職業なんてどうでもいい?
ところで、よく「天命」ということを言う。人がこの世の中でなすべきこと、神様から与えられた定めが天命である。
では、それはどの程度まで決まっているものなのだろうか。
結婚については説明したとおりである。では、職業についてはどうだろう。例えば「おまえは不動産屋をやれ!」と神様に言われて生まれてくる人がいるわけではない。
はっきり言えば職業なんてどうでもいいのである。
男性に生まれるか、女性に生まれるか、日本に生まれるか、アメリカに生まれるか、大体何年の何月ぐらいに生まれるかということは決まっている。
はじめから決まっている天命と言えるのは、およそそれくらいで、後は本人の選択でいくらでも変わる。何の職業につくかなどどうでもいいのだ。神様はそんな細かいことまでいちいち口を出さない。
天性というものは確かにある。文化系的素質が強いとか、理科系的要素が強いとか、持って生まれた素質は、人それぞれ違う。
天性は自分の心に内在している魂の傾向なのだ。それは前世にどんな職業に従事してきたか、どれだけ学問を深めたかなどによって変わってくる。
心に内在しているものだから、天性にあったことをやると「ああ、満足だ。嬉しい、楽しい、面白い」と心が喜ぶ。自分で、そう感じられる仕事が天職なのだ。
文化系的要素がある人が文化系的な仕事をすると、心が「嬉しい、楽しい」と言うので、何時間やっても飽きが来ない。
それが合っているのだ。そういう人が、無理に数式など計算していると、頭が痛くなってくる。
鼻血を出したりもするかもしれない。反対に理科系の人は数値などを見て研究しているのが楽しい。
文学なんて、答えがあるようなないような感じでよく分からない、数学は必ず答えがあるからいい、と思っている。
そういう人が理科系の仕事につけば、それは天職である。
それぞれ、天性に合った、心が喜ぶ仕事につけばよいのだ。
もちろん、文化系の仕事と言ってもピンからキリまであるだろう。理科系でもピンからキリまである。
そして、キリよりもピンのほうが心が満足するから、後は努力次第で職種を選び、さらに仕事をグレードアップして、自分をランクアップさせていくことである。
紆余曲折のプロセスもある
もちろん、誰もが最初から、本当に心が喜ぶ仕事につけるわけではない。自分に合っていると思って選んだつもりでも、全然心が喜ばないことをやらされることもある。
本が作りたくて出版社に入ったけど、事務ばかりやらされているとか、電車に乗りたくてJRに就職したのだけど売店に回されたとか、色々あるだろう。
私もそうだった。営業でも何でも、嫌だ嫌だ、と思うところへ行って、嫌なことをしなければならないことが多かった。
しかし、その時は、本当に嫌で嫌でたまらなかったのだが、今から思うとそれも必要なことだったな、と思えるのだ。
あるいは、本当に自分の意志で選んで、望んでついた仕事なのに、やってみたら思い描いていたのと大分違ったという人もいるだろう。
こんなにお金にならないとは思わなかったとか、こんなにしんどいとは思わなかったとか、人間関係がどうしてもしっくり行かないとか。
神様の道に入っても、色々な紆余曲折のプロセスはあった。そこで葛藤している間は、「なぜ自分ばかり神様のために働かなきゃならないのか」と思ったこともある。
しかし、十年二十年たってみると、「ああ、私は神様の道に来てよかったんだ」と心から思うのである。だから、大所高所から見て、究極的に心が喜ぶ道に進めばいいのだ。
感動は求めなければ得られない
これが本当に天職なんだろうか、どうだろうかと、誰しも悩む時があると思う。
しかし、「これだ!」と思える仕事がないと言うのは、それだけ究極的な天職に出会う程には、自分が切に求めていないからなのである。
はっきりこの法則を申し上げておこう。
心が喜ぶ、深く感動するというのは、深く求めたから感動するのだ。
たとえば、美術の勉強をしている人が、本当に美しい絵を見た時の感動は深い。
これは、何の勉強もしていない人が絵を見て「ふーん」とそれなりに感動した、というのとは比べものにならない。
一生懸命、美の世界を求め、その方向に深く心が向いているからこそ、魂の深い感動があるのだ。これは他の分野や職業でも同じことである。
ところが、そんなに求めたつもりはないけれど、ある時何かとの電撃的な出会いがあり、ものすごく深く感動したという場合がある。
これは、前世でそのことを深く求めていた記憶があるからである。
例えば、絵とか音楽を前世で深く求めて来た人は、小さい時から美しい絵を見たり、ピアノの音を聞くと「ああっ」と感動する。心の奥底から、ピーンと来るものがあるのだ。
ところが、前世、それほど深く求めたものがない人は、何をやってもピンと来ない。
前世のことはもう過ぎたことだから、そういう人はどうすればいいのかと言うと、とりあえず何でもいいから、目の前にあることを一生懸命やってみることである。
そして、実はそれが心が望んでいることでもあるのだ。
「目の前のことを一生懸命やる、その時に喜ぼうね、喜びとしようね」と言うのは、万国共通の、心の共同組合の申し送り事項なのだ。
だから、一章でも説明したように「吐きながらでも行動すること」である。
一番問題なのは右にしようか左にしようかと迷っている状態だ。あっちにしようかこっちにしようか、ずっと迷ったままで、結局行動しない。
AかBか、一つのことに決めて一生懸命やらないと心は喜ばない。つまり御魂が発動しないのだ。
御魂が発動しないと守護霊さんも守護してくれない。本人が自分で選択して魂を燃やさないと守護してはいけないというのは、守護霊共同組合の申し送り事項なのである。
一生懸命やれば縁ができる
例えば、囲碁をするか、将棋の道に進むか迷っているとする。どちらも余り変わらないような気がするとしよう。
その場合は、とりあえず今少しでも興味があるほうへ突き進むことだ。そして、囲碁を選んだら、将棋のことはとりあえず頭から消し去って、とことん囲碁に没頭する。
それこそ寝食を忘れるくらいに碁のことだけを考える。頭の中にいつも碁盤と碁石が浮かんで、白と黒とがせめぎあっている。そこまで来れば、魂が発動している状態になる。
すると、例えば誰かよいお師匠さんと巡り合って、「お前は筋がいいから俺の所へ来い」ということになることもあるだろう。
いい出合いがあって、「やっぱり囲碁を選んでよかった」ということになる。守護霊さんは、ちゃんと時機を見計らって、そういう縁を準備してくれるのだ。
では、大所高所から見て、囲碁がその人の究極の道ではなかった場合はどうだろう。
一生懸命囲碁をやって、囲碁が大好きになったのだけど、どうしても伸びない。後から始めた人にどんどん追い越され、負かされてしまう。やはり、自分には才能がなかったのか、と徹底的に落ち込むことになるかも知れない。
しかし、とことん突き進んだ上で、にっちもさっちも行かなくなった時、守護霊さんはちゃんと動いてくれるのだ。
もう駄目かなと思いながらも、縁側でパチンパチンと碁石を並べていると、親戚の叔父さんが遊びに来た。
一生懸命やりながらも苦しんでいた自分をずっと見ていて、何とかしてやりたいなと思ってくれていた叔父さんである。
そして、たまたまその叔父さんの知り合いに将棋の谷川名人がいて、自分のことを話してくれたらしい。
「谷川名人が、将棋だったら僕の直弟子にしてもいいんだけど、と言っていたぞ」なんていう話を聞かされたら、その時、将棋に変わればいいのだ。
谷川名人との出会いがあって、それから将棋に転向して「やっぱり僕は将棋だったんだ」と思ったら、後は徹底して迷いがない。
だから、将棋の大家になるだろう。そこまで魂を発動させて一生懸命努力した時には、どんな職業でも天職になっている。
この職種でなければダメだと、最初から決められているわけではないのだ。
守護霊が天職に導く
ところで、先の例で、もし囲碁を一生懸命やっていなかったらどうだったろう。
もちろん、将棋を選択して死にもの狂いで努力すれば、それでいいのだが、将棋囲碁かいつまでも迷っていて決断しなかったら、その時は、谷川名人との出合いも当然ないわけだ。
人間は神様から自由意志を与えられている。自分で選択するからこそ、進歩向上するのだ。
守護霊はあくまで魂の教育係だから、本人が一生懸命努力して御魂を発動させた時に、はじめてそうした縁を作ってくださるのだ。
あるいは現実界のレベルで言うと、そこまで死にもの狂いで頑張っている姿を知っていたからこそ、叔父さんは知り合いの谷川名人にそんな話をしたのだ。
だから、とにかく、こうと決めて一生懸命、目の前にあることに精一杯の努力を傾けることだ。
もし、道が間違っていても、それでもいいのだあるところまで来たら、守護霊さんが「お前の道はこっちだよ」と導いてくれる
多少不親切なような気がするかも知れない。天性にあった道があるなら、最初から教えてくれればいいのに、と思う方もいるだろう。
しかし、実はこれは守護霊共同組合の顧問である、神様の深い配慮に基づくものなのだ。
私もワールドメイトの会員さんに守護霊、前世鑑定を行うことがあるが、そんな時よく質問されるのが、「もっと具体的に教えてください」ということだ。
過去には具体的に言っていたこともあるのだが、すると必ず、「次はどうすればいいのですか」ということになってしまうのだ。
「今度は息子が小学校なんですが、私立がいいでしょうか、地元の学校がいいでしょうか」
「転勤になるんですが、家族で引っ越そうか、単身赴任がいいか教えてください」
「夏休みは海に行くか山に行くか迷っているんですが」等々。一つ具体的に教えると、次から次へと具体的に聞かないと人生を送れなくなってしまうのだ。
巷の易者さんなどはリピートオーダーがあった方がありがたいから、このパターンなのだが、それでは結局本人の為にはならない。自分で考えて、迷って選んで「これだ!」と思ったことのほうが、本人が徹底して努力するのだ。
失敗があるから錬磨される
なぜ具体的なことを聞きたいのかというと、結局楽をしたいからだ。最短距離を行きたい、無駄な努力をしたくない、というのが人の常である。
人間は合理的な頭脳を持っているから、「余計な苦労が大好きです。何度でも挫折を味わいたいんです」という人はまずいないだろう。
最終的に将棋の道に進むのが天職で、四十歳で名人になるのだったら、誰でも途中一度挫折して方向転換をするのではなく、最短距離を行って三十五歳で名人になりたいと思うに決まっている。
では、もし具体的にわかって、「そうか。じゃあ将棋をやればいいんだな」と思ったとしよう。
そこで将棋をはじめたとしても、「いずれ自分は名人になるんだ」とタカをくくっていたのでは、なかなか徹底して努力はしないだろう。
それでも才能に恵まれて、そこそこいい成績をおさめたとしても、決底的に欠けるものがある。
それは、失敗する中から、悟り、錬磨される人間としての魅力だ。紆余曲折の過程で知り合う人脈、どん底から這い上がる中で築かれる精神的ベース、ギリギリまで追い込まれた時の力強い開きなおり。
そうしたものがないから、最初は「努力次第では三十五歳ぐらいで名人位につけてやろう」と神様、守護霊さんは決めていたとしても、「いや、まだまだその器ではない。時期尚早である」ということになる。
一つの道の頂点を究めるというのは、それ程生やさしいことではない。甘い考えでは、三十五歳になっても、絶対に名人になどなれるわけはないのだ。
経験のプロセスこそが本当の財産
一方、紆余曲折を経た人は、失敗の中から悟り、本物になるための精神的なベースが鍛えられ、色々な経験を積む中から信頼できる人脈を築きあげて行く。
そして、それこそが本当の意味での本人の財産、御魂の恩頼(栄養)なのだ。
そうして、時間はかかるかも知れないが、本当の実力を蓄えて、押しも押されもしない人間になっていくのである。
これがない人間が、名人位を何期も連続で防衛できるような、一流の中の一流、本当の本物になることは絶対にない。
だから、はじめから教えないというのは、神様、守護霊さんの大いなる愛なのだ。全体の方向性だけがちょっと示されるだけで、後は何も言わない。
そこで迷い、それでも自分の意志で判断して決めて、ひたすら情熱を傾けて一生懸命努力していく。
しかし、失敗して、打ちのめされ、孤独の中に叩き込まれて、もがき苦しんで、ギリギリのところまで行った時、魂は絶叫する。
それを聞いた時、初めて守護霊さんは、神様が用意してくださった方向へふっと導いてくれるのだ。
しかし、もちろんそれで終わりではない。また一からやり直すのだ。
そして、もう一度、努力して努力して、歯をくいしばって頑張って、しかし、まだその道が本当の究極であるかどうかは分からない。
もう一度挫折が準備されているかも知れないし、もう三回かも知れない。
開運期というのは、人によって違うが、だいたい三十四~五歳くらいに一度来ることが多い。
だから、とにかくそれまでは頑張るしかない。苦しみを乗り越えないところには喜びもないのだ。
ある年齢と経験に達したら、必ず本来の道へぱっと導いてくれる。その時までは、守護霊さんも痛しかゆしでお待ちになっているのだから、そう信じて努力していただきたい。
そうすれば必ず、ああ、この道に来てよかったんだ、今までの遠回りは、こうなるために全て必要なことだったんだ、と分かる時が来る。
その時は、心も本当にニコニコと喜び、そして自分の人生に対して揺るぎない自信が身についているはずだ。
〈宇宙からの強運コーナーその二:北極星「絵馬代」秘法〉
ここで紹介するのは、北極星の「絵馬代」である。
エマシロ?聞いたことがないかもしれないが、私の主宰するワールドメイトではポピュラーなものだ。要するに神社で見かける「絵馬」と、「形代」がドッキングしたものである。
絵馬というのはご存じの通り、自分の願いごとを書いて神様に奉納するもの。形代とは、「人形・形代(ひとがた・かたしろ)」とも言う。
人の形をした紙に自分の名前を書いて神社に送り、神社で半年に一度お焚きあげをしてもらって、身についた罪けがれを、神様に祓っていただくものである。いずれも、神社で古来から行われているもので、神霊界から見ればちゃんと意味と効果があるものである。
しかし、現代は宇宙時代である。特に、本書のテーマは「宇宙からの強運」だ。
そこで、ここでは「北極星絵馬代」をご紹介しよう。これは、北極星の神様からパワーをいただき、願いを聞いてもらえるというものだ。
北極神界とは、太陽神界よりもさらに上級の、超高級な神界である。すべての災いを先天のうちに防いでしまう、最高の救済力を発揮される星なのだ。
ここは、叡智と運勢の指針が凝結している星である。
この星の主宰神様は、「至聖先天老祖様」。この神様に善なる願いをかければ、あらゆる才能が開き完成するキッカケと、導きが与えられるのだ。
また、天命と寿命をつかさどる星でもあるので、一生の願いをかけることもできる。自分の生涯や進路にかかわることで、どういう指針を立てたら良いか迷ったときは、この星に祈るのがベストといえる。
第二章で「天職」について書いたが、この北極星に祈れば、さらに大きく人生の指針が立つことだろう。
★祈り方は以下の通り。
①まず、巻頭カラーページの「北極星絵馬代」を切り取る。
②願い事を、なるべく具体的に書く。たとえば病気平癒なら、「○年○月から、ここがこのように悪くなっていて、医者はこのように言っています。ここをこうしてほしいのです」というように、具体的に書く。
③手を合わせ、袋とじページ最終面に記載の「天津祝詞」を唱える。邪気を祓い、神様に祈りが通じやすくなる。
④願い事を口に出して言う。
★まず、以下の秘文を、真心込めて二回唱える。
「北極星の青玄宮にます、至聖先天老祖様、守りたまえ幸はえたまえ」
●そして、自分が今あること、生かされていることや環境などについて、感謝の祈りを捧げる。
●次に、願い事について祈る。たとえ小声でも、声に出して祈ることで、成就力は倍増する。
なお、これは略式の祈願法である。正式な祈願法はもう少し長くなるが、ここでは割愛させていただく。
また、祈りを込めたあとの絵馬代だが、絵馬を神社に奉納するような気持ちで、お玉串料として二百円以上ご随意の額を添えて、ワールドメ送っていただければ、六月の「神力示現・鹿嶋海原びらき大神事」か十二月の「神権発動・伊勢岩戸びらき大神事」にて、お焚きあげをさせていただく。
特に、本書に掲載した絵馬代は強力特別版で、私が直接に真心こめて神様に言上申しあげ、祈りを捧げてお焚き上げさせていただくものである。
(〒410-23 静岡県田方郡大仁町立花3-162 ワールドメイト絵馬代係)人形・形代というものは、通常の神社では、三~四名の神職の方がお焚きあげをしている。
ところがワールドメイトでは、伊勢・鹿嶋という大神霊域に四千人以上の人々が集って祭事を行ない、一晩徹夜で真心込めて、絵馬代などを送ってくださった人々のために祈り続ける。
通常の神社の人形・形代よりも、はるかに強力な霊的開運効果が得られる所以である。
なおワールドメイトには、星のパワーを授かって運を強くできる人形・形代が幾つかあるが、その中でも「等身大形代」の人気が特に高い。
これは、文字通り等身大の形代で、太陽・木星・月・水星・天王星の、星のパワーの窓口となるマークが描かれている。
これを布団の下に三晩敷いて寝ると、星からのパワーが寝ている間に体中に浸透し、大運勢が付与されるのだ。まさに「宇宙からの強運形代」である。
第3章 考え方の工夫で生き方のコツを掴む
気分を盛り上げるための智恵
時には、孤独の中に身を置きながらも一生懸命ひたすら努力を続けていくこと、これが目に見えざるパワーを授かり、大きな強運を掴むための基本である。
しかし、あまりにも孤独すぎると、かえってやる気がなくなってしまう場合もあるだろう。緊張と緊迫の中に自分を追い込み過ぎると、途中でプッツンと切れてしまう危険性もないとは言えない。
孤独の中に身を置くこと自体が尊いのではない。大切なのは、神様へ向かう気持ちを持ち続けることだ。
だから、その基本を踏まえた上で、たまには適度に自分を楽しませ、やすらぎを与え、元気づけてやることである。
道は長いからこそ、緊迫のあま悲壮感をただよわせることなく、明るく前向きな姿勢を持ち続けることが必要なのだ。要はバランスの問題だ。そうした智恵も身につけておいたほうが長続きするものである。
気分転換というのは要するに「気」ということで考えると分かりやすいだろう。気が沈んでしまった時にはどうすればいいか。
簡単な話で、気を浮き上がらせればいいのだ。浮き上がらせるには、よい気に触れればいい。そして、よい気の代表的なものと言ったら、やはり神様をおいて他にないだろう。
だから、気分が沈んだ時は、旅行を兼ねて、ちょっと遠くの神社まで足を伸ばしてみることだ。
弱った気を全部吐き出して、最上の気を思う存分いただけば、確実に気分が変わるだろう。それぞれの神社の効用については私の著書「神社で奇跡の開運」(たちばな出版刊)に詳しいので、是非試していただきたい。
それから、気のいい人と会うのもよいことだ。元気のいい友達から明るい話を聞けば、気分も盛り上がる。
相手にしてみれば、気を吸い取られることになるのかも知れないが、その分、徳を積んだということにもなるので、遠慮は無用だ。
後はいい音楽を聞くとか、いい絵を鑑賞するというのも、よい気を受けることになる。
何がよい気かと言うと、簡単な話で、それに接して気持ちがよくなれば、よい気だと思えば間違いない。よい気を受ければ、リフレッシュする。これは大切な智恵である。
オシャレをして外に出よう!
女性だったら、思いっきりオシャレをして普段あまり行かないような所へ出掛けてみるのもよい。
お化粧もいつもとは少し変えてみると気分も変わる。たまには別人のように変身してみるのも面白い。これは女性だけの特権と言えるだろう。
美の世界をつくり、自分がそこに浸ると、女性の場合たいへん明るく元気になるものだ。
元の顔は変わらないにしても、化粧の技術に磨きをかければいくらでも美しくなることができる。
考えようによっては、生のままの美人というのは気の毒かも知れない。美しくある努力を怠りがちだから、やがて年を取ればどうしても醜くなる。
テクニックで美しく見せる技術を体得した人は、色々な技を次々に開発することで、永遠に美しさを保つことができる。出掛ける場所のTPOに合わせて、様々な美しさを演出することもできるのだ。
素顔であるとかないとかは関係ない。見た目が綺麗で感じがよければ、それでいいのだ。
本当は私もやりたいのだけど、やはり流石にこれはちょっとできない。女性の場合許されているのだから、やらない手はないと思う。
このお化粧法のことに関しては、「パリ・コレクション」(ピエール・ブツダン著、たちばな出版刊)を参考にされるとよい。読むだけでお化粧が楽しくなるのではないかと思う。
イヤリング等のアクセサリーやファッションにも凝ったらいいだろう。とにかく自分を美しくしていく。
この時、自分が本当に美しいのだと思い込むこと、確信することがポイントだ。自分は美しいんだ、
美人なんだ、綺麗なんだ、こういう長所がある。んだ、ということだけを考えてマイナスを一切見ない。謙虚で反省し過ぎる人というのは、気を沈ませやすいのだ。
「省みる」と言うのは、少ない目と書くから、ちょっと目をやれば十分。あまりマイナスのほうへ目を向け過ぎないほうがいいのである。
周囲がどうだとか、周りに左右されることもない。私は綺麗だ、世界で一番美しいんだと嘘でも思い込む厚かましさを持てるようになれば、落ち込むことも少なくなるし、立ち直りも早くなるだろう。
悪いことは人のせいにしよう!
謙虚で人のいい性格の人というのは、どうしてもストレスを溜めがちだ。
「憎まれっ子世にはばかる」と言うが、元気で長生きする人というのは、あまり自分を省みずに、悪いことは全部周囲のせいにするという智恵を身につけているようだ。
悪かったのは人のせい、失敗したのは環境のせい、私が不幸なのは日本の首相が悪いのだ、と。
「私の叔母は、本当に控え目ないい人で、信仰も篤くて、姑にいびられるのにも健気に耐えた神様のような人でした。
でも、早死にしてしまいました。霊界ではどうしているでしょうか」
昔、「霊界、それからのレポート」というのをやっていた時、そんな質問を受けたことがある。そこで、早速その叔母さんがどこにいるのか霊眼で見てみた。
すると案の定、中有霊界(霊界の真ん中あたりの世界)の下のほうだった。そういう人に限って、薄暗い霊界にいることが多いのだ。私さえガマンをすればいいのだから、と見た目はよかったのだが、心の中では暗い霊界をつくってしまっていたのである。
この方の場合、信仰心が深かったというのが、逆に仇になってしまったようだ。前世の因縁や家代々の因縁だから不幸は自分のせいだからこれを受けなければならないんだ、と考えてじっと耐える人生を選んでしまったのだ。
だから、ストレスが溜まって、結局、結核かガンで早死にしている。
ところで、その叔母さんをいびりぬいた姑さんは、元気にやりたい放題で、周囲の迷惑を省みず八十五歳まで生きたということだが、この方もどこにいるか見てみた。「あの人は絶対地獄ですよ」と質問した女性は言っていたのだが、何と中有霊界の上のほう、天国に近いところで、相変わらず元気にやりたい放題やっていたのだ。
この不条理に、私もしばし霊界の法則を疑ったほどだった。
つまり、霊界とは内面の世界、想念、思いの世界なのだ。もちろん、今世で人を苦しめた分は罪になっている。
カルマの法則は頑としてあるのだが、結局、今世で生きた心の状態に近い世界へと行くことになるのだ。
そうやってストレスを発散して好きなように生きた人というのは、明るく元気で楽しいから、明るく元気で楽しい霊界へ行く。
もちろん、それだけで最高の天国界へ行けるわけではないが。だから、「これが私の因縁だから」と今世で耐えて苦しむなんていうことは、あまり意味がないことだ。たとえ客観的に見て苦しそうな環境におかれても、意地でも心は苦しめないぞ!と工夫すべきである。
いつも明るく人の五倍くらいの声で笑っていれば、悪霊も寄りつかないし、カルマも楽に乗り越えられる。だから、生きていても楽しいし、死んでからもいい霊界へ行くことができるのだ。
前世のお詫び、償いは必要か
特に信仰心の深い人が陥りやすいのが、「前世の罪」という意識をあまりに強く持ちすぎて、自分を責めて暗くなってしまうことだ。
前世の罪なんて誰にでもある。しかし、前世の徳分というのもちゃんとあるのだ。
その二つが総合的に判断されて、今世に影響を与えるわけだが、これは霊界の通信簿のようなものだ。前世の成績に今世の成績が加算されて、それが死んでからの霊界のランクに影響するわけだ。
もちろん、徳を積む(良いことをする)ほど、成績は良くなるし、刧を積む(悪いことをする)ほど成績は悪くなる。
では、何が良くて何が悪いのかということになるが、ここでは到底書ききれないし、今までの著書と重複するので、「大天運」「大創運」「運命とは何だ』(いずれもたちばな出版刊)などを参照していただきたい。
ただ、徳を積んだか、悪業を犯したかは、いわばペーパーテストの結果であって、霊界のランクはもう一つの評価点が加わるということに気がつかないことが多いようだ。
それが、想念のコンディションである。(明るさ、軽さ、温かさなどがその目安となる)これは成績でいえば、内申点にあたる。最終的にはペーパーテストと内申点の両方で決まるわけだ。
だから、少々ペーパーテストの出来が悪くても、いい子だったらゲタをはかせてもらえる。
そういうふうに考えたらいいだろう。からだ。
よく「前世の罪のお詫びや償いはどうしたらいいか」という質問を受けるが、簡単方法をお教えしよう。
宇宙創造の神を「素の神(主神、◎神)」と申し上げるが、この素の神様にお願いして、「前世の罪を償います。お詫びします。お許しください」と、それだけでいいのだ。
もちろん、許せる範囲は許してくれるかも知れないが、それ以上は無理だろう。
つまり、もうペーパーテストで結果が出ていることだから、ハッキリ言って頼まれても、普通の方法では修正のしようがないのだ。(特別な方法がないこともないが、ここでは割愛する)それよりは、今世で徳分を積んで、成績を上げることを考えてはいかがだろう。
ただ、不幸で不幸で不幸なことが続いてどうすることもできない時、この苦しみをどうやって理解したらいいのだという時もあるだろう。
自らの心を救う方法がない時、「これは前世の罪だ」と自覚することが必要な場合もある。実際にそうなのだが、それを自覚することによって、人を恨まなくなるからだ。
夫を恨んだり、家を恨んだり、環境を恨んだりして、愚痴をこぼしたり、不平や不満で心を一杯にすると、益々現実を悪いほうへ導くだけでなく、内申点もどんどん下っていってしまう。
だから、この場合は、自らのカルマのせいにして、人のせいにしないほうがいいのだ。
カルマを自覚することと、自分を責めることは違うことだ。前世の罪は悔やんでもあがなえないのだから、割り切って、今世努力するしかない。
ある程度、年を取ってくると、この世で積める徳分というのも限られてくるから、それよりは、憎まれっ子になってでも世にはばかって、明るく長生きするというのも一つの方法なのである。
悪因縁を切る方法
「先生、私のおうち因縁が深いでしょう。小さい頃から苦労ばかりでしたから因縁が深いと思うんです」
そういう方がよく私のところに相談に来る。
ところが霊眼で見ても、言うほどの因縁がない場合がほとんどだ。だから、「いや、たいして因縁なんてないですよ。普通です」
「そうですかぁ」
がっかりして帰っていく。
私も正直に言いすぎるものだから、かえって気の毒かも知れない。本人は因縁が深いと思い込んでいるのだ。
これは、よく病気の人にあるのと同じパターンだ。
病気と思い込んでいる人が、病院に行って、「いえ、大丈夫、悪いところなんて全然ありませんよ」とお医者さんから言われると、「あれはヤブ医者だ」ということになる。
と言うと病気じゃないと分かっていても、ビタミンでも注射して、胃薬でも持たせてあげると大喜びで帰っていくそうだ。
これと同じで、人によっては自分が因縁が深いということに喜び?を持っているようなのだ。やっぱりね、だからこんなに苦労がたえないのだと。
しかし、本当は自分が苦労したのは、余り頭がよくなかったのに努力もせず、その上性格も悪かったからだったりする。
ところが、それを因縁のせいにしている。だから、そういう方には、「ああ、深いですねぇ。でも、ご苦労なさったから大分よくなってきて、今はあまりありませんよ」
「そうですか。そうでしょう、苦労しましたから」などと、我が意を得たりといった顔で満足そうにしている。つくづく人間の心の不思議さを感じさせられるものである。
因縁と先祖供養
因縁が深いと言うと、法華経系の仏教教団ではさかんに先祖供養を勧めるところがある。先祖はいくらでもいるから、供養のリピートオーダーは幾らでもできるという仕組みになっているようだ。
実際の話、自分の先祖がどれくらいいるか考えたことがあるだろうか。三十代さかのぼれば、約一千万人は軽くいるという計算になる。
そして、家がすたれていようと何だろうと、これは確実にいるわけだし、むしろ供養されてない霊のほうが圧倒的に多いわけだから、それをいちいちひとりで全部供養するなんていうことは、不可能だと言ったほうがいい。
ちょっと冷静に考えてみよう。
親戚縁者の中で、一番運がいい人、前向きな人生のプランをピシッと設けて、着々実行している人がいるだろう。その人は、先祖供養をしているだろうか。
逆に信心深く、先祖供養を欠かさない人が、年中「具合が悪い、具合が悪い」と言っていたり、やることなすことパッとしなかったりはしないだろうか。
身の周りを見渡すと、必ずそういう例が見つかると思う。何故なら、これは法則だからだ。
信心深いということは、要するに霊界に理解を示すこと、霊界にチャンネルを合わせていることに他ならない。
因縁が深い深いと思っていると、霊界のマイナス世界に感応するから、色々な先祖の霊とか、浮遊霊、地縛霊を逆に呼び寄せてしまう。
それで、やることがうまく行かなくなり、つまずいて不幸になってしまうのだが、発端は因縁が深いと思ったところから始まっているのだ。
特に、戒名を上げて呼んだりすると、地獄でおとなしく苦しんでいた先祖の霊が、「あっ、呼んでる。助けテー!」とパッと寄って来る。呼ぶから来る、あたり前のことだ。
すると、その周りにいる地獄の霊たちも羨ましいものだから、「俺も、俺も」ということで、どんどん悪いて来る。
これで重たくならないわけはない。それで、あっちが痛い、こっちが痛い、頭が重い、足が痒いということになってしまうのだ。
先祖供養はほどほどに
先祖供養もまったく駄目というわけではない。
お盆の時や、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌までは霊界で許可されているので、やったほうがよい。
やらなかったら、「なぜやってくれないんだ」と霊が怒って、具合が悪くなってくる場合が多い。
しかし、それ以外に、特に毎日毎日繰り返すというのは、問題が多いと言わなくてはならないだろう。
第一、そんなに毎日供養しても、本当に霊を救えるのかという問題もある。
前述の通り、三十三回忌までの回忌供養はたしかに生きるし、意味がある。
なぜ、三十三回忌までかといえば、人は死後約三十年間は、「幽界」という世界にいて、この世の汚れと想いを払拭し、その期間が過ぎると本当の霊界へと旅立つからである。
この幽界にいる間は供養も届くが、ひとたび霊界へ行くと、霊たちはそれぞれのランクに従って、天国界・中有界・地獄界などで修業することになる。
ここまで追いかけ供養をする必要はもはやない。
だいたい、よほどの神権を受託された者でないと、般の人が行なう先祖供養では、地獄界にいる先祖を救済することはできないのだ。
それどころか、不用意に地獄界の霊などを救済しようとすると、かえって地獄の霊の修業の邪魔をし、呼び出してしまうことにもなる。
霊だって年中呼び止められていたら、成仏したくても出来なくなってしまうのだ。
何故そんなに一生懸命供養をするのかと言うと、実は暇だからと言う場合が多い。
仕事を通じて社会に貢献するという役目を終えて、やることがなくなって、暇だから先祖供養や墓参りを趣味にしているというケースがほとんどなのだ。
だから、なるべく暇にしないで次々と人生の目標を設定したほうがいい。今年一年は何をする、今月は何をするとパシッと決めて、目標に向かって努力をすることだ。
一生懸命努力をすれば、年齢に関係なく魂は発動する。魂が発動すれば、守護霊さんが応援してくれる。
そして、邪気を払いのけて、浮遊霊を追い払って、先祖の霊はしかるべき所へ案内していただけるのだ。
すると、たちまち体も元気になるだろう。
もう一つ。先祖供養をすれば、死んでから自分がいい霊界へ行けると思っている人、がいるようだが、これも大間違いである。
死後どんな霊界へ行くかは、前に説明したように今世何をしたかという成績と、どんな想念を持っているかという内申点で総合的に判断されるのだ。
先祖供養と墓参りの日々は、どう考えても明るく前向きで積極的な日常とは言えないだろう。
それよりは、温泉に行くとか、趣味をつくって打ち込むとか、子どもや孫が言うことを聞かなかったら、「近頃の若いものは」と言って説教するとかして、ストレスを発散して、世にはばかりながら笑って過ごしたほうがよほど幸せだし、死んでからもよい霊界へ行くことができるのだ。
般若心経の功罪
先祖供養の場合、般若心経をあげることも多いようだ。
般若心経は大変パワーのあるお経で、仏様を動かす霊力に基づいて一定のパターン!を踏まえて唱えると、不動明王や大日如来などの仏様が来るようになっている。
しかし、仏壇の前やお墓で般若心経をあげると、そこら中の霊がわぁーと寄って来て、背中にびっしりと憑いてしまうのだ。
霊眼で見ると、般若心経の波動というのはピカピカと光っている。これが、霊にとっては大変に気持ちがいいらしい。
子どもに飴玉をやるのと同じことで、一つやると、「もっと、もっと」と寄って来る。
「摩訶般若波羅蜜多……」
「もっと、もっと、もっと、もっと」
ピカピカ光って気持ちがいいから、どんどん、どんどん霊が寄って来る。そして、「はい、おしまい」と言っても、帰ってくれないのだ。
子どもと遊んだ後に、「もう終わり。御飯つくるから、あっちへ行きなさい」と言っても、「お母さん、もっとやって。もっと、もっと、もっと、もっと」と子どもは言う。
「はい、分かりました」と言う子は滅多にいないわけで、特に浮遊霊は子どもと同じだと思えばいいのだ。般若心経は書いてある意味が大切なのである。
「形あるものはやがてなくなる。なくなると言うこともなくなる。
だから、形あるもに拘泥しないで、目に見えない実質、実相を見なさい。そして、此の岸から彼の岸に渡りなさい」というのがその大意である。
般若心経の意味をよく理解して、現世への執着をなくす。生きている人にとっては、その意味を知ることは大切である。
死んでいる人もその意味が分かればいい。ところが実際にあげている人は、意味もそれほど深く考えず、ところかまわずあげていることが多い。
すなわちリズムとサウンドだけだから、ピカピカ光っているだけで、霊を説得して納得させる力がないのだ。
夏の夜、庭で光をピカピカさせていると虫が飛んで来る。それと同じようなものである。
宗教団体をやめる方法
読経や先祖供養に限らず、どうもちょっと変だということを「善意」でしきりに勧める知人やお友達に辟易としている方も多いだろう。
そんな方には、これこれこうだからとちゃんと説明してあげても、「いや、○○先生はこうおっしゃっているから」と、理屈にならない話で押し切られてしまう。
そして、毎日家に訪ねてこられて、納得しないままに、その教団の信者にされてしまい、やめたくてもやめられないで困っている方も多いようだ。
やめづらい宗教団体をやめるにはどうしたらいいかと言うと、簡単な話で、引っ越したらいいのだ。引っ越して住所も電話も教えなかったら大丈夫だ。
気学や方位学が好きな人だったら、九紫火星の方角か南の吉方位に越すと、悪縁が、切れて、いい縁ができるので、なおいいだろう。
それでも、どこかで調べて来たらどうすればいいかというと、もうこれは無視するしかない。
相手の言うことに、何か異議を唱えると、向こうも真剣だからムキになる。だから、縁を切りたいのだったら、徹底的に無視すること。それしかないのだ。
会社でも従業員をやめさせたい時には、そういう方法をとる。
「君はどうも自分勝手な行動が多くて、チームワークを乱すから会社をやめてくれないか」と言ったら、その従業員はとりあえず、「改めます」と言うだろう。
それで改めてくれればいいのだが、いくら注意しても改まらないから、やめてもらったほうがいいという結論になったのだ。
「改める」と言っている相手に「やめろ」とは言えないから、また同じことの繰り返しになってしまう。
だから、これはもう直しようがないという場合、会社ではどうするかと言うと無視をする。
「君、窓際のほうが日当たりがいいから、あっちに机を用意したよ。ここでどうだ。もう外周りはしなくていいから、多少日にも当たらないとね」と言って、仕事は適当に、あってもなくても困らないようなことをしてもらう。
会社の体制がどうのこうのと文句を言っても何を言っても、一切取り合わなければ、面白くなくなって、そのうちやめていくだろう。
このように、宗教団体をやめたい場合も、一切取り合わないで無視をするのが一番だ。
これが、いろいろなケースに応用できる、悪縁を切る一番いい方法なのだ。
悪霊も無視が一番
これは霊も同じことだ。
とり憑いた浮遊霊に、「あっちへ行け、この浮遊霊。私はお前なんかに絶対やられないぞ」
なんてやっていると、浮遊霊は、「そうは言うけど」とニヤニヤしたままだ。
つまり、絶対負けないとか、あっちへ行け、というのはその存在を認めて、意識を向けているということなのだ。
キツネもそうだ。
相手になれば、浮遊霊は面白がって喜んで、いつまでも憑いていて離れない。
低級霊と言うのは、人にちょっかいをかけたいわけだから、払えば払うほど寄って来る。意識するということは、霊界のチャンネルが合っているということだから、どうすればいいかと言うと、バチッとチャンネルを変えてしまえばいいのだ。
霊が憑いて吐きそうになるほど苦しくても、顔を歪ませながら平気で仕事を続ける。
「先生、どうしたんですか?」
「ちょっと蛇が来たもんでね」
「深見先生、何やってるんですか?」
「いや、行者の霊が」
私の所にも年中来るけど、平気で仕事を続けている。
幾らちょっかいをかけて来ても、無視し続けると、向こうもだんだん張り合いがなくなって面白くなくなる。だから、そのうち飽きて、親戚縁者か隣の家に行ってしまうのだ。
いいものは確信せよ!
そう考えると、神様や守護霊を無視し続けると、その御加護が得られないということもよく分かるはずだ。
だから、幸運になりたければ、神様や守護霊を常に意識して、チャンネルを合わせればよいということになる。いいものは、確信すればするほど、大きな力を示してくれるのだ。
神様や守護霊に限らず、自分にとってプラスになると思えるもの、自分を素晴らしくするものは何でも積極的に信じたほうがいい。
他人が褒めてくれたら、お世辞だと分かっても素直に喜んで、それを信じる。占いでも、自分にとっていいこと、都合のよいことだけを信じればいい。
そして、たとえ誰も言ってくれなくても、自分で自分が美人であるとか、異性にもてるとか、才能があるとか、信じたらいいのだ。
とにかく、前向きで自分を幸せにすること、発展的だと思えることは何でも信じること。
そうすれば、明るく前向きで発展的な霊界(波動の世界)が広がり、キラキラと輝いてくるから、明るく前向きで発展的な事柄が自然に引き寄せられて来るのだ。
逆に自分の心を重く沈めるようなこと、嫌なことは、他人から言われてもあまり気にしない、意識しない。自分のマイナス面だと思うところもなるべく無視すれば、マイナスは広がらずに最小限にとどまる。
要はマイナスを小さくして、プラスを大きくすればいいわけだ。
悟りとは考え方の工夫である
「悟り」とは、りっしんべん(土)に「吾(われ)」と書く。りっしんべんは「立心偏」と書き、心のことを表す。
だから、「悟り」とはつまり、我が心という意味だ。我が心、つまり自分の心のあり様が悟りなのであって、真実かどうかではない。正しい考え方かどうかなんていうこともどうでもいい。
こう考えたほうがハッピーだ、こう考えたほうが前向きだ、こう考えたほうが面白い、という考え方の工夫、それが「悟り」なのである。
こう考えたほうがストレスがない、こう考えたほうが長生きできる、こう考えれば気が楽だとちょっとでもベターだと思ったら、その考え方を確信すればいい。
自分の考えは絶対だ、そう簡単に変えられないと普通は思っているが、そんなことはない。
それは思い込みである。考え方なんていくらでもあるし、自分でいくらでも変えていくことができる。考え方なんて、自分でクリエイトしていったらいいのだ。
「私はこうだと思うんだけど」というのは、その「思い」にやられている。
その「思い」があきらかにマイナスなものでも「自分の思いなのだから大切にしなければ」と思うのか、その情感にひたっていたりする。
しかし、自分の思いなんてどうでもいいのだ。なぜなら思いなんて、絶えず変わるものだから。
いいものを見たら、気持ちがよくて幸せな気分になるし、嫌なものを見たら気が沈んだり、腹が立ったりする。
寒い時や空腹の時は弱気になりやすいし、暑い時はやる気をなくしやすいものだ。美人を見たら元気が出るし、失恋したらドカーンと落ち込む。
思い……………、それはその時々見たり聞いたりしたもの、五感で感じたものにいつも影響されて、コロコロ変わるものなのだ。コロコロ変わるから心(ココロ)というのだが。
同じように、考え方というのも絶対的なものではなく、五感で感じるものによっていつも影響を受けている。
あるいは、その時々の思いを合理化して言葉で説明することを「考えること」だと勘違いしている場合さえある。だが、考え方をちょっと工夫すれば、思いなんて案外簡単に変えることができるのだ。
だから、マイナスの思いが出た場合には、プラスの考え方を無理にでもひねりだして、「これがいいんだ」と思えばいいのである。
例えば、何か嫌なことがあった時、誰かを恨むのではなく、「ああ、これでまた一つ自分の業が消えた。
よかった、よかった」と思う。あるいは、「本当はもっと不幸な目に遭うかもしれなかったのを、神様がこの程度で済ませてくれたんだろうな。
ありがたい、ありがたい」と喜ぶ。その良い念が、良い運気と引き合って、良い守護霊の加護を強くする。
そのマイナスの思いを媒介にして、不幸にしてやろうと思っていた邪霊も、「あらっ?」ということで近寄れなくなる。
これが「一念の自己管理」というものであり、天台宗開祖の智顗が説いた「一念三千」の教えを、日常生活の中で活かせる応用形といえる。
まさに、今現在出す一念が、三千大世界をかけ巡り、その念の種類にあわせて、自分の魂が天国界にも地獄界にも感応するのだ。
つまり、「ただ今」の一念こそが、善悪正邪、天国地獄の分水嶺となっているのだ。
それを知れば、マイナスの「思い」を後生大事にかかえていることが、いかに馬鹿馬鹿しいことかわかるだろう。
だから、先に書いたように、マイナスの思いをプラスに変える考え方の工夫というのは、単純なようで実に大きな強運のコツだということだ。
そうした考え方のコツは、ワールドメイトのセミナーを聞いたり、たちばな出版の本を読んで、参考にして各自、色々工夫をしてみたらいいだろう。
改善できること、できないこと
世の中には改善できることとできないことがある。女として生まれてきた人は男にはなれない。男として生まれて、時々女になっている人もいるけど、やはりこれも変えられない。
太り過ぎはダイエットをすればやせられるが、背が低いのは、いくら引っ張ってもそれ以上は伸びない。いくらフランスに生まれたかったと思っても、日本に生まれてしまったのだからしかたがない。
六十歳になってしまったら、もう二十五歳には戻れない。禿げた頭はカツラで隠すことはできても、髪は元には戻らない。
考え方で改善できるものは改善すればいい。しかし、もう直りようがないものは考えても仕方がないのだ。
「諦め」と言うと消極的なイメージだが、そういうものは、なるべく見ないように蓋をしてしまうに限る。
あるいは、人のせいにする。
色が黒いのは総理大臣のせいだ。足が短いのは今日雨が降ったからだ。顔が大きいのは、政府が外交政策をしっかりしないからだ、と。
要はクヨクヨ悩まない、自分を苦しめないということがポイントなのだ。
世の中には改善できることが幾らでもある。改善できないことを考えて悩んでいる暇があったら、考え方を工夫して、改善できることからどんどん改善していったらどうだろう。
要は、トータルして総合得点がプラスになればいいのだ。
楽しみながら業を消す方法
よく苦労しなければ業は取れないとか、辛い思いをしなければ因縁が消えないというようなことが言われている。
これは、ある意味では正しい。つまり、カルマを解消するためには、客観的に見て苦しい状況に追い込まれるということだ。
病気や怪我で入院するとか、お金がなくて苦労するとかである。
しかし、他人から見てあきらかに「苦」という状況でも、考え方の工夫一つで「楽」に置き換えることもできるのだ。
例えば、もっと悪い人もいるのだから自分は恵まれているのだとか。あるいは、入院を機会に小説を書いて新人賞に応募するとか、運のいい人から借金をすることで、これから金運がつくのだとか。
考えることは自由だし、しかもそれで自分の心は明るくなり、運が回転し始めるのだ。こんなにいい話はない。
この「悟り」があるかないかで、実は業を消すスピードが一・五倍~二倍くらい変わってくるのだ。
他人から見れば苦労だけれど、そんな時でも本人は結構楽しんでいる。そういう時は、守護霊さんも、
「よしよし、よく魂を磨いておるな」ということで、特に応援してくれるので、非常にスピーディーに業が取れていくのである。
同じ一つの出来事にあったとしても、それを不幸・不運ととらえるか、苦の中に楽や「学び」を見つけて積極的に受けとめていくのかでは、その後の人生ならびに死んでからの霊界のレベルにおいて、非常に大きな差が出ることを再確認してほしい。
明るく前向きに考え方を工夫していくことの効用をまとめてみよう。
①明るい想念は明るい現実を引き寄せる。
②長生きをしながら、霊界の成績の内申点があがる。
③楽しみながら業を消すことが出来る。
以上三点の他にもまだまだあるだろう。
実践的に色々応用しながら、あくことなき生活修業を続けていただきたいものだ。
〈宇宙からの強運コーナーその三:土星「シェイプアップ」秘法〉
さて、ここまで書いたように、明るく元気に気分を盛り上げることは、実に大切なことだ。女性の場合はお洒落やお化粧ひとつで随分気分も変えられる。
しかし中には、自分のスタイルを過度に気にする人もいる。何にせよ、シェイプアップやダイエットは、全女性共通のテーマと言えるだろう。
そこで、ダイエットの悩みに答える秘法を一つ紹介しよう。名付けて、「土星シェイプアップ秘法」だ。やり方は次の通り。
①手を合わせ、袋とじページに記載の天津祝詞を唱える。
②土星をイメージし、土星の神様に、具体的にお祈りする。
例…土星の神様、土星の神様、土星の神様…(イメージしながら、十回くらい)ダイエットがなかなか成功せず、ウェストが現在○○センチなのですが、これあと○○センチほど減って、美しくなりますように・・・など。
③やせたい部分をさするか、食べたいときは胃の部分をさすりながら、以下の秘文を十回唱える。
「しりぞくしりぞくささのかみ、ふりさくふりさくちかわにく、あまつとびらにちかわひちる」
この秘文の「しりぞくしりぞくささのかみ」の、「ささの神」は筋肉のことだ。
あれを食べたい、これを食べたいと思う筋肉の働きをしりぞかせ、過度な食欲を減退させる働きがある。
「ふりさくふりさくちかわにく」は、血・皮・肉がふりさかれていって、ターゲットの部分に余計な脂肪がなくなっていくことを指している。
「あまつとびらにちかわひちる」は、血皮火散るで、筋肉や細胞が広がろうとしているものが、燃え上がって散っていく様子を示す。
この言霊に、土星の神様がパワーを与えてくださり、その通りにお働きくださるのだ。「強運」で紹介した、パワーコールの一種と思っていただきたい。
