まえがき
かつて、我が師・深見東州(深見青山)先生が、ご著書「大創運」の中で、こうおっしゃっていました。
「この世の成り立ちは人間だけによるものではない。私たちの世界は、霊界、さらに神界によって保護されており、その中で人は、はじめて生きていけるのだ」と。
この世の中には、さまざまな人がいます。
たくさんお金を持っていて、ちっとも生活に困らない人がいるかと思えば、明日の米代にも事欠くような貧しい人がいたりします。有名な人もいれば無名の人もいるし、職業だって千差万別。
王族や宗教家に生まれる人もいれば、戦乱のさなかに命を失う子どもに生まれる人もいます。
それは、誰だって、立派な人間になりたいと考えますし、平和で安穏な暮らしを得たいと思います。でも、現実はそうじゃありません。いったい、そういう人の運命の違いは、どこから生じているのでしょうか。
ここに登場するのは、どなたでもご存じのスーパースター、二十六人。
それこそ、功なり名を遂げた人々です。ディスクジョッキーという仕事がら、本書に登場する
人たちには音楽関係のスターが多くなっていますが、そのひとりひとりの運命の綾について、深見先生にお話を伺いました。
私の番組でもご紹介しましたが、スーパースターたちの前世というのは、とても面白いんです。あの人がなぜ成功したのか、あの人がなぜ殺されてしまったのか、すべてが納得できてしまう。
驚き以外の何物でもないのですが、前世と今世との因縁で決まっているのです。
その深見先生のお話をあらためて、こういう一冊の本にまとめました。
前世がどういう形で、今世の私たちに影響しているのか、そして、私たちは今世で何をしなくてはいけないのか。そういうことを読み取っていただければ、望外の喜びです。
深見先生は「大創運」の中で、こうもおっしゃっています。
「神霊界の成り立ちの法則を知り、そこに住する霊達に対する愛情を感じ、その愛に応える努力をする人が、成功者となり得るのだ」と。
一九九五年三月一〇日
皆さま、今日は!藤本みどりです。この度、わたしの担当している人気コーナー!ダイナマイトDJ!(自分で言うところが可愛いでしょ)のこれまでの総集編を本にすることができました。ところで、皆さんは前世って信じる!?つまり、生まれ変わりってことです。
実は私も、最初、それを私の師匠で、世界的
超能力者の深見東州先生から聞いたときに、もうビックリするやら、嬉しいやらで、思わず声をあげちゃいました。
私も過去に誰か別の名前で、他の国で、違う人生を歩んでいた・・・・・・。ステキじゃありませんか!!それでは今日は、世界的な超スーパースターたちの、驚くべき前世を、次々に紹介してみたいと思います。
マドンナ(歌手)
《プロフィール》
1960年、米ミシガン州生まれ。66年一家でニューヨーク州ロチェスターに移る。 16年ミシガン州立大学の舞踊課程に入学。
77年、35ドルしか持たずに単身でニューヨークに行き、アルブィン・エイリーのもとで本格的にダンスを習う。90年、サイアー・レコードと契約。「エブリバディ」で歌手デビュー。
翌年「バーニング・アップ」で全米ダンス・チャート1位を獲得。86年には「ライク・ア・ヴァージン」で世界ニカ国で1位を達成、2300万枚を超える大ヒットとなる。
66年、アルバム「トゥルー・ブルー」は2600万枚を売り、売上げ総数のギネスブック入り。その後、映画や舞台、写真集「SEX」を出すなど、幅広く活躍。
こんにちは。今日は大好きなマドンナをご紹介したいと思います。
マドンナと聞いて、まっ先に目に浮かぶのは、なんといっても、あの引き締まっ肉体の美しさですね。彼女の菜食主義は有名ですけれど、もちろん、それだけで、あの体が作れるものではありません。
なんと毎朝2時間、約14キロもジョギングをしているということです。そういっ陰のすさまじい努力に感心してしまいまして、私もぜひ見習おうと思っております。
さて、なんといっても、マドンナの実績というのは大変なものです。
アルバム『トゥルー・ブルー」は実に2600万枚も売れていますし、アルバム売り上げ総数は、全世界でなんと1億数千万枚!これはギネスブック入りしております。それに、全米ナンバーワンヒット曲が1曲もあるというのは、歴代女性ボーカリストの最高記録なんです。
そして、忘れてはいけないのが、写真集「SEX BY MADONNA」。世界7カ国で200万部、日本では40万部のベストセラーになっています。ニューヨークでは、買えなかった人のために、お金をとって写真集を見せる人がいたんですって。
もう、ほんとうに大変なヒーローですよね。
そして同時に、スキャンダラスなセックスシンボルでもあります。
行動も発言も過激そのもの。プロモーションビデオが放送禁止になったり、同性愛を告白したり……。そういう人ですから、デビューの頃から、不道徳だとか、ふだらだとか、常に非難されてきました。
でも若者、とくに女性にとっては、マドンナというのは、タブーを壊して男性に勝った女性。シンボルなんです。
マドンナ現象なんて呼ばれていますけれど、既製の文化を壊してくれるからこそ、彼女を崇拝するんですね。
そのマドンナ、本名マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チコーネは、1960年8月16日にミシガン州デトロイトの北、ベイ・シティという小さな町の敬虔なカトリック教徒家庭に生まれました。
生活程度は中流の上。8人兄弟の長女で、優しいけれど、きかん気の強い子どもだったそうです。
悲しいことに、マドンナが5歳のときにお母さんが亡くなり、それ以降はお父さんに育てられています。9歳のときにお父さんが再婚。このことを、マドンナは裏
切られたと感じてしまったんですね。こんなコメントがありました。
「もう誰も頼りにしないって誓ったの。二度と傷つきたくない。わたしは一人で好きなように生きて、誰にも心は渡さない」
お父さんの愛情をめぐって、家族の間でも、感情の軋轢がそうとうあったようです。そのため、マドンナには母性的なものが欠落しているともいわれていまして、こんなエピソードが伝えられています。
ニューヨークで、ファンの小さな女の子が二人、一日中ホテルのロビーに座って待っていました。スタッフがサインくらいしてあげたらというと、マドンナはつかつかと歩み寄って、「あんたたちにサインをしたら、全員にすることになるの」といい捨てて立ち去ってしまったそうです。
早くにお母さんが亡くなったことや、お父さんをめぐって継母や兄弟姉妹と争ったために、深く傷ついているのでしょうね。
彼女がスーパースターになってからも、家族とは奇妙な関係だったそうです。実家を訪れても特別歓迎されることもなく、リビングルームの床で寝袋に入って寝ていたのだとか。
普通だとそういう環境では、グレて不良になったりするのでしょうが、彼女はそうしなかったんですね。ここがマドンナの凄いところなんですが、高校のときの成績が、なんとオールAだったんです。
「父親の関心をひくのに必死だったから、学校の勉強だけは頑張った」
高校の成績はオールA!しかもチアリーダーとして活躍していました。これって、アメリカでは凄いことなんですよ。
高校を卒業いたしまして、バレエの奨学生としてミシガン州立大学音楽科に入学しました。
ところが、野心に満ちたマドンナは、すぐに中退してしまいます。
そしてニューヨークへ。 1歳の彼女が手に持っていたのは、たったの30数ドル!考えられますか?今の為替相場で、わずかに4000円ですよ。凄い女性ですね。でも、ニューヨークで待っていたのは、どん底に近い生活。
「昼間はドーナツ屋の売り子やウェイトレスをして、夜、ダンスを習っていた」
「通りのゴミバケツをあさるのよ。そこに、ポテトやハンバーガーの残りが見つ
かったらしめたものだってわけ。ほとんど浮浪者と同じ生活だったわ」
後年、マドンナはそう語っていますが、同時にこうもいっています。
「あたしはタフで野心的で自分が欲しいものがよくわかってるの」
どうですか?この自信に満ちた言葉。成功する人というのは違いますね。
日本ではあまり知られていないようですけれど、マドンナという人は、アメリカで最も頭の切れるビジネス・ウーマンとしても有名なんですよ。
レコードやコンサート、映画、ビデオなど、それぞれを管轄する6社のCEO (最高経営責任者)でして、すべての決定事項や交渉事は、直接マドンナが決裁するそうです。
大変な権力を持っている実業家なんです。
つまりマドンナは、世界で最も成功したキャリアウーマンでもあるわけです。当然、ビジネスには厳しい人で、プロジェクトは何か月もかけて、綿密にプランを練るのだとか。
表面に出ているマドンナの印象からは考えられませんが、毎晩ベッドに入る前に、翌日すべきことを必ずメモしているんですって。
マドンナの行動や発言は計算されつくしているんですね。
例えば、ほんの少し前までの肉感的なイメージから、今のヘルシーな美女イメージへ変身したときもそうです。いろんな雑誌やメディアで、洗練された新イメージを売り込んだんです。「幼児太り」を10ポンド落として、それを筋肉に作り替えたという記事は日本でも有名になりました。
「製品があったら、あとは宣伝よ」
自分という商品を、よく計算したうえで、最も効果的な方法で売り出すコツを知っているんですね。
これこそ、「わたしは一人で好きなように生きて、誰にも心は渡さない」と語った言葉の実践なのではないでしょうか。自分の運命は自分で握り、自分で支配しているのです。
そんなマドンナにかかると、世界の大会社も手玉にとられてしまいます。
1989年、コーラのペプシはマイケル・ジャクソンに続く「大物CMキャラクター」にマドンナを起用しました。
このCMは、世界40カ国のゴールデンアワーに同時放映されまして、なんと2億5000万の人が見たといわれています。
それだけでも、もの凄いことなんですが、それからわずか数時間後に、「ライク・ア・プレイヤー」のシングルとビデオが全世界でリリースされたんです。売れないわけがありません。
ところがビデオのほうは、黒人の聖者とキスしたり、十字架を燃やしたりという過激さで、キリスト教団体が怒ってしまい、ペプシ不買運動まで起きたんです。
結局、ペプシはアメリカではCMを中止、マドンナのキャラクター使用もやめてしまいました。
宣伝どころか大変なイメージダウン。
ところが、曲自体は大ヒットしたんですね。「ライク・ア・ヴァージン」の記録も破ってしまいました。
転んでもタダでは起きません。それこそ、大騒ぎになるこを計算していたんじゃないかと思ってしまいます。
どうです?男だとか女だとか、そんなことにまるで関係のない、ホンモノのビジネスウーマンでしょう?もう、尊敬しちゃいます。
そんなスキャンダラスな人ですが、調べましたら、なんと日本では、高校2年生の英語教科書に出ているんですって。
まだその教科書を見ておりませんが、生い立ちやサクセスストーリーを3ページにわたって紹介しているそうです。
たしかに、高校生は映画や音楽の話が好きですから、英語の苦手な生徒でも、辞書を引きなが読んでみようと思うんじゃないでしょうか。グッドアイデアです。
最近のマドンナの動向で、今、最も注目されているのが、「NBA(ナショナル・バスケットボール・アソシエーション)のチームを所有したい」といい出したこと。
「もしマドンナがチームを持てば、マドンナのハーレムになってしまう」と、
NBA関係者が恐れおののいているという話もありますから、おかしいですね。ビジネスウーマン・マドンナ、今度はいったい何を狙っているんでしょうか。
前世は?
さて、もうほんとうに、スターになるだけの努力を一生懸命しているマドンナですが、先日、深見東州先生に彼女の前世を鑑定していただきました。
それでわかったことなんですが、なんと、彼女はエジプトの女王だったことがあり、また、ある時はインドの王様、そして宗教家という、ほんとうにすごい大きな人生をずっと送ってきているということでした。
深見先生の著書「大創運』のほうにも、彼女の前世は、スペインの総督として植民地の開拓のほうで、大活躍をしたと書いてありましたが、その他でも(別の前世でも)、もうしっかり神様事をしていらっしゃいました。伝道者として、たくさんの人を救済して、ほんとうにたくさんの徳を積まれた方なんですね。
今世は、その前世積んだいっぱいの徳が花開いて、信じられないぐらいのすごい富と、大きな成功を手に入れたという訳です。
これはもう、私もぜひ見習いたいと思っています。
フル・アルバムは9枚。発売順に、
83年「バーニング・アップ」
84年『ライク・ア・ヴァージン」
86年「トゥルー・ブルー」
87年8月「フーズ・ザット・ガール」
87年12月「YOU CAN DANCE」
89年「ライク・ア・プレイヤー」
90年6月「アイム・ブレスレス」
90年4月「ウルトラ・マドンナ・グレイテスト・ヒッツ」
92年「エロティカ」
94年「ベット・タイム・ストーリーズ」
すべてワーナーミュージック・ジャパン。発売日は国内盤の発売日
アイルトン・セナ(F1ドライバー)
《プロフィール》
FIドライバー。1960年(昭和35)年ブラジル生まれ。サンパウロ大学卒。 13年133歳でカートレースを始める。8年英国FFでデビュー、同年チャンピオンに輝く。86年英国F3優勝。翌年ブラジルGPでトルーマン・ハートからFIデビュー。
たちまちトップドライバーの仲間入りをし、20年に一人の天才と呼ばれる。 95年ロータスのナンバーとなり、4月ポルトガルGPで初優勝。88年には待望のマクラーレンに移籍し、プロストと共にジョイント・ナンバーー”となり、シーズン最多記録となる8勝目をあげ、初のシリーズチャンピオンへ。99年にもワールドチャンピオンとなる。99年ウィリアムズに移籍、その年、5月サンマリノ GPで激突死。
ブラジル・サンパウロ郊外モルンビー墓地。この小高い丘陵に広がる芝生の中に、「Nada pode me separat do amor de Deus」「神の愛とともに永遠に」と刻み込まれた墓碑があります。
この地に静かに眠る主の名はアイルトン・セナ・ダ・シルバ。天才ドライバーとして知られ、34歳の若さでレース中の事故で不帰の人となったF1レーサーです。
ブラジルでは「貧しい家の子はサッカー選手、金持ちの子供はF1ドライバーを目指す」といわれますが、セナの父ミルトン・ダ・シルバ氏は自動車部品工場を手広く経営する実業家。
金持ちの子セナは、4歳で父親からカートを与えられ、13歳からカートレースに出場していたといいます。文字通りセナは「レースの申し子」だったのです。
84年、トールマン・ハート。レーシングチームからF1デビュー。翌年にはロータスに移籍してポルトガルGP(グランプリ)で初優勝。
そして、マクラーレンに移籍したその年に念願のワールドチャンピオンを獲得。
以後、90年、94年と連続してワールドチャンピオンに輝いています。99年には、そのマクラーレンを離れてウイリアムズ・ルノーに移籍。GPでは161回出走して4回優勝(歴代2位)。
ポールポジション(PP)の獲得が通算66回。これは歴代1位の記録です。
セナは4回の優勝のうち3勝をマクラーレン・ホンダで上げており、6年のF1 参戦から9年の撤退まででホンダが上げた714勝のうち、実に3勝がセナによるものでした。ことに移籍した98年には年間8勝のレコードを樹立しています。
「日本は僕にとって特別な国なんだ」
常々、セナはこのように口にしていました。
F1レースを通じて培ったホンダとの信頼関係。ゲンのいい鈴鹿サーキット。そこで応援してくれた大勢の日本のファン……。
日系人が多いブラジルは世界でも有数の親日国ですが、セナには日本に対する特別な愛着の思いがあったようです。
94年F1シリーズ第3戦サンマリノGP。イタリアのイモラサーキットで行なわれたレースは最初からトラブル続出で、何やら前途に暗雲が立ち込めているかのようでした。以下、時系列を追って見ていきましょう。
4月23日。最初のフリー走行でバリッチェロが事故を起こし、サーキット内の救急医療センターに収容。奇跡的に生命に別状ありませんでしたが、彼を見舞ったセナの表情には厳しいものがあったといいます。
選手の意向を無視した形で行なわれるレギュレーション変更など、オフィシャルの大会運営に不安を感じていたからのようでした。
4月30日。タイムアタック中に、ローランド・ラッツェンバーガーはヴィルヌーウ・コーナーの外壁に激突。死亡してしまいます。
事故後、その原因を確かめるために現場に向かったセナは、実地調査を認めないオフィシャルから公式注意を受けて、原因究明を阻まれてしまったのです。
彼はモーターホームに閉じこもり、後半の公式戦を放棄することを決心しました。
これは初めてのことでした。研ぎ澄まされた勘の持主であるセナの不安は、何か不吉な徴候を認めていたのかもしれません。
「彼はとても動揺していて、いやな予感がするといっていたわ。「できるなら、明日の日曜日は走りたくない」っていうのよ。多分、心の中で引退を考え始めていたのだと思う」
事故後、恋人のアドリアーナ・ガリステューは、このように語っています。
5月1日。セナは相当に緊張し、非常に不機嫌だった。彼にしては珍しく、小さな子供がサインを求めても断わるほど。スタートの瞬間が近づくにつれ、彼の緊張はさらに強まっていくようです。
13時50分。スタート10分前。コックピットに乗り込もうとしたセナは、何かに耐え切れないようにヘルメットを外すと水を飲んだ。普段には見られない仕草を見せたのでした。
そして、「全てOK!」といって、改めてシートに身を埋めた。これがセナの最後の言葉になってしまいました。
14時00分。いよいよ決勝スタート。しかし、またしてもスタート直後に追突事故が起こり、コースにペースカーが入りました。
そして、再スタートを切った7周目。トップをいくセナはタンブレロ・コーナーを曲がり切れずに直進。コースアウトして、そのままコース脇のコンクリート壁に時速200キロを超えるスピードで激突したのです。
マシンは大破。頭部から出血してぐったりしていたセナが、コックピットから救出されるまで15分もかかったといいます。
ヘリでボローニャ市内の病院に運ばれましたが、脳死状態に陥り、同日夕方(日本時間、2日午前1時15分)に息を引き取ったのです。
「セナ激突死」のニュースは世界中に衝撃を与えました。とりわけ、母国ブラジルと、セナ自身が「ブラジルに次いで僕のファンが多く、第二の故郷」と語っていた日本では凄いものがありました。
なにしろ、日本での彼の人気は爆発的で「セナに会いたい症候群」さえ生んだぐらい。88年日本GPで優勝した時には、
「鈴鹿でのレースは格別。日本のファンに優勝をプレゼントできてよかった」と、ファンに心遣いを忘れないセナでしたから……。
セナは大統領専用機で無言の帰国。遺体の側にはアドリアーナ・ガリステューが付き添っていました。
そして、ブラジルの英雄の死に、フランコ大統領自らが3日間喪に服すことを宣言し、5日の葬儀は事実上の国葬として行われました。式には一説には150万人ともいわれる市民がつめかけたといいます。
また、セナの愛車「マクラーレン・ホンダ」が展示されてある東京青山のホンダ本社には、連日1万人以上のファンが弔問に訪れ、セナの愛車に花を捧げているそうです。
セナは非常に信仰に厚い人だったようです。生前、彼は次のようなことをよく口にしていたといいます。
前世は?
「僕は神を信じる。神が僕を救ってくれていると思うんだ。人生の根源に神が存在し、すべてを創造し、守り、神がいなければ何もない。
人生の中の運は自分で切り開く、神はそんな僕をただ手伝ってくれているんだ」
そこで、彼の前世ですが、やはり信仰の道に生きた方でした。深見先生に伺いましたら、彼は独立戦争直後のアメリカで牧師さんをしていました。
それで、千人以上の餓死しそうな人々を救っていたそうです。今世、ブラジルに生まれたのは、前世でインディオの瞑想をしたり、インディアンの教化に努めていたからだということです。
そして、今世の彼が親日派だったのにも理由がありました。それは、前世で東洋に詳しい3人の友人から日本についての話を聞いていて、日本に興味を持ったまま亡くなったからだとのこと。
しかし、それほどまでに徳を積んでいた彼が、なぜ、あまりにも突然に天に召されてしまったのか?
その理由は、彼は餓死する人々を救済するために、奥さんを見殺しにして旅に出てしまったとのこと。また、戦争で自己防衛のためとはいえ、牧師でありながら3人の人間を殺しているのだそうです。
そして、何よりも、徳を使い切ってしまった。この3つの理由があるからだということです。
週刊誌では、生前のセナが匿名で寄付をしていたことが報じられていますが、彼の遺産は1000億円ともいわれており、それにしては寄付の金額があまりにも少ない。
やはり、今世での彼は、自分が受けている幸せに見合うほど徳を積んではいなかった。そういうことがいえるのではないでしょうか。本当に残念ですけど。
※徳と劫の解説
でも、再び素晴らしい生まれ変わりをしてくださるでしょう。私たちもそういう彼を見守っていきたいと思います。
人の幸・不幸は、その人の積んだ徳(人々を救済したり、幸せにしたことで与えられる天のごほうび)と、劫(人々を傷つけたり、不幸にしたことでしょうじる罪)の量によって決まるとされています。
一般には、前世に積んだ徳とで、主に今世の運は決定していると言われていますが、真実のところは、今世徳を積むことで、それは挽回できるのです。
また、徳は幸せの素ですが、この世で何か幸せを受けると徳は減っていきます。財運、名声、栄光 etc…….を受ける、などをはじめ、よき配偶者を得た贅沢な暮らしなどをする人は、普通の人の何倍、人によっては何十、何百倍というスピードで徳の貯金が消えていくことになります。受ける幸せの量が大きいからです。
その分、負けないぐらいの徳を今世積めばよいのですが、なかなか幸せに酔いしれて、貯金をどんどん減らしてしまう人がほとんどなのです。
また、徳は寿命にも深い関係があり、徳が切れると(貯金が0に近づくと)、寿命が終わってしまうことにもなります。
やはり、幸せな人は、その栄光の立場や富を、世の為、人の為に活用して、より大きな善徳を積んでいくことが、幸運な人生を持続する方法なのです。
そして今不幸な人は、徳がもともと足りないからですので、出来る限り、社会や人々に何か貢献できる事を行なうべきです。
そうして徳を積みながら、人生を送っていく人こそ、一番幸せな人だといえるでしょう。
そうすること(徳を積むこと)が、遠回りのように見えても、実は一番、幸せへの近道なのです。
深見先生は、人の徳と劫の量がすぐわかる方で、人の徳の増減をよく研究されていて、いろいろ私もアドバイスを聞かせて頂いています。
MIDORIもガンバッテ徳を積んでいきたいと思います。皆さんもガンバリましょうね。
【P.S. 深見先生からのメッセージ】
セナは来世、アフリカかドイツの農家に生まれて、超高速の耕作機械の世界的発明家となる。
マライヤ・キャレー(歌手)
《プロフィール》
歌手。1969年米・ニューヨーク生まれ。ベネズエラ出身の黒人技師の父とアイルランド系の音楽家の母の間に生まれたマライアは、生まれながらに音楽の素質を持つ。3歳のとき、シティ・オペラのソリストだった母の影響で歌う喜びに魅せられて以来、歌やソングライティング、アレンジの勉強に励む。
16歳で初めてデモテープを制作、1990年シングル「ヴィジョン・オブ・ラヴ」とアルバム「マライア」で念願の歌手デビュー。7オクターブといわれる驚異的な声域と、天性の音楽センスを見事に生かしたシングル盤は全米第一位のビッグ・ヒットを記録。セカンドアルバム「エモーションズ」もヒットし、1991年ビルボード誌年間ヒットチャートでポップス部門の第一位に輝く。
同年数々の賞を獲得し、アメリカ・ポビュラー界のスター・エンターティナーの一人となる。 1993年ソニー・ミュージック社長と結婚。1991年グラミー賞最優秀新人賞、最優秀ポップ・ボーカル賞を獲得。
ねぇ、皆さま信じられます?オクターブもの声域を持っている人間がいるなんて。実際、日本のアイドル歌手なんかでは、1オクターブ半でもいいほうだといいますけれども、なんと7オクターブという驚異的な声域を持つシンガーがアメリカにはいるんですね。
ちょっと信じられない思いがしますが、そんな驚異のミラクルボイスの歌姫マライア・キャリーを紹介いたします。
まだ、無名時代のことです。NBA(プロバスケットボール)のオープニング・セレモニーの際でした。
コートに立った彼女が「アメリカ・ザ・ビューティフル」を歌い始めた時、その場に居合わせた選手も大会関係者も、そして観客の誰もが、彼女に少しも関心を示しませんでした。
「いつものありふれたセレモニー」と思い、ある者は無表情にガムを噛み、ある者は連れや友人とのお喋りをしながら、セレモニー終了までの時間を過ごしていただけ。
誰もが期待に胸を膨らませながらプレーボールの瞬間を待ち望んでいるのですから、無名の歌手の歌なんかに無関心なのもうなずけます。
ところがです。彼女がメロディを自由自在に操り、ソウルフルに歌っていくうちに状況が一変しました。
会場内はシーンと静まりかえり、全員が彼女の歌に魅せられていったのです。観客は身を乗り出して歌に集中。ベンチに座っていた選手たちも、ある者は頭を垂れて耳を傾ける。ある者は彼女を見つめてうっとり……。
1分前には、誰も想像しなかった奇跡が起きたのです。
そして、エンディングに近づき、まさに驚異的ともいえる彼女の高音が会場いっぱいに響き渡った。
なんという素晴らしさでしょう。次の瞬間、会場は騒然となり、選手も観客も熱狂のあまり手を振り上げ躍り上がり、万雷の拍手を浴びせた。歌手としてのマライア・キャリーが一般大衆に認知された瞬間です。
この感動シーンは、確か、日本でも衛星放送か何かのNBA中継で放映されたのではないでしょうか。あまりにも劇的なデビュー。ファンにとっては、最高の瞬間です。
実際、彼女のデビューは、音楽界に新風を吹き込みました。
機械に頼り切ったテクノポップス全盛の時代に、彼女は人間の生の声の素晴らしさを、そして、音楽の原点ともいうべきボーカルの力で訴えかけることの凄さを身をもって示したのです。
彼女のレコードデビューは90年5月。そして、驚くべきことに、デビュー曲から連続5曲が全米NO1の座に輝いたのです。
これは、未だ誰もなし得なかった大記録。あれほど熱狂的な支持を得ていたプレスリーやビートルズでさえできなかった前人未踏の、すごい記録なんです。翌年には、グラミー賞最優秀新人賞を受賞。
また、アルバムのほうでも快進撃を続け、発売と同時に赤丸急上昇。ファーストアルバムの「マライア」に続き「エモーションズ」「ミュージックボックス」とヒットを飛ばして、なんとデビュー3年間で2000万枚以上を売り上げています。
ことに、セカンドアルバム『エモーションズ」は全米で800万枚以上。全世界では1200万枚以上を売り上げた大ヒット。彼女の才能・実力のほどをまざまざと見せつけることになりました。
と、ここまで書いていたら、新しい情報が飛び込んできました。彼女の最新アルバム「メリー・クリスマス」のCDが、日本での発売開始からわずか20日間で10 20万枚を超えたというのです。
日本洋楽史上の最短記録。これは国内盤の数字で、輸入盤を含めれば軽く120万枚を超え、最終的には200万枚以上も夢ではないとか。凄い!
ところで、彼女はただ今24歳なんですが、3~4歳の頃から「絶対に歌手になるんだ」と決めていたといいます。
つまり、「発願」していたわけですね。また、「スーパー・シンデレラガール」などと呼ばれることから、何か幸運だけに恵まれてスーパースターの座を獲得したように思われがちですが、実際は、相当に苦労したようです。
ちょっと彼女の生い立ちを振り返ってみましょう。
70年3月27日、アメリカ・ニューヨーク市生まれ。父は黒人の航空工学技師で、働きながら苦学したインテリ。
母はアイルランド系の白人で、シティオペラのソ歌手。この人種の異なる結婚には、車やゴミ箱に放火されたり、家に石を投げ込まれたり、父親の可愛がってた飼い犬が毒を盛られて死ぬなど、いろいろな嫌がらせがつきまとったようです。
加えて、夫はお堅い共和党員、妻はリベラル派。夫婦の間には意見の食い違いがありました。
夫婦ゲンカが絶えなかったようで、彼女が 3歳の時に両親が離婚。子供たちは母親に引きとられ、父親は去っていきました。
そして、7歳の時に兄が家を出て、以後16歳までに1回も引越しを繰り返したといいます。
決して楽ではない幼年期。彼女自身も、黒人との混血だという理由で周囲からいじめられもした。また、あまり裕福ではない家庭環境から、早くから自立していたようです。
「ハイスクールの頃には、もう、完全に自分の道を歩いてたわ」
そして、母親の再婚を機に17歳で自活。プロ歌手を目指します。
「昼間はウェイトレスやTシャツ売りのバイト。夜は曲作りやデモテープ作り」
チャンスを狙っていました。睡眠時間はせいぜい4時間程度。こんな逆境の中にあってもくじけませんでした。音楽があり、歌手になるという確固とした目標があったからです。
母親がオペラ歌手でしたから、マライアと音楽の結び付きは彼女の生まれる前かといえますが、彼女自身がはっきりと音楽を意識するのは、3歳の頃。リハーサルに連れられていった彼女は母親が歌劇「リゴレット」を歌うのを聞いて、自分も聞き覚えのイタリア語で歌い出したといいます。
この時の経験で、歌うことの喜びを知りました。
そして、歌手を目指す決心が芽生えたのです。以後、母について音楽の勉強が始まり、びっちりと音楽理論や発声法などを叩き込まれます。この勉強は、家を出て自活を始めるまで続きました。
「母にはとても感謝している。私が聴いたり歌ったりする音楽を制限しなかったから」
マライアはこのように語っていますが、クラシック、ゴスペル、R&B、ロック、ジャズ・・・など幅広いジャンルに触れ、自分の音楽スタイルを作っていくのです。ことに古いジャズに興味を持って薄幸の大歌手ビリー・ホリデイに魅せられ、ゴスペルにはとくに大きな影響を受けました。
「ゴスペルは自由な気持ちになることができる。純粋でリアルで深い精神性があるから」
自ら作詞・作曲・編曲を手がけ、デモテープ製作で知り合ったキーボード奏者ベン・マーキュリースとの共作が大半ですが、全曲が彼女のオリジナル。
音楽的には、もっとゴスペルやR&Bの要素を強く出していきたいとのこと。
そして、ある日突然、転機が訪れる。それは、現代のシンデレラ物語の幕開け。 1本のデモテープが彼女の運命を決定づけることになります。
マライアはあるパーティでCBSレコード社長トミー・モトーラを紹介され、自分のデモテープを彼に預けることができました。売れないアーティストにとって、関係者が集まるパーティは絶好の売り込みチャンス。
そうしたパーティでは、よく売り込み狙いのアーティストたちが会場をウロついています。というより、パーティに潜り込もうとして必死にコネを探し回っているんですね。
その日のマライアは幸運でした。運よくパーティに潜り込めたばかりでなく、業界の大物に紹介され自分のデモテープを手渡すことができたからです。
千載一遇のチャンスといってもいいでしょう。一方、トミー・モトーラにとっては、売り込み狙いで接触してくる人間は珍しくありません。いつもの、ごくありふれたパーティ風景のワンシーンでしかなかったのです。
途中退席したモトーラは、帰りの車の中でふと先ほどのテープを思い出し、聴いてみることにしました。それほど期待していたわけじゃなく、何気なくそうした行動をとったのです。
途端に、衝撃が走った。ガツーンと一発暗闇で殴られた思いです。どの歌も胸が震えるような感動です。
手遅れにならないうちに契約しなければ ……。彼は、興奮して震える手でマライヤの部屋に電話をかけます。
留守……。まだ帰宅していません。彼は留守番電話にメッセージを残します。
「トミー・モトーラです。電話下さい」
この一言から、彼女のスーパースターへの歴史は幕を開けたのです。
そのCBSレコード社長トミー・モトーラが、なんと今ではマライア・キャリーの夫。ふたりは98年6月9日に結婚。ニューヨークのセント・トーマス・エピスコベイリアン・チャーチ(聖公会教会)で行なわれた挙式では、20人編成のオーケストラと45人の少年聖歌隊が奏でる中、マライアは真珠をちりばめたウエディング・ドレスを着て式に臨みました。この時のドレスはベラ・ウォンのデザインで、ベールはダイアナ妃よりも長い8・2メートル。
まさに「現代のシンデレラ物語」です。
前世は?
さて、そんなスーパー・シンデレラ・ガールのマライア・キャリーの前世ですが、皆さま驚かないでくださいね。
なんとジャパニーズ、日本人でございました。どおりで、小柄で華奢な感じからアジア人というか、私たち日本人に近いものを感じたわけですね。
で、日本人だった当時は東大寺の僧侶で、役小角に憧れて修行した方だったとのこと。
幾つもの霊術を身につけ、不老神仙の道もある程度は会得しておりまして、たくさんの地蔵尊を彫刻し、人の病気を治したといいます。その功徳で、今世ではあのような素晴らしい声が出るようになったというわけです。
また、あらゆる神様や仏様と感応できたということですから、今もその閃きでどんどんと素晴らしい曲を生み出しているのです。つまり、彼女の音楽的才能は、前世で積んだ功徳の賜物。徳の高い分だけ才能が大きく開花してるんですね。
私は彼女の「エモーションズ」が好きなんですが、エモーションズ=感情という意味。マライアはこの曲の中で「恋人にこんな気持ちになったのは初めて」と、あの七オクタープの声で語りかけている。本当に素晴らしい。もう痺れてしまいます。マライアは、あるインタビューで声の秘密を聞かれて、
「それはたくさん眠ることと、紅茶にハチミツを入れて飲むことかしら」と答えています。
ですから、私もこれからは睡眠時間を長くして、紅茶にハチミツを入れて飲むことにします。マライアのような声になるかしら?
ジャネット・ジャクソン(歌手)
《プロフィール》
歌手。アメリカ出身。1966年、男6人女3人兄弟のジャクソン・ファミリーの末娘として生まれる。
1973年ジャクソン・ファイブの公演に飛び入り参加してデビュー。1982年「ジャネットジャクソン」でアルバム・デビュー。96年のサードアルバム「コントロール」が600万枚売れて、人気・実力ともにアメリカを代表する女性歌手に。 88年アルバム「リズムネイション-8-4」からのファーストシングル「ミス・ユー・マッチ」が全米トップに。
先頃、ミュージック界の超スーパースター、マイケル・ジャクソンが、あのプレスリーの愛娘リサ・マリー・プレスリーと密かに結婚していたことが話題を呼びましたが、そのマイケルの妹ジャネット・ジャクソンを紹介しましょう。
ジャクソン・ファミリーは男6人女3人兄弟の大家族で、ジャネットはその末っ子。
父親ジョセフ・ジャクソンは、ルイジアナ州ゲーリーの鉄工所から身を起こし、小遣い稼ぎに地元のブルース系のバンドでギターを弾いていたといわれ、一家全員が音楽好き。雰囲気が全て音楽に包まれていた、といいます。
「父がギターを弾き、母が歌っていた。母はカントリーミュージックが好きだったし、一家の皆がジャズやビートルズ、リズム&ブルースを聴いていたわ。皿洗いのお手伝いをしながら、全員で即興のコーラスを奏でたの。楽しい練習だった」と、ジャネット自身がインタビューで答えています。
実際、家庭環境が反映していたとは思いますが、兄弟全員が音楽の才能に恵まれていたのも事実だったのでしょう。
父ジョセフは、子供たちの音楽的才能を見抜いて、66年、コーラスグループ「ジャクソン・ファイブ」を結成して売り出します。このジャクソン・ファイブは、日本でもすごい人気でしたね。
ちなみに、男性兄弟だけの場合は「ジャクソンズ」。一公演のギャラが約20万ドル。当時のレートで約 4900万円だったといいますから、凄い!
73年、ラスベガスのMGMホテルで行なわれたジャクソンズの「ビクトリーズ・ツアー」の公演に、7歳のジャネットが飛び入りで出演。初舞台を踏んでいます。
でも、ジャネットのスタートはTVドラマからでした。 15年、9歳の時に子役でデビュー。準主役としてTVドラマ「グッド・タイムズ」に2年間出演。アイドルになったのです。
「人前で歌ったのは7歳。家中が音楽中心の雰囲気でしたから、マイケルの他にも姉ラトーヤは法律家になると見られていたのに音楽は忘れないし、ジャーメインも医学コースを選びながら、やはり音楽以外の世界には進めなかった。私の場合も、父の薦めで歌うようになって、結局、面白いから歌手を目指した」
歌手デビューは9年。16歳の時です。デビュー曲は、なぜか日本であまり高い評価を受けませんでしたが、アメリカではR&B全米チャート5位にランクされ、かなりのヒットになっています。
この点、やはり日米の音楽ファンの質や志向性、国民性などに差があるのでしょう。私は曲を聞いて「さすが血は争えないな」と感心してしまったのですが、皆さまはどうでした?
その後、3枚目のアルバム「コントロール」が爆発的大ヒット。ミリオンセラーなんてもんじゃありません。なんと世界中で6000万枚を売り上げるんです。
彼女に対する評価も、それこそウナギ昇りで、専門家は一様に「ポップス、ジャズ、ゴスペル、ラテンなど異なったサウンドの融合に成功した」とベタボメ。これで名実ともにジャネットは、世界的なスターの仲間入りを果たすのです。
このアルバムは文字通りジャネット自身が、誰の指図も受けず自らをコントロールして、自分を作り上げていく意思表示とも思えます。サウンドはもちろんですが、自分の進むべき方向性や音楽を通じて何を訴えていくのか。
自分に何ができるのか……………。そうした諸々のことを自分自身で確かめたかったのかもしれません。
ジャクソン・ファミリーの末娘、マイケル・ジャクソンの妹という殻を脱して、一個の独立したアーティスト「ジャネット・ジャクソン」へと大きく変身したのです。サナギが蝶になるように……。
といって、家族の絆が切れたり、肉親の情愛が薄れたわけではありません(念の為)。
アルバム「ドリーム・ストリート」のプロデュースには兄たちが協力し、映画『フラッシュ・ダンス」の音楽プロデューサーだったジョルジオ・モロダーを起用するなど、兄弟の強力なバックアップがありました。
また、ジャネットの成功を一番喜んだのは、兄マイケルでした。ジャネットのビデオ「ナスティ」を初めて見たマイケルは途中で泣き出してしまったのだとか。興奮を押え切れなかったのですね。そして、ジャネットに対して、
「ジャネット。僕はおまえを誇りに思うよ」という言葉をかけたといわれています。
ジャネット自身は自分の成功を冷静に見ているようですが、そんな彼女もサンフランシスコ郊外サンノゼで行なわれた公演では、ファンの絶叫に近い声援に感激。ついには、泣き出してしまいました。
アルバム「リズムネイション1814」は、貧困や差別がテーマですが、ファンの中には貧困や差別にさらされ自殺を考えたという子もいる。
そして、「リズムネイション1814」を聴いて思いとどまったとも。そうしたファンに対して、スターは社会的責任を果たさなければならない、と考えているようです。
きっと自分の体験に根ざしての思いが含まれているのでしょう。
人間的にも素晴らしい女性なのです。
前世は?
さて、「私の音楽のテーマは愛」というジャネットですが、ここで彼女の前世を紹介いたしましょう。深見先生にしっかりと聞いてまいりました。
江戸時代にまで遡ります。皆さまは三峯山をご存知だと思いますが、ジャネットはその三峯山で修行三昧の日々を送っていた行者でした。
しかも、皇室の血を引くご落胤。そして、深見先生の超能力によると、もっとも隆盛を極めた当時の三峯山の修業者達を導いた方であったといいます。
大スターになっている方には、前世に行者さんだった人が多いのですが、ジャネットの前世も行者さん。それもたくさん徳を積んだ方だったから、今のジャネットがあるわけですね。
ということで、私も、せめて今世はギョウザをいっぱい食べて行者になるんだ~っと。皆さまも一緒に協力してください。
ところで、皆さまにとってもジャネットのお兄さん、マイケル・ジャクソンのことが気がかりだと思います。で、ジャネットとマイケルの前世での関係なんですが、これも深見先生にお聞きしています。
中国の宋の時代。この時には、ふたりとも中国人だったわけですが、なんと親子だったのです。ジャネットがパパ。そして、マイケルがジャネットの坊やだったそうです。
しかも、ふたりとも恐ろしく頭の切れるというか、頭のいい天文学者だったといいます。
そして、今世のマイケルもジャネットも作詞・作曲に必要な圧倒的な咀嚼力を持っていますけれども、その才能は前世のその頃に培ったものだということです。
へぇ~!!驚いちゃいますね。あのマイケルとジャネットが、中国人の天文学者だったなんて。
でも、マイケルとジャネットは、兄弟中でも一番仲がいいんだとか。「小さいころはマイケルと一番仲が良かったけれど、今は物理的に一緒にいる時間がとても少ないから……。
でもマイケルは私の歌や踊りに助言してくれる」
と、ジャネット自身がそれを認めています。兄妹の仲のよさも、ふたりの前世の関係を聞けば納得ですよね。
また、こんな逸話も伝わっています。ジャネットは元々はぽっちゃり型で、マイケルはジャネットに「ダンク」というニックネームをつけていたそうです。
ロバ(ドンキー)からの命名です。普通ならプンプンですが、ジャネットはむしろそのニックネームを気に入っていたといいます。おっとり型のジャネット。いたずらっ子のマイケル・・・・・
そんな情景が目に浮かぶようですが、先ほど述べましたように、前世ではジャネットが父親。マイケルはその息子だったわけですから、当然といえば当然なんですね。
