顔回の四勿主義に学べ
そのあたりのことは、「論語」にも書かれてある。
あるとき、孔子の弟子の顔回が、師に尋ねた。
「仁とは何ですか。いかにすれば仁を極めることができるのですか」
孔子は答えていった、
「己に克ちて礼にる。克己復礼こそが仁である」と。つまり、私欲を克服して社会の秩序と天地調和の道である礼に居ることだ。そうすれば何を為してもすべてが仁であり、人と世を生かすことができるだろう、という意味である。
顔回はさらに尋ねた。
「具体的にはどういうことですか」
「礼に非ざれば視ること勿れ。礼に非ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれば動くこと勿れ」
これを四主義というのだが、師の言葉を聞いた顔回はこれを固く守り、以後、四勿主義を貫いて、仁の道を成就した。そのことによって、「顔回、三月仁に違わず」とまでいわれたのである。三月とは三ヶ月のことではない、長い年月の意である。顔回は長い間、仁に違うことがなかった。そのため、孔子に次ぐ聖人ということで亜聖と呼ばれ、後世では復聖ともよばれたのである。
四勿主義なんとすばらしい教えであろうか。
ところで、この孔子の言葉、「礼に非ざれば・・・・・・」を読んで、何か思い出さないだろうか。実は、この四勿主義が「見ざる、いわざる、聞かざる」の三猿の原典となっているのである。
この場合は「礼に非ざれば」が抜けているが、「悪いことは見ないようにしましょう。悪いことはいわないようにしましょう。悪いことは聞かないようにしましょう」というのが本来の意味である。
ついでに四番目の「動く切れ」も解説しておこう。
「礼に合わないことに心を動かしてはいけない」という意味である。
ところで、この四勿主義を本来の観点からいい換えると、このようになる。
「道心これ微かにして、人心これ危うし」
この有名な言葉は、孔子が理想にしていた古代の理想社会の統率者、最高のまつりごとを行っていたとされる帝であり、聖人であり、大政治家でもあった堯が舜に伝えた、
政治と聖道修業の極意とされる文であったのだ。いわば、儒教の根源の根源となっている名文である。
ここでいう道心とは、求道心や仁というような意味で、人心とは人間の欲望のことである。道心は非常にかすかであるのに対し、人心、つまり欲望はあらゆる局面で不幸な危険を招く、というのがこの言葉の意味である。
人間の心の中では、常に道心と人心とが戦っている。善なる心と欲望とが戦っているのである。西洋風にいえば、良心と悪心、ジキルとハイドが戦っているともいえよう。また、中国ではこれを「魂魄」ということもある。よく、日本の幽霊談義で、「魂魄この世にとどまりてドロドロー、キャーッ!」というのがあるが、あの魂魄はこれだ。
それゆえ、顔回の四勿主義は非常に大切な教訓として聞くことができるのだ。
すなわち、「かすかで、ちょっと油断してしまうと消え入り、おおわれてしまいそうな神魂の発露である道心を温め、温めて大切に育てていこう。そうして、それらを台無しにしてしまう張本人であり、人生のあらゆる失敗と過ちの原因となる人欲、人智のことである人心を、なるべく小さくし、触発せず、道心が人心を完全に制圧し、統率しきって、わが身が仁そのものとなるまで、五倫五常の実感が最高にいい状態であるよう、意志の力を発揮して、自分の日常生活の中で四つのことに気をつけよう。最大限の努力をしよう」というのが「道心これ微かにして、人心これ危うし」という言葉と、四勿主義との深い関係と意義なのである。
ところで、この四勿主義にもまったく問題がないわけではない。四勿主義に徹するあまり、潔癖主義に陥って、あれも汚らわしい、これも汚らわしいということになってしまうと、人間としてやはり偏ってしまうのである。過剰に偏すれば、やはり問題であるのだ。
その点は十二分に注意する必要があろう。が、世の中には誘惑もまた多い。だから、四勿主義になるべく心を向けるように努めるべきなのである。
そうしなければ、いつしか誘惑に負け、結局、せっかくいい前世をもっていても、ほとんど出すことなく終わってしまうことになるのである。
至誠に徹すれば、必ず天運がやってくる
したがって、いい前世、いい潜在意識を引き出すには、四勿主義に心を向けると同時に、なるべくすばらしい霊的環境に身を置くことが大切なのである。
友人、配偶者、職業、読書、映画鑑賞――これらの一つひとつについて、できる限り、自分自身の御魂を善の方向で刺激するようなものを選ぶことが望まれるのだ。
一般に前世というと、即前世、つまり現世のすぐ前の前世が色濃く出てくるのだが、この四勿主義でよき宝を得るよう絶えず努力していくと、最もよかったときの前世が出てくるようになる。
それが前々世であるか前々々世であるかは、個々人によって異なる。
いずれにしても、只今只今、その人が接触している人間、仕事、そしてその人自身の考え方によって、いいときの前世が出るか、悪いときの前世が出るかが決まるのである。
だから、只今の一瞬一瞬が大切なのだ。いわば、只今只今は、善と悪との分水嶺であるわけだ。
そうして、善が出れば学問、芸術、信仰の要素が融合開花して、ますます才能が磨かれ、さらに、この無形の宝が、有形の現世的な宝を生み出していくのである。
このように考えると、いかに、一瞬一瞬の心の使い方、想念のもち方、あるいはまた、一瞬一瞬の言動と環境が大切であるか、おわかりいただけるであろう。
眠っている自分の才能を引き出すには、外からの善の刺激を一杯に受けるほかない。
そして、その才能を維持していくには、四勿主義に倣って、できる限り善なる環境に身を置き、同時に口と心と行いを正しくし、誠一筋に徹さねばならない。そのように自分自身をコントロールしていけば、目に見えざる前世の宝が、「化する働き」によって、有形の現世的な宝、たとえば財産、地位、名誉、健康などとなって現れる。
以上が、この章で述べた要約である。
いずれにせよ、自分のもてる能力、天賦の才を余すところなく発揮するには、心を誠にし、言葉を誠にし、行動を誠にして、より大善を目指していくより道がないのである。
そこに大天運と天祐神助がきて、その都度、その都度に遭遇する壁やいきづまりを、ポーンとみごとに越えさせてくれる妙力や神智が授かるのだ。それが、徳と才能以上のプラスアルファとなって、現世の幸福を支えてくれるようになる。これが神徳というものなのだ。
儒教や仏教がいうところの、天地の法則に合った、人間としてあるべき最高の努力が為され、しかも、誠が極まっていたならば、実在の神霊の力と働きが備わり、妙、玄、通、光、気の神徳が授かる。
これが大天運である他力運用の極意であり、神人合一の妙味妙境といえるものなのである。
第三章 前世の秘密と因縁からの脱却
悪因縁にどう立ち向かうか
私は、ここまで前世の問題を取り上げ、人間のいい面と明るい面とにスポットを当てて述べてきた。
人生を最も有意義に生きるには、いかにすればよいのか。天運に乗って生きるには、どうすればよいのか。眠れる才能を開花させるには、どういう工夫が必要か。これらを中心に最善のあり方を語ってきた。
だが、現実は、いい面や明るい面ばかりではない。悪い面、暗い面もあるのだ。
たとえば、第一章で述べた無形の宝の問題。先に私は、無形の宝を積んでいけば、「化する働き」によって、無形の宝は、有形の宝となると書いたが、これはあくまでも一般論。場合によっては、どんなに無形の宝を積んでいっても、有形の宝としての結実を自覚できないこともあるのだ。
なぜか。それは要するに、人それぞれに背負っている刧の絶対量が違うからである。
前世、あるいは前々世で学問、芸術、信仰を修め、同時に無形の宝をたくさん積んでいる人は、今世ほんの少しだけ無形の宝を積めば、すぐに有形の宝となって返ってくる。
これとは反対に、前世、前々世、前々々世で徳を積むどころか、悪徳の限りを尽くしていた人は、今世においてかなりの無形の宝を積んでも、財産や地位、名誉といった有形の宝となることはほとんどない。
「少しずつ、最悪の状態がよくなっているなあ」という実感を得られるくらいだろう。
なぜなら、徳というプラスと胡というマイナスを相殺勘定すると、刧のマイナス面が超過剰気味であって、少々、徳のプラスを補充しても、幸福のバランスシートは黒字にならないからだ。
たとえていうなら、累積赤字会社では、うれしいボーナスや楽しい株の配当をいただけないのと同じである。
ヒイヒイいいながら、資金繰りで苦しむ毎日を過ごさねばならないだろうが、それは誰のせいでもない。自分が前世で犯した、放漫人生経営のツケが回ってきているだけなのだ。
しかし、大丈夫。営々たる黒字徳積み化の努力をしているうちに、やがて膨大な累積赤字も解消されるのだ。
どんなに苦しくても、自殺さえしなければ、人生に倒産はないのである。
銀行だったら見離すかもしれないが、守護霊は絶対に見離さない。従業員だったら逃げ出すかもしれないが、背後霊団は最後にピンチのときを支えてくれるのだ。
だから、逃げ出さないで、苦境にあえぐ赤字自分会社”の再建に乗り出すべきなのである。
「不味因果」の奥義
さて、禅宗の用語に「不味因果」という言葉がある。読み下すとこれは、「因果を味まさず」ということになる。
どのような意味かというと、悟りを開いた人間は、前世の因縁因果に心を曇らされたり、自分の心霊を迷わすことはない。
だから、悟った人間はカルマや因果に関係なく、幸せな自分の境地を保って生きるのである、ということだ。
これとは別に、この「不昧因果」という言葉は、もうひとつの意味がある。それは次のような内容である。
善因善果、悪因悪果というが、これは前述したように、要するに前世で己がまいた種己が刈り取るということ。これは天地自然が定めた法則である。つまり、神が定めた法則なのだ。
であるならば、いくら信仰しているから、神様を信じているからといって、神ご自身が自ら定められた法則を変えて、罪を全部なくすなどということは絶対にない。
ならば、悪因悪果の不幸な境遇、恵まれない境遇、苦しい境遇があったとしてもそれを自ら嘆くことなく、かえって甘んじて受ける。
だが、そのことによって境地、心霊を曇らせることなく、明々として生き、好々として日々を送る、という意味である。こういった、大いなる悟り、徹底して天地の道に生きる境地を「不昧因果」というわけである。
これが因縁因果に対する正しい姿勢である。世の中には、因縁因果を語る人が多い。だが、そのほとんどは、「自分には深い因縁があるから、何をやっても…………」とか、「自分の家の因縁が深くて、それを考えると暗くなってしまう……」といった類の消極的なものにすぎない。
これでは因果、カルマという言葉は知っていても、その本質がわかっているとはいえない。ましてや、因縁、カルマをどう脱却し、乗り越えるかなど、わかるべくもない。
因縁を脱却するには、先に述べた「不昧因果」の姿勢で積極的に善根善行を為す以外にない。
この、因縁に対する大いなる覚悟、大いなる悟りの気持ちでいると、積極的に功徳を積んでいくようになる。天が、徳を積める機を与えてくれるのである。
また、その機を実行しなければ本当ではない。すると、少々悪因縁からきたる苦があっても全然気にならず、只今只今を積極的に精進できるのだ。
それが、前世のカルマの刈り取りにもなるし、来世へ向けての種まきともなるのである。
こうした因縁を乗り越えるプロセスは、魂の発展、向上のための最大の糧となる。
この糧を得て、「不昧因果」の魂はますます発展し、ますます輝きを増すのである。
このように、只今只今の自分、今現在の一瞬一瞬の自分の想念、考え方、行いが、前世の悪いものを消しもするし、来世のいいものを生み出しもするのである。
だから、只今只今が始めであり終わりなのである。善にするのも悪にするのも、幸せにするのも不幸にするのも、只今只今をどう生きるかによって決定されるのである。
その意味で、すべては人間の自由意志、自由選択にゆだねられているといえる。
とまれ、善因善果、悪因悪果に関しては、私たち人間には弁解の余地がないのだ。
すべては自分がまいた前世の種が実っているのだ。だから、覚悟して悪い実は刈り取るしかないのである。
今世刈り取らなければ、また生まれ変わって刈り取らなければならない。
それなら、今世のうちに刈り取ったほうがいい。若い青年時代に刈り取らなければ、年をとってから刈り取らなければならない。
それなら、若い元気なうちに覚悟を決めて刈り取ったほうがいい。しかも、明るく前向きで積極的に。
因果、カルマの本質が理解できたなら、こうなるはずである。このような姿勢にならなければウソである。
まあ、それは別として、ここまで述べて初めて前世を知るということの意義が明確になったのではないかと思う。世に、前世鑑定をする霊能者は多い。私もやる。
だが、その多くはただ単に、「あなたの前世は、いつの時代の誰々です」と、文字どおり鑑定するだけである。前世を知ることに対する心構えを説くわけでもなく、前世を知る意義も教えない。これではあまりにも空しい。
前世のどこが悪くてどこがよく、今世はどういうテーマをもって生まれてきたのか。そしてそこをどのように気をつければ幸せとなり、不幸を未然に防げるのか。そこまで具体的に示さなければ、はっきりいって、自分の前世などわからなくてもいいのだ。
自分の前世が誰であるのかがわかっても、生き方、考え方を明るく前向きにして、「不昧因果」の覚悟でより積極的に生き、現実の生活を改善しなかったならば、何の意味もないとしかいいようがない。
他力本願の誤り
いずれにせよ、これまで述べてきたことをじっくり読んで、因縁因果に対してどのように立ち向かったらよいかをよく学んでいただきたいと思う。
「不昧因果」の話が出たついでに、ここで、キリスト教と「南無阿弥陀仏」の信仰についてお話ししておこう。
先に私は、善因善果、悪因悪果の法則は天地自然、つまり神ご自身が定められたものだからどんなに神様を信仰しても、神様はこれを全面的に変えられることはない、神様でも罪を一挙になくすことはできない、と述べた。
これは厳然たる事実なのである。だが、これを真っこうから否定している誤解されやすい教えがある。
ほかならぬキリスト教と、法然、親鸞を開祖とする「南無阿弥陀仏」の信仰がそれである。
むろん、イエスや法然、親鸞は、真を得てよく理解しておられたのであるが、貧しき人々への「救い」というところを強調し過ぎたために、後世、教団化が進むにつれて、誤解を生むようになったのである。
まずはキリスト教から見ていこう。
キリスト教の教えを簡単にいい表すならば、イエスは私たちの身代わりに罪をあがなってくださいましたので、イエスを信じれば罪がゼロになります”ということになる。
これはいってみれば、神ご自身が定められた善因善果、悪因悪果の法則を、神ご自身自らが変更される、ということである。
その傾向が特に強いのはプロテスタントである。
プロテスタントの信仰はご存じのとおり、ルターの宗教改革によって始められたものだが、その信仰のポイントは、ヨハネ伝の、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」という言葉に要約される。
この言葉の意味は要するに、この世のありとあらゆる罪は、神のひとり子イエスを信じれば、その瞬間すべて清算されるのであり、そんなすばらしい方をこの世に遣わされたほど、神は人々と世の中を愛されているのである、ということだ。
カトリックのように教会に縛られる必要もない。因縁を切るために、とりたてて善を行うこともない。ただただ、イエスを信じればいいのである。信じた瞬間に、どんな罪人も天国へいけるというのである。
考えてみれば、こんな楽なことはない。信じさえすれば、罪が全部消えてしまうというのだから。
私は学生のころキリスト教にも関心があって、ちょくちょくプロテスタントやカトリックの教会へ通ったり、バイブルキャンプにも参加して徹底的にバイブルを研究したが、あるとき牧師と神学部教授にたずねてみた。
「イエス様を信じて罪が消えるなら、死ぬ一週間前ぐらいに信じたほうがいいと思います。若いうちは好き勝手なことをしていて、死ぬちょっと前になったらイエス様を信じたほうが、得ということになりませんか。そうしたほうが、生も充実するし、死も充実すると思いますが・・・・・・」
だが、この質問に対する明確な回答は得られなかった。ただ、
「何ということを質問するんだ。この青年は」という軽蔑のまなざしを向けられただけであった。要するに、この矛盾に関しては、キリスト教の聖職者でも、なかなか明確に答えられないのである。
はっきりいえば、これは現行のキリスト教一派の説き方の大きな間違いなのである。もちろん、すべてのキリスト教がそうなのではない。善行を重視したり、再生のことを認めているキリスト教一派もあるのである。
しかし、キリスト教であろうと何であろうと、善因善果、悪因悪果の法則は厳然としてあるのだ。
イエス・キリストをもってしても、この法則を変えることはできないのだ。
なぜなら、天地の法則は主神ご自身が定められたものだからである。主神ご自身が定めたものである限り、どんな聖者を信仰しようと決して全部変えることはできないのである。本人の改心によって、若干軽減されるのみである。
実は、クリスチャンだった霊を救霊するときには、イエス様やマリア様、エンゼル群を呼んできて精霊界へ送るわけだが、いつもこのところがネックになるのだ。
どんなに愛を説いても、あるいは、人を許せば自分が許されることを説いても、改心しようとしないし、むごい仕打ちをされた怨念は消えないのだ。
なぜなら、クリスチャンだった霊は、人間が再生転生することも知らないし、因果の法則も知らないことが多いからだ。
「神界からの神通力」でも書いたとおり、救霊するときには、因縁因果を語って改心させる必要があるのだが、それができないのだ。
天地は、平等なるがゆえに幸、不幸の運命を分けられる。前世に、他人にもっとひどい仕打ちをしているから、今世ひどい仕打ちをされる立場となるのである。
そうでなければ、なぜに、全智全能の神が生まれながら不幸ばかり続く人と、幸せばかりの人生を送る人とをおつくりになるのであろうか。
通常、クリスチャンの問題霊は、イエスに対する信仰は信仰としてしっかりもち、怨念は怨念として強くもっている場合が多い。
バイブルには「因果の法則はない」と否定している個所はない。また、逆に、「福いなるかな貧しき人々よ。汝ら今、前世で富におもねたる、悪因果の報いを受けたればなり」と肯定している個所もない。要するに、説かれていないだけなのである。
だから、バイブルをもって「因果の報い」を否定する論は成り立たないのであるが、クリスチャンの問題霊は、ただただ頑固であるというだけで、なかなか改心ができないのである。それだけ、強い怨念を解くことは難しいのだ。これには別のやり方があるが、詳細は次の機会にゆずりたい。
これがキリスト教の本質だ
実際のことをいえば、罪といっても、イエスのいっているのは、神が本来理想とする人としてのあり方から離れてしまった人間のことを、総体的に表現していうところの「原罪」のことである。
私が学生時代にいっていたのは、日常の過ちである罪のことなのである。
だから、先の「神はそのひとり子を…」という句をよく咀嚼すれば、その本当の文意は次のようになる。
「本来の神の道に、イエスを通して一日も早く復帰し、少しでも早く、父の如き愛で、あなたたちを見つめていてくれる神という存在があることを知りなさい。
そして、その本を忘れてしまったことを省みて、子供が従順に父親の愛を受け容れるように、神の愛を受け容れなさい。
そうすれば、神よりきたる愛と祝福と栄光とによって、あなたの魂は満たされ、幸せな気分になるでしょう。
そのほうが、神を知らず、神の愛を知らずにいたときよりは、心が幸せになり、人生に充実感と喜びが訪れるでしょう。それがあなたにとっては救いとなり、人生がより充実して豊かになり、幸せになれるはずです。
そして、それが極まれば、おのずから隣の人にも愛を施したくなるでしょう。そうです。それでいいのです。そうして、あなたがそうするように皆が為せば、社会がよくなり、不幸な人は少しずつなくなるでしょう。
まるで、霊界にある天国のあり様が地上に 実現されたようになるに違いありません。それが、あなたにとっても、人々にとっても 一番すばらしいことであるはずです。
実は、それが父親のような存在としてある神が、最も願っていることなのですよ。だから、我を張らず、頑固をやめて、素直に父親である神のみ旨のままになりなさい。
そのほうが、神にとっても人にとってもベターであり、あなたも真実、幸福になるでしょう。
どうか、イエスを通して口と心と行いによって神の親心を咀嚼してください。
私は父 親だから、心と魂を暗黒にして、不幸になっているあなたがたを見ていられないのです。
だから、私のひとり子のようにかわいがっている、純粋無垢で神に対しては絶対であるイエスを、世に遣わし、使命を与えてわが心を伝えているのだよ。
察しておくれ、かわいい人々よ。ほら、鏡の如く澄みきったイエスの瞳に映った私。
万物の創造主だよ。今や、私がイエスかイエスが私かわからないくらいに、神と人とが 合一しているでしょう。だから、イエスを見る者は、われを見る者と等しいのです」
バイブルとイエスの生涯を通して、神様が私たちに伝えたかった真意をくみとれば、 この一文も生き生きとして理解できるのである。
ところが、後世のキリスト教の一派 が、罪人だと脅かしておいて、イエスを信じれば罪は消えるという交換条件的な表現をしたことによって、誤解をきたすことになったのである。
三位一体説もわかるが、三位一体して神に帰一すべきなのに、救い主イエスに帰一し てしまったところが問題なのである。主神教ならまだしも、イエス教になってしまったのだ。
だから、イエスをとるか、マホメットをとるか、はたまた釈迦をとるかという、教派争いの種を生むことになったのである。
新約聖書のポイントは、罪が消えるということではない。神は律法ではなく愛なのだ、ということがポイントなのである。
あくまで、神様の愛に復せば自分が幸せになり、渇いた魂が救われるということなのである。
そして、それを物心両面から広げていけば、地上に天国ができる。そうしてできた天国は、神と人とがひとつになって平和で幸せに暮らしていた、昔のエデンの園と同じなのだ。
親とふるさとを忘れていた自分を悔い改めて、本来の霊的自分の姿に戻ろう――これが、新約聖書の真にいわんとするところなのである。
それはちょうど、克己復礼して仁に帰一し、昔の堯舜の時代の理想社会へ戻そう、天人一体となった理想社会をこの地上に築いて、人々を幸せにし、天の御心である道に従おうとした孔子と、何ら異なるところがない。
教団の過ちと本来あるべき信仰姿勢
にもかかわらず、イエスを信じれば罪がすべて消えると、過剰に強調されて伝えられてきたのはなぜか。
それはすなわち、後世の人々がその教線拡大を図るために、スコラ哲学を初めとするギリシャ、ローマ哲学を駆使して理論武装し、いたずらに“違い”と”優越性”を誇示してきたからである。
しかし、”違い” “優越性”にどれほどの価値があろう。ちょっとした表現の違いをとりあげて、教理の主張をするよりは、等しく共通しているところをとりあげて、仲よく協調するほうがより常識的であり、普遍的な愛であるという神のみ旨に合っていると思うのだが……。
思えば、カトリックもプロテスタントも、ともにキリスト教である。両者ともバイブルを尊敬し、イエスをあがめ、愛を第一にしているはずである。
にもかかわらず、今日、たとえ一部であるにせよ、アイルランドに見られるように、両者互いに憎み合い、殺し合っているのはどういうことか。
私は聖書をくまなく読んでみた。しかし、どこを探してみても、「後世、私を信じ、右の頬を打たれたら左の頬を出し、汝の敵を愛せよということを信じている者同士が、その派閥やセクトのために互いに争い、ときには爆弾を投げて殺し合うことがあっても仕方がない。
長い間には、そういうこともあるだろうから、私の愛によって許してあげよう。さあ、もっとどんどん、爆弾を投げて殺し合ってごらん」という個所はなかった。
いや、あろうはずがないのである。イエスは、イエスを信じる人々が仲よくし、協力し合うことを望んでいるのである。
どのセクトも「私たちの立場は」というが、神様にしてみれば、「人類をもれなく救済したいという私の立場はどうなっているのだ。誰がやってくださるのか……」と思っておられるのだ。私たちの立場より、神様の普遍の愛の立場をこそ、優先すべきではないか。
実は私と同じ思いのクリスチャンも多い。セクト間の協調を図っているグループもたくさんあるのだ。
また、一般的にプロテスタントは、その誕生の当時、腐敗していたカトリックに対する反動で、善行を為すことよりイエスとバイブルを絶対的に信じることを尊重する、信仰至上主義になっているのだが、善行を尊重し実践しているプロテスタントのグループも多い。
だから、キリスト教といっても多種多様のグループがあり、その中には良識と見識と咀嚼力のある方も少なくないといえる。
そして、その人たちは、立派に真実のイエスと神の道をまっとうしておられるのである。
それゆえ、何かと分裂志向の強いキリスト教においても、「無形なものにこそ真実がある」ということがわかり、同時に、建て物よりもセクト、セクトよりもバイブル、バイブルや教理よりもイエス、イエスよりも彼の魂と心底、イエスの魂と心底よりも神、神よりも無形の神の大御心と普遍的愛の輝きというように、より無形なる真実の宝ものに心の中心を置いていけば、一切の矛盾はなくなる。
さらに、そういう信仰姿勢は、神やイエスを正しく掌握して協力し、人類を平和と幸福に導く大原動力となるのである。これが、最もご神意と多くの人々の願いにかなっていることであるといえよう。
誤解しやすい阿弥陀信仰
とにかく、真に罪を清算するには、自分自身が苦しむか、努力して徳を積んでいくより方法がないのである。
誰かを信じたりお題目を唱えれば、その瞬間に因縁がすべて清算するということは絶対にあり得ないのだ。
その意味で、「南無阿弥陀仏」の信仰も誤解を受けやすい信仰だといえる。この信仰は「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、どんな悪人であろうと人非人であろうと、ひとり残らず浄土へ渡れると説く。届く、
「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」
単純皮相にとらえたら、この考えが、神霊世界の法則から見て間違っていることは、もはや言を待たないであろう。
事実、一向系、すなわち浄土信仰の歴史をたどれば、多くの人々が誤解して問題となっている。
しかし、親鸞が真にいいたかったのは、そんな皮相な意味ではない、もっと深い洞察と慈悲に満ちた真を得ていたのである。
親鸞と「南無阿弥陀仏」信仰を理解するには、「歎異抄」から入ったら誤解するであろう。
あくまでも、親鸞の生命が宿る『教行信証」から入らねばならない。四十数年もの間、推敲に推敲を重ねた結果書き著されたこの本に、彼の真髄が眠っている。
鎌倉時代、迫害の中に生きた過激な宗教家・親鸞が、下層民に対してまでも、すべてこれを救うというテーマで選ばざるを得なかった「南無阿弥陀仏」の法とは何か。
紙幅の都合上、紹介できないのが残念であるが、真実のところは、読者諸氏のご研鑽にゆだねたい。
因縁因果の法則と除霊(救霊)の関係
ここで、除霊(救霊)についてもお話ししておきたいと思う。
私はこれまで長い間にわたって神霊世界を研究してきた。そして、そのかたわら、多くの皆さんの除霊もさせていただいた。
そうした体験に基づいて、神霊世界の真相を解明する書物を、昭和六一年暮れに刊行した。それがすなわち、記念すべき第一作「神界からの神通力」と「神霊界」である。
この本では、怨念霊や生霊、動物霊、水子霊などによって引き起こされる霊障の実体と、その除霊の方法を詳しく解説した。それまでどこにも発表していなかった除霊の方法を、かなり突っ込んで述べてみた。
そのためもあってか、出版後の反響は想像していた以上であった。
私の連絡所の電話は、朝早くから夜遅くまで鳴りっ放し。そのいずれもが、「どうか、除霊をしていただけませんでしょうか」というものであった。
その人たちの気持ちは痛いほどわかる。霊障に苦しんであちこちの病院を巡り、宗教団体を巡り、霊能者を巡っても、それでもダメだった人が、「神界からの神通力」を読み、私のところに一縷の望みを託して、連絡してきたのである。
その切実な気持ちはひしひしと私の心に伝わってくる。
それゆえ私は、真心込めて除霊をさせていただいた。
だが、ここでお断りしておきたいことがある。それは、除霊をしたからといって、すべての霊障が解消とは限らないということである。
なぜ、こんなことをいうのかというと、除霊を受ければすべてが解決すると思い込んでいる人があまりにも多いからである。
すでに述べたように、善因善果、悪因悪果の法則は天地自然の法則、神様の法則であり、それゆえにこそ、この法則はどんなことがあっても変えられないのである。
だから、神様の愛、大愛といっても、大難を小難に、小難を無難にという具合に、因縁因果を縮小するのが精一杯。
すべてを清算するというのは、絶対に不可能なことであり、不平等なことなのである。
実は、その大難を小難に、小難を無難に、というもののひとつが、ほかならぬ除霊なのである。だから、除霊したからといっても、すべてよくなるということはないのだ。
「神界からの神通力」でも書いておいたが、先祖霊の場合、地獄界にいるならば中有霊界の下段へ、中有霊界の下段にいるなら中段へといった具合に、依頼者の誠と改心の度合に応じて霊層を数ランク、アップするのが精一杯なのである。
しかし、それでもビックリするほどよくなったと実感する人は多い。特に、数百年来のたたり霊軍団や変死の先祖霊、土地や屋敷の因縁霊などが救済されると、人が変わったように爽快で元気になる場合が多いのだ。
だが、数百年来人を現実に苦しめて財を成しあるいは多大な苦を人々に与え続けた結果できた家伝の、または地獄界の祖霊たちが、わずかなことで救われ、完全で長久な子々孫々へと続く繁栄が約束されることはない。
もしそれができるなら、神様は何と不平等なのだといわざるを得ない。
災いが最小限に止まり、改善に向かう転機が訪れるのが除霊(救霊)であり、あとは当人の努力次第なのである。
私も、つい情にほだされて通力を出し過ぎ、救済し過ぎたことによって、何度も神様から戒められた。
「依頼者の誠と愛、苦労と努力に相応して神を取り次ぎ、人々を助けるのが救済の真である」と。
おわかりいただけたであろうか。除霊(救霊)といっても、決してすべてを解決できるものではないのである。
だから私は、除霊を受けたあとのすべてを改善させる積極的想念と努力のあり方のほうが大切であるといい、できるなら日々の生活の中で鋭意努力して、自分の手で因縁を切る心構えが必要である、と述べたのである。
命がけで求めるなど、よほどの場合は別であるが……。
大いなる覚悟で悪因縁を乗り越えよう
さて、話をその因縁の切り方に戻そう。
私たちは、因縁を清算するには「不昧因果」の心構えで、大いなる覚悟と悟りの境地を持して、より明るく、より前向きに、より喜んで因縁に立ち向かっていかねばならないことを学んだ。
では、その「不昧因果」を貫き通していくとどうなるか。答えは簡単、いつしか、最もよかったときの前世の記憶が出てきて、それが学問、芸術、信仰の才能となり、さらには有形の宝を生み出すようになるのである。
前にも述べたように、因縁というものは、あくまでも傾向として人生に現れてくるのである。財運はいいのだが、どういうわけだか体が弱い。
体は強いのだが、どういうわけだか縁遠い。結婚運はいいのだが、財運がない。このように、何らかの傾向として現れるのである。
非常に罪が重い場合は家族が死に絶えてしまうなど、極めて厳しい形で現れることも珍しくないが、これはあくまでも例外中の例外。一般的には、どうも財運に恵まれないとか、どうも子宝に恵まれないというように、一つの傾向で現われてくるのである。
つまり、自分自身が前世で金銭的に人を苦しめたり、あるいは先祖が同様のことをしていると、現世生まれ変わってきてからは、自分自身がお金で苦しむようになるわけだ。
だがこの場合、たとえ前世においてお金で人を苦しめていたとしても、並行して真理を深く探求し、学問の分野でそれなりのものを修得していたならば、それはそれで天に徳として積まれているのである。
だから、非常に優秀な頭脳を誇りながら、お金で苦労したり、その逆に、たいして優秀な頭脳の持ち主とはいえないが金銭運に恵まれるというようなケースが現実に生じるわけである。
善因善果、悪因悪果とひと口にいうが、その枕がれた因果の糸は非常に複雑にからまっていて、決して簡単には語れないのである。
しかし、その傾向をどのように受け止め、どのように越えるかは本人次第だ。たとえば、「女に狂って失敗する」という傾向があったとする。
この場合、その傾向を、家伝とわが前世の因縁と悟って「持戒」し、「女房以外の女性と浮気はしない。絶対にしない」と決心する。そうして、死ぬまで貫き通したら因縁はみごとに切れる。
それどころか、誘惑に打ち勝って貫き通す姿勢を、神々も守護霊もよく承知されるので、もともとある善なる因縁を何倍にも開花させてくださるのである。
これが悪因を断ち切って、善なる因縁を開花させる、只今の努力の例である。
話が横道にそれたが、私がいいたいことは要するに、「不昧因果」の心構えで無形の宝を積み続けていくならば、悪因縁はどんどん小さくなり、代わってよき因縁が花開く。
合わせてよき環境と人との出会いにも恵まれることで前世のよい記憶が出てくるようになる。そのことによって、才能開花や豊かな気持ちの日々が続いて、幸福になれるというわけである。
だから、くどいようだが、因縁に負けたり打ちひしがれたりせず、大いなる覚悟でこれを乗り越えて、今日と只今の自分の改善に全力を尽くすべきなのである。
只今、只今が善悪正邪の分水嶺
これまで、前世と因縁因果の関係について述べてきたが、最後に、この章の内容を要約しておきたい。
まず、人間は何のために生まれてくるのか。ひと言でいえば魂の向上のためであり、錬磨のためである。そして神とひとつになって、功徳を世に発揮するためである。
神様のような人間になるため、神人合一するために、何万年という歴史を通して、再生転生をくり返しているのである。
だから、私たちの人生は前世、今世、来世と連綿と続いているのであり、その中で絶えず御魂をレベルアップさせるべく、修業していかなければならないのである。
また、別の視点に立てばこうもいえる。
私たちはいつか必ず死ぬ。死んで肉体を脱いで霊界へいく。だが、誰もが同じ霊界にいくわけではない。
霊界では霊的ランクがピシッと決まっていて、個々人の御魂のレベルに合ったところへいくことになる。
だから天国へいく人もいれば、地獄へいく人もいる。天国へいく人は無上の幸福感に包まれるが、地獄へいく人はたまらない。
地獄へ堕ちると、刑罰を受け続けなければならないとされているからだ。この刑罰も一種の修業なのだが、あまりの苦痛のため、地獄界に堕ちた人は何とか生まれ変わろうと努力する。
現世に生まれ変わったほうが早く修業ができるからである。
一方、天国界は光と喜びに満ちあふれている。その喜びの度合は、現世のそれの比ではない。それくらい明るくて歓喜に満ち満ちているのだ。
しかし、その天国界にもいくつかのランクがあって、ひとつの霊層に入ると御魂がそのレベルでストップしてしまい、それ以上に上がることがなかなかできなくなる。
そこで、求道心と向上心のある人は、もう一度生まれ変わって修業しようとするわけである。
中有霊界にいる人についても同様である。
いずれにせよ、肉体をもって生まれ変わってくることは苦しみではあるが、この苦しみがあるからこそ、魂に、より高いレベルの情報と記憶が焼きつけられるのだ。
それが、真理と徳が極まる善なるものであれば、魂の色彩や霊光も輝きを増し、生きても死んでも功と幸を味わうことができるのである。
そうして、再生転生をくり返しながら、御魂を少しずつレベルアップさせ、人間は神とひとつの境域に入っていくのである。
以上が、人間の生まれてくる理由である。何の理由もなく、ただ単に再生転生するわけではないのである。
ところで、肉体をもって生まれ変わってきた人間は、この現世で具体的に何をするのか。これまで述べてきたとおり、魂を向上させ、世の中に神徳と功を立てるのであるが、そうしながら同時に、前世のカルマを刈り取り、来世に向けての善根の種まきをするのである。
では、どうすればそれができるのか。よき人物、よき書物、よき環境とのふれ合いを大切にしながら、只今只今を至誠で貫き、一瞬一瞬を真剣に生きることである。
そして、もし仮に只今が、よくない人物とよくない環境にふれざるを得ないのであれば、カルマを反省して、まず愚痴をこぼさないことである。
次に、より悪いケースと比較することで感謝の情をもち、とりあえず安寧を得ることだ。そして、いよいよ勇猛心をふり立てて、よき人物と出会い、よき環境と為すべく、最大の努力を払うべきなのである。
そうすれば、前世のカルマ、家代々に伝わる悪因縁が消えていき、よき前世の記憶が現れて、前世で積んだ学問、芸術、信仰の徳が開花して有形の幸福の宝を生む。
こうして、生まれ変わってきた天命を果たしながら、ますます幸せになっていくのである。逆に、そういう改善の尽力のないまま、悪しき人、悪しき書物、悪しき環境にふれていると、悪い前世の記憶が現れ、ますます悪い自分の側面が前に出てくる。そうして、最悪の人生の方向へと転がり落ちてしまうのである。こうなっては、来世、また下のほうからやり直さなければならない。
このあたりをとらえて、天台智顗も鋭く指摘している。すなわち、「一念三千」の教えがこれである。
人間の一念によって三千大世界に感応でき、この一念が善なるものであれば神人合一の道が一歩進み、仏様や聖人にもなれる。逆に、この一念が「我れよし」の我欲と怠慢を中心にしたものであれば、地獄界に堕ちる。
これが「一念三千」の教えだが、まさしくそのとおり。一念は善悪正邪の分水嶺。この一念が、まさに勝負なのだ。
念とは、今の心だ。今の心から今の口と行いが出てきて、全人生が決まってしまうのである。
だから、一念から始めて今をよく生きれば、過去の失敗も未来の善の種となる。だから只今只今が勝負というわけである。
神道の基本思想である「中今」の精神は、ここでこそ、有意義なる人生の糧となるのだ。
苦しみ、悲しみを前向きに明るくとらえ、一念一念を至誠で貫き、積極的に無形の宝、目に見えざる徳を積む。
こうすることによって霊層がアップし、また一歩神人合一の道が前進する。生まれ変わり死に変わりしながら、ますます御魂が天上界へと向上していくのだ。これこそが人生の本義なのである。
そして、そのために最も合理的で有効であり、因果律を乗り越えて最高の人生をまっとうする秘訣が、只今に生きるという惟神の道の原点思想なのであった。
だいぶ要約が長くなってしまったが、これで人生の意義が明確になったことと思う。
