第4章 新しい時代に入る準備をしよう!~神人合一の道は生活修業にあり~
神人合一の時代がやって来る
十二月二十二日は冬至。一年で最も昼が短く、夜が一番長い日であり、最も陰の深まる時である。
しかし、逆に言えば、その日から日一日と陽は長くなってくる。陰きわまりて陽になるということから、「一陽来復」という言葉が出てきたのだ。
目に見える世界、形の上での春は、三月~五月だが、無形の世界、先天の世界では冬至の日からすでに春は始まっている。
目に見えぬ陽が徐々に大地の奥深く蓄えられて、植物は芽を出す準備を始めているのだ。
昭和五十一年のおりしも冬至の日、植松愛子先生の元に神様がお降りになって、「天の時来たれり」というご神示が示された。
これからは、神と人が一つになる、神人合一の時代がやってくる、ということで「神人合一の道」が神様より降ろされたのだ。
その頃、私はサラリーマンをしながら、神様の道を目指していたのだが、神様に御だからと命じられて、何故か笛ばかり吹かされていた。
「荒川の笛吹童子」などと会社の先輩にからかわれながら、神様に命じられるまま荒川の橋の下で笛を吹く練習を続けていたのだ。
一方、植松先生は神様から「笛吹童子がやって来る」と言われて、一体何のことかしらと思っておられたそうだ。
そして、昭和五十二年の一月五日、神様のお導きで、私は生涯の師である植松先生と出会うことができたのだ。
それから、植松先生の元での私の修業時代が始まった。そして十年間、天の時が来るのを待って、基礎の修業を積み上げて行き、昭和六十年から「世に出なさい」という御神示どおりに動いている。
神人合一。神様と人間が一体となるなど、大それたことだと思うかも知れない。
しかし、歴史上神人合一している人というのは何人もいるのだ。弘法大師も伝教大師も神人合一した人である。南北朝においては楠木正成公、戦国時代では上杉謙信公など武将の中にもいる。
あるいは、ダヴィンチやミケランジェロもそれなりに神人合一している。
それらの人々は皆、人智を遥かに越えた才能を発揮し、有形無形の素晴らしい遺産をいとおしさを持って世の中に残している。
「神人合一」というと抹香くさく聞こえるかもしれないが、宗教家でなくても神人合一はできるのだ。
そのように、経済、芸術、宗教などあらゆる分野に渡って、人間の智恵だけではなく、神様と人間が一つになってやって行かなければならない時代がもうすぐやって来る。
それは、この地球上に理想の世界「弥勒の世」が実現することであり、私たちは今、その新しい時代を迎えるための過渡期にさしかかるところなのだ。
これからの世の中がどうなって行くのか、その方向性については、「神霊界』(たちばな出版刊)に詳しく書いたが、ここでもう一度記しておこう。
終末思想は年末大バーゲン
「時代は今「世紀末」と言われ、真っ暗なマイナスイメージの終末論が流布されている。ある朝起きたら大地がなくなるとか、最終戦争(ハルマゲドン)が起きるとか、一九九九年には人類が滅亡するとか、「もう来年はないんだよ」ということで、しきりに歳末大売り出しをやっているような大晦日教団、年末ギリギリ教団が多いようだ。
確かに、現在は年末ぎりぎり、十二月の決算期には違いない。しかし、年が明ければ正月が来る。そして、新春大バーゲンもあるのだ。
つまり、初荷を迎えるための大蔵ざらえ、在庫一掃セールだと言うのが、私たちワールドメイトなのであって、そこが他の団体とは違うところだ。
新しい時代「弥勒の世」の到来とは、新年を迎えるようなものだと考えたらいい。正月とは「正す月」と書く。
「正す」という字は「一」で「止まる」と書く。つまり、一番大事なもので止まる、一厘で止まる、ということだ。どこで止まるのか。
そこには、「不動の」とか「揺るぎない」とか「善なるもの」という意味が含まれている。
正月は自らを正す月である。
そして元旦。
「元」はもとへ返る、「旦」は、地面の上にお日さまが出ているところを表している。年が明けて、「おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
日本人なら誰でも挨拶する。
元旦の来ない大晦日はないわけで、神霊界の構造もちゃんとそうなっている。それが「神仕組」、神様がこの世に実現させようという願いのシナリオだ。
ただ、人間というのは一つの緊迫感がないと目の前の遊情、安逸に流れてしまうので、天変地異がやって来るとか、大変な時代になるといって一生懸命にやらせるというのも一つの方法で、それが善なるものである場合もあるかも知れない。
しかし、本当の神様は、「みんなでよいお正月を迎えようじゃないか」と言っておられるのだ。
年末年始の過ごし方
新しい年を迎えるために、年末にはやらなければならないことがたくさんある。
色々準備が忙しくて、お師匠さんも走り出すというので十二月を師走という。
一年間お世話になった人には御歳暮を送ってお礼を言う。お金や物の貸し借りもきっちりと精算して、新しい年に持ち越さないようにしなければならない。
それから、大掃除だ。一年間たまった煤を隅々まで綺麗に払い、家中をピカピカにする。
そして、門松を立てる。マツという言霊の通り、神様を、お待ちするのだ。
松は常磐木(ときわぎ)と言って、寒い時も暖かい時も、春夏秋冬一年中色が変わらないエバーグリーンの木だ。
松を立てることには、一つの信仰心とか一つの道を志したら、コロコロ心を変えないで、どこまでも貫き通すという意味がある。
そのように、変わらない心で神様をお待ちするのだ。
松はまた、地球神霊界の主宰神、国常立之尊様の御魂が変化したものである。私が霊的に松を画くと、国常立之尊様の神境を凝結するので、これはもう単なる絵ではなくなり、燃えるような熱さを感じる神符にもなる。
また、仙人が松葉や松の実を常食するのも、霊的なパワーを吸収するためなのだ。
このように松の中には様々な真実が内包されている。しかるべき意味を込めて、松を立てて神様をお迎えする。元旦は一へ返り、一に戻って新たなる出発をするのだ。
天理教や大本教などの教派神道では、新しい時代を迎える「神仕組」を「立て替え、立て直し」と表現している。
これは元々建築用語なのだが、どういうわけかイエスも父親から大工さんの血を引いているので、やはり立て直しというようなことを言っている。
要するに、家の改修工事だから、トントントントンとやって建物は揺さぶられる。
しかし、これは揺さぶるために揺さぶっているのではなくて、新しく綺麗で住みやすい建物をつくるために前の建物を改装しているのだ。
いずれにしても、神様は「仕組み」を建てているわけで、私たちは今、新しい時代に入るための準備をしなくてはならない。
どういう準備をすればいいのか、ということで神様から示されたのが「神人合一の道」なのである。
世の中の役にたてる人
新しい時代を迎えるために、世の中の役に立ちたいと思っても、神人合一しているかいないかで、役に立ち方が天と地ほど違う。それはそうだ。
神様と一つになって動けば、神様の意をそのまま地上に映せるのだから。
第一章で、世の為人の為になるには、まず自分を磨くこと、という内容を書いた。しかし、いつまでたっても自分のことで目一杯、というような人では、真に世の為とか、人を救済することなどはできないということなのだ。
つまり、泳げない人や、やっと泳げる、というような人では、溺れている人を助けるなんてできない、というのと同じである。
もちろん、それでも志の大きさは、神様が評価して下さっているのだが。
ところで、救済にも二種類ある。
一つは「井戸の掛」といって、これは一般大衆向けのものだ。
こんこんと湧き出る井戸水が、あまねく人に行き渡るように、どんなに苦しんでいる人も一人一人救ってあげようという救済法。これは神人合一の時代が来るまでの神様の慈悲だ。
そして、もう一つが「鼎の掛」という。鼎とは、三本足の鉄の釜である。
例えば帝が、鼎に入れて神へお供え物をして天の功徳をいただく。その功徳を文部大臣に授ければ文部行政が良くなっていく、厚生大臣に授ければ厚生行政が良くなっていく。
こうして世の中が良くなっていくという、選ばれた人たちを通しての救済法だ。
選ばれた者とは、お金があるとか、社会的な地位や名誉があるということではない。生まれ変わり死に変わりを繰り返し、修業を積んだ御魂を「魂」と言う。
その御魂の持ち主が、新しい時代の役にたつ人なのだ。
そうした御魂の人は、前世で相当に高いレベルまで己を磨いている。
だから、生半可な宗教の教理を聞いても、「まあそんなものだろう」と軽く受け流す。既に前世で体得しているレベルに、ほど遠いからである。
それゆえに、宗教的なものにほとんど興味を示さない場合もある。
そんな人物が、ひとたび仕組に巡り会うと、前世の高い霊的素養がメキメキと現れて、ものすごい救済力を発揮する人になったりするのだ。
また逆に、宗教巡りを繰り返す人もいる。しかしこうした人は、いろいろな宗教に行っても、どこかもの足りなさを感じている。
本を読んだり、様々な霊能者さんの言葉を聞きながら、もっと本当のものがあるんじゃないかと思い、何か満たされないでいる。
あるいは、芸術をしていても、学問を深めても、日常生活の中でも、
「これだけじゃない。もっと本質的なものがあるはずだ」という魂の叫びがある。
それが魂だ。
吉田松陰の有名な言葉に「斯くすれば斯くなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」というものがある。
明治維新を支えてきたのは、皆そうした魂の持ち主であったのだ。
こうすれば、こうなるんだと分かってはいるのだけど、やむにやまれない何かの気持ちがある。このやむにやまれぬ求道心、それが夙魂なのだ。
あなたは夙魂の持ち主か?
魂の修業の過程とは一様のものではない。
前世、今世と善なるものをどこまでも貫き、修行を積んだ御魂もあるだろう。
あるいは、時代の要請で仕方なく悪業を積んで、一時地獄に落ちたけれど本来は善なる御魂というのもある。
神様の情状酌量で、地獄の蓋が開けられ、仕組みの役にたてようと最後にもう一度回復のチャンスを与えられたのだ。
そうして、天の時が来たから、新しい時代を開くためにこの世に生まれ変わって来たのである。
そうした御魂は、自分自身の使命をどこかで感じているはずだ。
例えば、私の本を読んだり、植松先生のテープを聞いて、何だかとても懐かしい感じがするとか、「これだ!」とピーンと来るものがあったとか。
本屋さんに別の人の本を買いに行ったのだけど、何故かパッと手が出て、たちばな出版の私の本を手にとってしまい、買ってしまったとか。
「守護霊のお告げで本を買いました」という方もいた。
いろいろな方がいるだろうけれど、すべては神様の御縁でつながっている。そういう風魂は守護霊さんがよく御存知だし、本人の御魂がよく知っているのだ。
だから私は、無理にすべての人に伝えたいとは思ってはいない。
世の中には、色々な考え方の尺度を持っている人がいるし、色々なやり方もあるだろう。だから、幾ら言っても、信じるか信じないかということになってしまう。
私は、この風魂に巡り会って、最高に素晴らしい本当の御神業ができればいいと考えている。
ただ、その人が風魂かどうかは、本人も気づいていない場合が多い。
だからあらゆる人に、何度かは声をかけてみる必要があるのだが、それでも全く興味を示さない方は、縁がなかったか、あるいは天の時機ではなかったということだ。
その場合、注意することがある。それは、この人は素晴らしい、と思う人が実は大したことがなく、こんな人はどう間違っても神仏組になんか縁はなさそうだという人が、意外に、一度神縁に触れると猛烈に目覚めたように世の為とガンバリ出すこともあるということである。
坂本龍馬などがそうであった。彼は酒びたりの生活をしていたのだが、勝海舟という縁によって、俄然、世の為人の為、日本の国の為に人が変わったように立ち上がったのだから。
このように縁と機が熟すまで、人の真価は分からない、ということである。
神人合一への道
さて、いかなる魂の持ち主でも、それで完成しているというわけではない。それは、神様のお役に立ち、新しい時代を担っていくべき人間の一つの条件なのであって、これからが本当の正念場だということを心得ていただきたい。
そのために植松先生のもとに「神人合一の道」が降ろされたのだ。
神人合一の道というと抽象的だが、具体的に言うと神人合一するための神法が降ろされたのである。
「神法」とは、また「心法」でもある。もっと簡単に言うと、「ばかをやめて賢くなれ」これもひとつの神法なのだ。
さて、これからその基本的なことを私自身の修業体験を交えてお伝えしていこうと思うのだが、その前に私と植松先生の役割分担について説明しておこう。
私の役目というのは、言わば九分九厘までなのである。
つまり私だけでは、あと一厘、本当に大事なものが抜けているのだ。
真面目に考えると虚しくなるので、考えないようにしているのだが、その、あと一厘のポイントを吸収するために、残りの九分九厘を準備するのが私のお役目なのだ。
それに対して、植松先生が教えるのはポイントばかりである。あらゆる宗教、あらゆる芸術、あらゆる道のポイント、だから一厘なのだ。
その一厘のポイントがどんなに素晴らしく偉大なものか、どのようにしてそれを吸収しなければいけないのかということを私が実践して、皆様にお伝えするというのが私の役割なのだ。
エジソンは「一%のひらめきと、九十九%の努力」というようなことを言ったが、一厘と九分九厘、それで全体が完成するのである。
本当の教えは生活の中にある
では、いよいよ神人合一への修業の実際をご説明しよう。とは言っても、山に入っ滝に打たれるとか、何日も断食をするというようなものではない。
神人合一の基礎は、すべて生活の中での修業にあるのだ。
本当の最高の素の神の教えは、一番身近な、平々凡々とした日常の中にこそある。
道元禅師はこれを「遍界いまだかつてこれを隠さず」という言葉で表現した。
宇宙の真髄はどこにあるのか。
「遍界いまだかつてこれを隠さず」御仏の真意はどこにあるのか。「遍界いまだかつてこれを隠さず」
つまり、真理とか真髄というものを天はいまだかつて隠したことがないのである。
道元禅師が七年間中国に渡って帰ってきた時、「道元さん。素晴らしいお師匠さんのもとで修行して、いいことを体得なさったでしょう。その成果を聞かせてくださいよ」と言うと、道元禅師は、「私は空手でいって、空手で帰ってきました」
「へぇー、拳法の修行もしたんですか?」
「そういう意味ではなくて、何も持たずに行って、何も持たずに帰ってきたのです。ただ、太陽が東から出て西に沈むということが分かりました。
眉毛眼上にあり、鼻は縦に長くて、眉毛は横に長いということが分かりました」
当たり前のことである。
そして、当たり前のことの中に素晴らしい真理があるということを、道元禅師は悟ったのだ。だから、中国に行く以前とはすべてを見る目が違う、奥の境地が違う。
そこに全ての真髄があるということを道元禅師は悟ったのである。
禅では「柳は緑、花は紅」ということを言うが、これも同じことだ。柳は緑のままで、森羅万象の全てを語っており、花は紅のままに森羅万象の全てを語っている。
そこに神髄を見るという、境地を語っているわけである。
素直に見れば真髄が分かる
「眉毛眼上にあり」あるいは「柳は緑、花は紅」というのは、虚心坦懐、つまり素直に物を見る中に、奥底を悟るということだろう。
植松先生は「素直」ということを、その字を分解して「主から糸が真っ直ぐに垂れているのだ」と説明している。
「素」というのは、自分自身の中の御魂であり、御本霊であり、あるいは宇宙の主神、素の神様である。
素の状態で物事を受け止めていけば「スーッ」と入っていく。すると気分も「スーッ」とする。それが素直ということである。
それを洗いするのが、「我」と「慢心」と「怠り」だ。これが神様が一番嫌いなものであり、本人の御魂を曇らせるものでもある。
素直になって行くための修業の一つが、禅宗でいう「脚下照顧」というものだ。
玄関口などに「物をそろえようね」ということで、この言葉が書いてある。足元を照らして顧みようという意味である。即ち、平々凡々とした日常のことをキチンとやる中に全てがあるということだ。
ある人が趙州禅師の門を叩いて、「仏法を深く勉強したいと思います。宇宙の真髄を会得したいと考えております。入門させていただけますか」とたずねた。そうして、
「ああ、いいよ」ということで弟子になった。
「お師匠さん。何を修行すればよろしゅうございますか」
すると禅師は、「お前は飯を食うか」と問うた。
「えっ、飯は食べますが」
「じゃあ、その後食器を洗え」
「はい。わかりました」ということで、毎日毎日洗いものをやらされる。床を磨かされる。そうした日々が来る日も来る日も続くのだ。
こんなことをして何になるんだろう、いつ宇宙の真髄は分かるんだろう、なんて考えていると、いきなり後ろからバシンと頭を叩かれて、「何だ今のは!我と慢心を捨てろ」と、どやしつけられる。
洗い物をしているお茶碗の中に、全ての真髄がある。何も考えずに、ただ磨く床の上に仏様の顔がある。
「眉毛眼上にあり」、「柳は緑、花は紅」。そしてお茶碗は入れ物。そうした境地になるための修業なのだが、一番簡単なことだから、なかなか分からないのだ。
さて、そうして洗い物ばかり毎日続けて、三年も過ぎたある日、相も変わらずゴシゴシと茶碗を洗っているとお師匠さんが来て、「あっ、お前、もうよろしい。その修業はできた」
その頃にはどうなっているかと言うと、ご飯を食べ終わったら、無意識に洗い物をしている。洗い物をしようと思わなくても自動的に手が動いているという状態になっているのだ。
もちろん「何の為にこんなことを」なんて思わない。宇宙の真髄はどうのとか、悟りたいという色気もなくなって、色即是空の世界で茶碗を洗っているのだ。
「三年間よくやったな。よし、今度は次の修行に移ろう」
「ありがとうございます。次はどういう修行をすればよろしゅうございますか」「うん。ところでお前は糞をたれるか」
「ええ、たれます」
「じゃあ、その周辺を綺麗にしなさい」
次は便所掃除というわけだ。
これを六年間。こんなことをして何になるのか、というところからまた始まって、きれいとか汚いとか、そういうことも感じなくなるぐらいまで自然にできるようになった時、その人も悟りを得たということだ。
生活に応用できなければ意味がない
私も会社をやめて、神仕組だ、神人合一だ、と大きな夢と理想を持って植松先生のところへ来て、さて何をしたかと言うと、一年間洗い物ばかりしていたのだ。
同じやるのだったら、リズミカルにということで、南無妙法蓮華経のリズムをとったり、時々南無阿弥陀仏にしたりしながら、ただひたすら洗い物に明け暮れていた。
自慢ではないが一度もお皿を割ったことはない。急須は割ったが。
洗濯はもう一人修業者がいたので、後は床掃除。そういう修業をして、それまで色々本で読んだ霊的なことや、分別の智恵で勉強したことを拭い去ること 90 がはじまりだったのだ。
分別の智恵とは、要するに顕在意識の知恵、頭で考えた観念の世界だ。その奥に本当の智恵がある。これが、御魂であり、潜在意識である。陽明学では良知と呼んでいる。
分別、人知を超えた全智全能の神様の英知がそこにあるのだ。
だから、分別の智恵をなくすために色々なことをする。瞑想もそうだろうし、あるいは発狂寸前までギターを弾くなどというのも同じことだ。
禅でも臨済宗では、問答でこの分別の智恵を叩き割っていく。また道元禅師の曹洞宗では、只管打座(しかんたざ)、ただひたすら座らんがために座ろうということで、分別を越えることをテーマとしている。
植松先生はこういう難しい表現は一切言わずに、「生活の中に全てがあるのですよ」とおっしゃる。
「日常生活の中で、あなたのお家、なたのお部屋、机の中を整理整頓しなさい。それが全ての修業なのですよ」
住まいにこそ、最高の素の神様がいらっしゃる。素が坐す居場所だから、「スマイ」なのだ。だから、私も一生懸命、洗い物をして床掃除をした。そして、今もそれが基本であることに変わりはない。
「神人合一の道というのは、生活に応用できなければ意味がない」というのが、植松先生の教えの根幹である。
「生活」とはいかなるものか。読んで字のごとく、生かして活用するということだ。学才や学識は本を読んだり勉強をすれば頭には入るけれど、それは全て分別の智恵だ。
神人合一はそんなことでは駄目、生活の智恵のない人間は何をやっても駄目だということで、洗い物、床掃除、草むしりなどの生活修業を一年間みっちりとやらせていただいたのである。
修業の眼目は中庸にある
さて、二年目より社会に出て実践せよ、ということで二十六歳の時に会社を作って、それからずっと今日まで続いている。
ご神業を続けながらの会社経営で、色々大変なこともあったが、一年間植松先生の元でやった生活修業は会社経営の中でも大変役に立っている。
出した物は片づける、整理整頓をする、ご飯を食べたら食器を洗う、汚いところは綺麗にする。
当たり前のことをキチンとやること。さらに機転をきかし、智恵を回して、臨機応変にやるというのは、またビジネスの基本でもあるのだ。
植松先生のお弟子さんで夕方頃に洗濯物を干す人がいて、「何故、太陽が出ている時に干さないの」
散々先生に叱られていたことがあった。
このように生活修業ができていない人は、仕事でも、売り上げを上げなければならない時に経理をしてみたり、月末の経理をしなければならない時に、他のことを始めてみたり、というようにタイミングがことごとくずれてしまうわけだ。
雅楽や能楽には「序破急」という演じ方の基本がある。早い時には早く、ゆっくりな時にはゆったりと動く。そして、何もしなくていい時は何もしない。
あるいは「中庸」という言葉があるが、これも本来は右にも左にも偏らず真ん中に行く、というような意味ではない。
「大学」「中庸」を勉強すれば分かるのだが、中庸の中とは、やはり早い時には早く、ゆっくりな時にはゆっくりと動く、状況に適応するという意味だ。だから、当たる(中)のである。
ゆっくりな時に急いで、急がなければいけない時にゆっくりしているのは「中」ではない。だから、外れるのだ。
「中庸の「庸」とは、「庸言これを慎み、庸行これを誠にす」、つまり庸言(平凡な言葉)と噺行(平凡な行い)にあらゆる修業の眼目があるということだ。
君子の道、天子の道は、日常生活の何げない言葉とさりげない仕種にその全てがある。どんなに深遠なことを悟っても、生活の中で実践でき、生活に応用できなければ、それを活かすことはできないのだ。
神人合一して万能の人になる
神人合一とは、人でありながら神様のようになることだ。
神様のようになるというのは、何でもできる万能の人になるということである。身につけたことを全部能力として開花させることができるようになるということだ。
その基本はポイントを押さえて、生活の中に実践活用していくこと。生活の英知を身につけること。その修業は脚下照顧して、自らの日常のたたずまい一つ一つを見直していくことである。
本で勉強して大層なことを言えるようになっても、超能力を身につけて未来のことが予言できても、背後霊が見えるようになっても駄目なのだ。
神様のお告げで、世の中がどうなるものでもない。全ては、実践にかかっているのである。
洗い物をしていて急須を割って叱られる。その時、余計なことを考えていた・・・・・・、それで余計なことを考えながら仕事をしてはいけないということが分かるのだ。
そうやって、叱られながら、体得していく。これが全て修業の基礎なのである。
植松先生は「親のしつけ、子どものしつけ」と言うが、私たち当初のお弟子は、そうやって、いつも有形無形のうちに植松先生に育てられてきた。
そしてやがて、狭い台所でも、ご飯を作りながら、同時に掃除をしながら、片づけ物もしているというようになっていく。ご飯が出来た時には、もうキッチンの拭き掃除も終わっている。流しもピカピカになっている。
「はい」と、ご飯を出して、一緒に食べながら、済んだなと思ったらおもむろに片づけだすが、もう最小限しか片づけものはないので、パッと済ませて、ちゃんと団に加わっている。
ご飯を作ればいいというものではないのだ。
仕込みに一時間、制作に一時間かかりっきりで、後片づけも一時間というようにやっていたのでは、生活の中で勉強する時間もない。
つまり、いかに段取りよく、いかにスピーディーに、いかにポイントを押さえ、いかに無駄がなく、いかに素材を活用していくのかということだ。
これが完璧になると、まさに神技であり、神様の英知と直結した状態にまで高められるのである。
そして、スピーディーに段取りよく物事をこなしていくためには、やはり整理整頓ということが基本になるのだ。
整理整頓が基本にして極意
企業でも優良なところは全て例外なく、この整理整頓が徹底しているようだ。
京セラ会長の稲森和夫さんは自社の工場を視察に行って、ちょっとでも塵が落ちていると機嫌が悪くなる。
だから、会長が見に来るというと工場の人たちは、慌てて散らかっているものを片づけるのだが、
「うーん、大体綺麗に整理されているナー。でも、こういう仕事をする人間は、大抵この下あたりに物を放りこんでいるものなんだよね」
稲森さんが作業台の下を覗くと、整理されてないものが出てくる。すると、「これは、整理整頓とは言わない。こんなことだから、生産の合理性も上がらないのだ」と雷が落ちる事になる。
私の会社にも「整理整頓」と張り紙が貼ってある。そして、「整理整頓、整理整頓」と、口がすっぱくなる程いつも言っているので、聞くほうは耳にタコができたり、イカができたり、墨を吐いたりしているようだ。
経営のトップの人が見ているのは、簡単なところなのだ。基本となる部分がしっかりとしていなければ、その上に何を乗せても、ぐらついて安定しない。結局行きつくところはそこになるのだ。
稲森さんは「生長の家」の勉強をしておられるらしいが、「中庸」の教えを見ても、やはりそこを最高の到達点としている。
道元禅師や趙州禅師の話を幾らお話ししても足りないくらい重要なことを、植松先生は簡単な言葉で語っておられるのだ。神法とはこうしたものなのである。
掃除から神業へ
整理整頓が大切だということは分かっていただけたと思う。
しかし掃除をするにしても、「散らかっていると、またお母さんがブーブー言うか掃除をしておこう」とか「社長がうるさいから、片づけておこう」、あるいは「本に書いてあったから整理しよう」という人がいるかも知れない。
それでは、ただ掃除をしているに過ぎない。禅宗では洗い物をすると言ったが、それは単なる洗い物ではないわけだ。
そうすることによって、自分の眠っている魂を呼び起こすこと、あるいは邪霊を入れないというためにも掃除をしてキレイにするのだということを再確認していただきたい。
「ここに、守護霊様、守護神様、そして素の神様に来ていただくためにお掃除をさせていただこう」
そう思えば、それは喜びとなるはずである。
これが神人合一の道の基礎なのだと思って、掃除をし、洗濯をし、洗い物をする。そうすれば、それは単なる掃除や洗濯や洗い物ではなく、「神業」なのだ。
そうした深い意味を理解してやっているかどうか、自分の魂は知っているし、守護霊さんも神様もご存知なのである。
これが同じ簡単なことでも、ただの掃除で終わるか、神業になるかの大きな境目となるのだ。
これをもう少し霊学的に説明すると、神様を迎える気持ちで日常の場を綺麗にしていると、自分の中の御本霊があきらかになり、上半身のあたりがさっぱりとした感じになって、魂が輝いて霊光を発し出すのである。
その霊光の輝きが守護霊を呼び、守護神を呼び、神気が凝結してくるのだ。そのような状態になれば、おのずと邪気や邪霊は近寄って来ない。
少なくとも常にそうした状態を保っているのでなければ、神人合一とは言えないだろう。
頭で考えて理念で分かっても、神様と一体になりたいと一生懸命お祈りしても、献しても何をしても、綺麗にして神様に来ていただくという基礎中の基礎ができていないと、邪霊の巣になってしまう危険がある。
これが大本教の出口王仁三郎などが当初行っていた鎮魂法帰神術(魂をしずめ、神を降ろして神掛かりになる行法)の問点でもある。
最高神と言うのは呼べば来るというものではない。呼んで来るのは、その人のレベルに合った霊だけなのである。
神様は綺麗好き
霊光の輝きが、邪気邪霊を追い払う。
だから私も、頭がこんがらがってどういうふうにしたらいいか分からなくなったり、変な霊が寄って来た時は、基本の基本にたちかえるようにしている。
窓を開けて突然掃除を始めたり、おもむろに机の引き出しの整理をしたり、洗い物を突如として始めたり。
それから、丹沢の水でコーヒーをたてたり、スイス風目玉焼きとか納豆梅じそ玉子巻きなどのお料理を作ったりするのだが、とにかく頭じゃなくて体を動かすことだ。
するとたちまち霊光が輝きだして、頭もスッキリと整理される。霊的にピシッとするのだ。これが儒学の真髄、禅宗の真髄、神法中の神法なのである。
その深い意味が分からないから、整理整頓といっても掃除洗濯といっても、なかな実践しない人が多いのだ。
運のいい人というのは、いいと思うことをすぐに実践するから、すぐにいい結果が出る。逆に運の悪い人というのは、同じことを聞いても「そうかなぁ」と言って、次の日になっても実行しない。
それでますます差が開いてしまうのだ。
神道では清潔主義ということを非常に重んじている。だから、神社の庭は綺麗に掃き清められている。玉砂利がいつも乱れたままになっているようなお寺や神社には、邪気がいることが多い。
これは、住まいには素の神様がいらっしゃるのだという植松先生の言葉そのままである。
つまり、神様は清潔好きだから、神様のいらっしゃるところは綺麗にしておかなければならないのだ。
神霊世界を見ても非常に綺麗である。ワールドメイトで開いている「星ツアー」(神霊のいる星に私がガイドして連れて行くという技の一つ)に行った人はお分かりだろうが、ゴミがゴチャゴチャ散らばっているようなところはまずない。すべてピシッと整頓されていて、建物も町並みも整然としている。
着るものにしても、ボロボロの服をまとっている神様というのはいない。
これが高級神霊界の実像であるのだから、やはりこの道は間違いないのである。
そして、星の世界がこうだということは、自分の周囲も同じようにすれば、神様は喜んで来てくださるということになる。宇宙からの強運を授かるコツである。
だから、自分の住んでいる住まい、仕事をしている人は職場、学生だったら自分の勉強部屋かばんの中、学校の机の中を、まず綺麗に整理してピカピカにすることだ。
ぞれが、邪気を追い払うことでもあるし、本人の魂を輝かせることでもあるし、守護霊様守護神様、そして素の神様に居心地良く来ていただくことにもなる。
それが神人合一のための修業の基礎の基礎なのである。
君子は本を務む
論語の中に「君子は本を務む」という有名な言葉がある。君子というものは全ての根源的な物事に対して、一生懸命努力するということである。
神人合一の基本は整理整頓にあるということを詳しく説明してきた。神様を迎えいれるためには清潔にしなければならない。それは神様が綺麗好きだからだ。
神様に好まれるためには、神様がしてほしいようにすることである。そして、自分自身が神様の好むことを好むようになれば、それは自分自身の魂の喜びにもなる。
あるいは、逆に私たちの魂が心から喜んでいる状態こそ、神様が一番望んでいることだと言うこともできる。
何故なら、人は元々神なのであり、本来私たちは神と同じ素質と能力を備え持っているからだ。
人に願いがあるように、神にも願いがある。神の人への願いとは
一、人よ、立派になって神人合してほしい。
一、多くの人を神人合させてほしい。
一、神の意を顕現させた弥勒の世を作ってほしい。
の三点である。
同時に、これは私たちの御魂の願いでもあるのだ。
そして、この願いを実現させるべく、三千年に渡って仕組まれた「神仕組」。幾多の聖人を世に送り、人類の霊性を上げてきたこの神のシナリオは、二十一世紀を目前に控えた今、いよいよ完成段階に近づいている。
そのためにこそ、素の神様は植松先生のもとに「神人合一の道」を降ろされたのだ。
そして私がそれを継承し、多くの夙魂を持つ、神縁ある方々と出会う中からワールドメイトというグループが作られ、神人合一の道をあまねく世に伝えようとしているのだ。
神様の御心は真・善・美、そして愛に満ちあふれている。だから私たちも道を志し、真善美そして愛を貫けば、深い感動に到達することができるのである。
そして、誰もが必ず、万能の神と同じようにあらゆる分野での能力を開発することが可能なのだ。
私たちが持てる能力を発揮して、神様のつくった世の中のために役立てていくことは、神様に一歩近づくことに他ならない。
だからこそその時、魂は喜びを感じ、神様もそれを喜び、応援してくださるのだ。
君子は本を務む…。
神人合一した先人である孔子は、地位や名誉や位というものを一切否定していない。ただ、それは君子が根源的なものを務めた結果、おのずから社会が評価し、天が与えるものだと言うのだ。それを天爵と言う。
霊界に入っても天爵というのはあって、天の爵位をいただいている人は、冠をつけていたり、首飾りをしていたり、立派な衣装をまとっていたりしている。
天徳に見合った地位、名誉、位というものがあの世(霊界)にもあるのである。
地位や名誉や位は、無理に得ようとして得られるものではない。会社でその実績によって昇給したり、抜擢されたりするのと同じことが、神霊界でも言えるのである。
だから「只今、只今」の努力を一生懸命することが大切なのだ。
人の願い、神の願い
音楽の世界で筒美京平さんという作曲家の名前は聞いたことがあると思う。大変有名な方で、NHKの「紅白歌合戦」で歌われる曲の三分の一ぐらいが筒美さんの作品であった時期が何年もあった程である。
歌謡曲から演歌、ポップス、ジャズ、ロック、クラシックに至るまで何でもこなし、色々なジャンルの音楽祭で、筒美さんの曲はいつもベスト3以内に入っている。
その筒美さんでさえ、なかなか新曲のアイデアが出ずに、悶々と過ごす日々があるそうだ。
しかし、どんなに閃きが出なくても、練習だけは必要だということで、どんな時でも一日最低十時間はピアノを弾いているということだ。
このように一流と言われる人でさえ、否、一流の人だからこそ、本を務めることを怠らない。まさに道に合致していると言えるだろう。
この本のテーマは「強運」ということだが、世間から見て「強運」を掴んでいると思える人、一流になっている人というのは、常に「只今」の努力を怠らず、本に務めている人である。
その志が、真・善・美そして愛という神様の御心にかなっていれば、守護霊様、神様は力を貸してくださる。
人の努力と神霊の応援、自力と他力が一つになるからこそ、運命は実り結実するのである。そして、地位や名誉や位は後からついて来るものなのだ。
だから、芸術でも宗教でも学問でも何でもいいのだ。その人の職業と天分にあわせて、世の中の役に立つための努力を続けていくことだ。
形ではない、神様は本質を見ていらっしゃる。その意味で神様はあくまで平等なのである。
「強運」を掴むこととは、神様の御心にあったことをすることであり、それが同時に神人合一の道なのだ。
本人の魂が真から喜び、実際に世の中がよくなり、神仕組が進んでいくこと。それが神様の真の願いなのである。
〈宇宙からの強運コーナーその四正しい”神だのみ”に使うマーク〉
「神界幸運ロゴ」パワーマークと、その使い方
このコーナーでは、「強運」を読まれた方にはおなじみの、パワーマークをご紹介しよう。巻頭の袋とじページをご覧いただきたい。未発表のものを含め、十六個のマークが収録されている。
このパワーマークの意味や使い方については、強運にも記した通りだが、ここでもう一度ふれておこう。
パワーマークというくらいだから、このマークにはパワーがこもっている。というよりも、むしろ「パワー受信装置」と言ったほうがいいだろう。
神霊星世界からの霊的波動をキャッチして発しているのが、これらのパワーマークなのだ。
幸運の星、強運の星、邪気を祓う星、金運を呼ぶ星・・・など、さまざまな星から地上にふりそそぐ波動を受信し、集め、強力に増幅して、私たちが感じる具体的なパワーとして地上にあらわしてくれるのだ。
<使い方>
これらのロゴは、星の世界に旅をしたときに、直接神霊から教えられたものを筆録したり、星の神霊界から直接降ろされたものであり、皆、ひととおり実験してパワーを確かめたものばかりである。
ただし、このパワーマークは、無作為にはたらくものではない。本文中にも「いいものは確信せよ」という内容を書いたが、パワーマークも同じだ。パワーを確信して用いれば、その信じる力をエネルギー源として、神霊界からのパワーがふりそそぐことになっている。
自分が今一番ほしいと思っているパワー発生のマークを見つけ出し、コピーをとってそれを机や壁などに張る。あるいは、持ち歩いてもよい。
そして、あまり騒々しくない静かな場所で、以下のようにしていただきたい。
①図の中心を、最低一分間は見続ける(霊的に鋭い人は、マークが金色、あるいは薄紫色にピカピカ光っているのが分かるだろう)。目の奥から自分の潜在意識の中に、マークが刻印されるようなイメージで見ればいいだろう。
②すでに、目的は達成された、という思いをつくる。一分間見続けたあと、パワーが 20 全身を包み、すでに願いは叶ったんだ、という意識を強く持つようにする。「すでに○○は成った!」と口に出すのもいいだろう。
③マークが意識の中で「生きている」と感じるようにする。つまり、神霊星世界のパワーが脈打っていることを信じる訳だ。
④その他、特別な使用方法があるパワーマークについては、その都度ただし書きがしてあるので、参照されたい。
⑤マークの用途と合致するパワーコール(「強運」参照)を唱え、本文の内容を実践すれば、強運作用は倍加される。
なお、天津祝詞は、神霊界に通じる祈り言葉の一つだが、これも現代流にいえばパワーコールの一種と言える。この「天津祝詞」を三~四回唱えて神気をみなぎらせた後、「神界幸運ロゴ」パワーマークを用いるのもいいだろう。
以上、五つのポイントを押さえながら、マークを活用していただきたい。もちろん、小さくコピーして身に付けてもいい。
くりかえすが、「このマークを通じて、本当に神霊星世界のパワーがきている。あふれている」と信じる力の強さに応じて、パワーの強弱は変化する。
強く信じれば、それだけ強く星の神霊界に感応し、強いパワーが得られるという訳だ。「本当かなぁ、信じられないなぁ」
などという思いでいくらマークを見続けても、時間の無駄になるだけだ。
また、このパワーを他人に向けて発射したりすることもできない。つまり、信じて行った人のみが得られるパワーなのである。さらに、悪用目的や遊び半分の気持ちで使うことも避けていただきたい。
「強運』でもふれたが、このパワーマークは、「本人の潜在意識を高め、神霊界の神気や波動をもたらすコンピュータ言語、あるいは合図だと思えばよい」と、アンドロメダ天界の神様から教えていただいた。
ということは、それだけの強力なパワーを持っているということだ。したがって、正しい心(われもよし、他人もよし、神霊界もよしという気持ち)で使用するならば、爆発的に運が開けるが、他人の不幸を願ったり、不純な目的のために使おうとしたりすれば、パワーは止まってしまうことだろう。
そればかりか、神霊界のものをおもちゃにしたということで、天罰や戒めが下ることになる。
また、当然のことながら、個人的に使用する分にはよいが、コピーして人に売ったり、勝手に商品化してお金もうけに使うことなどは御法度である。
パワーが強いだけに、この点だけは十分注意していただきたい。現実的にも、いくつかのマークは意匠・商標登録済みであり、それ以外のものもすべて申請中であるので、念のため。
なお、「強運」に紹介したロゴや、この中のいくつかのロゴマークについては、現(株)コスモワールドという会社にて、身体につける金、銀の神界幸運ロゴ製品を作っている。
銀は精神面、金は物質面で強い霊的作用をもたらす。希望者は左記へ問い合わせてみるか、カタログを請求されるのもいいだろう。すでに、私自身が実験してすごいパワーを体験している。
★(株)コスモワールド 0120-662-618
受付時間午前10時~午後6時(月曜日~金曜日祝日を除く)
