アンドリュー・カーネギー(鉄鋼王)
《プロフィール》
1835年1月25日スコットランド生まれ。1843年米ペンシルバニア州に移住し、織物工場で働く。それから事務員、電報配達夫、電信技師、鉄道監督、工場主を経て、1866年機関車製造所を始める。その後、鉄道鉄橋をつくるキーストン橋梁製作所をおこし、これまで木製だった鉄道橋を鉄橋にした世界最初の事業であった。
1881年カーネギー兄弟会社を設立。この会社の鉄鋼生産額は、当時、全米生産額の50%を占める程であった。以後、事業から引退すると、労働者や教育家の福祉のため、学問や芸術の振興のため、世界平和のために、惜しみなく私財を出した。こうしてカーネギーは生涯の終わりまで、社会のためにお金を寄付し、その寄付総額は、3億3329万460ドルにのぼった。1919年没。
その男性は老齢に至り自分の死期を悟った時に、自分の墓碑銘として次のような言葉を刻ませました。
「ここに、自分より賢い人々を周囲に集める術を知っていたひとり人間が横たわる」
英国スコットランドの貧しい家に生まれ、13歳の時に一家を挙げてアメリカに移住。織物工場の職工として働き出したのを皮きりに、事務員・電報配達夫・電信技師・鉄道監督・工場主とさまざまな仕事を経験。
一歩一歩成功への階段を昇っていき、ついにはアメリカ最大の鉄鋼会社USスチールを創業して、巨大な財産を築いたその男性の名前は、アンドリュー・カーネギー―――。
「鉄鋼王」といわれた彼の成功物語は、数あるアメリカン・ドリームの中でも特筆すべきものでした。
織物工場で働き、初めて週給1ドル20セントを手にした時、彼はお金というものがどんなに貴いものであるかを知りました。
そして、電報配達夫をしていた時には、自ら初めて組織を作り、後年の会社経営に役立つ貴重な体験を得ました。自伝の中で次のように述べています。
「一定の距離を超えた地域に電報を届けると、手間賃として10セント徴収してもよい決まりでした。
したがって、「10セント電報」は皆が先を争って自分が配達しようと奪い合いになった。私はこれを解決しようと考え、皆に諮って徴収した10セントを合同資金として蓄え、週末毎に分配することにした。これによって全てが丸く納まり、平和と秩序が保たれるようになった。これは、私の最初の金融組織についての試みであった」
誠実で謙虚な性格が幸いして、彼は周囲の人から愛されました。また、自らも周囲から多くのことを学びました。この点では彼の性格からはちょっと異質なぐらい「貪欲」で、かつ猛烈に吸収したのです。
「私はその頃、ラムの「シェークスピア物語」などを読んで、文学も愛好するようになった。
そして、それからの人生が大変に楽しいものとなったが、それもアンダーソンさんのおかげといってよいだろう。全く私は、人生のもっともよい時期に、アンダーソンさんによって読書の目が開かれたのである。私は今や本を手にしないで生きることはできない」
後年のカーネギーは、世界各国に2811の公共図書館を寄贈していますが、それは自分の少年時代のこの体験が根底にあったからなのです。もう少し引用してみます。
「能力があり、それを伸ばそうとする野心を持った少年少女のために、私がお金でできるもっともよいことは、図書館を建ててやることだと確信するようになり、アメリカ全国にたくさんの図書館を贈った。その図書館で、多くの少年が、私がアンダーソンさんの400冊の本から受けた恩恵の半分でも受けてくれたら、私は本当に満足に思う」
いかがです?カーネギーが大変に素敵な方だったのが、本当によくわかりますね。
ちなみに、彼はピッツバーグの公会堂と図書館の前に、恩人のアンダーソン氏の記念碑を建てています。これによっても、いかに感謝していたかが推測できるような気がします。
いずれにしても、カーネギーは世界一たくさんお金を稼いで、世界一たくさんお金を使った男といわれています。実際、65歳の時にカーネギー製鋼(現USスチール)をモルガン財閥に売却し、88歳で死ぬまでの余生は財産を消費することに徹しました。
「人間はお金を持ったまま死ぬのは、大変に不名誉なことだ」という信念を貫き、妻と娘に財産の一部(約1割)を残して、使い果たしたのです。
図書館を寄贈した他、2000の病院を建て、教会へは8000ものパイプオルガンを寄付。そして、音楽の殿堂カーネギーホールを残したのです。
では、カーネギーの成功の秘訣は何か?
皆さまも大変に興味がおありだと思いますが、深見先生のミラクルスーパー超能力で彼の前世を明していただきながら「億万長者になる秘訣」をご紹介いたします。
もう皆さまは、アンドリュー・カーネギーが大変なお金持ちだったことはおわかりだと思います。で、彼のことをいろいろと調べていくうちに、私はすごく面白いことを発見したんですね。貧しい移民の子だったカーネギーは、十代前半からもう大人に混じって働くんです。
簿記を勉強するために夜間学校に通ったりもしていますが、ほとんど独学で勉強。17歳でペンシルバニア鉄道に電信技師として採用され、上司の引きで昇進していくわけですけれど、それにともなって彼は自分の仲のいい友人を推薦して入社させるんですね。
「次に私は、月収35ドルで、スコット氏専属の事務員兼電信技師としてペンシルバニア鉄道会社に採用されたのである。月収35ドルは、これまでの月収より10ドルも多く、このあたりから私に将来の億万長者としての基礎が、芽生えてきたといえるかもしれない。その後、友のロバート=ピットケーレンを推薦して鉄道会社に入れ、また、デビッド=マッカーゴも入ってきたので、電報配達夫だった3少年は、前後して皆ペンシルバニア鉄道会社に勤めるようになった」
この仲間は、後年、ひとりはペンシルベニア鉄道支社長。もうひとりはアレゲーニレー鉄道の社長、ミネソタで鉄鉱石鉱山会社の社長となり、そしてもうひとりの仲間が放送界の第一人者となったといいます。本当に、皆さま揃って出世をなさっているんですね。
西谷先生の『くっつき運」にもありましたけれども、やはり、運のいい人にくっつけば、その運をもらえるという、非常にお得な運のつかみ方の方法がここでこうやって紹介されているのには、私もびっくりしてしまいました。
そこで、カーネギーの前世を、深見先生に見ていただきました。
前世は?
何と、前世のカーネギーはインドの王様だったということです。ヒンズー教に大変に帰依していまして、君徳を3000万人にはからしめたといいます。
今までのダイナマイトDJで紹介したのは、3000人を救ったとか、そういった方たちが多かったですけれども、カーネギーの場合は何とケタ外れの3000万人。
1000万人以上というのは、彼が初めてなのではないでしょうか。ちょっと記憶を辿っても思いいたりません。病院を作り、教育を進め、そして紛争を解決する努力をした。本当に偉大な王様だったようです。
カーネギーは今世では中産階級に生まれ出て、「よく商をし富を成す」という、そういった宿命で生まれてきたそうなんですけれども、その一方では非常に慈善活動をしたということで大変有名なんですね。
でも、慈善は本性のものではなく、研鑽し学び、かくあるのが本当だと、努力して悟ったその結果なんだそうです。
カーネギーは前世でお妃をこよなく愛した本当に優しい方でありますが、影の部分ではいい知れない内部の葛藤とか苦しみ、困難などを抱えていました。でも、それをどんどん乗り越えていったといいます。非常に悟った方だったからでしょうか、元々自分に備わっていない特性慈善を行なうを引き出すことができたんですね。
実際、彼は今世では他に例を見ない程、慈善活動の結果を残しております。先に紹介いたしました図書館、病院のみならず美術館や音楽堂、そしてカーネギー協会、カーネギー財団などを創立して人類のために報謝しているわけです。
この事実を知って、西谷先生が、「家一軒さえも、犬小屋一個さえも建てられない人がいるのに、どうやってこんなになったんだろう」と、おっしゃっていましたが、本当にその通りで、私もつくづくと自分の人生を考えてしまいました。
ともかく、カーネギーはその生涯で大変な額のお金を慈善事業に使ったわけですが、結局、カーネギーの亡くなった1919年時点での数字で推定3億5000万ドル。あまりに大き過ぎてピンときませんが、途方もない金額です。それを公共のために使ったわけですから、非常に素晴らしい方だったことだけは確かだと思います。
このように調べてみてわかることは、前世が立派な人は、今世も同じく立派に生きている、ということです。ですから、自分の前世が、どんな人だったんだろうか知りたい、という方は、今世の自分の人生をみれば大抵、分かるんですね。
私もいっぱい、一生の内にいい事をしようって思います。
ジョン・D・ロックフェラー一世界(石油王)
《プロフィール》
1839年7月8日米ニューヨーク生まれ。オハイオの高校卒。農産物の仲買人から未開な分野だった石油トラストを設立。全米製油業の95%を支配し、「石油王」と呼ばれ、企業合同の先駆者となる。金融、鉄道に事業を拡大、業界に君臨したが、1911年引退。その後、1913年にはロックフェラー財団を設立し、ロックフェラー2世が後任した。シカゴ大学や財団の設立など、晩年は慈善事業で余生を送った。1937年没。
ロックフェラー一族といえば、世界的な大財閥として、皆さまよくご存知だと思います。そのロックフェラー財閥の基礎を築いたのが、ジョン・デービス・ロックフェラー1世。「石油王」ともいわれた方でした。
ちょっと古いですが、ロックフェラー財閥の巨大な財力を示す資料があります。 74年11月に発表された「ロックフェラー家の富に関する報告書」です。それによりますと、74年当時ロックフェラー一族の5人が管理する財産は、推定でも6400 億ドル(約200兆円)を超えるといわれています。
その他に、複数の巨大企業を直接、間接的に支配しておりまして、アメリカの10大銀行のうち6行(全米第3位のチェース・マンハッタン銀行など)、同じく10大保険会社のうち6社など。200社以上の企業に影響力を及ぼしているんだとか。中には複数の多国籍企業が含まれています。
ロックフェラー姓は元々「ロックケンフェラー」といい、18世紀初頭ドイツからアメリカへ移住。財閥を創始したジョン・D・ロックフェラー1世は、1839年にニューヨーク州リッチフォードで生まれています。
ロックフェラー財閥は、今でこそ金融支配によって巨大企業を傘下に入れ、アメリカのみならず世界の経済に強大な影響力を行使していますが、財閥の基礎となったのはロックフェラー1世が築石油産業によって。だから、彼は「石油王」と称されているわけです。
では、「億万長者になる秘訣」
石油王ジョン・D・ロックフェラー1世。この億万長者の前世を、深見先生のミラクルスーパー超能力で明かしていただきながらご紹介いたします。
ニューヨーク州で生まれたジョン・D・ロックフェラー1世は、高校卒業後、ある会社に会計係として就職。3年後には商事会社を共同で設立します。
その彼が、 1864年頃から石油事業に関心を持つようになります。当時のアメリカでは相次いで油田が発見され、ことにオハイオ州からペンシルバニア州にかけてはオイル・ラッシュで湧き返っていました。
彼は新しい産業である「石油産業」に注目したのです。「20世紀は石油の時代」といわれますが、もしかしたら、その後の「石油の「時代」を予測したのかもしれません。
手始めに彼は、石油の精製所を買収。次々と増やしていき、そのスケールメリットで生産能力を上げて、同業他社を圧倒していきました。
その一方では、鉄道会社提携して石油製品の輸送ルートを確保。膨大な利潤を得るようになります。そして、1870年には100万ドルの資金でスタンダード・オイル社を設立。88年には巨大石油トラストのスタンダード・オイル・トラストを完成させますが、これによって、何と全米石油生産高の95%を独占することになりました。凄いですね。
しかし、さしものスタンダード・オイル・トラストも、その独占体制に対する社会の批判が強まり、1911年には連邦最高裁判所の判決によって38社に解体。このうちの3社が、現在の石油メージャーのエクソン、モービル、シェプロンとなるわけです。
また、金融界にも進出。第1次世界大戦後にチェース・ナショナル銀行を手に入れると、さらにマンハッタン・カンパニー銀行との合併によって、現在のチェース・マンハッタン銀行を傘下に納めることになります。このチェース・マンハッタン銀行とエクソンがロックフェラー財閥の中核企業なのです。
西谷先生のご本で紹介されておりますが、ジョン・D・ロックフェラー1世は非常に寄付をされた方なんですね。生涯に個人で3兆円もの大金を稼いだといわれますが、そのうち1兆円を寄付したということです。現在では初代の意思を継いで、ロックフェラー一族は「ロックフェラー財団」や「ロックフェラー兄弟基金」を設立、運営しております。
また、彼は38歳直前まで生きるという長寿を全うしておりますが、その年齢になっても虫歯が1本もなかったとか。もう「恐ろしい」ぐらいの方ですね。そんな健康に恵まれた理由を私はさぐってみました。
それは、彼は36歳で生まれて初めて大病を経験。それを期に命の尊さを知り、世界中の人々に対して医療での救済に乗り出します。それによって、数知れない程多くの人々が命を救われているんですね。そうしたことへの功徳(天のごほうび)だと思うのです。
そういう、今世でも徳を積んでいる彼の前世は、いったい、どういう人だったのでしょうか?さっそく深見先生に聞いてまいりました。
前世は?
彼はトウショウキという名前の中国の官僚でした。軍隊から追われ 300万人ぐらいの難民を助け、彼らを餓死や疫病から救ったといいます。
この時の徳分で今世の彼があったわけですが、来世では120年後にチェリスト、オペラ歌手として生まれ変わるということでした。もちろん、チェリストとしてもオペラ歌手としても、大いなる名声を保つだけの徳を今世で残しているのだそうです。凄いですね。来世は「ドミンゴ」といった感じなんでしょうか?羨ましい限りです。
先ほど述べましたように、ロックフェラー財閥の中核企業の一つがエクソンです。エクソンは多角的経営でいろいろな分野に進出、超巨大多国籍企業に成長しているわけですが、世界的に有名な「エッソ」というガス・ステーション、実は、この会江もロックフェラーの関連企業なのです。
皆さまも、神社参拝の途中でエッソに寄ってガスタンクを一杯にしたことがあると思いますが、こういうところでも「ロックフェラーに助けられている私たち」といった感じがいたします。
そして、私は本当に「ああ、やっぱり今世に徳を残していくということも本当に大切だな」と、思いました。
さて、ロックフェラーセンターは、ニューヨーク・マンハッタンの中心部にそびえる3階建てのビルです。
ここは世界一の石油会社エクソンの本社ビルで、最上階には創立者のロックフェラー1世の使った机が展示されております。
ちなみに、このビルは、90年に日本の三菱地所が買収、ニューヨークっ子たちは「アメリカのシンボルが日本に奪われた」という気持ちで憤慨したものでした。正確には、三菱地所がロックフェラーグループ社(RGI)の株を80%取得。その子会社(RCPI)がロックフェラーセンタービルを所有している、という関係です。いずれにしても、ロックフェラーセンタービルは、ニューヨークの観光名所のひとつ。行かれる機会があれば、是非ここに立ち寄って、ロックフェラー1世の机をご覧になってはいかがでしょうか。
ピカソ(画家)
《プロフィール》
洗礼名は家族ゆかりのクリスチャン・ネームを寄せ集めたパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウロ・フアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダッドという大変に長い名前。
88年10月25日マラガ生まれ。バルセロナ美術学校、マドリード王立美術学校卒業。20世紀欧州美術の巨匠。絵画のほかに彫刻、陶芸にも数多くの作品を残す。
1900年にパリに渡り、町の裏側をモチーフとした<青の時代〉、モンマルトル定住後の薔薇の時代を経て、やがてキュービズム(立体派)を創始、新しい絵画形式を確立する。
第一次世界大戦後は新古典主義から表現主義、シュールレアリズム的傾向を強めたが、33年にはスペイン内乱時のドイツ軍によるゲルニカ爆撃を告発した「ゲルニカ」を発表して話題となる。第2次世界大戦後、フランス共産党に入ってからは平和・反戦運動に加わり「平和の鳩」等を描き上げる。1973年死去。
20世紀におけるもっとも重要な絵画運動。その一つが「キュビスム」であるといわれておりますが、この『キュビスム」の出発点となったのが、ピカソの習作『アビィニョンの娘』でした。『キュビスム』といいますのは、ちょっと冷たい言葉ですが、製作者以外にはチンプンカンプン意味不明の芸術表現。現代芸術の特徴の一つです。
実際、「アビィニョンの娘』を初めて見せられた友人たちには、きわめて不評。友人のひとり、普段は無条件にピカソの絵を認めていたアポリネールでさえ、
世界一の天才芸術家。
「これはまるで麻を食べるか、石油を飲めといっているようなものだ」といい放ったといい、評価を巡って大変な物議を呼んだそうです。
専門家の間でさえ評価が別れたのですから、当然、ピカソの絵はあまりにも個性的で、素人の私には理解できないところがあります。でも、反面、その値段といえば、もう三つ四つ桁を間違えてしまうほどの高さ。本当に、卒倒してしまいそうなぐらい高価なんですね。
で、ピカソの絵の値段と関連してのことなんですが、画商や研究者などの間で信じられていた神話がありました。それは「彼の家のどこかに秘密の扉が隠されていて、その部屋の中にピカソの未発表の作品が納められている」というものです。
ピカソは芸術家には珍しく、世間に数々のエピソードを提供し、プライバシーの一端を覗かせていた人ですが、それでもこのような神話が語られていたのです。
そして、73年に彼が91歳で生涯を全うした時、この神話は現実のものとなります。
彼の死後、総数4万点もの作品が発見されたのです。皆さま考えてもみてください。ピカソの絵は非常に高価なんですよ。それが一挙に4万点も出てきたんですから、金銭的な価値に換算すれば天文学的な数字になる。「驚くな」というほうが無理です。
事実、何よりも相続税を徴収するフランス政府が驚愕。相続税の算定に苦慮しました。ピカソが残した遺産は、この絵の他に三つの城館と二つの別荘をはじめ土地、住居、銀行預金などがあったのです。加えて、4万点もの作品・・・・・・。
フランス政府は、結局、ピカソの遺産総額を7400億円相当に見積もって、遺族に作品を物納させたのです。相続税の物納を命じた政府のこの処置は、国民からは「ピカソ法」と揶揄されたそうですが、それにしても凄い!ちなみに、相続者は6人だったといいます。
この時政府が選んだ作品は3658点。これらの作品は、パリ・マレー地区にあるピカソ美術館に展示されています。興味のある方は、そちらへどうぞ。
また、聞くところによりますと、ピカソは大変に女性(とくに若い女性)が好きで、何度も恋をして恋人の数も多かったといいます。
そして、生涯に結婚した回数も、両手で数え切れないぐらい。実に、11回も結婚をしているんです!その他に、同棲経験多数。何ということでしょう。この事実については、私も今回初めて知りました。
世界一モテた男優のひとりにアラン・ドロンという方がいます。ほれぼれしてしまう顔立ちで、いわゆるハンサムの代名詞みたいな方。
そのアラン・ドロンが、ある時ピカソに会いにいかれたそうです。ところが、ピカソに全く相手にされず、それどころか周辺にいた何人もの女性にも全く無視された。すべての女性がピカソのほうへいってしまったといいます。このようなエピソードを聞いたことがありますが、それほどピカソは魅力的だったんですね。
ピカソは11回も結婚した、と先ほどいいましたが、彼が初めて正式に結婚したのは、18年7月。ピカソ36歳、新婦のオルガは27歳でした。
そして、以後10回の離婚を繰り返しているわけですが、別れた女性には、自分が描いた絵を数枚ポンと与え、慰謝料代わりにしたともいいます。それで彼女たちは満足していたというのですから、驚き。それも、彼の絵がもの凄く高価だったからですよネ。
ピカソは1881年10月25日、スペインの地中海に面する港町マラガで生まれました。父親はホセ・ルイス・ブラスコ。母親はマリア・ピカソ・ロペス。ピカソはその長男で、家族の愛と期待とを一身に担っていたのです。
スペインのある地方では、家族の信仰している聖人名や父母の姓名、尊敬する祖先の名を子供につける習慣があり、本名はパブロ・ルイス・ピカソ。パブロは聖職者として一族から尊敬されていた伯父の名前を継いだもの。
ルイスは父、ピカソは母の姓です。そして、洗礼名はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ=パウロ・ホアン=ネポムセーノ・マリア=テ=ロス=レメディオス・シプリアノ=デ=ラ=サンティッシマ=トリニダット――この異様に長い命名からも、父母や一族の期待が大きかったことが容易に予想できます。
ブロンドの髪に長身痩軀で「イギリス人」とあだ名された父ホセは教養人で、美術教師。一時期、ピカソは父の赴任したラ・コルーニャの美術学校に通っていました。その時代のこと。こんなエピソードが残されています。
父親のホセが、自分の生徒のひとりでもあったピカソが描いた鳩の絵を見て、大変に感動。自分が持っていた全ての絵の道具パレット・絵筆・絵の具など―を息子のピカソに与えてしまい、自分は「もう絵を描かない」と宣言したというのです。
また、ピカソが初めて口にした言葉が「ピス、ピス」。これは「ラピス(鉛筆)をくれ」という意味だった、という話が母親の言葉として残されています。幼児の頃からピカソは、描くことに執着していたんですね。これも、後年のピカソを彷彿とさせるエピソードです。
さて、素晴らしい芸術的な才能といい、女性にモテて離婚しても怨まれなかったというピカソ。圧倒的な徳分を持つ彼の前世を、是非知りたい。私はこのように思いまして、深見先生に聞いてまいりました。
前世は?
結論からいいますと、ピカソの前世はロシアのイワン大帝の側近。陰の立役者だっといいます。イワン大帝の業績の少なくとも90%は彼の功績だったといいますから、本当に説明ができないようなたくさんのいいことをなさった。
そんな感じがします。ですから、今世では、その当時に他人に譲った徳を大いに生かして、このように才能を開花させた。世界のピカソになったということです。
深見先生がピカソの写真を御覧になって写真神通(写真をみて、その人の意識と話が出来る超能力)で彼の御魂の声(意識の奥の声)を聞かれましたら、「前世は蔭の活躍で目立たなかったので、今世は)表現したい!」と言っているそうです。また、「みなを驚かせたい!」とも言っているとか。
前世の意識が今世も意識に残っていて、そんな欲求が出て来るんですね。
ピカソは徳があったので、今世はその願い(表現したい、驚かせたいという願いが叶えられた、という訳です。
ピカソの私生活は、若い頃から相当に自由奔放というか、ボヘミアン的だったといいます。加えてかなりの女性遍歴。今世でハチャメチャな生き方をしているのに、91歳という長寿を得たのは「なぜ?」でしょう。
深見先生のお言葉によれば、それは、ピカソの「志」が大変に高かったからだといいます。
彼は「一流の絵を描いていこう」という強い意思と信念を持っていた。それが大きな理由です。
そして、もう一つの理由は、彼は毎朝1~2時間かけて奥さまにマッサージをしてもらっていたといいますが、それによって若いエネルギーを吸収していた(それで長寿だった)ということです。
多くの若い女性とつき合ったのも、彼女たちからエネルギーを得るためだっ(本人は意識してはいないでしょうが)。
となれば、ピカソの芸術は女性から補給したエネルギーが素になっ生まれたともいえるわけで、彼の数々の女性遍歴も、それを大芸術にまで昇華し得た天才ピカソにとっては、決して悪いことではなかったのかもしれませんね。
エルビス・プレスリー(歌手)
《プロフィール》
1935年、アメリカ・ミシシッピ州出身。黒人音楽のメッカ・メンフィスに育ち、トラック運転手を経て5年に「ザッツ・オール・ライト・ママ」でレコード・デビュー。「ハート・ブレイク・ホテル」や「ハウンド・ドッグ」を発表して世界中にロカビリーブームを巻き起こす一方、「やさしく愛して」を皮切りに映画にも出演。
映画スターとしても成功する。50年代アメリカのシンボル的存在。63年のビートルズ出現後は一時スランプ状態に陥ったが、70年にドキュメント映画「エルビス・オン・ステージ」が世界的に大ヒットし復活する。
71年に「アメリカの傑出し青年10人」を受賞。死後もファンのなかに生き続ける伝説のスーパースター。 4年と7か月の生涯のうち、1歳で歌いはじめてからの23年間で672曲を録音。
54曲半に1曲がトップ100入り。黒人のブルースと白人のカントリー・ミュージックを聴いて育ち、特にゴスペルに大きな影響を受け、ロックンロールの基盤を創る。77年心臓疾患で死去。
19歳で歌い始めて42歳7か月で死亡するまで、その生涯に672曲の歌を録音。 6億枚のシングルレコードを売上げ、シングル曲556とアルバム盤24でゴールド・ディスクを受賞し、3本の映画に出演して1億5000万ドルを稼ぎだした伝説のウルトラ・スーパースター――エルビス・プレスリー!
世界記録を集めたギネスブックには、「レコード史上、累計売り上げナンバーワンのソロシンガー」
「ソロシンガーでのゴールド・ディスク最多記録保持者」などのエルビスに関する記録が記載されています。
そのうえ、シンガーにとっては最も名誉ある記録だと思いますが、アメリカの権威ある音楽雑誌・ビルボード誌上の「HOT100」に入ったシングル曲が、56年~90年5月までの35年間で149曲。実に、この間の全録音曲のうち、4曲半に1曲が「HOT100」入りを果たしていることになるのです。
そして、ほぼ同期間の56年から89年4月までの間に、94枚ものアルバムがビルボード誌のアルバム・チャートに入っている。とてつもないですね。
さらに、エルビスはこの他に、グラミー賞やゴールデン・グローブ賞をはじめとして、権威ある賞だけでも軽く100以上も受賞しているんだとか。この記録はちょっと破れません。ほんとエルビス・プレスリーって、凄いシンガーだったんですね。
ご存知のように、「ロックンロール」あるいは「ロック」と称する音楽領域がありますが、このジャンルの原点ともいうべきシンガーがエルビス・プレスリーなのです。ですから、実際、私の知人などにも、
「そもそもビートルズは、すべてエルビスの物真似だ」と、いい切ってしまう人すらいます。
それだけ、彼の足跡は素晴らしく、彼に続くミュージシャンたちに与えた影響が大きかったといえるわけで、さまざまな形でポップ・ミュージックの中に生き続けている!
ですから、私なども、その「そもそもビートルズは、すべてエルビスの物真似だ」という言葉を聞いた時には、思わず納得しちゃいました。何しろ、エルビスはロックの神様みたいな人だったわけですから。
35年1月8日ミシシッピー州テュペロで生まれ、77年8月16日テネシー州メンフィスにあった自宅、通称「グレースランド」で死亡しているのが発見されました。
アメリカ南部の貧しい小作人の家に生まれ育った彼は、身近に黒人のブルースと白人のカントリー&ウェスタンを聴きなから成長。
教会音楽のゴスペルには、とくに大きな影響を受けたといい、レコーディングでは必ずゴスペルを歌ってウォーミングアップしていたとか。つまり、エルビスのロックンロールは、白人音楽と黒人音楽との融合から生まれたものなのです。
彼が15歳の時、生活苦のため一家はメンフィスに移り住んでいますが、54年、1 9歳でトラックの運転手をしている時に認められて、メンフィスの地方レーベルであサン・レコードからデビュー。つまり、ここメンフィスが彼のシンガーとしての出発点であり、また生涯の終焉の地ともなったのです。
これはあまり知られていないようですが、エルビスには双子の兄弟がいました。もっとも、そちらは死産だったといいます。
このためでしょうか、エルビスには、どこか運命的な寂しさというか陰がつきまとっているような気がしてなりません。また、どこか生き急いでいる。42歳という短い生涯を全速力で駆け抜けていったような……。
前世は?
そこで、早速エルビスの前世ですが。スーパー超能力者、深見先生に聞いてまいりました。
「彼の前世はインドの王子で、オカルトに大変興味があった人だった」のだそうです。そして、オカルトの知識を生かして多くの人を救った。その徳があることから、その後ニュートンに生まれ変わったのですって!
あの「万有引力の法則」を知らしめたイギリスの大科学者ニュートン。ニュートンが残した功績は、本当に計り知れません。
科学には大変に弱い私ですが、彼が人類に偉大な貢献をしたことぐらいはわかります。
何というか、物理学でいう「古典力学」の世界で素晴らしい数々の研究を行なったのでしょう。でも、これ以上はお聞きにならないでください。ボロが出ちゃいますので。
ともかく、ニュートン時代の彼は研究に打ち込み、その功績も精進努力の上にあるという感じです。
ところが、今世のエルビスは、その徳を半分使ってしまった。しかも、もう一度生まれ変わって残りの半分を使い切るのだそうです。前世に積んだ徳の半分だけで、今世にあれだけの名誉・富・幸せを得られたのですから、次の人生も、今世と同じくらい栄光に包まれた人生が送れるということです。
私としても、またもや名誉・富・幸せをひとり占めにしてしまうエルビスの、次の一生がどんなものか、密かに楽しみにしています。
ところで、エルビスという名前が「ちょっと変った名前だなぁ」と思ってた私は、資料を調べていて、ちょっと面白いものを見つけました。何のことはない、エルビス自身が自分の名前を不思議に思って、いろいろと調べていたというのです。
エルビスの音を、ペルビス(骨盤)に引っかけて周囲からからかわれていた彼は、自分の名前の由来を聖書や神秘主義の本を紐解いて探しました。名前の「ELVI S」そのもの、あるいは音節の「EL」と「VIS」にどんな意味があるのか――。
その結果、「EL」とはヘブライ語の神の呼び名「EL OHIM」の略。「VI S」はサンスクリット語の「力」を表す言葉から派生していることがわかりました。このふたつを合わせれば、「ELVIS」とは「神の力」という意味。ミドルネームの「アロン」は、イスラエルの大祭司の名前に見い出すことができました。
また、死別した双子の兄弟の名前がジェシー。この「ジェシー」というのは、古代イスラエルの英雄王ダビデの父親の名前だったといわれており、イエス・キリストの「ジーザス」の語源にもなっているのだとか。何か因縁めいた感じがしませんか?
デビュー当時のエルビスは、甘いマスクに甘い声。そして、愛用のロイヤルポマードで固めたリーゼントヘアで、ピッチリとしたジーンズをはき、シャツの胸を大きくはだけた姿で腰をくねらせながら歌い踊るエルビスのステージスタイルは、若者に熱狂的に受け入れられます。失神する女の子も続出するほど。
しかし、世の「良識派」と呼ばれる大人からは「猥褻だ!」「淫らだ!」「不良っ「ぽい」ということで非難が集中します。今からは想像もできないぐらい保守的な考えが主流を占めていた時代でしたから。実際の話、当時絶大な人気を博していたT Vのショー番組「エド・サリバン・ショー」の司会者エド・サリバンは、
「どんなことがあっても、エルビスだけは僕の番組に出演させない」と公言してはばかりませんでした。
ところが、裏番組にエルビスが出演。彼の番組の四倍を超える視聴率を稼いだことから、エドはついに折れ、エルビスの出演を受け入れざるを得なくなります。今も昔も、TV番組は視聴率には逆らえないのです。ただし、「卑猥な下半身は映さない」という条件つき。
エルビスは最初は大人しく歌っていました。 TVカメラも彼の上半身しか撮らない。これでは、きっとTVの前にいる視聴者のイライラは募ったはずです。
でも、ラストが近づくと、エルビスが突然に爆発。カメラを無視して動き出したのです。
こうして、この日の視聴率は、ナンと9・6%。驚異的な数字を上げたのでした。死に直面している9歳の女の子の願いを聞き入れ、病院に見舞ったというエルビスの逸話はあまりにも有名ですが、彼は純粋で優しくて、信仰心の篤い人間でした。ところが、一方では相当にハチャメチャな私生活も送っていたといわれています。
同じようにやりたい放題をした人にピカソがいますが、ピカソは90歳過ぎの長寿を全うしました。
なのに、エルビスは40代初めで亡くなっています。この違いはどこにあるのでしょう?疑問が湧いてまいります。そこで、この理由を深見先生にお尋ねしました。
まず、ピカソの長寿の秘密なんですが、これはピカソの紹介のところでも説明しましたように、「志」の高さの違い、これです。ピカソには「一流の絵を描いていこう」という強烈な思いがあって、その気持ちがあるために長生きできた。
もう一つの違いは、ピカソはいつも奥さんに、毎朝1~2時間はマッサージをさせていたこと。ピカソは結婚を繰り返して若い奥さんをもらっていましたが、マッサージさせることで奥さんから若いエネルギーをもらっていたというのです。エルビスにはこの「志」と「マッサージ」(?)がありません。このふたつの理由があって、違いが出てしまったというわけです。
これはちょっと女性としては、世の男性方に本当にいいことを聞かせてしまった、という感じがしないでもありません。ともかく、せっかくですから、どう十分に気をつけてこの情報をご活用くださいませ。
ホイットニー・ヒューストン(歌手)
《プロフィール》
歌手。1963年米・ニュージャージー州生まれ。R&Bで有名なゴスペル歌手シシー・ヒューストンを母親に、歌手のディオンヌ・ワーウィックをおばに持つ音楽家庭で育つ。15歳で母のバック・コーラスの一員としてステージに立つ。また17歳で「セブンティーン」「コスモポリタン」などの表紙を飾るトップモデルとしても活躍する。
血統と容姿、そして才能を見込まれて歌手に。 1985年デビュー・アルバム「そよ風の贈りもの」が大ヒット、ダイアナ・ロスの次代を担うスーパースターとなる。1992年には映画「ボディーガード」に主演。1994年には同映画の主題歌「オールウェイズ・ラブ・ユー」とサウンドトラック盤などで第2回アメリカン・ミュージック・アウォードの主要7部門、グラミー賞の3部門で受賞する。1992年人気歌手ボビーブラウンと結婚。
ちょっと「神様って不公平だな」って思ったりもするのですが、世の中には生まれながらにして世界的なスーパースターへの道が約束されているような人がいます。羨ましいほどの才能と素晴らしい環境に恵まれた「選ばれた人」。
もちろん、本人の大変な努力もありますが、生来の才能が、恵まれた環境に育まれて開花大輪の花を咲かせる。いわば、なるべくしてなったスーパースターです。例えば、ホイットニー・ヒューストン――。
85年、デビューアルバム『そよ風の贈りもの」が大ヒット。世界中のファンを魅了して、一躍スターダムへ。ポスト「ダイアナ・ロス」を担う有望シンガーとして期待されたのです。そして、今や押しも押されもせぬアメリカンポップス界の女王。素晴らしい歌声で私たちを魅了し続けています。
実際、ホイットニーの音楽的な才能と実力は、グラミー賞・最優秀女性ボーカル賞の受賞2回(85、87年)。アメリカン・ミュージック・アウォード主要7部門に加えてグラミー賞3部門での受賞(94年)などそのきらびやかな受賞歴を見ても明らか。誰しもが認めるところです。
でも、彼女の生い立ちが、また凄い!
まず、母親がシシー・ヒューストン。彼女は、リズム&ブルース(R&B)やゴスペルのシンガーとして知られ、かつてはゴスペル・コーラス「スイート・インスピレーションズ」のメンバーでした。このスイート・インスピレーションズは、エルビス・プレスリーのバックコーラスとしても有名です。
叔母が何と、あのティオンヌ・ワーウィック!
ディオンヌ・ワーウィックは私の好きなシンガーのひとりで、ことに彼女のバラードの素晴らしさには、ホント痺れてしまいます。そのディオンヌが、実はホイットニー・ヒューストンの叔母さんだった。よく「血は争えない」といいますが、ホイットニーの音楽的才能は、血統の折り紙つきなのです。
そして、母親の友人で血縁同然に、ホイットニーが幼い頃から「おばちゃん」と呼んで慕っていたのが「クィーン・オブ・ソウル」といわれるアレサ・フランクリん。
本当にもう彼女の育った環境は、羨ましいぐらい恵まれているんですねぇ。生まれながらにして、スーパースターになる運命だった、といっても過言ではありません。実際、ホイットニー自身が次のように語っております。
「ママはいつも、「お前は歌うために生まれてきたのよ」といっていたわ。神様は私に「そのために声をくださった」とね」
そして、彼女はまた、
「歌うこととは人生を表現すること。人の心に訴えかけるだけの内面的魅力、豊かな人間性を持ってこそできるのよ」という母の教えをしっかりと胸に刻み込んで大事にしているんだとか。
ですから、この教えを守って十代でのデビューの誘いを断っています。この間は、他のアーティストのバックコーラスなどをして、音楽の勉強と同時に人生修行を積んだ。親や周囲の七光ではなく、「自分の実力でデビューしたい」という強い思いもあったのです。
彼女の音楽のルーツは、教会音楽のゴスペルでした。一流歌手に囲まれた環境に加え、敬虔なクリスチャン家庭に育ったのですから、当然といえば当然。本当にゴスペルこそが「身近な音楽だった」のです。
そして、11歳で教会の聖歌隊に入ってゴスペルを歌い始めます。
このようなことで、今でもゴスペルには強い愛着がある。ですから、彼女のコンサートには、ゴスペルのコーナーが必ず組まれていて、 2~3曲は歌う構成になっているんですね。
さて、ビルボード誌のシングル曲連続ナンバーワン記録で歴代1位。チャートの一位を飾った曲が9曲。そして、アルバム・セールスでは、世界中で約4000万枚を売り上げる。というような素晴らしい実績を持つ彼女は、本当に、アメリカを代表する大スター歌手です。
そして、歌手デビュー以前にはモデルとして雑誌「セブンティーン」などの表紙を飾っていました。見事なプロポーション。同性とはいえ、女性でもうっとり見とれてしまいますが、その素晴らしい肢体を、今度は映画で披露してくれました。
世界中に感動の嵐を巻き起こした「ボディ・ガード」。共演のケビン・コスナーと絡んで、そのヒロイン役を見事に演じていましたね。でも、この話が持ち込まれた当初は、躊躇していたといいます。脚本家が気に入らなかったからです。そして、次に監督兼主演男優のケビンから、直接出演依頼の電話がかかってきた時には入浴中。
「私は今、裸なんだけど、何の用?」と、冷たくいい放ったのだとか。
しかし、ケビンの、「この役をこなせるのは、君しかいない」という熱心な説得に負けて承諾したんだとか。
ふたりはこれを機に恋に陥ります。そして、映画の撮影中に突然、彼女がケビンの腕の中に倒れ込む。妊娠だった。ところが、願い虚しく流産してしまいます……..。もし、子供が生まれていたら、ふたりは結婚していたんじゃないかしら。だとしたら、ボビー・ブラウンとの結婚もなかった・・・・とか思ったりする私です。
前世は?
そんな彼女の前世も、深見先生に聞いてまいりました。
前世での彼女は、フランスの修道女でした。結核やガン、精神病の、当時としては救いの手立てもないような病人を1人も手元に引き取って、彼らが亡くなるまで面倒を見たといいます。また、病院に勤めていて、ここでも300人ぐらいの方の病気の治療に当たった。そういう方だったようです。
私はホイットニーの前世が修道女だったからか、何となく、やはり前世修道女だった早見優さんに似ているのではないかと勝手なことを思っていますが、皆様はどのようにお感じになったでしょうか。
スティービー・ワンダー(歌手)
《プロフィール》
1950年アメリカ・ミシガン州出身。本名 Stephen Judkins Hardawaye。ミシガン盲学校卒。生まれつき盲目だが、5歳から楽器を習いはじめ、驚異の天才ぶりを発揮する。
9歳でモータウン・レコードのオーディションに合格。1959年にソロ歌手としてデビュー。1963年、「フィンガー・チップス」で全米第一位となり一躍有名になる。
1972年の「トーキング・ブック」あたりから総合的な音楽家を目指し、シンガーソングライター、サウンド・クリエィターとして黒人音楽の指導者となる。 1974~77年にかけてグラミー賞で8部門の受賞に輝く。1974年ソウル・ミュージック・ベストセラー賞受賞。
1985年アカデミー賞音楽賞受賞。これまでに144個のグラミー賞獲得。1973年ツアー中に交通事故にあい瀕死の重傷をおう。味覚までも失ったといわれるほどの事故だったが、奇蹟的に回復。以後、チャリティに積極的に取り組み、創作活動を続ける。
1974年に米を離れ、ガーナへ移住する。
世界の超スーパースターの中には、いろいろなハンディを克服してスターダムにのし上がった人たちがいます。もちろん、天賦の才能もあるでしょうし、人知れない超人的な努力があってのことでしょう。凡人の私にはちょっと真似できない、頭が下がる思いです。
人種差別がひどかった時に黒人。そして、生まれついての盲目。
これらのハンディを乗り越えて超スーパースターになった方といえば、いわずと知れたスティービー・ワンダー!私の最も尊敬するアーティストのひとり。音楽界の神様です。
スティービー・ワンダーという芸名も、五歳で楽器を習い始めて驚異的な天才ぶりを発揮したことからの命名で、59年、9歳の時にモータウン・レコードのオーデションに合格。同年、ソロ歌手としてデビューしていますから、かなり早熟タイプの天才なのでしょう。デビュー・シングルは「アイ・コール・イット・プリティ・ミュージック」でした。
そして、63年五月に発売した四枚目のシングル「フィンガー・チップス』が大ヒット。八月には連続3週間にわたってビルボード誌『ホット100」のトップを飾り、「ミリオンセリング・レコード」となったのです。これで一躍注目され、一流ミュージシャンの仲間入りを果たします。スティービー135歳の時でした。
以来、数々のヒット曲を世に送りだし、何と全米第1位になった曲数が11曲。
グラミー賞受賞をはじめ多くの栄誉に輝き、ロック・ポップス史上に大きな足跡を残していますが、アルバムを出せば必ず1000万枚以上は売れるといわれ、その意味でも超大物。名実共に世界の超スーパースターなのです。
ここで、忘れないうちに補足しますが、ステージネームが今のようにスティービー・ワンダーになったのは、64年に発売した七枚目のシングル「ヘイ・ハーモニカ・マン」の時から。
それまでは、リトル”スティービー・ワンダーでした。この時期に大人の歌い手へと変身。さらに、変声期を迎えた66~68年には休養して作曲を勉強。69年にはボストン大学に入学して正式に作・編曲法を学びました。それが、彼の音楽家としての窓口を広げることとなり、今日の活躍の礎になっているのでしょう。やはり、大変な努力の人なのですね。
そのスティービーの信念は「成せば成るさ」ということ。
さらに、「肉体的に盲目であることには罪はないが、精神的に盲目であるのは深刻なハンティ・キャップだ」とも語っています。
何と素晴らしい言葉でしょう。私自身にとってもそうですが、皆様も是非この言葉を心に留めてください。自戒の意味を込めて。な~んて、つい柄にもなくお説教めいたことを口にしてしまいました。
でも、こんな素晴らしい言葉がサラリと口にできるなんて、やっぱりスティービーは素敵な人なんですね。人間としても素晴らしい。だから、社会的な活動にも積極的に参加しているわけです。
例えば、南アフリカ共和国が行なっていた「人種隔離政策(アパルトヘイト)」に反対する闘士で、85年2月にはワシントンDCで開催された抗議集会に参加。
南ア大使館内に乱入したかどで逮捕されています。そして、翌3月には第57回アカデミー賞の受賞式で、「ネルソン・マンデラの名において、この賞を受け取る」と発言。
南ア政府は、国内のレコード店からスティービーのレコードを閉め出す、といった騒ぎが起きています(ネルソン・マンデラ氏は現南ア大統領。元アフリカ民族会議議長で反アパルトヘイトの闘士。政府によって20年以上も幽閉されていた)。
また、人種差別と闘って凶弾に倒れた故マーチン・ルーサー・キング牧師を記念して、キング師の誕生日を国民の祝日にする運動や、難民救済を目的に、著名なアーティストたちがボランティアで集まった「ウィー・アー・ザ・ワールド」のプロジェクトを手がけるなど。ヌクヌクとぬるま湯に浸かっているような、どこかの国の芸能人にはとっても真似できないスケールの大きさを感じてしまいます。
そんなスティービーですから、好きな曲が多過ぎて困るんですけど、あえて一曲選ぶなら大ヒット・アルバム「インナーヴィジョンズ」から「スーパースティション(迷信)」でしょうか。もちろん、音楽的に好きだということもありますが、何となく彼の生きざまを暗示しているような気がするからです。
実は、彼は「輪廻転「生」を信じていて、「もう一つの人生を信じたい」と語っているんですって。そして、先祖を尊敬し、第一子にはアイシャ・ザキヤ(アフリカの言葉で「力と叡知」の意味)と名付けていますが、74年にはUSAを離れてガーナに移住してしまうんですね。
前世は?
さて、興味津々のスティービーの前世ですが、なんと驚き!キリストを裏切った弟子のユダだったのです。改心して生まれ変わり、何時もどこかでキリストに捧げるようにして歌っているのだ、ということです。そういわれれば、ステージでのスティービーは、いつも一曲終えるごとに耳をじっと澄まし、見えない目を客席に凝らしている姿が印象的です。
で、彼が全盲なのは、やはり前世と関係があるのか?つい、私は思ってしまったわけですが、この私の素朴な疑問に対して、深見先生は次のように答えてくださいました。
「もし、彼の目が見えていたとしたら、彼の才能は今の半分も開花しなかった」
ですから、はたからはどんなに困難な立場に置かれているように見えても、幸せというのは、結局はその人次第。「ハンディキャップを負っているから」とかで、人の幸・不幸を簡単に決めつけてしまうのは「間違いだ」ということを、つくづく思いました。
で、さらに深見先生によると「彼は天からの閃きを受けている」ということですが、それは直前世(一つ前の前世)に行者さんをやっていたということですけれども、そのために「天からのものを受ける訓練ができているのです」ということでした。
また、スティービーは、常日頃から「日本はアフリカに次ぐ第二の母国。死んだら、体の一部を日本に埋めて欲しい」とまで語っているとのこと。大変な親日家でもあるわけですが、彼のこの思いはどこからくるのでしょうか?その点についても深見先生に伺いました。
「彼の御魂は日本に生まれ変わりたがっているが、恐らく後1、2回は他の国に生まれ変わって修行を積まなければ無理かな」
と、おっしゃっていました。
本当に日本は尊い国なんですね。外国にばかりいた私は、一体どうなってしまうのでしょうか?ちょっと冷汗をかいてしまいます。
73年に交通事故に遭い、瀕死の重症を負って味覚を失う。
そのようなケガからも奇跡的に回復して活躍を続けるスティービー。事故後の彼は、より精神性を高め、宗教的な色合いも濃くなっているようですが、彼の作る曲、彼の歌う歌の根底には”人間愛”がある。それが、彼の音楽の出発点なのです。だから、
「世界を一つにしたいという願いが、私を歌うことに駆り立てる」と、サラリといい切ってしまえるのです。
もしかしたら・・・・・彼は自分の前世を知っているのかもしれません。
