第三章 運・不運の基本を学ぶ
修業の道と芸術性
私は毎週土曜日、もう延べ二千時間以上の講義をしております。
今日まで講義をした分でも、百冊分ぐらいの本ではとうてい書き切れないぐらいの内容がありますし、さらにまた日々の中で研鑽したものを次々と講義しているわけです。
神様というのは「大天運」にも書きましたように、もちろんお姿そのままに降りていらっしゃる場合もありますが、無限絶対無始無終無限絶対で始めなく終わりなくというのが神様です。
それに対して私たち人間は有限ではありますが、その有限な私たちが魂を磨いて澄み切れば澄み切るほど全知全能の神様に近くなるし、大いなる器をつくればつくるほど、大いなる功徳を世に表現することができる。
高くなればなるほど次元の高い内容がわか自在性をもって多面的な個性と才能を磨けば磨くほど、神様の持つ多面性を表現することができる。結局、私たちに合った分しか神様というのはわからないわけですし、表現できないわけです。
ですから、少しでも広く、大きく、豊かに、繊細に、華麗に、多面的にというふうに魂を錬磨していくというのも修業の一つでありまして、ただ苦しいのをこらえているというのだけが修業ではありません。
いかに優美に、いかに優雅に、いかに繊細にというのも大事な修業の一つであります。
その意味で、人はそれぞれの持っている個性と錬磨したものがありますので、それなりに無限絶対無始無終の目に見えない世界、文字や言葉でいえないような神気や霊妙さや法則、真理といったものをそれぞれの立場で表現すればいいわけであります。
これは、私の周囲にいる弟子に限ったことではありません。皆様方も、皆様方の職場の中や家庭の中で、才能や個性をそれぞれに表現してくださればいいわけであります。
ところで、玄妙の神気が現われ出ずる太極と、いろいろな神々様が出てらっしゃる太極、そして私たちの御魂が外に現われるという霊的磁場が植松先生に降りていますから、いろいろな神様、いろいろな人材が集まりまして、最高のご神業が日に日に高く、広くできるのであります。
植松先生が座ってらっしゃるだけで、上から神柱が立っております。私も何度か見ました。
みんなが集まって夜遅くまでご神業しているとき、ふと、うとうととするときに、植松先生の頭上に金のひもが降りていて、ずっと上のほうまで通っているのを見たことがあります。
先生って、神様の操り人形なのか。あの糸はどこから来ているんだろうと思って見ると、天界から来ているのです。私のは何本もありまして、本当に操り人形のそれであります。
パントマイムのロバート・シールズが来たときにまねをしてやってみましたけれど、もう少し演技を磨きまして、操り人形のまねをいつか発表してみたいと思います。
で、そういう仕組みが降りていますので、私たちもご神業がやれるわけでありまして、私が教祖として宗教を打ち立てて、大教団をつくろうとしてやっているわけでは決してありません。
宗教的要素はありますけれども、神霊界と無限の道というものを求めてご神業をしているのです。
神様というものはもっと広くておおらかですから、広くておおらかなものを広くておおらかなように受けて、広くておおらかに科学、学問、宗教、芸術を通して表現していくというのが、広くておおらかな惟神の道であります。
神様の道の勉強というのは、学問的なものだけではありません。
音楽的要素、神気、霊妙さというものも重要でして、それを大切にしているから、いいミュージシャンがこの場に来ますと、ふだんの自分がやっているのではないような演奏ができるわけです。
そういうものも感じて、文化的な一時を過ごしていただきたいと思います。
そういうふうに、神様の道は広くておおらかなものですから、初めから広くおおらかに受けて、広くおおらかに表現するというのでないと、惟神の道でも、日本の神霊界の道でもありません。
これに対して従来の宗教は一つの宗派とか、一つの教理体系とか、決められた概念とかというものを強く打ち出し、これに信徒の思考や発想のパターンを限定させてきたわけで、そういう観点から見ると、広くておおらかな私たちのご神業には、理解しにくいところとか、かえって誤解を生みやすいところもあろうかと思います。
けれど、私も毎回、ワールドメイトとはなにかについて同じことを何度も繰り返しておりますので、古い会員さんは理解していらっしゃることと思います。
初めての人はちょっとなじめないかもしれませんが、誤解のなきようお願いいたします。もし疑問やおかしいと思うところがありましたら、私の他の著作を読めば、きっと答えがあるはずです。
大体私は、文句とかクレームには全部目を通すことにしております。人間はどちらかというと、いいほうのことを聞きたがります。しかし、やはり人間ですので百点満点ではありません。
百点満点どころか足りないところも多いわけでありまして、どこが足りないかがわかって、欠点を補うことができる。そしてすぐに悪いところは反省していく。
こういう姿勢が大切だと思います。また組織についても百点満点ということはあり得ませんので、少しでも悪いところがあればすぐ改善するという努力を続けるというのが、やはり君子の道であります。
というわけですので、私たちが気がつかないところをアンケート用紙に書いてください。苦情のアンケート用紙ばかりになるとこれも困りますけれども、たまには恍惚とす
お誉めの文章も見たいですけれども、私たちの反省材料としておりますので、遠慮なく書いてください。書いてくださればすぐに調べまして、こちらが間違っている場合にはおわびもしますし、改めます。
逆に書いた方が間違っている場合には、おたくも間違っていますと、はっきりいいます。こうしていかないと、いいご神業と道が広まらないと思っております。
自分の先天運を知る方法
イントロダクションはこれくらいにしまして、さっそくきょうのテーマに入りましょう。
前回は聖徳太子のお話でした。きょうも前回に引き続いて聖徳太子のお話をしようかなと思ったのですが、聖徳太子ばかりでもどうかと思いますので、きょうは講義の原点に返ることにします。
難しい講義はよくしますので、基本的なことをきょうは語ってみましょう。
大体、ここに出てくる一分ぐらい前まではなにを講義するか考えてなくて、お集まりになった会員の皆様全員の精神状態と、一番求めてきている人、一番ご縁のある人の精神状態を瞬間に審神して、お話する内容が決まるわけですが、きょうは運、不運についてお話しましょう。基本的ですね。
『強運』『大金運』及び『神霊界』『神界からの神通力』『大天運」、一連の私の著書の中では、前者よりも後者のほうを宗教家、神霊家としてはより読んでいただきたい。と、
常々こう思っておりますが、それらの本の中で語っている内容を日常生活で活用し、運用するとなると、なかなかこれが難しい。
高級神霊界の実相とか人生の本義とか、どんなに次元の高いものを打ち出しても、生活に応用できなければ意味がない、というのが植松先生のお考えであります。
神様の示しておられる方向性や日本の神道というのもそうなのであります。
日常生活の中でそれらをいかに活用するかわからないと、学者さんの書いた本と同じになってしまいます。どこの学者、宗教家も自分の教理や学説が最高であるかのようにいっております。
けれど、最高であるとか二百番目であるといったことはどうでもいいことで、要するに庶民が苦しんでいる問題を現実に解決できればいい。それが一番大切なことなのです。
ということで現在、一番皆様が関心を抱いているのは、運、不運のところではないでしょうか。
実際、出版社さんからの執筆依頼の中には、こういうテーマが多いですね、私の本は。だけども、本の中で書いてあることをそのまま話しては面白くないので、きょうは角度を変えて原点に返りまして、運、不運の話をやってみましょう。
運不運。私の本の中でかなり書いていますけれども、やはり霊障が最も運、不運の原因となっているわけですが、もう少し具体的なお話をしていきましょう。
運、不運といいましても、いろいろな角度からとらえられます。強運とか天運とかいろいろ運があるわけですが、きょうは先天運と後天運というふうに分けて考えてみましょう。
まず、先天運とは何か。文字どおり、先天的に持っている運のことです。では、先天とは何か。
お母さんのおなかの中からオギャーと生まれるまでが先天、オギャーと生まれたらもう後天なのです。オギャーと生まれる前が先天でございますので、十月十日間のおなかの中にいるときに先天運が完成されるわけです。
このオギャーと生まれてくる誕生の瞬間、そのときに木火土金水はどうであったのかの観点に立って、年月日時、この四本の柱のバランスで人の運勢を見ていこうというのが四柱推命ですね。
四柱で運命を推しはかっていく。だから四柱推命というわけです。本人の性質というのは大体、日柱で見ます。
生まれた日がその人自身の人間性を表わし、月は自分とお母さんとの関係、年はお父さんとの関係、それから時間というのは自分の晩年、そして、この自分の生まれた日の命式で、月と年と時間との関連や木火土金水のバランスを見ていくわけです。
天徳貴人とか月徳貴人とかいろいろありますが、四柱推命の基礎は四柱のバランスです。こっちはいいけれども、こっちが悪いとか、少々悪いところがあるが全体としてはいい、といった具合です。
いくらすばらしい星があっても、バランスが悪いとだめなのでありまして、バランスすなわち中。物事が中庸の中にかなっていればいるほど、いいわけであります。
よく四柱推命の的中確率は九十何パーセントだとかいわれておりますが、それは、先天運というものが醸造されてまさに出てこようとする一瞬、つまりオギャーと生まれてくるその一瞬にその人の運命の大半が決まっているからであり、それを四柱推命は見ているからです。
ところが、私の知っている人で五柱推命をやっている人がいます。もう一柱足すんです。
そのもう一本の柱とはなにかと申しますと、生まれた日から十月十日引いたもの。要するに体内で受精したそのとき、その瞬間を見るのです。
そこで最初の縁が結ばれている。陰と陽が結ばれているわけです。
これを見る人がいまして、それは非常によく当たります。なるほどそうか、五柱推命というのがあるんだなと感心しましたが、考えてみれば、十月十日の先天運の始まる瞬間を見ているのです。だからよく当たる。
節分で一年の節は変わりますが、おなかの中にいた期間が節分の前かあとかによって、先天運は大きく違ってきます。
たとえば同じく卯年だといいましても、二月初め生まれの卯年と十二月生まれの卯年とでは、先天運が違います。二月初め生まれの卯年は前年の寅年の気を九ヶ月ぐらいおなかの中で受けていますので、その影響を強く受けることになります。
一方、十二月生まれの人は卯年の気をずっと受けます。四緑木星だったら四緑木星の気を受けております。
むろん、それでもオギャーと生れた瞬間の九星や星が、最も重要となることはいうまでもありません。ですから先天運といいましても、実際は宿ったときに、大体どういう子がそこに育つのか決まっているといえるでしょう。
以前、八時間セミナーでお話ししましたが、この時点、すなわち子どもが宿ったときのお父さんの経済力、生活環境、お母さんの精神状態、生活環境と、そのときに宿った子どもの性質は非常に関連しております。
お父さんがすごくまじめによく勉強していたときにできた子どもというのは、どういうわけか勉強が好きです。
同じお父さんとお母さんのもとに生まれた子どもでも、お父さんが酒ばっかり飲んでいるときにできた子どもは、どうも頭がボケッとしています。
アルコールづけになっているんでしょうか。お母さんがどこかでしょっちゅう浮気をしているときにできた子どもというのは、二重人格でなんとなく気もそぞろで、気持ちが定まりにくい。
問題が多いときに生まれた子どもというのは一言でいいますと、素直でない。
お父さん、お母さんが最高にいい状態のときに宿った子どもは、いい子が多い。いい子とはどういう子どもかというと、非常に素直な子です。
素直であるかどうかは、学校の成績を見ていたら大体わかります。成績のすごくいい優秀な子と、真ん中の子と、できの悪い子がありますと、成績が悪くなればなるほど素直でない子が多い。
上のほうにいけばいくほど素直な子です。よく勉強ができる子の八割から九割まではどんな子かといえば、素直な子です。
宿題をやってきなさいといったら、はいといって素直に宿題をやってくる。問題集をやりなさいといったら、はいといって素直になる。やらなければだめでしょうというと、すみませんと謝っている。
お父さんお母さん、学校の先生、家庭教師の先生塾の先生、みんなからいわれたとおりに素直によく勉強して、あなたはいい子だねといえば素直に喜ぶ。
そして、素直に聞くからどんどん伸びていって、いい学校に入りますし、会社に入れば目上からも、同僚からも目下からも愛される。
あの子は本当に素直で困るんですよ、みんなから嫌われましてね、という人はいないでしょう。素直で嫌がられる人はあまりいません。
みんなから大事にされるし、かわいがられますので幸せですね、その子は。だからいい御魂の子というのは、一言でいうと素直な子なのです。
水子の霊が憑いていたりする場合には、あの子は素直でいい子なんだけれども、勉強になったらボーッとしてだめだ、ということにもなりますが、素直なだけであとは全部だめという人はあまりいません。
少々お父さんの素質、お母さんの素質が悪くても、後天的に努力をしていきますと、ある程度の成績が取れますし、ある程度の仕事もできますし、ある程度の生活も約束されます。
非常に優秀で、社会の先頭に立ってガンガンやっていくとか、歴史に名前を残すとまではいかなくても、それなりにまあまあの人生と暮らしはできています。
ですから、なにはなくても素直であることが一番。その上、頭脳も明晰で運動神経も発達していて、芸術的才能の豊かで、信仰力もあるおおらかな子であったら最高ですね。
そういうすばらしい子どもをということで、胎教をする人がたくさんいますが、胎教いくらよくしてもあまり多くは望めません。
子を宿す前のお父さんがどうであったのか、お母さんがどうであったのか、これが問題だからです。この両親の日常生活、あるいは魂の錬磨、素質、そのレベルに合った子どもしか授かれないからです。
皆様、お子様をお持ちの方はよく考えていただきたい。三人子どもがいますと、その子どもたちができたときはそれぞれどうだったかなと、振り返ってください。
ご主人はどうだったか、奥様はどうだったか。大体、調子のよかったときに授かった子であればあるほど、素直でいい子で優秀で、そうでないほど乱調ぎみではないかと思います。あっちでうろうろ、こっちでうろうろしながら、なかなか勉強も仕事も定まらなかったりします。
二十代、三十代の人でしたら、自分がオギャーと生まれた日から十月十日を引いて、そのときに自分のお父さん、お母さんがなにをしていたか、ちょっと両親の調査をしてください。
最悪だったら、自分は最悪だと。まあ、そう思ったら希望がないので、どこかいいところを無理矢理にでも発見いたしまして、ああ、そういう環境で自分は生まれてきているんだなと、心のよりどころとしたらよいでしょう。
どんな先天運なのか、もっと具体的に細かく見ていく方法はあるのですが、誰にでもすぐできる先天運の見方は、そのときのお父さんとお母さんはどういう生活状態で、なにを志し、なにを考え、どういう生き様をしていたのかを知る。これで大体のところはわかります。
お父さんの人生の中で一番よかったとき、人間としてすばらしかったとき、お母さんの人生の中で最もすばらしかったときが、自分が宿ったときの十月十日前と一致する。
そういう人は、自信を持っていい。僕には才能がある、先天運がある、素質があるんだと。
いまのお父さんは最悪だけれども、いまのお母さんは本当にどうすることもできない、だめおやじの奥さんのようなものだけれども、僕を産んだときのお父さんお母さんは本当にすばらしかった。
だから、この両親の持っている素質の何倍もすばらしく僕はなるんだと、そう思っていいです。
その反対に、あのころを考えたら恥ずかしくてたまらない。
恥多いころだったな、あの年代は。ちょうどおまえが生まれた頃からそのあとにかけては本当に苦しんだよ、というのを聞いたら、これは覚悟が要る。いまのお父さんはよくても、いまのお母さんはすばらしくても、そのときのお父さんお母さん、いつもけんかしながら両親ともに浮気していた、なんていう場合には、相当な覚悟が必要です。
お金とか財産はなくても真剣に錬磨していた両親だったら、真剣に錬磨するという素養を受け継いでいますけれど、もう放縦な生活をし、自堕落の生活をして、最悪だった場合。
また、自殺しようかなんてしょっちゅう思っていた、そういうときに生まれていたということがわかったら、お父さん、お母さんが持っているカルマの一番マイナスのところが自分に宿っている、と考えて間違いないです。
うん、そういわれてみれば・・・・・・、と思っている方もいらっしゃるのではないですか。
自分はなぜこんなにだめなんだろうと思って、生まれたときから十月十日を引いてみた 10 ら、ああ、やっぱりお父さんとお母さんは最悪だった。
だから僕はこんなに悪いんだと。そう考えれば、お父さんとお母さんのせいにできるから、少しは気分が楽でしょう。
なんども自分が悪いと思ったら人生やっていけませんので、たまには親のせいにしてもいいのではないですか。
しかし、少しは気分が楽になりますが、そういう両親のもとに自分が生まれてきたという先天の命を考えてみたら、わけなくそういうところに生まれてくるわけではない。
やはり、そういうところに生まれてきたということは、自分の前世にそれに匹敵するだけの劫を積んでいるわけです。
ですから、最終的にはお父さん、お母さんのせいではないのですが、私たちはそれを見て、自分の先天運がどのようなものであるのか、前世にどのようなものを持っていたのかということが、おおよそわかるのではないですか。
詳しいこと、細かいことは完全にはわからないでしょうが、つぶさに両親の研究をしたらいいですね。
厳密には、祖父母も調べたらより完全な研究結果が得られます。そうすれば、おおよその自分の先天運がわかります。
そして、よかったら自信を持って、もっとやれるから頑張ろうと一層励む。悪かったら反省をして、今度は後天の努力で補っていけばいいわけです。
けれど、全部プラスの人、全部マイナスの人なんていませんから、オギャーと生まれたその時点での銀行の預金残高と、借入金の状況を見まして、自分の財務状況を考えたらいいのです。
その財務状況、つまりどこがマイナスでどこがプラスなのかがわからないと、努力の方向性もわからないし、どこをどのように前に出したらいいのか、社会に貢献できるのかもわからない。
おのれを知るということは、いろいろな角度からできますが、少なくとも、四柱推命でいっている当たる当たらないの前に、この先天運、先天の命ということをつぶさに見ることによって、本当の進歩や向上の糧、正しい努力の方向性というものを理解しなければいけない、そう思います。
いずれにしましても、マイナスはプラスに変え、プラスはますます磨かなければいけないわけです。いま申し上げたようなことをよく耳に入れまして、きょうつぶさにお父さん、お母さんに聞いてみてください。
決して責めてはだめですよ。すでに今日まで来たわけで、責めても過去は返ってきませんから。
あくまで先天運と先天の命を知って、きょうからあすへの努力を、具体的にどうしたらいいのかを判断する基準、日常生活の中で精進をしていく一つの尺度を得るつもりで、きょうは帰ったらぜひ聞いてみてください。
四柱推命、ホロスコープの問題点
話を元に戻しましょう。そういうことで四柱推命は、オギャーと生まれたときの命式が大体そのとおりいきますので、よく当たります。
よく当たるのですが、これはオギャーと生まれてきたところだけを見ているのであって、そのとおりに人生が運んでいくのだったら、見ないほうがいいということになります。
先天運だけでいくのであるなら、別に神様も要らないし、この定例会に来ることもありませんし、勉強する必要もない。そのとおりに最後までいくのだったら、修業する意味がない。
先天運というものを改めて好運へと改善していくというところに、私たちが努力をし、修業をしていく意味があるわけです。
努力をするといいましても、先天運がわからないとどう努力していいかがわからないので、いまいった簡単な先天の命の見方をヒントといたしまして、努力の方向性を知る。
さらに細かく見ていこうということで、四柱推命なんかも生まれながらの運命の概略を割り出しているわけです。これ、命式といいますね、四柱推命では。
ヨーロッパの占いではホロスコープがこれに相当します。オギャーと生まれましたときに太陽はどこにあったか、その太陽の位置で水瓶座であるとか魚座であるとか獅子座であるとかが決まるわけであります。
オギャーと生まれたときにお月様がどこにあったかによって、女性の好みとかがわかり、オギャーと生まれたときに金星がどこにあったかによって、異性に対するあこがれとか、美的な鑑賞力の傾向などがわかるというのですが、オギャーと生まれたときに水星、金星、木星はどこにあったのか、太陽はどこにあったのかという命式をやはりもちまして、その人の運命を占うわけです。
ですから、四柱推命と同じであります。
しかし、占いというのはあくまでも予測です。
私たちのすることは占いではありません。占うところがありましても、ご神業をしている私たちは、こういった命式、ホロスコープなり四柱推命なりに出ている命式の奥にあるものを、修養の糧として見なければいけないのです。
修養の糧として先天の命を知って、後天的努力の糧にする。悪いものは改めて、いいものはますます自信を持って世に開花させていく。
世のため人のために役立とうと思ったら、自分の持っているプラスを見たらいいですね。
世のため、人のためにどう役に立てばいいんだと考えた場合、自分の持っている先天的にすばらしいもの、人にない才能と長所をますます磨けば、それは人に重宝がられますし、世の中に役立ちます。
一方、人格を磨こうと思ったら、自分の持っているマイナスを消していかなくてはなりません。
どこを改めればいいか、気をつければいいか。どこがマイナスか、どこが足りないか。それがわかったらここだけは辛抱していこう、これを足していこうと、精進、努力を積み重ねていく。
これが修業であり、人徳を磨いていくということです。
ですから、本当の魂の錬磨、修業というのは、長所を磨くことと、短所を改めること、この両方を同時に行っていくことであります。
特に学問とか、心の教養とか、宗教などによってここをよく理解し、後天的努力で父祖伝来の悪いところが出ないようにしていけば、魂はすばらしく磨かれて、人間的進歩、向上もみごとに果されるわけです。
そういう意味で、占いとして見るのではなく、修養の糧として見なければいけないのです。
けれど、ホロスコープとか四柱推命というものは、占いとしてよく当たるものだから、占いとしてばかり活用されて、修養の糧として見られることはあまりない。
というのも、占いとしてよく当たるだけでなく、ホロスコープや四柱推命には後天的な努力、開運の具体策があまり明確に示されていないからでありまして、もうこんなものか、こういうふうに決まっちゃっているものなんだということで、努力をしようという気がなくなってしまう。
「ああ、あなたは一生涯独身でだめですね」
「結局は、やってもだめでしょう」
「この星は早死にですね、早死に」「ああ、そうですか」
「ああ、この星はブスの星といいまして、この星を持っている人にはブスが多い。それにひきかえ、美人星がある人はきれいなんですけれどね・・・・・・」
私、それを聞いて思いました。木火土金水の星で美人かどうかがなぜわかるんだと。でも実際、当たっているんですよ。
占いでブス星って聞いたことありませんが、美人星というのはあります。
宇宙のかなたに美人の星があるのかなと思って、私もいろいろ神様に聞いて、星の世界を奇御魂で飛んでいって、美人になる方法を研究しました・・・・・・美人四段活用といいまして。
それを星接着秘法と呼んでいるわけですが、要するに霊体と美人星との間にパイプを通して、美人になる霊気を受けようというもので、いわば臓器移植のようなものです。
病院でやっているんだから、星でもできるだろうと思ってやってみました。そして美人の星からの霊気がたえず来るようにしたら、急に美人になりましたね。
ただし死ぬまでではなかったですが……。
三カ月とか一ヶ月とか。多過ぎると人生が狂いますから。モデルさんを実験材料にして、モデルさんは美人でなければいけないということでやってみましたが、成功しました。
しかし、人類の救済にそれほど役に立つ秘法ではありませんから、その後はやりませんでしたけれども、どうしてもブスで自信がない、整形手術してもムードがブスという人はいます。
そういう場合は、美しいと感じる星の霊気を受けますと、美しいと感じるような化粧をするし、美しく感ずるような洋服を着るし、目鼻立ちはあまり変わらなくても、なんとなくムードがよくて、それなりに見られると、そういうふうに変化していきます。
最悪の場合はそれでなんとかお見合いにこぎつけるか、電話で見合いをするか、なにかする。それが究極の幸せだ、それさえできれば、もうそれ以上なにも望まないという人の場合は、いろいろと私もウルトラCがありますからやりますけれど……。
あまり人類の救済とか、社会の改善とか、御魂の修養に関係ないですから、声を大にしていわないだけなのですが……。
天中殺、大殺界の正しいとらえ方
ということで、体の悪いところもいいところも、人生の運、不運も、四柱推命やホロスコープを見れば大体わかる。
あまりにも当たるものだから、こういうものなんだ人生とは最初から決まっているんだ、努力しても意味がないんだ、となりやすい。これが四柱推命やホロスコープの問題点です。
特に問題なのは、天中殺。昔は天中殺、いまは大殺界ですね、これについてちょっとお話しましょう。
天中殺―この”殺”という言葉がつくとなんとなく怖いけれど、でも怖いもの見たさで見てみたい、こんな気持ちにさせられますね。大殺界、大天運みたいに“大”がつくともっとすごいですね。
さて、天中殺というのは四柱推命でいう空亡のことです。これにつきまして毎回、質疑応答などで天中殺がどうのこうのとか、大殺界について先生はどう思われますかという質問がかなりありますので、きょうはたっぷりと説明したいと思います。
もともとこの空亡というのはどういうものなのかというと、十干十二支の組み合わせ 1 のずれのことであります。
十干というのは十あります。十二支は十二あります。ですから、組み合わせをしていきますと二個ずれるのです。
十二年のうち二年ずれる。その十干と十二支のずれた二年を空亡といい、十二年のうち二年は空亡に入るわけです。
ところが厳密に四柱推命を見ていきますと、空亡になっていても、空亡解になっているときがあります。
空亡解というのは空亡が解けているということですが、そのほかにも、空亡を補うだけのものがありますので、本当の空亡中の空亡は四分の一の確率です。
いわゆる空亡と思っているものの中での二五パーセントです。二五パーセントが空亡中の本当の空亡なのであって、あとのは空亡ではなくてどこかに解があり、空亡が解けている。
ですから、いわゆる天中殺、天中殺といいましても、天中殺中の天中殺は四分の一です。このときは確かに天の空亡期、天中殺期と考えていいでしょう。
では、この空亡期についてどう考えたらよいのか。人生でいいますと厄年もそうですね。
概念は天中殺も大殺界も厄年もみな同じです。これについてちょっとお話してみましょう。大好きでして、あるとき、ラジオだったかテレビのアナウンスをしている人が来ました。
その人が占い好きでして「先生、今天中殺なんです、私は」
「ああそうですか」
「天中殺のときに入った事務所だもんですから、なにをやってもうまくいかなくて…」
その人のお話を聞いていますと、二分に一回天中殺という言葉が出るのです。
「あなた、天中殺子という名前に芸名を変えたらどうですか」
「また、先生、嫌なこといって」と笑っていましたが、その人は天中殺を信じ込んでいるのです。
「事務所の上の人ともうまくいかないのですけれど、やっぱり先生、天中殺で入った事務所のところはそうらしいですね」
「もうハードでハードで大変で、やっぱり天中殺で入った事務所ですから」
すべての災いの原因は、その事務所に所属したときが天中殺のときだったことにある、その人は考えているわけです。それだけではありません。どんなことでも天中殺と結 14 びつけて考えているのです。
「あそこの奥さんがあんまりわがままで、いいかげんで、ヒステリーなのが災いなんですが、結婚したときが天中殺でしたから……………」
「自分たちの結婚もうまくいかないのですけれど、やっぱり先生、天中殺で結婚したからです」
「いや、あなたに問題が多いからですよ」
「でも主人がやっぱり空亡期で、そうでしょう」
「ご主人は問題の多い奥さんをもらったんじゃないですか」
皆様、これをもっと具体的に考えてみたいと思います。その人に私はこういうふうにいいました。
たとえば、天中殺中の大天中殺のときにあなたが事務所に入ったとしましょう。
そし守護神様や守護霊様の目から見て、三十五歳ぐらいで開運し、ラジオでもテレビでも引っ張りだこになって、才能と実力が最高に認められるという運命を持っているとしましょう。
燦然と輝く、黄金まばゆき三十五歳があるとしましょう。前世徳を積んだの
だから、三十五歳でテレビのアナウンサーとして大成させようと、守護霊さんも守護神さんもそういう計画を立てていたとしましょう。
それで、いまあなたは二十五歳だとする。二十五歳のこのときに、裏のお金が動いたり、あるいはまた足の引っ張り合いがあったりという、アナウンサーの世界の葛藤、芸能界の中のどろどろしたところを体験しながら、テレビ局の態度のでかい連中に混って苦労をする。
自分自身の性格の悪い面も頭のかたいところも、柔軟にならざるを得ないような環境、つまり上からも下からも同僚からも嫉妬されたり、もまれたりするという環境の中で苦しむ。
そうして、いぶし銀のごとき立派な才能と実力ができてきて、事務所からもテレビ局からもプロダクションからも、あらゆるところから引き立てを受けて、三十五歳で社会的に大いに開花することとなるのです。
人間、わけもなく社会的に開花するなんていうことはありません。その人に実力があるからです。実力とはいかなるものか。
実力というのはやはり、その人が磨いた、外へ出して表現できるだけの自分の力ということができます。
しかし、外へ出ている陽の面がありましたら、その分だけ隠れた陰の苦しみ、自己の力の厚みがなければだめです。
外へ出している力を不動のものにしようと思ったら、もっと見えないところで苦しみ、葛藤し、悩み、思索し、体験しなければいけない。これがないと、外へ出す実力が不動で長続きするものとはなりません。
それがない人というのは、しばらくしたらすぐにメッキがはげてきます。
すぐに凋落が来ます。パッと出てパッと凋落します。二十五歳でいきなりスターダムだけれども、すぐにだめになる。それだったら三十五歳で開花して、それがずっと続いていくほうがいい。
この三十五歳で大成させようという神様は、あなたをどう錬磨しようとなさるのか。やはりまず、二十五歳のあなたをこの事務所へ連れて行き、初めから苦労をさせる。
そして、三十三歳で事務所を変えさせ、二年ぐらいでパッと開運させて、ずっと持続させようとするに違いありません。
この場合、盛運を持続させるには、三十二歳までの錬磨期間中、できる限り厳しく鍛える必要があります。それには、良さそうに見えていて、
最悪の事務所で修業をするのが一番。そして実際、守護霊様のお導きで、そういう事務所に行ったのです。
四柱推命とか星で見たら、それが天中殺なのです。
「先生、大天中殺で行った事務所というのは、結局はそこから別れなきゃいけない。長続きしなくて、やがて訣別するときがあるらしいですよね」
「ああ、そうですよ。訣別するときまで努力をして、訣別すればいいじゃありませんか」
その間に鍛錬しておかなければ、新しい事務所に入ったって才能もない、実力もない、素質はあったとしても、錬磨された実力となっていないので、なんの役にも立たない。
それなりに苦しんで、不満が多いかもしれないけれども、ここで葛藤して、テレビのあれに出ました、これに出ましたという実績を積むことが大切です。
ここでも出たことがあります、あそこでも出たことがありますと。いろいろと苦しみ、あまり好きなものじゃなかったけれども、これだけ出てきましたという実績を積む。
その実績の積み重ねと、そこで得た経験と知識と実力。
こういうふうなものがあって初めて、すばらしい事務所に変わったとき、ああ、この子は本当に才能があり、実力があり、実績があるから、今度はこれに抜擢してやろうじゃないかという形で、ポンと三十三歳ぐらいで芽が出て、開花する。
ここで出たものは不動の実力で、長く続くわけです、社会寿命が。
二十五歳で入った事務所では大変な役が回ってくるばかりか、後輩や同輩の面倒をみなければならない。
その上、仕事も大したことがなく、ギャラも吸い上げられて、大変な苦労、葛藤を経験した。それでもクサることなく地道に努力を続けて実績を上げてきた。
その姿を見ていた外部の人が、「なかなかよくやるな。あんなやりにくい事務所でよくやっているな。うちに今度来ませんか」と、スカウトされた。
努力と実績と実力。あんなところでもよくやっているからということで、別の事務所にスカウトされたら、その事務所はすごく大盛運の事務所だった。
というように、天中殺のときにマイナスで苦しんだ分だけプラスになって、今度はガラと大開運するわけです。衰運期に苦しんだ分がそのまま盛運期に加増されて、全部社会的開花の糧、結実の糧となってここで開くわけです。
ですから、守護霊さん、守護神さんは、「いまは苦労すべきときだ。錬磨して、実力をたくわえるときだ。やがて三十三歳になれば、すばらしい人と出会い、才能と実績を見出され、三十五歳ですばらしく確立するぞ」と、わざわざ問題の多い事務所へ連れて行っているわけです、苦しみの経験と実績を積むために。
ところが、この守護霊さんや神様のように、先々こうなっていくという角度で見ている場合はいいのですけれども、四柱推命や天中殺の角度で見ていきますと、天中殺で入ってしまったから苦しみばっかり多いんだ、入ったときが最悪だったから、やがてどのみち、この事務所とも別れなきゃならない、同じ別れなきゃならないんだったら早く別れたほうがいい、といった結論に到達してしまいます。
「どのみち天中殺でやっているから、先生、早くここの事務所変わったほうがいいでしょう。私だけであの事務所はもっているようなものなんですから」という具合に、なにをやっても、天中殺だから、大殺界だから、空亡だからということになってしまいます。
これでは、大成しません。
「せっかく苦しんで、それを糧として、実力の養成をしているのに身が入っとらん。苦しむべきときには人間は苦しまねばならないんだ。それもただ苦しむのではなくて、それを成長のバネにしなきゃだめだ」と、守護霊さんはいつもそういっているんですが、やっぱり天中殺だからどのみち ……と、事務所におりましても、仕事をしていても、全然身が入っていない。
そういうことでは三十三歳の開運期を迎えても、大した経験もなく、才能も実力も磨かれていないから、それほど伸びない。大輪の花を咲かそうといっても、中輪がちょんと咲く程度です。
これが神様や守護霊さんから見た天中殺、大殺界の見方です。常識的に考えましても、試練と苦労と葛藤のない人間が、社会的にも、霊的にも、徳積みの面にしましても開花するわけはないのです。
それを大変だからとか、苦しいからだとか、運、不運の世界の中で近視眼的にものを見て、目前の苦しみや、目前の修業に集中できない、徹底できないということは、やはり神様の目から見たら大いに間違っています。
吉方位必ずしも善ならず
いま申し上げましたように、四柱推命の問題点というのは命式や運、不運だけを見まして、改善方法がないわけです。
改善方法に関しましては気学にはあるわけですが、これを、いまから詳しくお話しますけれども、神様いわく、吉方位必ずしも善ならず。もう私は何度もいわれております。
吉方位必ずしも善ならず、悪方位必ずしも悪ならず、吉方位というものはどういうものかといいましたら、自分の星から見て自分自身にとってプラスの方向が吉方位であり、祐気です。
四緑木星の人は一白水星九紫火星、三碧木星がいいし、五黄の人は二黒や八白土星あるいは九紫火星や七赤、六白金星がいいといった具合です。ついでにいうと剋気は自分にとって悪い、マイナスの気です。
ですから、その方向に行けばマイナスの気を受けます。五黄殺というのは自分のほうから腐っていく、暗剣殺というのは外からくる外圧の災いを意味します。
さて、祐気を取って、プラスの気を受けますとどうなるかといいましたら、自分の中にあるプラスの面が出てきます。
才能とか素質とか、天運のプラスの面がどんどん出てくるからうまくいきますし、巡り合わせと運びがよくなってきて、家運の、家代々のいい因縁が出てきます。
ところが、小さいころからたえず吉方位ばかりを取っている人はどうなのかといいますと、決して幸せになるとは限らないのです。
ご神霊の目で見ますと、人間には誰しも生まれながらに持っているマイナスのがあります。同時に生まれながらに持っている徳分があります。いわば借金と貯金ですが、吉方位ばかり取りますと、いいほうの現象ばかりが出ますので、この劫は持ったままです。ではどうしたら劫が取れるかというと、苦しんで取れるんです。
以前の講義でもお話しました。劫が取れる一番強烈な方法は、死ぬということです。兄弟が全部死んだ、親戚縁者が全部死んだというのは、劫を取るのに一番の早道です。
死ぬというのが家代々の劫、前世のカルマを取る一番の近道、早道なのです。ですから家族が全部死に絶えたというのはものすごいです、そのおうちは。ただし、自殺をすれば劫が取れるわけではありません。
自殺は新たなる劫を積みますから、自殺をしてはいけません。たとえば、病気で早死したというのは劫の抹消です。
したがって、病気で苦しんで早く死んでいった、また二歳三歳の子どもが死んでいったという場合には、家の劫、父母の劫がなど取れます。それだけ、命をなくすということは劫をあがなう近道なのです。これがまず一番です。
その次は、もう赤貧洗うがごとく貧乏で苦労する。要するにお金で苦労することです。三番目は病気で苦しむ。四番目は人間関係で苦しむ。
五番目は好きではない仕事に就いて苦しむ。これが、劫をあがなっていく五段活用です。
活用が好きですけれども、命がなくなる、バタバタと死に絶えた、これが一番早い活用形です。その次は赤貧洗うがごとくお金で苦しんでいる。
お金は命の次に大事なもの。だからお金がなくて、資金繰りで苦しんで、赤貧洗うがごとく日々を送ってきて、それを苦にして自殺するということがありますね。
命がなくなって自殺するなんていうことはありませんけれども。
その次に病気で苦しむ。病気を苦にして自殺をする。あまりに病気が苦しいものだから、自殺をする。次に人間関係で苦しんで自殺をする。
その次は仕事。好きでない仕事をして自殺をするというのはあまりないですけれども、まあ、たまにはあるでしょう。
逆にいいますと、徳分があったら長生きします。
悪因縁や劫のほとんどない人は、長寿を全うして、お金がある程度豊かで、健康に恵まれまして、幸せな人間関係、いい奥様といい子どもといいお父さんの中で育まれて、仕事に行ってもいつもいい人に恵まれる。幸せな仕事、家庭生活を送って自分の好きな仕事、やりたいなと思う仕事をやって、人生を終わりました。これ、最高に幸せですね。
次に軽い因縁の人は、長寿を全うして、お金もある程度豊かで、健康で、いい妻、いいお婿さんをもらって、家庭生活も豊かだ。けれども、あんまり好きな仕事ではないというケース。
私は電気屋をやりたかったけれども、植木屋をやっています。デパートをやりたかったのがスーパーをやっています。
飲食店をやりたかったのに機械屋なんです。本当は芸術家になりたかったのに保険屋をやっています。こういうのはまだ比較的軽いほうです。
その次は、健康で、お金も豊かで長生きした。そのときにちょっと不幸なのは人間関係で苦労したことでした、というケース。
「まあ、長寿を全うして、お金も豊かで健康だけれども、妻がブスな上にヒステリーでしてね。先生、本当にもう女房では苦しめられましたよ。
おまけに、女房の家に養子に来たものだから、養父にも苦しめられた。ここだけの話、先生、質屋をやっていましてね、好きじゃないですよ。私は詐欺師をやりたかったんだ」と。たとえば、そういうことです。
それよりももうちょっと不幸せな人は、長寿を全うし、お金も豊かだけれども、病気でずっと闘病生活が続き、子どもとか夫、姑でも苦しみました。
おまけに酒屋さんのあとを継いで、朝から晩まで好きじゃない仕事をやらなければならない。
私は音楽家になりたかったんだけれども、こういう家に嫁いで酒屋ばっかりやってます。まあ、なんとかお金には恵まれていたというのがよかったでしょうか、という人生。
これよりもうちょっと幸せが少ない人は、なんとか長生きだけはできましたけれども、貧乏でね、病気ばかりでね、もう嫁さんは最悪でね、好きな仕事じゃなかったですよ、といったケースです。
このように幸せのレベル、強弱を鑑定に来る人、お客さんを見つめまして、五種類に分類しました。幸せの五段活用。
暇といえば暇ですが、人間の幸、不幸の原因と序列を研究した私の研究成果なのです。
ところで、皆さん考えてください。好きな仕事ではないといいましても、健康に恵まれていて、ぜいたくいわなければまあまあの生活ができて、長生きできたら、もう三つは満たされていますから、少々悪いご主人でも運命に文句をいうもんではないんですよ、そこが満たされていたら。
それに比べたら病気と貧乏の苦労はとても大変ですが、このお金の苦しみと病気の苦しみというのは、それぞれの苦しみのレベルによって入れ替わることがあります。
小さいときから体が不自由で、もう本当に死にたい、死にたいと思っている人にとっては、お金がたくさんあっても救われませんね。ですから、二番目と三番目は往々にして入れ替わります。
というのはこういうふうに出てきます。劫は五種類で出てきます。
そして、劫を消すには原則的には苦しまなければならないわけなんですが、苦しみが苦しみとして感じられないぐらいに勇気をもって精進し、徳を積んでいけば、神様が知らないうちに相殺して消してくれるものです。
消極的な劫の抹消はただ苦しむだけ。積極的な劫の抹消は苦に立ち向かって徳を積んでいく。劫の消し方には二通りあるわけです。
ところが、たえず吉方位、吉方位ばかりで、小さいころから、いつも祐の気をもらっていますと、悪いところは出てきません。
その代わり晩年、六十歳、七十歳になってから、一生涯分の劫がドーッと出てくるわけです。一気に。それでしたら、なるべく若いうちに取ったほうが楽というものです。
十代か二十代か三十代か、なるべく若い間に劫を、この五種類の中で苦しんで小さくしておきますと、開運期には徳分をそのまま表現できますし、思ったこと、願ったことがすぐに成就できます。
実は、そのように仕向けることが、神様の慈悲慈愛なのです。
若い間にはたえず吉方位で調子よかったとしても、晩年になってもこの劫だけは残っておりますので、六十歳、七十歳、八十歳ぐらいになってから全部これが出てきて苦しまなければならない。
一生涯かけて抹消しなければならない劫なのですから、先天の運で生まれたときに持っている劫なのですから、この劫だけは今生誰もが抹消しなければならない。
だから、この五種類のうちのなんらかの形で、その人の人生の上に不幸、災害がやってくるわけです。
これはいくら吉方位を取っても、なにをしても絶対に防げません。これだけ祐気を取って、これだけ引っ越しをしているのになんでこうなるんだろうかなんていうこと、よくあります。
吉方位のところに、家相学から見て最高の家を建てた直後に、火事で丸焼けになる人も多いです。
そういう人は結局、若いときから吉方位ばかり取って、運を残したままにしていたわけです。
昔、田中胎東という家相の大家がおりましたけれど、その田中胎東さん、第二次世界大戦の敗戦を予言いたしまして、銃殺されました。
天窓式という最高の家相の家に住んでいたわけですが、最高の家相の家に住んでも、銃殺されたらあまり運がいいとはいえません。だから、家相だけがすべてではない。
いろいろな流派がありますけれども、本当の改善策というのは、劫を乗り越えて、劫の苦しみを苦しみとして甘じて受けて乗り越えていくというものであって、それが本当の意味での気学とか易学の咀嚼力であり、修養の糧としての咀嚼力なのです。
そのような目で易や占いを見る場合にはいいわけですが、運、不運だけの角度で見ますと間違ってしまいます。
劫が深いからといってわざと悪方位を取る必要はありませんけれども、よくなりたいために、吉方位ばかりを取っている人というのは、劫を最後まで残して、一気に受けることになります。
それより、若い間から自然に少しずつ取っていったら楽ですね。一生涯かけて取らなければならないものは少しずつ出していって、少しずつ取っていったら楽です。
一遍だと困りますよ。晩年に出てくれば出てくるほど大変です。若ければ若いほど楽です。お産と同じですね。
悪方位必ずしも悪ならず
ですから、若いうちに吉方位ばかり取るのはあまり感心できないのですが、では、悪方位ばかり取るとどうなるかといいますと、マイナスの気を連続に受けますので、自分の持っている前世からの悪いカルマ、性格の悪い面、家代々の悪いカルマが吹き出してきます。
だから、やることなすこと不運の連続ですし、苦しみと葛藤と思いどおりにならない日々がずっと続いていきます。その結果、自信喪失や卑屈になってしまったら、一生が台なしです。
しかし、中村文聡さんという人が「七大凶殺」という本の中でこんなことを書いています。
五黄殺、暗剣殺というのがあるが、果たして五黄殺、暗剣殺とは何年ぐらい、いかなる形で出てくるのかということを、彼はお弟子さんとともに実験しました。
みずか五黄殺の家に住みまして、お弟子には暗剣殺の家に住まわせていましたら、骨折はするわ、病気にはなるわ、奥さんとけんかはするわ、火事にはなるわで、災いの連続です。
ところが五黄殺で引っ越しをして、十一年七ヶ月目にパッと霧が晴れたようになり、この中村文聡という人は気学家として急に名前が出まして、本も売れるし、名声を得ることができたわけです。
五黄殺というものは自分のほうから腐って、劫をなくしていく。暗剣殺は外から災が襲ってくる。ちょうど暗闇から剣が刺さるようにです。
そして劫を抹消していく。それも十一年、マキシマム十二年たったら切れて大吉に変わるのです。豊臣秀吉も、ある人にいわれて五黄殺に行かされて天下人になったという話は有名です。むろん、一般にはその困難を耐え忍んで精進をやり遂げるというほど、天分と力量に恵まれた人はそういないものです。
これが中村文聡氏が身をもって実験した結果です。私は気学家だから、五黄殺で死んでもいいんだ。お弟子、おまえも実験のために死ぬのなら本望だろう。
気学の進歩と向上のために、死ぬんだったら死んでもいいんだと、実験をしたわけです。その点は偉いですね。そういたしますと、五黄殺でも十数年で全部切れる。
すなわち劫が全部出てしまうわけです。劫が全部出たら、悪方位でもなんでも関係ないわけです。マイナスのものがもうないのですから。
気学でも、四柱推命学でもいわれていることですが、徳の高い人というものは、全く占いに影響されない。方角とかなにかにも全く影響されないといわれています。
しかしそれは、神様を信じていたら方角なんかはどうでもいい、そういう意味ではありません。
徳の高い人、すなわち苦しむことによって、前世のカルマ、家代々のカルマがすでに取れてしまっている人は、いくらマイナスの気を受けても、悪方位に行っても、マイナスの悪運のストックがないわけですから、ほとんどなにも影響がないということです。
何度も申し上げますように、神様を信じればカルマが消えるというわけではありませんので、くれぐれも誤解のないようお願いいたします。
ともかく、悪方位必ずしも悪ならずと申しますのは、さっきいいました天中殺と同じです。
神様が若い間に苦労させなければならないということで、マイナスの方角に行かせて、劫のあく出しをさせる。おのれの欠点とか、お父さん、お母さんから受け継いでいる因縁を、あちこちでさんざんひどい目に遭ってたたかれることによって、少しずつ消していく。
そうして、我と傲慢さと、怠りを戒められて、人間として磨かれてきたころ、栄転や引っ越しで自然に大吉方へと移っていく。
そのときは、その苦しんだ分すべてがプラスとなって開花するわけです。
こういうふうに守護神さん、守護霊さん、神様が導いているのに、「悪方位で引っ越ししましたから」「方角が悪いですから」「なぜ私は悪方位に行かなきゃならないのか」「神様はなぜこんな悪方位に私を連れていくんだ」などという人がいますが、いま申しましたことと照らし合わせて、その意味を考えたらいいと思います。
悪方位が悪ではない、悪方位に行くのも善のときがある。それは若い間に苦労し、因縁のあく出しをするためなのですけれども、因縁のあく出しのときには、何事も思いどおりにならないことが多い。
たとえば、どんなに吉方位を取ろうと思っても、取れないことが多いのです。
「君、栄転だ。東京本社へ行きなさい」と辞令をもらったけれど、方位が最悪だったということになりやすいわけです。
こんなとき、「方角が悪いので、私はそこへ行けません」などといえば、「方角が悪いから栄転なのに行かない?何か宗教でもやっているのかね、君は」なんていわれてしまいますし、出世をするせっかくのチャンスを、方角が悪いからといって棒に振る人はいないと思います。
こういう場合は、栄転で行くけれども、悪方位で行くということは苦労があるんだな、思いどおりにいかないんだな、と覚悟して行けばいいのです。
しかし、それを乗り越えて行ったときには、やがて必ずまた吉方位のところに再栄転されるに違いありません。そう信じてください。
気学家は、悪方をつけばまた悪方を取らざるを得ないといいますが、神仏を信じ、方位学の根源を知って、覚悟をよく決めて行けば、必ずや吉運に転ずるものなのです。
また、吉方位で左遷されるかもしれませんが、左遷だというときが大吉方位だったら、ありがとうございますといって喜んで、左遷された中で運が開くなにかの端緒をつかんで吸収しにいくんだろう、というくらいの気持ちで行けばよいでしょう。
そのように、方角の意味するところを、修養の糧として理解しなければだめですね。
これが、易占に振り回されている人間と、易占を活用している人間との違いです。私も植松先生のところへは、暗剣殺の破れで参りました。破れというのは、なにをやってももうだめだとなる方角、暗剣殺でブスブスに刺されて、お弟子にブスが来たという意味ではありませんが、とにかく最悪です。そして、初めて教育事業を打ち出したときが五黄殺でしたし、もう一つの会社は的殺で出しております。やってもやってもドジをする、悩む。これが的殺です。
だから、最初のうちはとても苦しみました。けれど、いまではすべてを乗り越えて両方とも順調に運んでいます。
ですからこうやって、あいている時間をご奉仕で、ご神業とか、講義ができるわけです。自分の会社は自分の努力で、もちろん背後には神様のご守護があるのですけれども、ちゃんと黒字になって、節税対策に悩んでいる状態です。
それまではもう、税金で悩むような人間になりたいなと、それが最初の数年間のあこがれでございまして、なってみたら大変でした。そんなこと神様にいうんじゃなかったと反省しましたけれども……。
しかし、暗剣殺で破れという最悪のときに行きなさいといわれたわけですから、そこで神様から与えられた試練の厳しさは、半端ではありませんでした。
けれど、苦しんだものを全部霊的な糧、修業の糧にしていますからいまとなっては深く感謝しております。
もうほとんど切れておりますけれども、皆さん、すべてはそう考えないとだめですね。運、不運などと、単純に考えてはいけません。
いいことは信じて、嫌なことは信じない
ですから、吉方位は必ずしも善ではない。悪方位は必ずしも悪ではない。ただし、これを理解しておけば、吉方位でも悪方位でも関係ないかというと、そういう意味ではありません。
引っ越しをしようか、なにかしようかというときには、なるべく取れるものだったら吉方位を取ればいいのです。
取れないとき、努力してもどうしても取れないときには、なにか命運の意味するところがあるのだろう、神様が導いてくださっているのだろうと、覚悟を決めて行ったらいいのです。
その場合、方角なんて関係ないわと、なるべく悪いことは意識しないように。そうすれば、あまり影響を受けません。
最小限度でとどまります。反対に吉方位のところならば、方角って関係ある、方角は絶対に出るぞと思って信じて行ったら、いい影響が強く出てきます。
そうやって心の調節をすると強弱の調整ができます。想念界の大きな影響力を活用すればいいのです。活用して、すべてに振り回されなかったらいいのです。
先天運を見て、先天の命を知る。これは命式で判断できるのですが、これについては四柱推命、ホロスコープがよくわかります。
これに対して後天的な努力の方向性、どう努力したらいいんだ、修養の過程として、運勢の改善策として、どう努力したらいいんだという場合、易占として一番強いのはやっぱり方位学でしょう。
その方位学はどこから来たか。気学というのはメイド・イン・ジャパンの占いでして、大正時代に園田真次郎という人が荻窪に大正館というのをつくり、その中で気学というのをつくったわけです。
八門遁甲法の中の九宮というものと陰陽五行説や易経をあわせて、メイド・イン・ジャパンの易占をつくったわけです。
気学は、ですから日本製の占いです。その原典は八門遁甲法、奇門遁甲法といわれるものですね。したがって方位学といいますと、気学や遁甲法などが入っております。
占い学には紫微斗数とかいろいろ種類がありますけれども、後天的開運を図るという点では方位学が一番。それから姓名学。
子孫に関する悩み事というのは、墓相をきれいにすると解消されます。あと印鑑や家相学ですね。方位学、姓名学、墓相学、印鑑、家相学といったところが代表的なものです。
あと地形を占う地理風水学ですね。大体これぐらいでしょうか、後天的に命運を変えていく方法としては。
姓名判断も大体七〇パーセントぐらいの確率でしょうか。
大いに影響があります。姓名判断では十代で名前を変えた場合は一年で、二十代で変えると二年、三十代で変えると三年後ぐらいに影響が出てくるといいますが、これはあまり信用できる話ではありません。
私の深見青山(その後、深見東州)というのはペンネームですが、いい名前だと思っそれを信じて、どこでも使って、最高だ、最高だと思っていると、翌日から出てきます。
本当にそうなのかな、名前を変えたくらいで運命が変わるなんて信じられないと思ったら、十年使ってもあまり出てきません。想念の力に比例するのです。
ですから、改名した場合には、その名前をつけた人がたいした姓名判断の先生でなくても、最高の名前がついたと思って、道を歩くときには時々立ち止まって、最高の名前だといって、また歩いていく。お風呂に入るときでも、最高の名前だといいながら、悦に入っている。そうやって想念で強く信じますと、善なる作用は早く出て強くなります。
名前が悪いといわれたら、名前なんて関係ないんだ、生年月日だ。生年月日が九分九厘なんだ。生年月日が私はいいんだといって、不利なことはなるべく信じない。目前の自分がよくなったらいいわけですから、占いに使われるんじゃなくて、占いを活用する。ここが最も重要なポイントです。
ですから、悪いことは絶対に信じてはいけません。
印鑑も、変えたいのだったら変えたらいいですけれども、変える前までは、この印鑑でも最高だと思ったらいいのです。
この印鑑は最高で、この名前は最高で、この墓相は最高だと。家も最高だと。
悪い名前だ、悪い家相だといわれて気になるときには、変えられるんだったら、名前でも家相でもすぐに変えたらよいでしょう。そうすれば、いいほうへ移ります。変えないのだったら気にしないことです。気にするんだったら、早く変えることです。
だから私も、
「方角を変えたいと思っているのですが……」
「ああ、どうぞ吉方位へ行ってください」
「お墓が悪い……」
「ああ、どうぞ変えてください」
「先生、名前が……」
「ああ、名前変えてください」「印鑑が……」
「印鑑変えてください」
「顔が……」
「急いで変えてください」
「あのう…… 家相が……」
「家相を変えたほうがいいですね。今週中に変えたらどうですか」
「そんなに早く家相は変わらないんですが」
「じゃあ、来月です」と。気になるんだったら即やったらいいです。
やらないんだったら気にしない。はっきりしてます。
ただ運、不運だけを考えた場合には、やるかやらないかの二つに一つで、はっきりしているわけです。中には「先生、私の名前が悪くて、それだけが気になって二十年まいりました」なんていう人がいます。二十年だったら七種類ぐらい変えていいのではないですか。
一年に一回ぐらい変えるとか。そんなに気になるんだったら早く変更すればいいでしょう。少しでも気になることは少なくして、自分にプラスになるようなことは早く実行して、信じたらいいのです。
そうしたら運勢はよくなります。単純明快なことなのですけれども、なかなかわからない人が多いです。
これについてもう一歩突っ込んだ説明をしますと、易占霊界という霊界がありまして、かつてこういうことがありました。
あるところでは、いま使っている暦は正しくない。何日か日がずれているといい、まあるところでは、いまの暦は正しいと。一体どっちが正しいんだと思った私は、実験しました。
すると、いまの暦は正しいという人たちと行ったときには、そのとおりの結果が出てきました。
いまの暦は間違っているというグループと一緒に行きますと、訂正した暦で行ったほうも正しい結果が出てくるんです。
これは一体どういうことだ、と思いましたが、すぐにわかりました。易占霊界という易と占いの霊界がありまして、人の想念が造り出す人造霊界なのですが、そうだと信じたら、その霊界と感応するのです。
だから、この方角でいい、この方角が吉方位だと信じて行けば、その結果が出てくるのです。むろん、学理を極めず、大原則からかけ離れていますと、たとえ信じても感応しませんが……。
こういう方位などを全く信じない人、全く無視していく人は、それはそれで結構です。それも一つの生き方でありますし、それでもいいわけです。
しかし、少しでも気になる人は、いまいった易占霊界の存在と作用をしっかりとわきまえることです。
易などは、天地の法則の一部はとらえていますけれども、決してオールマイティではない。いいことはなるべく信じて、嫌なことは信じない努力をする。
そして、悪方位で行くときは、悪方位必ずしも悪ならずと思って、悪方位でもいいことがあると信じて行ったらいいほうへ変わります。想念の力に作用の大小、強弱は大いに影響を受けるのです。
皆さん、一番興味のあるところでしょう。誰だって運がよくなりたいと思うし、悪運は嫌ですからね。
正しい信仰力と徳積みで先天運を変える
ということで、後天的な努力の意義と必要性があるわけですが、先天運が最低の場合はどうするか。
方角は最低、墓相も最低、家相も最低、印鑑最悪、姓名判断最悪、生まれてきたときの命式最低と、こういう人はどうするか。
「信仰力がありますし、神様と守護霊様のお力が絶対ですから、こんなものは関係ないですよね、先生」
「ええ、全く関係ないです」
最悪の場合だったら、見れば見るほど悲しくなりますから。そういう場合はどうしたらいいかというと、見ないこと、見ないのが一番です。
けれど、見ないといいましても、やっぱり気になるのもまた事実です。
だから、もっと自分をプラスにし、こういう先天の悪いものを改善するために、徳を積む。これがとても大切なのです。
そのことだけを考えていたらいいのです。徳を積むことしか、先天の命運を真に改善する道はないのですから。第一章、第二章で詳しく述べたとおりです。
というのも、全知全能の神様の力だけは絶対力だからです。どんなによく当たる占いでも九分九厘、九九パーセントで、絶対というものはありません。
それゆえ、絶対者に帰依して、絶対的な信仰力を持っている人は、全部これを凌駕する可能性があるわけです。
あくまで可能性です。あくまで可能性ではありますが、苦しみ、葛藤する中で、信力をベースに徳積みの精進を続けていくならば、苦しみ、葛藤がすべて霊的な糧になり、魂の栄養分になり、魂の進歩、向上のバネになる。
そして、知らないうちに先天の命運も改まっているのです。
何度も申しますように、方位という角度、墓相という角度、印鑑という角度、手相という角度、こういうものをどんなに見ましても、ここに根本的な解決策はありません。
ある程度ありましても、絶対的ではない。ですから、絶対的な信仰というものをベースにして、一つまた一つと、その可能性を結実させていけばいいわけです。
全知全能の神様に帰依していたら、易や占いは全く関係ないというものも偏しておりますし、こういうものは影響があるからといって、気にしすぎるものも偏しております。
正しい心構え、正しい迎え方をもって不即不離で見ていくのが最も正しいわけであります。
絶対者への帰依というのは絶対的なものですが、信仰しているからといって、すぐにカルマが消えるわけではありませんし、神様を信じているからといって徳分がそれだけでふえるものでもありません。
こういうものをすべて包含したところの中に神様がいるわけですから、神様への信仰もすべてではない。
あくまでも神様の一部をとらえているだけです。絶対帰依の信仰は、全知全能の神様を動かす究極の一厘ではありますけれども、信仰がすべてなのではありません。
天地の理を知って、よく実践し善行を全うしなければ、神様に近づき、神様を識り、神様の御心にかなうとはいえないのです。
このように、絶対者に対する絶対的帰依とは、一番大事なところではありますけれども、一番大事なところがあったらあとは要らない、というわけではありません。
改善、努力の糧として、すべての正しき道を見ていく努力も必要なのであります。
そうして劫をなくし、徳を積み、世の中に役立つようなおのれをつくっていくことが大切です。生まれてきた目的は私の本で何度もいっていますように、魂の錬磨。そのために私たちは生まれてきています。
魂を磨かんがために生まれきているわけです。魂を磨くとは、上乗へ至る、上のほうへ上がっていくこと。上がった分だけ世の中に徳分を残すことができる。
上に上がっていくには二種類。霊的にランクが上がっていくのと、霊的覚醒度合いがふえていくこと。
つまり、いかに霊的なランクを神様から与えられたか、そして、いかに求道し、どれだけ悟ったか、真理を体得したか。この二種類なのです。
徳分というのは、どれだけ衆生を救済したのかということと、どれだけ世の中にお手柄を立て、社会的に貢献できたのかという功候とがあり、この二種類が徳分なのです。そして、徳分を残す行いが慈善です。
陰陽に分ければ求道(内修)と慈善(外慈)。求道をさらに陰陽に分ければ覚醒と向上、慈善も陰陽に分けると、徳分と功候。全体では四種類に分解することができます。
それを一言でいいますと、魂の錬磨となります。
肉体を持って生まれてきた理由は、この魂の錬磨にあるわけで、決して運勢をよくするために生まれてきたのではありません。
運勢を悪くするために生まれてきたのでもありませんけれども、運、不運とか、そういうものを乗り越えたところで魂を磨かんがために生まれついている。
運、不運とは、その運びがいいか悪いかだけのことです。運びがよくなっているのと、運びが悪くなっているのとの差にすぎないのです。
好運期と衰運期の真の意味
それからもう一つ、運、不運についていわなければいけませんが、前にもいいましたね、衰運期と好運期の違い。いずれも農機具のことをいってるのではありませんが、衰運期、好運期と申しますのは、人間の尺度から見たものでありまして、あの人はいまちょっと衰運ですね、好調ですねと。
これは人の目から見た角度です。盛運――セイウン、お線香の名前のようですが、盛運の人というのは、社会的に、外へ打ち出して行く運気が盛んであるということです。
陽の世界、つまり、社会的に形ある世界に自然に動く時期にある、というのが盛運です。私たち人間から見た盛運とは、こういうことをいっているはずです。
このときには、出なければならないので、思い切りそこでやればいい。
けれど、増長魔になったり、魂を錬磨することを忘れますと、運気に乗っかりすぎまして、調子に乗って足元がすくわれる。これが好運期、盛運期の問題点です。
これに対しまして、衰運期というのは、あの人はいまなにをやってもだめだと、いま、なにをやってもよくないなという時期。いわば四柱推命でいう空亡期といわれるものです。
このときには、なにをやってもだめだというのですけれども、これはあくまでも人間の目から見た尺度でありまして、神様の目から見たらどうかといいますと、内面的なものを勉強し、内面的な自己というものを錬磨して向上する時期、いわゆる陰の世界を養成し、発展させるという気が盛んなときです。
これが神様の目から見た衰運期の意味なのであります。
あくまで盛運期と衰運期というのは、人から見た角度です。神様の目から見たら、内面的なものを磨く時期と、外へ出て活動する時期、陰と陽との違い、ただそれだけなのです。いずれも好運期です。いずれも盛運期、いずれも進歩、向上のときなのです。
先ほど申しましたように、人間は、魂を錬磨せんがために生まれてきておりますので、内外両面の世界を錬磨しなければなりません。
ときには面白くないことがあったり、嫌なこと、不幸なこともあるでしょう。けれどこれは、内面的なものを磨きなさいという時期なのであって、衰運期だからというわけではありません。
そうして、内面を磨いたら、今度は外へ出て活動して、それを表現して社会体験と実績を積みなさいということです。これが神様の御心なのです。
吸入、圧縮、爆発、排気というエンジンの機能と同じです。呼吸と同じです。息を吐くときが盛運期で、吸うときが衰運期です。
吸って吐いて吸って吐いて呼吸ができるのと同様、人間には好運期と衰運期、この二つのバイオリズムが生まれながらに設定されているわけです。
運のいいときと不運のときをなぜ神様がつくったのか。これが読めないとだめです。
なんでも調子よくいっておりましたら、増長魔になって失敗します。逆にたえず衰運で、たえず内面にばかりに向かっていますと、人間がクサって、非常に卑屈な人物になります。
人間、落ち込んでばかりおりますと、やる気をなくしますし、自信をなくすし、もう死にたくなってしまう。陰が過剰すぎるのです。
陰があまり強すぎますと、死んでしまいますから、やがて陰極まりて陽へ変わっていく。そして、陽極まって陰。陰と陽との繰り返し。衰運と盛運というふうにいわれているものは、陰と陽と考えてください。
内面的進歩と外面的進歩と考えてください。
『荘子』にこういうことが書かれてあります。自分が認められて、社会的に評価されているときも増長魔にならなくて、淡々と栄光と成功の上を歩いて精進を怠らない。
また運期でおのれの実力と技量が認められなくて、普通なら悶々と苦しんでいるときも、ちっともクサらないで、営々と努力を重ねて怠ることがない。
これ、すなわち真人なりと。衰運でも好運でも、運がよくても、不運でも全く関係なく、運のいいときはいいときなりの過ごし方をして、運の悪いときには悪いときなりの過ごし方をして、全く平常心で前向きに精進する日々に変わりがない。こういう生き方をしなければ、修業しているとはいえない。
神様の道を極めているとか、学んでいるとはいえない。そうでなければ俗界の人たちとなんら違うところがない人生となることでしょう。
このように、衰運と好運をおつくりになった神様の大御心を正しく見て、立派に乗り越して行けばいいわけであり、こういう生き様をしなかったならば、本当の人生を送ったことにならないのであります。
最も尊い命運を改める努力
私ごとですが、かつて気学の先生とか、四柱推命の先生に見てもらいましたら、「深見先生は、星と全く違った人生を送っておられますね」といわれました。
どちらかというと、私は派手な、顔見ても派手でそっ歯じゃありませんよ、歯出じゃないわけですから。どちらかというと、コンサートのときのように、わりかし明るくて、天真爛漫で派手な人間でございます。
いっちょうやるかと、『憧れのハワイ航路(晴れたそら~)」というような感じでいく人間が、地味に徹して、本でも顔を出さないし、週刊誌の取材にも応じませんし、テレビの出演要請にも一切OKしません。
何度テレビ出演を要請されたかしれませんが、一切出ないですし、これからも出るつもりはありません。
本でも顔を出しません。別に、エレファントマンのような顔をしているから出ないわけではありません。
やはり修養の道と、天地順応の道、ねばならないことの修養を第一としているからなのであります。
自分が出たいからとか、有名になりたいからとか、生まれながらの資質世の中に表現したいからとかの気持ちで生きておりましたら、どこに修養があるんだ、どこに錬磨の道があるんだ、ということになります。
派手な人は派手な人生を送り、地味な人は地味に人生を送っていく。
運の悪い人は運が悪いように生きていて、運のいい人は運のいいように生きているというのだったら、どこに神様の修業をしている意味がある。
どこに修養の意味がある。そう思いませんか、皆さん。だから私は、気学の先生とかに見てもらいましても、「全然星どおりになっていません。
全くなさっておられることと星とは逆ですね。
深見先生のお知恵は後天的におつくりになったお知恵ですね」といわれるのですが、先天的には馬鹿なのかと、一瞬私は文句をいいたくなりましたけど、本当に後天的な知恵でございます。先天的な知恵ではありません。
神様からいただく叡知なのです。
方位とか運勢とかを改善するのではなく、修養、学問、教養を積み、神様の道に根ざした修養をしていって、先人たちの立派な生き方をも勉強して、一歩でも近づこうと努力する。
しかも、それは知識だけではない。聖人あるいは神人、先哲たちの生き方をわが糧にいたしまして、神人合一の道を生きる努力をしていく。
その修養をしているから星どおりに、先天の命運どおりにいっていないわけです。
衰運期のときなんかでも調子よくいっていますし、好運期(耕運機)のときでも全く地面なんか耕さないで、常に努力することを忘れずがんばっております。
ですから、性格が明るいとか、暗いとか、派手とか地味とかを乗り越えまして、派手なときには派手、地味なときには地味、控えるべきときは控え、出るべきときには一気に出る、という具合いによく中を得ておりましたら、その先天の性質そのものが一見してもわからなくなるわけです。
もともと私は、救霊をしたり、守護霊、前世鑑定などをすることよりも、「憧れのハワイ航路』を歌いまして、明るく元気に仕事をしていくほうが合っている人間なのでございますが、いかんせん、神様から白羽の矢が立ちましたものですから……。
もう、ささった跡が痛くって……。
何度も嫌だ嫌だといいました。けれど、やっぱりご神縁だからと選んだ道でございます。こういうふうな人生を送っているわけですが、姓名判断の先生が見ても全然当たらないし、四柱推命の先生が見ても当たらない。
ホロスコープの先生が見ても、気学の先生が見ても当らない。もちろん当たっている面もある程度はありますけれども、悪いところは反省、努力してそうならないようにしております。
これがやはり修養している値打ちなのだと、自分自身に常々いって聞かせているわけです。
なんでもそのとおりにぴったり当たっている人というのは、先天の命を変え得るだけの努力、修養をしているとはいえないことになります。
「名前は悪いですけれども、努力すればよくなりますよね」
「生れながらの星はよくありませんけれども、先生、努力でなんとかなりますよね」
と、よくいいますが、そのとおりです。しかしその努力の種類とレベルが問題なのです。
努力の種類とレベルとは、たとえば、もともと努力するという星に生まれている人がいますね。
横尾忠則さんなんかそうなんですが、そういう人は努力をするのが苦ではないのです。だから、なるべく努力しないで人にさせる努力が要るのです、そういう場合は。
なんだか、わかったようなわからないような話ですけれども、なんでも努力して自分でやる人は、そのなんでも努力してやるというのが欠点の場合もあるのです。
自分が出しゃばりすぎないほうがいい場合は、努力しないで、なるべくおのれ自身を車軸のようにして他を生かし、悠々として人にやらせて管理していく。
そのように、生まれながらの性分を変えるだけの努力を続けていくと、星どおりにはいかない。その、先天の星どおりにいかないことが尊い。
後天の修養をすることによっ先天の命運を変えてしまう。この努力こそが徳の始まりであり、一人ひとりのご神業の基礎でもあります。これを命運を改める努力というのです。
命運を改める努力、すなわち造命の法といいまして、陽明先生がいったわけです。人間の生まれながらの命運と命式を知って徳を積み、修養することによってこれを改善していく。これを造命という。
日々新たなる自分の命をつくっていく。命をつくるだけの努力こそが本当の努力であり学問なんだということです。
単なる知識習得の学問というのは、インテレクチュアルになっただけで、分析ができたり、知識が増えますが、造命をせしむる学問こそが真の学問なのであり、造命をせしむるだけの信仰力こそが本当の信仰力なんだ、修業なんだということを知っていただきたいのです。
滝に打たれても、全然性格が改まらなかったら、そういうものは修業といいましても、レベルの低い修業です。
本当の修業とは、造命楽天の創造的な日々に、神人が一つとなって神徳を現わし、この世の中を具体的に改善してゆくことであります。
こうするうちに、自然に徳が積めて、天から定まった命数が改まり、生まれながらに持った天命や命運も改められるわけなのです。
こういう、天津神、国津神、宇宙を創造された主神の法則性と道に合った努力さえすれば、どんどんと先天の不運が好運に変わり、好運がますます盛運に変わり、死ぬまでずっと続いていくのであります。
運、不運というものはそのように神様がつくったものでありまして、普段と全く変わることなく、平然と乗り越えていく波乗りのようにしていけばいいわけです。
ですから、因果を昧まさずなんていうことが『大天運』に書いてありましたが、因果を昧まさずというのは、運、不運を昧まさず、盛運、衰運も昧まさず、運のいいときは運のいいときの天運に合わせて最善に楽しく乗り越え、運の悪いときは運の悪いときなりに内面的な向上を目指し、一番すばらしい乗り越え方をして楽しんでいる。
こういうふうに発展的にとらえることもできるはずです。そして本人は、平常心で淡々と造命楽天で生きている。
前世のカルマを苦しんで抹消しながら、徳を積んでいくことに生きがいをもって意欲的に生きている。苦しむべきときには苦しんだらいいと、楽しみながら励むことができる。
むろん、苦しみたくないと思うから、みんな神様にすがるのかもしれませんが、苦しむときには大いに苦しんだらいいのです。
しかしただ苦しまないで、苦しみをバネとし、糧として、苦しみを凌駕するだけの勇気と魂の力を持ったらいいのです。そうすると苦を感じません。苦は苦であっても、苦を感じないようであれば実質的には苦しくはないのです。
先祖のカルマ、自分のカルマがあるわけですから、苦しいときは誰でもあるわけでありまして、造命する生き方、命運を改めていくという生き方を選んでいかなければ、後天の正しい努力、正しい修養、正しい神業ではありません。
これが本当の神人であるし、神様の道に生きる人間の姿なのであります。
神様の道、神人合一の道といいましても、拝んでばかりいるだけが信仰ではありません。おかげ信仰はよくないといいますが、おかげ信仰の逆はなにかといいますと、こういう信仰です。
正しい天理と正しいご神意にのっとった信仰。神様の御心を理解して、積極的に楽天的に成就し、日々こういうふうな努力を続けながら幸せに信仰しているというのが、まことに真実と天の正しき道にあった惟神の道であり、信仰なのです。
この逆がおかげ信仰。おかげが欲しいからお願いし、おかげがなかったら去っていく。おかげがあるから行って献金をし、あぶらげもあげる。これはおかげ信仰です。
神様の道や自分の究極の幸せを知るために、最初はある程度そういう面も必要かも知れませんが、いつまでもそれではなさけない。
造命し、命運を改めて先天の運をすばらしくする豊かなる日々を送れば、神々も喜ばれ、社会もよくなり、来世はもっとすばらしい先天の運を持った人生が繰り広げられることでしょう。
こういう生き方でなければ、こういう人生でなければ、本当の意味でもすばらしい人生ではないと思います。
ということで、たいへん講義が長くなりましたが、運、不運につきまして、基本的な考え方をお話いたしまして、講義を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
※この章は、昭和六十二年十一月度「関東定例セミナーにおける講演を編集・構成したものです。
