第二章 霊界の基礎を学ぶ ── 質問解答形式による探究
地獄界のありさま
では、質問をどうぞ。
「地獄界に落ちている霊を救い上げるときに、はじめから一気に上げるのは難しいので、霊界に一度引き上げる、というお話をお聞きしました。では、地獄界の上に霊界があるのですか」
まず、地獄界のことからお話ししましょう。
地獄界は、非常に複雑になっています。具体的には、第一地獄、第二地獄、第三地獄の三つに大別され、さらに、それが八十段くらいに分かれています。
したがって、地獄界から霊を引き上げるのは容易なことではありません。
地獄界の一番下を、根底の国といいます。最近、若い人の間で、あいつはネクラだ、という言葉を耳にします。最初にいいはじめたのは、タモリだったと思いますが、あれは、ここから来ているのです。
根が暗いというのは、おそらくその人が、この根底の国、つまり一番下の最底地獄を見てきた、ということでしょう。
けんそう地獄というのがあります。けんかの喧に、そうぞうしいの噪と書きます。たとえば、土地や財産をめぐって、いつも争いごとをしている人がいます。
財産をできるだけ多く確保するために、他人とけんかばかりしている人です。そのような争いごとが絶えない人は、やがて、この喧噪地獄に入ることになります。
これは、ヒモでしばられて、周囲から罵倒をあびせられ、緊迫した状態がずっと続く、という地獄です。争闘地獄ともいいます。
地獄界は、下へ行けば行くほど極寒になり、真暗になります。暖かい空気は上へ、冷たい空気は下へ、つまり、暖房や冷房と同じです。
心が明るい人は上へ、逆に暗い人は下へ行くのです。こういってはなんですが、暗い人というのは、自分のことしか考えないエゴイストが多い。
口と腹とは裏腹に、といいますが、お金や地位や名誉だけを求めて生きている人が多いんです。人間、誰でも、いいことをしたら心が明るくなるでしょう。すがすがしい感じが残りますよね。霊界も同じなのです。
そうした心の状態に比例して、第一地獄、第二地獄、第三地獄という段階がつくられているのです。そのなかには、焦熱地獄、釜茹で地獄、血の池地獄などがあります。
血の池地獄。これは、女性関係の派手な人が入る地獄です。たくさんの女性と関係をもちすぎると、血の池にドボン、というわけです。
糞だめ地獄、というのもあります。たとえばある庄屋さんが、大勢の人を酷使して、糞のような形で労働させる。可能な限りの搾取をしたとする。
その報いが、この地獄です。首から下はすっぽり、汚い語ですが、糞まみれになります。
心中者の行く霊界はどこか
仏教には、畜生道、餓鬼道、修羅道などの六道というのがあります。どうしようもなく辛いのは、焦熱地獄です。
よく知られている釜茹で地獄や、針の山地獄も、これに入ります。もちろん、極寒地獄も発狂する程辛いものです。
また、怠け地獄というのもあります。自分は働かずに人さまばかり働かせるような、財産や地位のある人は、怠けの罪を受けねばなりません。
荷物を下から上へと運んでいき、上りきったところで、“ご苦労さん”とコロンと落とす。暑くて、とても服など着ていられません。
これは煉獄といい、ダンテの『神曲』にも出てきます。それを三百年も五百年も続けるのですから、参ってしまいますよね。
それと似ていますが、一カ所をぐるぐる回りながら、いつまでも引き臼を引かされる、というのもあります。全くの単純労働ですね。
賽の河原も同じです。積木や石ころをコツコツと積む。積み上げたところで、ガラガラと崩されてしまいます。そして、またはじめから積み直すのです。
人生でも、よくそうしたことがありますね。あと一歩で成功する、というときに、ガラッとやられてしまう。辛いですよね。
今、姓名判断が流行していますね。ここで用いられる陰陽とは偶数が陰で、奇数が陽です。ところが、他はすべて偶数なのに、端に一個だけ奇数が入っている、というのがあります。
これが姓名判断でいう「巻き返し」です。いいところまでいくと、すべて駄目になって、また巻き返して最初からやり直し、というものです。ちょっと横道にそれました。では、質問をどうぞ。
「たとえば、心中した霊はどうなるのですか」
真っ裸になって、二人がきちんとくっついているんです。霊界でも同じことです。しかし、どこへでもその姿で行かなくてはならない。
シャム双生児のようですね。二人は、はずかしくてたまりません。だから、皆さん、心中だけはやめましょう。文学のなかでだけ楽しみましょう。
地獄界は、このように複雑になっています。お話しすればきりがありませんが、つまり、本人に自覚がないと霊を引き上げるのはそれだけ難しい、ということです。
霊界というのは、心の奥の部分における自覚と意識に相応していて、地獄に行く人は、マイナス想念が根深く凝結しているからなのです。
天の八衢と中有界の話
では、中有界の話に移りましょう。
神道では天の八衢といいますが、これが、霊界でいう中有界です。ここでは、おおむねごく普通の生活が営まれています。ここも何段階かに分かれていますが、総じて、人間の生活に似かよっています。
本ばかり書いている人もいれば、農業を営む人もいます。死んで生まれ変わるとはいっても、生前に明るい心で生きた人は、やはり、そうした世界に感応できるのです。
ところが、御先祖さまがよいところにいるといいのですが、苦しいところにいると、困ったことになります。たとえば、借金に苦しむ人というのは、そういう祖先の血が小さい頃からついてまわっているのです。
地獄の三段目くらいのところにいる人が、除霊を願い出たとしましょう。この場合、牢屋から出られることは出られます。しかし、せいぜい第一地獄まで、よくて中有です。
中有というところは、とくに幸せというわけでもなく、それほど不幸でもないところです。地獄と違って、体は苦しくありません。地獄の三段目にいるよりは、ずっと楽なところです。
たとえば、冤罪だった免田事件。免田栄さんは、刑務所から出られたからといって、地位や名誉が与えられるわけではありません。
しかし、何千万円の補償金でアパートを経営したり、銀行の利息で食べていくことはできます。
社会生活上とくに幸せになったわけではないが、三十年間も刑務所のなかで無罪を叫び続けていた状態よりは、ずっと幸せです。
免田さんが、今日食べた大根の味が最高だったと、両親の墓の前で報告している姿が、新聞に載っていました。無罪になっただけで幸せだ、ということでしょう。
免田さんの今の生活は、中有界の生活に似ているかもしれません。そして、その上には天国があるのですが。
「一つ質問があります。中有界では、他人のために労働するのですか」
皆さんの生活と同じです。他人のために働く人もいれば、サラリーマンのような人もいます。さまざまですね。
中有界の人たちは、三百年くらいで、また生まれ変わります。前に申し上げました極寒地獄は、何千年も続きます。六百年で許される地獄もあります。
ところで、この中有界という言葉は、幽界のことをいう場合もありますが、私のいうのは、天国と地獄の中間に位置するという意味で、中有界と言うことにしています。
閻魔大王出現す天国と地獄の分岐点
最初からお話ししますと、死んで三十年たってから行くのが、幽界です。人間が死ぬと、最初の五十日間は、幽界にいて家のまわりをうろうろとさまよいます。
焼き場にもどって棺桶に近づいてみたり、そのなかに入ったりします。
普通、四十九日といいますが、五十日を過ぎると、こうした天の八衢で二十五年から三十年過ごすわけです。一周忌、三周忌、十七回忌などには、現実界にもどって交流することが許されます。
現実界で供養してもらい、食べ物を与えられたりします。
天の八衢は、一般に、野原からです。その野原をどこまでも歩いていくと、さらさらと流れる川にたどり着きます。これが、三途の川です。
その川のそばには、古い小屋が建っています。そこには、脱衣ばばあというおばあさんがいるのです。この脱衣ばばあに服を脱がされて、白衣に着替えるわけです。
死の旅路に向けた、死の装束です。いやだと拒んでも、無理に脱がされて、白い衣を着せられます。死の旅路に向かって行くんだ、という意志のある人は、自分で衣を着ることもあります。
そして、いよいよ、三途の川を渡ります。そして、川によって染められる衣の色によって、裁かれるのです。
徳の高い人信仰の深い人は紫に、罪状があった人は黒赤やピンクに、真心のあった人は青や紫に、お金に対して欲が深かった人はこげ茶や黒、あるいは、こげ茶に黒のふちのついた汚い格好になります。
そこへ鬼がやってきて、連れていきます。
ここでは、ごまかしができません。すべてお見通しです。潜在意識が知っていますから、他心通が効いてしまうわけです。御神業をなさっていれば、お分かりですね。
鬼は、紫は紫のほうへ、赤は赤のほうへと、色によって分けていきます。類は友を呼ぶと申しますが、やはり、似たような性格の人は似たような人のほうへ行くのです。
音楽家は音楽家同士、絵描きは絵描き同士です。しかし、同じ音楽でもロックありクラシックあり、細かく分かれていますね。それと同様、上品なものと下品なものに分類されるのです。
同じスーツでも、きちんと着ている人とラフに着ている人がいます。そのラフのなかにも、キリッとしたものとだらしないものがある。
こうして分類された後に、閻魔大王に会うわけです。
閻魔大王は、本当は、善行を施した人に対してすばらしい顔をして見えます。したがって、生前に徳を積んだ人、つまり紫色の装束をした人には、まるで仏様のように見えます。
「あなたは生前、徳をたくさん積み、仏心が篤くて、お寺を修理したり、病気の人を助けたり、ボランティア活動をしたり、陰徳が高かったね。
つまり、プラスの得点だ。とんぼとかヘビをあやめて殺した分のマイナス点を考えても、合計するとやはりプラスになる。どうぞ、天国に行って楽しい生活をしてください。
さらに、そこで勉強してください。ご苦労さま」というわけで、天国へ行くのです。
ところが、こげ茶とか黒の人には、大王は、口が裂けた恐い顔に見えるのです。悪いことをした人間は、遠山の金さんのように罪業をすべて暴露され、地獄へと送り出されます。
この世では器用に逃げまわっていた人間が、あの世では監獄行き、というわけです。しかも、懲役何年とはっきり決められています。現実界における裁判システムと全く同じなのです。
善因善果、悪因悪果霊界法則の基本
私たちの日常生活では、こうはいきません。善因善果、悪因悪果ということにはなりにくいのです。
ところが、肉体のない、精神だけの世界では、因果の法則が適確に働きます。昔は、現実界でもそのような教育がゆきとどいてましたが……。
よくないことをして霊界に入りますと、人によってさまざまですが、無辺地獄といいますが、永遠無窮の無期懲役があるのです。
冷蔵庫にかん詰にされるなど、よくまあこれだけ考えた、というような責め方がたくさんあります。
苦しいとか痛いという感情は現実界では慣れてしばらくすると消えてゆきますが、それが何度も再生され繰り返されながら八百年も続くのですから、これは辛いのです。
霊界は肉体がなく神経だけという感じで、苦楽の感覚が激烈にくるのです。
逆に、天国はどうでしょう。ここでは、幸せな感情が何十倍、何百倍にもなります。圧倒的な幸福感に支配されるのです。
さて、地獄における八百年は、実は、例えば三百年に縮めることが可能です。自分の子孫が、徳を積めばいいのです。
神仏に寄付したり、神社を修復したり、人をたくさん助けたり、一身を神様の前にささげたりします。そうすると、その子孫の功績が、地獄に届きます。
おまえの子孫はよくやった、という報告が入るのです。そして、千八百年のところを三百年にする、という恩恵が施されます。
子孫が何人の人間を救ったかによって、八月十四日の決算では、たとえば、極寒の重労働千八百年が六百年に変更されます。さらに十二月の決算では、アップリケをつくることで許してやる、という具合ですね。
つまり、子孫が徳を積むだけ、恩赦があるのです。したがって、恩赦を受けた人は、子孫に心から感謝しなくてはならない、といわれるのです。
さて、ここで、改心の話をいたしましょう。
改心する、といっても、気持ちだけ変えても仕方ありません。タヌキなどは、何百回も気持ちを変えられますからね。口と心と行いがすべて変化したとき、はじめて改心したといえるのです。
その人に改心が見られると、神様がごらんになり、幽界の長を呼んで恩赦の許可を与えます。やがて鬼が来て、その人を別のところへ連れてゆくわけです。
今まで不幸ばかりが続いていたのが、自然と家族全員が幸せになり、病気もしなくなった、というのは、こうしたことが原因です。
こういう例があります。
いくら子どもを産んでも、皆二十歳ほどで早死にしてしまう。本人も、生まれたときから骨の病いで、歩行困難でした。
親類縁者も、それを隠していました。思い悩んで手術をしたところ、片方の足だけが伸びて、かえって悪化してしまったそうです。
その人の祖先を見てみましたところ、刑務所のなかで八本の鎖につながれていて、正座したまま動きません。部屋は真っ暗です。
神様がその鎖を一本一本取りはずしてみると、長い間の正座のために、足がだるまのようになって腐っていたのです。
それが、本人に影響を与えていたのです。
立つのも困難、坐るのも困難、じっとしていても足が痛みます。一種の生まれ変わりともいえるほど同化しているのですが、修業している祖先の霊がついていたのです。
なぜ、このように祖先がつくのかと申しますと、一つは、祖先があがないをするためです。もう一つは、その人にとってそれが試練となって、御魂の修業をするからです。
天の試練がそのような形であらわれるのでしょう。そして、それが家代々の因縁の精算ともなるのです。神様はこうして一石三鳥をねらいます。
しかし、こう思いませんか。同じ人間なのに、なぜ、自分のところにやってくるのだろう、と。もっともですね。
でも、よく考えてください。決して理由のないことではないのです。前世にそのようなことをしているから、生まれ変わってやってくるのです。
天国への道
この人の場合でも、神様が祖先の足を除霊によって治してやりました。そして、船に乗せて地獄から救い出してやったのです。
すると、どうでしょう。当の本人は、なんだかとても気持ちがよくなり、立てるような感じがする、といい出しました。立ってごらんなさい、というと、すっくと立つではありませんか。
立っても坐っても少しも痛みがないというのです。本人は、もう驚きと喜びで胸がいっぱいでした。いつもは一人では乗れないタクシーに乗って、帰って行きました。
神様が地獄から引き上げてくださったのですね。まさに、恩赦を施されたのです。
さて、天国の話に移りましょう。
天国は、第三天国、第二天国、第一天国に分かれています。そして仏教でいう胎蔵界金剛界ですね。霊界には陰と陽があります。
陰にあたるのが胎蔵界、陽にあたる金剛界です。天国の陰の部分を別名「霊国」とも呼びます。
第三天国は、世のため人のために尽くした人が行くところです。そこには、太陽があります。
ここには、自分の功績を自慢するような人はおりません。ただ感謝、感謝の心で生きています。たいへん慎み深い人たちで、もちろん争ったりはしません。
小さな村をつくって住んでいます。たとえば天理教ですが、実際には、本当の意味をよく分かり実践できた人たちが集まって天理教というグループをつくっているのです。
いいことをした人、たとえば、社会事業や慈善事業をした人たちが、ここで平和に暮らしています。
金剛界というのは、別名天国の上部ともいいますが、一言でいえば仏教界の最高天国であり、愛と善がまさった人たちの住むところです。とても深い愛情をもっている人の国です。
また、神をどこまでも信じる心、信を尊びます。そして、智です。神を信じ、智のある人、たとえば、お釈迦さまとかソクラテスとか、孔子さまなどですね。
彼らは陰の天国、つまり胎蔵界の要素の多い最奥霊国にいるのです。もちろん、全天国フリーパスで行ける方々です。
第二天国は、貧しくても、世のため人のために尽くした人の国です。汚い服を着ていてもいい、地位や名誉などなくてもいい、ただ神を信じたい、そのような人たちです。
体施、物施、法施の徳を積んだ人々ですね。すぐれた教育をして人を助けたり、肉体奉仕したり、土地や田畑を寄付したりした人たちです。
神社の、たとえば伊勢神宮の鳥居の修復に使ってくださいと、お金を寄付したりします。
つまり、神の道の極まった形として、愛や善を行った人々が、第二天国へ行くのです。慈善事業を行っただけの人が集まる第三天国よりも、一段上に位置します。
第一天国、第二天国、第三天国
第一天国は、人間界最高の天国です。信仰心に驚く、しかも財産、地位、名誉をもった人が、ここへ行くのです。
しかも、たくさんのお金を世の中に還元する人々です。神様を信じ、財産や地位、名誉を世のために善用します。
したがって、この第一天国に住むには、信仰心だけでは足りません。信仰心とともに社会的地位、名誉、富がそろってはじめて、第一天国へ行けるのです。
お金の使い方に徳の感じられるような人、内面的にも外面的にも立派な人に、資格があるのです。
ここへ行ける人は、限られています。人数は多くありません。そして、西洋人はあまりいないようです。
逆に、第二天国に行く人に、西洋人が多いということです。というのは、第一天国には、東洋人のなかでも、天命に従い、無欲で、富を善用する人が多いからでしょう。以上をまとめてみましょう。
概して第三天国は、信仰心は薄くても、世のため人のために尽くした人。
第二天国は、信仰一途に生きた人。
そして第一天国は、その両方を兼ね備えた人が行くところだ、といえるでしょう。
霊界のしくみと胎蔵界曼荼羅
天国のなかにも、地獄と同じように、レベルがあります。八十一段階とか、十六段階に分かれている、といわれます。
一段違うと、光がまぶしくて目が開けていられない、というほどの差異があるようです。
また、先ほど申し上げましたように、自分の生き方に信念をもち、勉強し、知恵をそなえ、神を信じ、世の中に貢献した人が胎蔵界的要素の霊界である霊国に行きます。
お釈迦様など高徳のお坊さんに多いようです。そして、このような人々は社会的な指導者としての地位を与えられていますから、仏教、道教、キリスト教や儒教を勉強しています。
学問があり、信念をもってものごとを見ています。
この胎蔵界には、九百くらいの仏様がいらっしゃいます。曼荼羅を見ていますと、人間界とよく似ていることがわかります。霊国の上には、仏教でいう弥勒菩薩様などのいる、兜率界に似た世界があります。
このなかがさらに区分されていて、仏教界と、キリスト教界があります。仏教的な人は仏教グループに、キリスト教的な人はキリスト教グループへと、それぞれ分類されています。
そして、これらの人々は、天国の中段界や、第三天国を訪れることができるのです。たとえば日曜日には、教会でお話を聞くために、霊国から賢い人たちがやってきます。
たとえば、キリスト教伝道師のアルフレッド・マルーゲビッチさん。皆さんにキリスト教の教えを、とやってくるのです。
これらの上層部の人々は、やはりそれなりに研鑽を積み、信と知の両方向から神様のことを学んでいます。そうした伝道師がいるわけです。
彼らのうちの誰がどこへ行くかは、その人の心の境地と勉強の内容によって、神様が決めます。道院の老祖様の教えも、とても高度なものであり、この最高霊国の教えだと思います。
スウェーデンボルクなどは、霊国を天国よりやや低いとして定義していますが、おそらく、太陽神界を天国の上位、月の神霊界を霊国と定義したのでありましょう。
私のいう最高霊国は、北極神霊界のことであり、太陽神霊界の上部にあるのが当然となります。北辰は太極、太陽は万徳顕現の慈極だからです。
神様の愛は全次元にふりそそぐ―五次元神界の光明
ところで、この現実界は三次元です。裏表の関係ですね。天国と地獄もそうです。四次元の世界の最高限が、この最高霊国なのです。
さらに五次元となりますと、人の姿として生まれてきたことのない、いわゆる純粋な神様の世界です。
四次元の世界は人間界ですから、キリスト教におけるエンジェルのように、一度人として生まれてきた人が多いのです。
そして、大まかにいえば、日本の神霊界は縦型になっています。ヨーロッパの場合は、逆に横に広がっていることが多いですね。
つまり、東洋はタテ社会、西洋はヨコ社会という大原則が、ここにも当てはまるわけです。東洋の場合は、縦方向にいくつものランクがあるんですね。
いい例が、インドのカースト制度です。何千というランクがあるそうです。インドの神界も、同じように縦社会になっています。
五次元の話に戻りましょう。産土、八幡様、天照様、大国主様など、形のある神様がいらっしゃるのが、五次元の神界です。
その国常立の神様や天照大御神様は、太陽神界のすべての働きの総称であり、生命を守る神として、国治立之尊が太陽神界の日之若宮というところにいらっしゃいます。
わかみやという地名が多いのは、このためでしょう。宇佐八幡、諏訪などにもありますね。さて、その神様の周囲には、姫が何人もお仕えになっており、神様は光り輝いています。
その光が、すなわち、神様の愛なのです。この光明は、神様の愛と善のあらわれであり、すべての次元にふりそそいでいるのです。
私たちが太陽光線を浴びるのと同じです。天皇陛下、皇后陛下がいらっしゃるのと同じですね。
そして、光を放つ神様のそばには、お付人がいます。真心と愛に満ちた人が、おそばについているわけです。
同じ神様でも、四次元の世界に顕現して、信と知という陰の要素〟が目立ってくる場合。
人生とは、世の中とは、音楽とは。音楽のなかでも、ジャズにおけるメロディラインとは何か、というように、密度の高い知恵の部分が強調されてきます。
これが、いわゆる北辰の太乙老人様です。おそらく、国常立の神様が太極に現われたのだと思います。
先ほど申し上げた、丸ハゲのマルーゲビッチのように、いわば中国的な、理屈と理論の発達した世界です。
たとえば、ブラーフマンはいくつもの顔をもっており、神様としての最高の知恵と英知をそなえています。
彼らの話を熱心に聞いたのが、お釈迦さまや孔子や老子などで、いってみれば弟子ですね。話を霊的によく聞き、それぞれ個性的な解釈をして、悟りの境地に達したのです。
そして、それを下の者に伝えました。あやしげな新興宗教でなく、正しい宇宙創造神を信じている教主は、その教団の指導者として、神の道を伝えているわけです。
しかし、それらの教えの根源は一つのものから出ており、教主らのレベルでは、宗派の争いやもめごとはなく、皆、一様に人類の平和と幸福、及び救済を願っておられるのです。
死後の世界と守護霊様について
神様は、場合に応じてお姿を変えていらっしゃいます。私たちが、会社へは背広で行き、泳ぎに行くのにラフな格好をするのと同じです。
衣冠装束で海へ泳ぎに行けば、頭がおかしいと思われますよね。神様も、その場その場に合わせて変身するのです。
たとえば、大日如来様にも、二つのお姿があります。金剛界の大日如来様と、胎蔵界の大日如来様です。
先ほど申し上げましたように、天国にも、愛と善にすぐれた人と、信と知にすぐれた人がいます。自分に合った世界に住んでいるわけです。
さて、三途の川について先ほどお話ししましたが、一途の川というのもあるのです。
三途の川は、人間界と獄界と天国の分かれ目でしたね。一途の川というのは、一直線 74 の道なのです。たとえば、最高の善行を施した人は、そのまますぐに、天国へ行きます。
逆に、極悪非道の人間は、重い罪を背負って地獄界へ直行便で落とされます。臨終の時、手足をもがきながら「ウアー」といって死んで行く人は、この便です。なるべくなら、上のほうへ行きたいものですが……。
上に行く人というのは、やはり、はじめから使命をもって生まれてきます。自分の使命を、生前に知りつくしています。
そして、死後、前の場所へ帰ることになるわけです。これこそ、まさに私たちの目指す理想の世界ではありませんか。
さて、それでは、質問をどうぞ。
「アメリカのロックフェラーは、どのあたりにいるのでしょう」
キリスト教関係の、第二霊国の三段目あたりでしょうね。財閥として富を善用した大人物ですが、西洋人でここへ行くのは少ないのです。
彼は、どちらかというと指導者としての功績が強かったようです。人の目を盗む要素が当初からあったのが玉にきずで、第一には登れていないのです。
今の質問のように、特定の人の死後をたずねる人がいます。そして質問に答えたところ、そうか、やはり死ぬときあのようだったから、そうなったのだと、安心なさるようですね。
今度、皆さんのお友達を見て差し上げましょう。では、次の人、どうぞ。
「善と悪の区別のつかない赤ちゃんが死んだら、どうなるのですか」
赤ちゃんは何も罪を犯していませんので、天国へ行くのです。修業ができていないので最高ではありませんが、惑星霊界で言えば、水子、乳児は火星天国、幼児は水星天国です。実際、私は行って見てきました。
保育園のようなところで、早く再生しますね。養育係は他にもいろいろ居ますが、やさしい子安地蔵さんが、そこへ導いてくれるのです。
トンボがいたり、ミルクがあったり、お菓子があったりしますよ。もちろん、オモチャもあります。お地蔵さんがガラガラを回して、“この子はミルクをのまないで、困ったものだなんて嘆いていますよ。
その様子を目に浮かべると、保育園の創始者はお地蔵さんじゃないか、なんて考えますね。
お地蔵さんが救ってくれるのは、赤ちゃんだけではありません。生前、仏も慈悲も理解できなかった、無学文盲に近い人々などすべての諸々霊です。
「たとえばおじいさんが死んだら、あの世でもやはりおじいさんなのですか」
そんなことはありません。天国では、男性が三十歳、女性は十六歳から二十歳くらいです。若々しい顔をしていますよ。
たとえば、神様なら少名彦之尊様は、十六歳くらいの童顔です。なかにはおじいさんの神様もいますが、大抵は、目がパッチリとしたいい顔をしています。
「守護霊さんというのは、どのあたりの人たちなのですか」
中有界以上、第三天国をはじめとする方々ですね。霊界で勉強して四、五百年以上たったご先祖さんが多いですね。
「あまり上のほうの人は、守護霊さんにならないのですか」
いや、そんなことはありません。最高の霊国の方が守護霊となった場合、学問や宗教関係に強くなりますね。霊界のいい場所にいるご霊様が人として生まれるときは、第一第二霊国にいる祖先の方が、守護霊となっています。
そして、十二、三歳までが一区切りとなってその方が導いてくれます。そして、本来、もっと上のほうまで向上する人の場合は、よりふさわしい守護霊様に交代されます。
高いレベルから生まれ変った人ならば、本人よりさらに上のランクの方が守護し、導いていきます。そうした秩序やルール、けじめが、霊界にははっきりと存在するのです。
それでは、質問をどうぞ。
「たとえば、若い頃はとても頑固な人が、年をとるにしたがって丸くなってゆくということがありますね。その場合も、守護霊さんが交代しているのですか」
時期にもよりますが、交代するでしょう。たとえば、自分はこれから神に生きるのだ、とかく決心した場合、それが実現できるような方に交代するわけです。
本人の意志の変化にしたがって、二、三回交代します。なかには十回も二十回も人生観を前向きに変える人がいますが、このような人には、はじめから高いレベルの守護霊さんがつきます。
また、お父さんやおじいさんの徳で、五回くらいが限度ですが、高級霊に交代する人もいますね。
「人が死ぬと、その人についている守護霊さん、守護神さんは、どうなるのでしょう」
守護霊さん、守護神さんも、本来は霊界へ導かれるはずです。そして、彼らによって三十年間の訓練を受けるのです。
死後の世界で、その人間を上へと導くのは、神道系では産土の神様です。産土の神様の御霊が導いて、人は生まれるのです。おおむね、お腹のなかで二、三ヶ月たつと、魂が宿ります。
それで、赤ちゃんが生まれるとお礼の意味をこめてお宮参りをするのです。この産土の神様が、前世今世の御縁のある御霊を引き合わせて、結婚という形に導いてくださいます。
そして、この産土の神様が死後も導いてくださいます。
感謝の気持ちは形にあらわそう
皆さん、今日も昨日も、自分自身を通して神様がすばらしいことを教えてくれた、という感謝の気持ちを忘れないでください。
お励ましいただいてありがとうございましたと、他人に、神様に、感謝の心を向けてください。それを神様がお受け取りになり、何らかの縁、何らかの形として、何倍にもしてお返しくださるのです。
大切なのは、形にたくして誠の心をのせるということです。
たとえば、神前にそなえる御玉串も、見に料金を払うような気持ちでしたものは、8 その玉串に宿る気は暗くていやな感じがするものです。
今日はこれこれこういうことがあったと、お玉串を通して神様に誠で接し、それに対して神様が何倍もの幸せを与えてくださるというのが自然です。
形にたくす、ということは、それほど大切なのです。ものごとの本質は、自然に外側にあらわれます。何かものを見たら心眼でさわってみれば、お札でも、ハガキでも、同じようによく分かります。
たとえばハガキなら、手にもって落としてみると、気で上に上がるものと下に落ちるものがあるのです。文章にまごころのエネルギーを入れていないと、下に落ちてしまうわけです。
思ってごらんなさい。太宰府へ島流しになった道真公が書いた、天皇様へ無罪を訴える手紙は、フワーッと天高く飛んだというではありませんか。
御玉串も、さわるとストンと落ちる人と、フワーッと上る人がいます。上るのは光っていて、落ちるのは暗いのです。
本当にありがたかったという敬虔な気持ちを神様に向けている人と、どこかの易者さんに見てもらったときに出す気を向ける人とはまったく違います。
そのようなときは、ご無礼をしてしまってどうもすみませんと、主神に代わって謝るのです。形にあらわして心を伝えるわけです。
仏壇だって、形に左右されるのです。大きければいいというものではありません。
富山県の皆さんは、一般に、仏壇が大きすぎるようですが。大きすぎると御先祖さんが苦しがりますし、小さすぎると御先祖さんがはずかしい思いをします。
分相応がいいのです。富山では、最低結婚式に七種類もの引出物を出すそうですが、これはあきらかに多すぎますよね。引出物屋は繁盛するでしょうが。
お墓も、同じことです。大きすぎると、霊界の御先祖様がはずかしい思いをします。仏壇一つとってみても、まつり方の法則があるのです。
三十年以上たった人は、何々家先祖の霊位のなかに入れ、三十年未満の人の場合は、先祖代々の位牌よりやや小さなお位牌をきちんとつくるのです。
そうしておけば、家のなかがうまくまとまります。家族関係の悪化も、仏壇と関係がある場合が多い。
位置が悪かったり、大きすぎたり、小さすぎたり。そうしたことへの先祖の戒告が、家族関係の悪化としてあらわれているので
また、ご主人のほうにも仏壇があるけれども、奥様の実家のほうにはない場合。両方一緒にご主人のほうへ入れればよいかというと、これは大きな問題です。
いわば、奥様の先祖は、居候のようなもので、奥様やその祖先霊はどうしても肩身の狭い思いをします。これが、家庭の危機につながるのです。
世のご主人方、どうか、奥様のこんな苦しみを理解してあげてください。たった仏壇を別々にして別の部屋におまつりするという簡単な礼節だけで、先祖はずい分楽になり、奥様も霊的に落ち着くのです。
仏壇の正しいまつり方は、家庭円満の基礎となるのですから、儀式ばったり、形式主義であるとお考えにならないで下さい。また、「要は気持ちだ」と割り切らないで下さい。
霊界では、気持ちは形にあらわして、霊界ルールに適合させないと、真である、誠であるとみなして下さらないからです。
まごころを込めて形や行いに表わすのが本当です。これを顕幽一致せる斎祀といいます。心を極めて祈るのが幽祭。
形を極めて祭るのが顕祭。いずれも片手落ちです。心は自ら形に表われ、形に心を託して祈る。これが顕幽一致せる正しい祭り方であり、神様に対する人の誠ある姿勢であると申せましょう。
