ということに他ならないのだ。

そしてこの原則は、神様にも通用するのだ。

では、神様が私たちに求めているのは、どんな事だろう。それが分かれば、後は実践していくだけで、神様に気にいっていただけるということになる。

そのためには、まず私たちがこの世に生まれてきた意味を見定める必要がある。何故なら、私たちは神様の意志でこの世に生まれてきたからだ。

私たちの魂は生まれ変わり死に変わりを繰り返しているが、それは御魂を磨いて、向上させていくための機会を神様から与えていただいているということなのだ。

魂を進歩向上させて、自身の能力の枠内で、なるべく善なる影響を社会に与えること、それが人間がこの世に生まれてきた目標である。

だかそれに合った生き方をすれば、神様はお喜びになる。これが修業の基本だ。

しかし、御魂を向上させて一歩でも神様に近づきたい、神様に愛されて懐に抱かれたいというのは、まだ我があるという事だ。神様の道を目指すなら、そこからさらに一歩踏み込んで、神様の御心そのままに生きるということが必要になる。

神様の御心を代行する

神様がこうあってほしいと思うように生きること、自分の願いではなく神様の願いを代わりに叶えさせていただこうと思うことは、神と一つになるということでもある。

小さな我をなくして、神と同じ位置に立つということが神人合一である。

私の師匠の植松愛子先生は、「人に願いがあるように、神様にも願いがある」とおっしゃっている。

このことについては、四章で詳しく説明するが、それを考えていくことが、これからの時代の大きな鍵になるということを覚えておいていただきたい。

神様は常に人々の幸せを願っているし、物事が生産的に発展していってほしいと思っている。

神様に愛されたいと思うなら、そうした神様の願いをお取り次ぎさせていただき、現実世界に実現させていくことである。

自分の気持ちどおりに動いてくれて、自分の代わりに実行してくれるわけだから、神様もこれは嬉しい。

だから、どんどん働きかけてくださる。色々な英知や力を与えてくださる。もちろん、運勢もグングン強くなっていくのだ。これが究極の「強運」である。

そのためには、あくまで神様の御心をそのまま代行していくという姿勢で、自分の個性や才能、持っている特性を最高に発揮することが大切になってくる。

その時にこそ、宇宙をおつくりになった神々様も、おしみなく強運を与えて下さり、応援して下さるのだ。

そのためには、自分の特性を知らねばならないし、自分で、なるほどこれが自分の能力か、こうすれば自分を伸ばせるのか、ということが分かる必要がある。その具体的な方法については、次章で詳しく述べていく。

ただ、そのためには、常に明るく前向きであることを基本としながらも、時には吐きながらでも行動することが必要だし、孤独の中に自分を叩き込むことが必要な場合もある。

そうして、紆余曲折を経て、これしかないというものを掴んだら、神様は本当に喜んで下さる。

本人も納得して、充実して、生き甲斐をもってその仕事ができるので幸せだし、その幸せが揺れ動かないのだ。

魂を輝かせよう!

それは神様の喜びと同じ喜びを与えてもらえるからだ。神様からの愛の波動が伝わってくるのだから、それは何ものにも代えられない大いなる喜びだ。神様からの愛をいただくのだから、究極の幸せなのである。

しかし世の中には、「一生懸命とか、そんなものどーでもいい。今が楽しければいい、能力なんて伸ばさなくてもいい」という、刹那的な生き方を好む人もいる。

考え方は人それぞれだから、そういう方もいるだろう。神様は大愛だから、困った顔はされるかも知れないが、別にたたりはしない。

ただし、一生懸命ガンバッて、神様に感謝しピカピカ魂が輝いている人に比べれば、残念ながら大した運は巡ってこない。

それが平等というものだろう。第一、こういう人は自らの魂が輝きを発しないから、神様も近よることができず、満足に守護できないのだ。逆に邪霊がやってきて運を悪くしたりすることさえある。

これを避けるには、ここまで簡単に述べたように、何でもいいから目の前のことに「懸命に打ちこみ、行動して、体を動かしながら魂を発動させることだ。

その時、神様への感謝とお祈りがあれば、さらによい。そうすれば魂が真実の輝きを放ち、やがて大きく運勢が変わってくる。

しかし、軽度の「魂お休み状態」ならばこれで回復できるが、重度の場合はどうか。

たとえば長年にわたって「愛も誠もどうでもいい。生きる意味や人生の本義なんて知りたくない」という思いで生活してきた人が、その想念や生き様の一切を自力で転換するのは、非常に難しいといわざるをえない。

自分の中に悪霊の座ができていて、御魂を取り巻いておおってしまっているからである。

こうした人がいきなり、「自らをギリギリまで高めるんだ!」という努力の人に変わるのは、不可能とはいわないが難しいだろう。

こうした時には、まずはまとわりつく邪霊を取り去って、努力しやすい霊的環境をととのえるというのが有効な手段といえるだろう。

いわゆる「除霊」だが、私の場合は「救霊」と呼んでいる。家代々のたたり霊や、御魂をとりまく悪霊の雲を断ち切って、本来の御魂の輝きを発揮しやすくするのだ。

だから救霊を行うと、少しの努力でも想念を良い方へ転換できるようになる。ひらたくいえば、明るく、あたたかく、努力家の自分(本来の神なる自分)の面が表に出てくるのだ。

もちろん、悪霊の影響を離れるので、天からの強運も受けやすくなり、運勢も急上昇する。

この本のテーマから外れるので救霊については以上にとどめるが、興味のある方は拙著「大除霊」や「神界からの神通力」(たちばな出版刊)を参照されたい。

また、自らが努力できない、明るくなれないという悩みをお持ちの方や、今以上の開運を望む方、また逆に、尋常ならざる不幸が家系に続く方には、一度救霊を受けてみることをお勧めする。

本書の内容が主に「プラスの神力をどんどん注入して運を良くする」ものだとすれば、救霊は「マイナスの因縁や邪気を取り去ることで運を良くする」ものだといえるだろう。

本書の範囲外ではあるが、「宇宙からの強運」と表裏の関係にある開運法として、一章のしめくくりに記しておく。

〈宇宙からの強運コーナーその一:木星「願立て神社」秘法〉

ホロスコープでも「大吉星」といわれる木星。これは、神霊界の様子を実に見事にキャッチしている。木星は、地上の願い事が聞き入れられ、成就する星なのだ。

木星は、人生の年齢で言うと、十一歳から十七歳くらいの、ちょうど思春期の明るくのびやかでみずみずしい神霊波動に満ちている。

ういういしさ、楽しさ、豊かさ、活発さ、若々しさ、夢と希望。そういった感覚を思い浮かべていただければいいだろう。

さて、木星の神霊界には、「願立て神社」という聖域がある。実は、序章で書いた幸運の女神「黄金姫様」は、ここにいらっしゃるのだ。

たいへんふくよかな美人で、ファッションもうるわしいお方である。

この黄金姫様が本当に微笑むと、一生お金に困らない。また、現実界のさまざまな願い事を、みごとに叶えてくださることでも定評がある。

星ツアーでは必ず木星に行って、願立て神社に参拝することにしているほどである。

あるとき、木星への星ツアーで、億単位の金額が書き込ま小切手を授かる映像を、天眼で見た方があった。

するとその数ヶ月後、本当にその金額の入金があったのだ。

しかも、端数までその映像とピタリ同じだったという。もちろん、金運だけでなく、恋愛成就、対人関係、健康や仕事運をはじめ、人生の願い事は何でも聞いてくださる。

これほど霊験あらたかな「願立て神社」だが、ほとんどの人はその存在すら知らない。そこで、本書の読者のために、願立て神社のミニチュア版をここに掲載することにした(巻頭カラーページ参照)。

これは、私の講演二回分を収録して毎月出している「マンスリー強運」というカセットブックの、第8号のオマケにつけたものだ。

マンスリー強運は毎月好評をいただいているが、この第8号はとりわけ人気が高かった。それも、あるいは「願立て神社」のパワーかもしれない。

ミニチュアではあるが、ここを窓口にして祈りを捧げれば、黄金姫様に確実に届く。その際、木星をイメージし、ふくよかな美人の黄金姫様をイメージすれば、そのイメージが木星神霊界につながり、願いを聞いて頂きやすくなる。神様も、めったにな地球人からの祈りを、大切に扱ってくださることだろう。

繰り返すが、木星のパワーを授かれば、願いがかなう確率はかなり高い。この成就力は、確信力と比例する。

ぜひこの「顆立て神社」を活用し、祈りを捧げていただきたい。第一章に記したように、困ったとき、苦しんだとき、人は祈りに目覚める。そんなとき、この頭立て神社に祈るのもいい。

ただし、人の不幸を願う内容や、自分のことばかり考えている祈りは、神様は聞いてくださらない。

また、神様への感謝の気持ちがあってこそ、祈りの貫通度合いも飛躍的に高まるものなのだ。これは木星に限らず、このあと紹介するすべての強運秘法に共通することなので、念のため。

第2章 人生を最高に生きる!

確実に運を呼ぶ恋愛・結婚

エネルギーをみなぎらせる

エネルギーというのは生の原動力だが、異性に対する欲求というのは、時に爆発的創作のエネルギーにもなっていくことがある。

ピカソには、なんと奥さんが十一人もいた。(ただし、同時期にいたのではなく、十一回結婚しているという意味である)だから、その作品はエネルギーに満ち溢れている。

みなぎるエネルギーを、顔がバラバラになるぐらい思いっきりキャンバスにぶつけている。

十一回結婚して、そのたびに今までのものをぶち壊して、新しい感覚を磨いていったのだ。

ピカソは、女性に対するエネルギーとその女性からの励ましを原動力に、作品を描いたような人である。

異性に対するエネルギーとは、激しい慕情に他ならない。だから、これを強く徹底すれば、見えざる世界と繋がっていく場合があるのだ。

たとえば、和歌という芸術世界。短歌の中には親愛、悲別、慕情などの私情を人に伝える相聞歌という歌がある。

万葉の昔から相聞歌のほとんどは恋愛の歌だ。歴代の天皇は皆そういう歌を詠んだのだが、近代に入ってから皇室ではあまり詠まなくなってしまったようだ。

今上天皇には、是非詠んでいただきたいと思っている。

昔は天皇のご姉妹、皇女が一生涯独身を貫いて、伊勢神宮にお仕えするという風習があった。

式子内親王もそういう方だったのだが、その式子内親王が、「この私の胸のときめく恋心を分かってくれないならいっそ殺してほしい」などというような超過激な恋歌を詠んでいるのだ。

そういうお相手が実際にいたのかどうかは知らないが、短歌の場合は別に事実でなくても、想像上の恋人でも構わないのである。

俵万智の「サラダ記念日」もそうだが、相手が誰かということは詮索しなくてもよいのだ。

西行も出家後に、たいへん艶っぽい歌を詠んでいる。男でも女でも、自分の慕情を募らせて、そのエネルギーを原動力として素晴らしい芸術を生み出しているのだ。

だから、年を取って性的なエネルギーが減退してくると作品も力を失ってくる。

現代短歌でも、佐藤定吉、佐藤佐太郎などは、もう晩年は枯れてしまっている。宮柊二という素晴らしい歌人でも、ガンになった時の歌というのは以前より相当落ちている。

短歌は意味が半分で、半分が言霊(言葉の調べが持つ霊的なエネルギー)の世界である。病気で体力がなくなった人の歌というのは、元気がなくて、言霊も力を失ってしまっているのだ。

芸術は爆発だ!

藤原定家と後鳥羽上皇は歌の世界では師弟の関係である。定家がお師匠さんで、後鳥羽上皇は弟子なのだが、晩年の作品を見ると、完全に弟子が師匠を越えてしまっている。

定家は老化して枯れてしまって、全く魅力を失ってしまった。それに対して、後鳥品羽上皇は、年をとってからも艶やかな素晴らしい歌を詠み続けている。芸術としては、圧倒的に後鳥羽上皇のほうが上だと言わねばならない。

後鳥羽上皇もお后さんが何人もいたということだが、やはり、その作品はエネルギーの躍動に満ちあふれている。

こういう話をすると、女性の読者の方の中には不快に思う方もおられるだろうと思う。

しかし、芸術は倫理道徳ではない。もちろん、芸術の名の元に何をしても構わないという意味ではないが、倫理観や道徳観を持ち込むと歌のよしあしというのは評価できなくなってしまうのだ。

芸術はエネルギーの爆発であり、だからこそ人の心を強く動かす力があるのだ。

「確実に運を呼ぶ恋愛・結婚」というテーマで、やや極端な例から始まってしまったようだ。

しかし、普通の人と同じ物の見方をして、同じ事をしていたのでは、絶対に「強運」は掴めない。

だから、まずは、人生に於いて大きな仕事を成し遂げた人達がどのような恋愛・結婚観を持っていたのか、それから見て行きたいと思う。

もちろん、全ての人にそのマネをしろと言うのではない。しかし、そういう生き方強運を掴んだ人もあるのだということを知ってもらって、選択肢を広げることは必要だろう。

女性の方にとっても、自分のパートナーがどういう傾向を持ち、どういう志を持っているのかを理解することは大切なことである。それが、自分自身の幸せを考えることにもつながっていくからだ。

その上で、最後に誰でも必ず運命の赤い糸を掴むことができる究極の極意を伝授したいと思う。どうぞ期待して読み進めていただきたい。

結婚で才能を枯らす人

そういうことをお断りした上でお話しするのだが、ズバ抜けた能力をもつ人が、結婚して普通の生活を送るようになってから、その才能を全く発揮できなくなってしまったという例は非常に多いのだ。

これは、英語の松本道弘先生(元NHK上級講座講師)から聞いた話だが、英語の勉強において非常に優秀な人が十人いた場合、結婚してもその実力を保ち伸ばす人というのは、そのうちの一人ぐらいだということだ。

十人中九人までが、会話力、読解力、語学に対する感覚や実力をあっという間になくしてしまうのである。

結婚すれば定期的に性エネルギーを浪費しなければならないし、思念がどうしても奥さんや子どもに分散されてしまう。

だから、松本先生は奥さんと子供がいても、ホテルで一人で生活していたということだ。

上智大学の渡部昇一先生も、「若い研究者が、素晴らしい論文を発表して、新進気鋭の学者と将来を嘱望されても、結婚すると十人中、八~九人は平凡な学者になってしまう」と言っておられた。

だから、大学が全面的にバックアップして海外に留学させたりするのは、結婚した後も実力と情熱を維持している人でないと危険だということだ。

例えば研究に必要な本を買おうと思っても、奥さんが「あなたが一万円本を買うんだったら、私も一万円ブラウス買うからね」と言ったらどうだろう。

学者というのは手元に本がないと研究ができない。一つの論文を書くのでも膨大な資料が必要だから、いつも手元に本があってパッと引用できないと仕事にならないのだ。

いちいち図書館に行っていたのでは、時間のロスもいいところで、「アルバイトをしてでも本を買え」と渡部さんは常々若い研究者に言っているそうだ。

だから、「私も一万円のブラウスを買うんだ」と言って、ご主人と戦うような奥さんをもらったら、その人は学者としてはもう終わりなのだ。

将来を嘱望された何人もの研究者がそれで駄目になっているのである。

女性は現実的な幸せを求める

もちろん全てが全て駄目になっているわけではない。奥さんも学者で一緒に研究しているとか、夫の仕事や生き方を深く理解していれば問題はないはずだ。

夫が孤独な時間を持つことを尊重して、エネルギーを集中して思念を統一することの意味を理解している奥さんだったら、夫の大成を助けてくれることだろう。

そういう方なら、研究や語学の研修やあるいは芸術に対してもマイナスにならないと思う。

あるいは、キュリー夫人やジョイナーのように、ご主人よりも奥さんが、優れた業績を残している場合もあるにはある。

しかし、そうしたケースは非常に稀だと言わなくてはならない。

女性はある意味で、男性以上に現実的なものなのだ。普通の女性はやはり、夫が一万円の本を買うなら、自分も一万円のブラウスが欲しい。

それは理解してガマンしたとしても、結婚したら、夫に家庭人としての責任とサービスを何やかやと要求するだろう。当然といえば当然なのだが、さらに子どもができれば余計にそうなることは間違いない。

子どもの学校がどうだとか、私立にするのだったら入学金が幾らかかるからなど、と現実的な問題があるのだから、これはしかたがない。

ディズニーランドは無理だとしても、たまには動物園ぐらいには連れていくことも当然要求されるだろう。

それが悪いという事ではない。女性がそうした現実的なことを求めるのはあたり前のことなのだ。

そして、男性は、家庭人として、夫として、父親として、それに応えていく義務がある。当然のことだ。

が、しかし、そうした現実問題を抱え込みつつ、孤独の中に身を置き、エネルギーを凝縮して一つのことに取り組んで行くということは、至難の技と言うより、二律背反だと言ったほうがいいだろう。

孤独の中に道を究める生き方

あまたの芸術家の魂、宗教に生きようという人の魂、一つの道を究めようという人の魂が、こうした葛藤の中で苦悶してきた。

ゲーテやカントはそれがよく分かっていたのだろう。賢明な人だから、はじめから独身を通し、余計なものに惑わされないように思念を統一させ続けたのである。

そして、その凝縮したパワーで見えない世界に通じて行ったのだ。

一遍や西行は妻子を捨てて、神仏の世界に没頭することを選んだ。残された奥さんや子どもは本当に可哀そうだと思う。

西行の奥さんは本当に素晴らしい人で何の落度もなかったのだ。しかし、それをあえて捨てて放浪の旅に出て、西行はあれだけの歌を詠んだのだ。山頭火もそうだ。

家庭を持つことの重み、子どもがいることの重みを背負って、ギリギリまで耐えただろうとは思う。

しかし、平凡な生活を選ぶか一つの道を究めるのか、どちらを選ぶかまで追い込まれた時、罪をつくることになることを覚悟で、妻子を捨てて、一遍も西行も山頭火もその道を選んだのだ。

自分で捨ててしまったのだから、これはもう後がない。もう何処へも戻るところはないという絶対的な孤独の中にあえて自分を追い込んだのだ。

だったら最初から家族などつくらないほうが人の道には叶っているのだが、家庭を持ってしまった身としては、罪を犯すことによって、さらなる孤独の中に身を置いたのだという言い方もできるだろう。

悪妻は夫を育てる

結婚をしても才能を枯らさずに一つの道を究めるためには、もう一つの方法がある。例えば、夏目漱石がそうだった。

森鴎外も結婚してから伸びている。それは奥さんが、最低の悪妻だったからである。

最悪、最低の奥さんを貰うと、ものすごく孤独になることができる。

これは、独身を通すより遥かに孤独だと言えるだろう。しかも「あんな女に指一本触れるものか」と思うから、エネルギーもみなぎってくる。

奥さんのことなんか考えたくもないから、当然思念も統一されるわけだ。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉に、「若者よ、おおいに結婚したまえ。それが最高に素晴らしい妻なら、あなたは幸せだ。最悪の妻なら、君は哲学者になれるだろう」という有名なセリフがある。

「ソクラテスの妻」と言えば悪妻の代名詞に使われるくらいだから、ここには身を持って知った哲学の真髄が込められているのだろう。

だから私は自分の私塾である東州学校の若者には、いい奥さんをもらうのもいいが、生涯独身を通すのも、悪妻を娶るのも悪くはないと勧めている。(とは言え、最初か相手のことを「悪妻だ」と思いながら結婚する人などいないだろうが……)

もちろん、普通に平凡なサラリーマン生活をするだけだったら、普通で構わないのだ。

夫の権利、妻の権利を認めあい、互いに義務を果たし、母と父と家庭を大事にして、その温かみの中でお勤めをしていくというのも、それなりにいい人生だろう。

しかし、芸術家とか宗教家とか、何か孤独の中で強く求めなければならない人、あるいは作品を生み出していかなくてはならない人。

学者でも学問的な業績を世に残そうという人は、よほど気をつけて奥さんをもらわなければ、自分自身も家族も幸せにはできないのだ。

一つの道を究めようとする人を好きになってしまった女性も、よほどの決心がないと夫を駄目にしてしまうということは肝に命じておいていただきたい。

そこを賢明にお互いが理解していかないと、先は見えていると言わねばならないだろう。

ところで、ここではずっと「一つの道を究めようとする男性」を例にあげてきたが、そういう目標を持って打ちこんでいる女性ももちろんいる。

その場合は、ここまでの「男性」「女性」を逆にして考えていただきたい。

つまり、パートナーとなる男性が、十分に相手の女性の研究や集中の大切さを、理解してあげることである。そういう男性を見つけないと、結婚との両立は難しいといわざるを得ないだろう。

赤い糸は誰とつながっているか?

結婚ということを考える時、「縁」ということが必ず言われる。しかし、どうもこれが誤解されている場合が多いようなのだ。

結婚の縁のある人というのは別に一人だけとは限らない。と言うより、縁は幾つもあるのだ。

前世でお兄さんだった人が、今世では隣のお姉さんになっていたり、妹だった人がクラスメートの素敵な男性になっていたりする。

お母さんだった人が奥さんになったり、叔父さんだった人がご主人になる場合もある。

ほとんど近親相姦状態と言えるが、前世のことだから関係ない。そうした縁ある人に会うと、初対面でもとても懐かしい感じがするはずだ。

あるいは、前世で仲の良かった友達とか、反対にしのぎを削っていたライバルだとか、周囲に色々な縁のある人というのがいるわけである。

だから、結婚の赤い糸と言ってもそれは一本だけでなく、色々な縁のある人とつながっているのだ。

一番縁の濃い真っ赤なものからグラデーション状態になっていて、少しエンジがかった赤とか、ピンクっぽい赤とか、紫に近いような赤とか、何本もあるわけだ。

昔は地域や家柄で大体結婚相手が決まっていたから、そう何本も赤い糸がなかったのだが、恋愛や結婚がどんどん自由化されていく中で、赤い糸もだんだん増えていったようである。

これは産土の神(生まれた土地の守り神)同士の取り決めによって用意されるのだが、縁結びの仕事が複雑化して、神様もさぞや苦労なさっていることだろう。

さて、現代では赤い糸は普通の人で三十人ぐらいの相手とつながっている。ただし、三十回結婚してもいいという意味ではない。縁のある人が三十人ぐらい用意されているということなのである。

努力しなければ縁はつながらない

私の直弟子の西谷泰人さんは、恋人出現の年や、結婚の年、あるいは独立の年などがピタリと当たると評判の手相の大家である。その西谷さんがなかなか結婚できずにいるある女性を鑑定した時の話だ。

「西谷先生、私はいつ頃結婚できるでしょうか」

ピタリと当たる流年法(何歳の時にどんな出来事があるか分かる手相術の極意)で鑑定したところ、ちゃんと出ていたので、「二十七歳ぐらいになりますね」

西谷さんは教えてさしあげた。

すると、その女性は「いいえ」「そうですかー。私、今年が二十七歳なんです!」とウキウキした様子でお帰りになったのだが――。

一年くらいたった頃、その女性がまた西谷さんのところにいらっしゃった。

そして、「先生、一年たってもまだ独身です。先生は名人だと聞いたんですけど、当たらないこともあるんですね」と西谷さんを責めるような目で見て言うのである。

「お見合いはなさったんですか」

「友達のパーティーとか何かに出たことは」

「いいえ。縁のある人が向こうから現れるに決まっていると思ったから、何もせずに待ってました」

その方はお父さんが歯医者さんをしていて、その病院で受付の仕事をしているということだった。家は駅のすぐ側で、病院まで地下鉄で一本。

病院も駅のすぐ側ということで、毎日毎日、一年間、その往復だけを繰り返していたと言うのだ。

それでその女性が男性と出会う可能性があるとしたら、どんな場合だろう。

①歯医者さんに来た患者さんが受付で見た瞬間に「あっ、この人は」となった場合。

②家に居る時、たまたま訪ねて来たポーラ化粧品の男性セールスマン(ほとんど女性のようだが)が、ドアを開けた時、ひと目で気に入るというケース。

③地下鉄でチラッと見た男性がいきなり声をかけて来るという突然の出会い。

無理やり三つ考えてみたが、その方はどう見ても①~②のパターンでは、男性から声をかけられるタイプではなかったようだ。

見た目にもあまり輝きがなく、話しても何となくパッとしない感じなのだが、お父さんが歯医者をやっているのでそれで何とか、という感じの方だったようである。

「夏に海とかも行かなかったんですか」

「私、泳ぐの嫌いなんです」

「テニスなんかは」

「疲れます」

もちろん、お見合いもしていない。これではまるで、何がどうあっても男性とは出会いたくない、と言い張っているようにしか思えない。

努力しなければチャンスは巡って来ないのだ。これは現実界、霊界を貫く共通の法則である。この女性の場合も手相に出ているのだから、縁のある人がいないわけではないのだが、本人が何もしないのでは神様も結びつけようがないのだ。

霊界の戸籍係の判定基準

縁のある人は三十人ぐらいいると言ったが、そのうちの誰と結ばれるかが現実的な問題である。

努力しなければ縁はつながらないのだが、それは別にパーティーに参加するとか、お見合いを何回もするとかの直接的な努力だけを指すのではない。

それと同時に大切なのは自分自身を高める努力、いわゆる精進努力である。

神様は人間に自由意志を与えてくださった。人生の節目節目で、あるいは日々の暮らしの中で、プラスの選択肢を選ぶのもマイナスを選ぶのもすべて本人に任されている。

明るく前向きで、自分と周りの人にとってよりよい方向を選んだらプラス、人を恨んだり妬んだりして、自分の魂を傷つけるようなことをしたらマイナス。

そして、日々のそうした選択の積み重ねを総合的に判断して、霊界のいわば、「戸籍係」の神様が、三十人の候補の中から本人の努力に見合った相手と結びつけてくださるのだ。

世のため人のためのことを考えて、自分を高める努力を最大限にした人は、三十人の中の一番濃い縁の人と結ばれる。

それは今世で巡り合う縁ある人の中ではもっともお互いが幸せになる可能性(もちろんその後の二人の努力が一番大切であることは言うまでもない)が高い組み合わせである。

まあまあ頑張ったという人は十番目ぐらいの縁の人だろうか。最初は怠けていたけど途中から非常に頑張ったという場合は、将来の期待も含めて、本来の評価よりも少上のレベルの人と結ばれる。

反対に最初の頃はそれなりによくやっていたけど、最近はどうも、という人は、ガクンと評価が落ちてしまう場合もある。

だから、あくまでも本人次第。そして、その縁を本当のものにするのかどうかということも結局は本人の自由意志に任されているのだ。

その中には、孤独の中に身をおいてひとつの道を究めるという選択肢ももちろんあるわけだ。

もし、適齢期ということを考えるのだったら、その時期に自分を最高に高められるように、内面を磨きあげ、現実的にも色々な努力をすべきだろう。

そうして精進努力をつくした後に、縁ある相手との出会いがあり、機が熟したと思ったら、あれこれ迷うのではなく、心をひとつに決める。

すると何らかのインスピレーションが守護霊さんからあるはずだ。その時に結婚するのが適齢期だということだ。

そうして縁を結んだ以上、それを大切にして、色々な現実的な苦労を乗り越えて絶対に幸せになること。

それが、縁を作り、見守ってくれている神様、守護霊さんへの最大の感謝の証になるのだ。